集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第45回・昭和4年春・早大、長蛇を逸す!)

2020-04-01 21:35:17 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 1回戦を先取して意気上がる早大ナインでしたが、早大側の中でひとり、この戦況を冷静に見つめる男がいました。
 面長で、ヘの字に曲がった唇が印象的なその男は飛田忠順、筆名穂洲。本稿では幾度か登場した、早大野球真の生みの親(第34回参照)です。
 早大監督を辞したのちの飛田は朝日新聞の記者に転じており、3年ぶりとなる早慶戦での1勝を誰よりも喜んだであろうことは、想像に難くありません。
 しかしその戦評は「早大が勝った!」と喜ぶ筆致はまるでなく、実に重々しい言葉が並んでいます。
「三年ぶりの福運が早稲田の上に舞い下った。しかもまだ最後の審判を残しているけれども、兎に角新米小川はよく守る者となり、爾余の打者は善く攻むる者となって、一勝を挙げた…」
 飛田が「最後の審判を残している」とした一抹の不安は、早大にとって悪い形で現実となります。

 1日おいて5月20日に行われた早慶2回戦。慶応は第1戦と同じく宮武三郎を、早大は小川の連投を避け、山田良三(根室商)をマウンドに送りますが、これが大誤算。

 1回表、早大は四番森茂雄のタイムリーで先制しますが、先発のマウンドを託された山田が全くピリっとしません。1番楠見幸信、3番町田重信に四球を与え、4番宮武に強打を浴び、あっという間に二死一・二塁と同点のピンチ。ここであの怪物・五番山下実を迎えます。
 市岡監督は山田をあきらめ、あわてて小川をマウンドに送りますが、一昨日の疲れが出たのか、センターオーバーの三塁打を打たれ、2点を返されます。
 その裏、早大はすぐに反撃。7番矢島粂安が三塁打を放ち、8番小川のセカンドゴロの間に生還し1点。その後ヒットで出塁した9番富永を1番水原が特大の三塁打で返し、早大は2-1と再び勝ち越しに成功します。
 ここで慶応は調子の上がらない宮武に代え、三塁を守っていた水原茂をマウンドへ。 
 当時の慶応は、宮武・水原のダブルエース体制。投げないほうの投手を常に内野に置き(宮武登板時はサード水原、水原登板時はファースト宮武)、いつでもスイッチできる必勝パターンを持っていましたが、慶大にとって後がないこの一戦でも有効作用。水原は後続を断ち、味方の反撃を待ちます。
 その裏、慶応はすぐさま1点を返して同点。4回両チームとも1点ずつを加え、4-4のまま試合中盤を迎えます。
 六回裏、慶応は簡単にツーアウトを取られますが、1番楠見がしぶとくレフト前に運び二死一塁。このチャンスに水原茂が三塁線を深々と破る三塁打を放って再逆転。けっきょくこの1点が決勝点となり、早大は痛い星を落としました。
 投手としての水原に宮武のような剛速球はなく、どちらかといえばカーブ主体の軟投派。この試合ではそのカーブがうまく決まらず、投球の組み立てに苦慮していましたが、早大は早打ちをしすぎて水原を助けてしまい、自らの首を絞める結果となったのです。

 開けて曇天の5月21日。
 早慶戦決勝戦見たさに、神宮球場前に並ぶは無慮数千人のファン。それが朝八時の開門とともにドバーっ!となだれ込み、客席は瞬時に超満員に。
 当時の神宮球場のキャパは5万人。そこに立ち見も含め、立錐の余地がないほどの客を強引に鮨詰めにして7万人ほどが入場。それでも入りきらない客無慮1万5000人が球場の外でとぐろを巻き、その交通整理に駆り出された警察官は600人…現在とは比べ物にならないほど所帯が小さく、機動隊もなかった当時の警視庁にとって、これは本当に大規模警備でした。それはともかく。

