Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2023年12月6日は、十二月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年12月06日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年12月6日は、聖ニコラオの祝日であり、初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


十字架の道行は、最も重要な信心、キリスト教の初代から行われてきた信心、多くの霊魂たちを聖化してきた信心

2023年12月06日 | お説教・霊的講話

十字架の道行は、最も重要な信心、キリスト教の初代から行われてきた信心、多くの霊魂たちを聖化してきた信心

2023年3月26日(主日)東京での9時のミサ 

サマーズ管区長様の説教

親愛なる兄弟の皆様、
私たちは今日から最も神聖な御受難の季節に入ります。
ですから御受難について、十字架の道行について、話をすることがとてもふさわしいと思います。
特に十字架の道行の信心と、それの実践についてお話します。

【十字架の道行は、最も重要な信心】
十字架の道行は、私たちの信仰の中で最も高い最も重要な信心と言えます。
なぜかというと、イエズス様御自身がそれをなさることによって、この十字架の道行をなさることによって、私たちに与えられたからです。
私たちは、この信心をすることによって、頭の中に主の御死去を思い出させます。
私たちの罪のためにお受けになった御受難をも考えさせます。
私の弟子になりたいならば、自分を捨てて十字架を取って私に従え、と言ったお言葉をも思いださせます。

【十字架の道行は、キリスト教の初代から行われてきた信心】
マリア様、聖ヨハネ、マグダラのマリア、その他の聖なる婦人たちが、主の御跡を慕って、十字架の後につき従ったということを思い出させます。
イエズス様が昇天なさったのちにさえも、マリア様あるいは聖ヨハネなど、ほかの信者たちは、主の十字架の道行を何度も行って、そこを黙想して通った、ということを思い出させます。
この信心は、カトリック信者によって、マリア様の後何世紀も続けられてきました。特に世界中からエルサレムに行って旅行・旅をして、そして主の本当にお歩きになった道行きをして来ました。
しかしイスラム教徒が聖地を占拠してしまい、聖地に行くことができなくなってしまった時に初めて、カトリック信者は、この信心をそれぞれの教会に持ち込んで、そして教会で十字架の道行をするようになりました。
多くの偉大な教皇様たちは、この十字架の道行の信心に、贖宥や特別の祝福を与えたので、これこそが教会の中で最も祝別された信心となりました。
最も重要であり、また私たちにとって最も有用な役に立つ信心です。

【十字架の道行は、多くの霊魂たちが聖化された信心】
私たちの主が、十字架の道行をやりながら、その信心を作り出しているその最中でさえも、多くの霊魂たちはこれによって聖化されました。
キレネのシモンは、全く関心がなかった男でしたけども、しかし、主の十字架を担うようにと強制させられて変わりました。
キレネのシモンが回心したのみならず、彼の二人の子どもたちもキリスト教信者となって、司祭・司教となって、最後には殉教の恵みをも得ました。
主の十字架の道行をやりながらそれに従いながら、キレネのシモンは、回心の恵み・聖化の恵みまた召命のお恵みをも、殉教のお恵みをも、得ました。
また主が十字架の道行を続けると、ある婦人は主の姿を見て、その姿に、慰めを与えようとして、御顔を拭くためのタオルを出します。
これは私たちに、もしも誰かが苦しんでいるのを見てそれを助けようとすると、特に私たちの主に対する愛をこめてそれを助けようとすると、回心の恵み、聖化の恵みを受けることができるということを教えています。
十字架につけられて高く挙げられた時に、主はまた回心の恵みを与えました。
右につけられた良き盗賊ディスマスは、主にこう言います、「主よ、あなたが御国にいたるときに私を思い出してください」と。
生涯犯罪とそして邪悪を犯して来たこの罪の男ですが、しかし十字架の道行のお恵みによって、彼は改心の恵みを受けて、その夜天国に行きました。
百部長は私たちの主に苦しみを与えていた兵士たちの責任者でしたが、その責任がある男だったにもかかわらず、主の十字架のご様子を見て、そしてそののちにおこった奇跡を見て、回心のお恵みを受けました。そこで信仰告白をしました。
福音書には「多く人たちが群集が十字架で起こったことを見て、みな胸を叩きながら、打ちながら、家に帰って行った」とあります。回心のお恵みです。
この同じ人たちが、聖ペトロが聖霊降臨の時に説教をすると、回心したのです。
これは、最初の十字架の道行で行われた多くのお恵みのほんのちょっとした例にすぎません。
まったく同じお恵みが、私たちが十字架の道行をするたびごとに、特に信心と愛をこめて、罪の痛悔の念をもって行うごとに、与えられます。
天主は場所や時間に制限されていません。ですから、同じお恵みを、どのような国であっても どのような時代であっても どのようなところであっても、聖化のために、私たちが十字架の道行をするために、これを与えることができます。

【十字架の道行は、罪人のためにとっても聖人にとっても有用である】
十字架の道行は、罪人であっても罪のなかに生きる人であっても、また、聖人のためであっても、聖性の状態にいる人のためであっても、両方とも有用な真理です。

罪のなかに生きている人々、あるいは罪に愛着を持っている人々は、十字架の道行から私たちは多くを学ぶことができます。
彼らは、主が苦しみご死去されるのをみますが、それは自分たちの罪の負債を支払うためであるということを、知ることができます。
ここで 天主の恐ろしい正義と 罪の恐ろしい代価を、知ることができます。
また自分たちの霊魂に対する主の偉大な愛をも、知ることができます。
私たちの主が罪を償うために何度も何度も苦しみを受けることの準備ができている、よろこんで苦しむことができるということを、その愛を、彼らは否定することができなくなります。
この考えは、罪人たちが罪を悔い改めるための大きな助けとなって、天主に立ち戻ることができるようにしてくれます。

聖ボナヴェントゥラは、「主の苦しみは、最も冷たい凍り付いた心でさえも、暖かく燃え立たせてくれる」と言っています。
たとえ自分の意見に凝り固まった人でさえも、あるいは自分の肉欲あるいは誘惑に襲われている人であったとしても、主の御受難とご死去を黙想すればするほど、ついには回心せざるを得なくなります。

罪人のみならず、成聖の恩寵に生きる人々のためであっても、十字架の道行はとても役にたちます。
これは私たちに、罪の邪悪さをわからせ、罪を忌み憎む恵みを与えてくれます。
キリストが私たちのために苦しまれたということをみると、私たちも愛へと動かされます。
主の聖なる徳を十字架の道行のなかで私たちはみることができます。ですから これに倣って、私たちも同じような徳を実践したいと思わせます。
またこれを通して、この地上における私たちの生活がいったい何かということを、ますますはっきりと見ることができるようになります。
主の苦しみ・御受難・死を黙想すればするほど、私たちにとってこの世で何が大切なのか、私たちの優先順位が何か、ということを、よく理解することができます。ですから、主が私たちのために苦しまれたということを周知すると、この地上におけるすべてのことがより簡単になります。
ハイ、十字架の道行は罪人のためにとっても、また成聖の恩寵に生きる人々にとっても、もっとも役に立つものです。

この十字架の道行の信心を四旬節だけに限ってはなりません。私たちはたとえ家の中にこの十字架の道行の絵がなかったとしても、主の御受難を黙想するようにしましょう。
この信心は主によって与えられて、そしてマリア様がこの信心を行いました。
これによって、私たちは主の祝別、そして回心、罪の痛悔を私たちが受けることができます。
私たちの前に生きていた多くの聖人たちが受けたものと同じお恵みを受けることができます。
主の御受難よ、我らを清めたまえ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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