 どちらにとっても落とせない大事な決勝戦の先発は、慶応上野精三(静岡中)、早大小川正太郎。上野はオッチャン最後の甲子園となった、夏の第12回大会(大正15年)優勝投手という実力者で、休養バッチリ、体調万全。対する小川は第1戦・ほぼ完投となった緊急登板の第2戦・そして決勝戦と3連投。胸に宿痾があった小川としては、体力的にかなりキツい登板ではありました。
 先手を取ったのは早大。
 二回裏、この回先頭の6番矢島・9番富永の四球と1番水原義明の左前安打で二死満塁のチャンス。ここで2番のオッチャンはフルカウントからひかっけてしまいサードゴロ…でしたが、慶大サード水原が三塁ベースを踏むより先に、二塁ランナー富永が三塁に到達。このフィルダース・チョイスの間に矢島が還って1点先制。続く3番伊丹・4番森の連続ヒットでオッチャンまでが還り、早大はツーアウトから一挙4点をもぎ取り、幸先の良いスタートを切ります。

 しかし三回表、3連投で疲労のたまった小川に、手負いの獅子と化した慶大打線が襲い掛かります。
 この回トップの7番川瀬が二塁内野安打で出ると、8番三谷・1番楠見がヒットで続き、なんとここから2番水原茂・4番宮武三郎が三塁打、5番山下実が二塁打と、パカスカ長打を打たれ、小川はこの回一挙5点を失い、試合をひっくり返されます。
「小川には考えられない乱調、打たれようであった。一塁を守っていて、ただ、頑張れと声をかけるばかりであった。」(当日の5番・一塁手伊達正男の回想)
 
 四回表、早大も負けじと3点を返し逆転。この回打順が回ってきたオッチャンは落ち着いて四球を選び、5番伊達の犠牲フライで2点となる目の生還を果たしています。
 ところがこの日、早大先発の小川は「疲労はひどく、このリードを守ることができなかった」(前出の伊達正男)…さらに3点を奪われ、たまりかねた市岡監督は、小川と同じ1年生投手・松木賀雄(今治中)をマウンドに送りますが、松木も2点を奪われ勝負あり。
 大正14年の復活以後初となる決勝戦、しかも早慶の猛打が飛び交った熱戦は10-7で慶応の勝利。慶応は9試合8勝1敗で見事、春リーグの王座を勝ち取ったのでありました。
 早大は7勝2敗で2位。3位の立教が4勝ですから、1・2位とそれ以下とで大きく水をあけた、まさに「早慶決戦」リーグでした。
 優勝こそならなかったものの、早大はトップバッターを務めた水原義明が打率4割6分9厘を打ち、昭和2年秋以来2回目となる「最高打者賞」(いわゆる首位打者)を獲得。
 われらがオッチャンも攻守に活躍。打っては出場8試合で打率3割3分3厘、東京六大学全体で17位というハイアベレージを叩き出し、守ってはエラーなし、守備率10割という驚くべき鉄壁の守備を見せました。

 激闘のリーグ戦終了後、早大は静岡県は浜松にある弁天島にて温泉療養を兼ね慰安旅行。その後オッチャンは再参集のかかる7月まで、岩国に帰省します。
 今回紹介した昭和4年春のリーグ戦のぶんについては確認できませんでしたが、岩国で発行されていた私設新聞「岩国ニュース 興風時報」には、オッチャンがリーグ戦が終わるたびに帰郷し、地元の野球好きやもとの仲間と盛んに語らっていたという記事がたびたび掲載されています。
 朴訥で飾らないオッチャンの、終生変わらぬ心の拠り所はいつも周防岩国。都会でヘンな遊びをするより、岩国に帰省して地元の仲間と語らい、野球をするほうが何倍も楽しかったのです。
 岩国には東京のような派手派手しいものは何もありません。「早大の杉田屋」をはやし立ててくれる歓声もありません。しかし岩国には、オッチャンを心底からわかってくれ、また、オッチャンの成功を心から喜んでくれる仲間と、心落ち着く城下町という、小さな小さな…でも花のような幸せがありました。

【第45回 参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
・「真説日本野球史 昭和篇その1」大和球士 ベースボールマガジン社
・「私の昭和野球史 戦争と野球のはざまから」伊達正男 ベースボールマガジン社
・「魔術師(上) 三原脩と西鉄ライオンズ」立石泰則 小学館文庫
・「岩国ニュース興風時報 第248号」(昭和4年11月13日付)ほか

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