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幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(4)私たちの罪、不完全さ、徳の進歩の少なさは、謙遜、天主のあわれみ深い愛に信頼する機会。落胆の理由ではない。

2023年11月07日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(4)

ドモルネ神父 2023年10月1日

はじめに

聖性を求めて努力するとき、落胆する人々がいます。なぜなら、しばしば同じ罪に戻ってしまったり、徳の実践で進歩しなかったりするためです。またある人々は、聖性に向かって進歩することには、特別なことを経験したり、行ったりすることが伴うと考えています。しかし、そのような人々は、自分の人生が非常に単調で平凡であることに気づき、そのため、自分が聖性で進歩していないと結論づけるのです。今日は、幼きイエズスの聖テレジアが、このような人々にどう答えているかをお話ししましょう。

1.罪に陥る

ある人々はこう考えます。「私はどんなに努力しても、毎日同じ罪に陥ってしまう。私は気が短く、隣人への愛徳が欠如し、嘘をつく…。本当に、聖性なんて私には不可能だ」と。そして、このような人々は、努力をやめ、霊的なぬるま湯状態に身を任せようと誘惑されるのです。こういう人々に、どう言ってあげればいいのでしょうか。

聖アルフォンソ・デ・リゴリはこう言っています。「われわれには、完全に同意していなくても、生来の弱さのせいで犯す罪がある。たとえば、祈りで気を散らし、無駄話をし、虚しい好奇心があり、見せびらかしたいという望みがあり、少し食べすぎたり飲みすぎたりし、情欲の衝動があっても十分に早く抑えないことなどである。われわれは、これらの罪をできる限り避けなければならないが、原罪によって傷ついたわれわれの本性の弱さを考えると、それらの罪を完全に避けることは不可能である」。

幼きイエズスの聖テレジアは、すべてにおいて天主をお喜ばせしようとする私たちの一般的な善意にもかかわらず、私たちが弱さから犯してしまうこれらの罪は、聖性への障害にはならないと言っています。これらの罪を、私たちが自分の弱さと小ささをもっと自覚する機会とし、私たちが天主のあわれみ深い愛にもっと大きな確信をもって天主に立ち返るならば、これらの罪は善き主を侮辱することにはなりません。小さな過ちを犯した子どもが、それを反省し、すぐに母親のところに行ってそれを告げるのを想像してください。この小さな過ちのせいで、母親の子どもへの愛が減ると思いますか。もちろん違います。善き主も同じです。イエズスの御言葉を思い出してください。「悪い人間であるあなたたちでさえ、子どもに良いものを与えることを知っている。ましてや天にましますあなたたちの父は、求める人に良いものを下さらぬわけはない」(マテオ7章11節)。

ある人々はこう言います。「私の罪は、いつもそのような弱さの罪とは限りません。時には、私の罪はわざと行う小罪であり、大罪でさえあります…私はどうすれば聖性に向かって進歩することができるでしょうか」と。聖テレジアは、このような罪であっても、私たちがそれをうまく活用すれば、私たちが聖性への道を行くのを止めることはない、と答えています。私たちは、どのようにすれば自分の罪をうまく活用することができるでしょうか。それは、罪を悔い改め、自分の弱さと小ささを認め、自分の罪から生じた苦しみを償いとして捧げ、さらに大きな信頼をもって天主のあわれみ深い愛に立ち返ることによってです。聖テレジアは自叙伝の中で、自分を非常に小さな鳥に例えています。この小鳥は、鷲のように太陽に向かって飛びたいと思いながら太陽を見続けていますが、時々気が散ってしまいます。彼女はこう書いています。「この不完全な小さな生きもの(小鳥)は、自分のしようとしていることから(つまり太陽を見ることから)いささか気を散らしてしまい、右や左に餌(えさ)をついばんだり、小さな虫を追い回したりしてしまいます……。また小さな水たまりに出会えば生えたての羽を濡らし、お気に入りの花を見つければ、心はそれでいっぱいになります……。とにかく、鷲のように高く飛ぶことはできないので、このかわいそうな小鳥は、地上のつまらない事柄に気を取られるのです。けれどもこのようにいろいろないたずらをした後、小鳥は片隅に隠れて自分の惨めさを嘆いて、悲しみから死んでしまうのではなく、最愛の太陽のほうに向いて、濡れた小さな羽を太陽の恵み深い光にさらします。そしてつばめのように悲しげに鳴き、優しい歌で自分の数々の不忠実をすっかり打ち明け、物語ります。そうすれば、義人を呼ぶためではなく罪人を呼ぶために来られた方(マテオ9章13節)の愛を、もっと完全に引きつけることができると、厚かましくも全面的に信じているからです……」(原稿B 第二部)。

イエズス会士で霊的生活の大家であるグル神父は、次のように書いています。「最も聖なる人々とは、罪を犯すのが最も少ない人々のことではなく、もっと勇気があり、もっと寛大さがあり、もっと愛があり、もっと大きな努力をする人のことである…決して落胆せず、たとえどんな過ちを犯そうとも、自分にこう言い聞かせよ。『一日に二十回倒れようが、百回倒れようが、私はその都度立ち上がって、自分の道を進むのだ』と。結局、目的地に着くならば、道の途中で倒れても、なにが問題だろうか?そのことで天主があなたを責めることはない」。

2.徳を実践する際にほとんど進歩しないこと

ある人々はこう言います。「私は徳を実践しようとあらゆる努力をしても、ほとんどの場合失敗してしまう。私は聖人になれない…」と。幼きイエズスの聖テレジアは、これに答えています。当時、彼女は修練女の副修練長でした。ある日、ある修練女が落胆していました。なぜなら、自分の行いを改め、徳を実践しようと努力しても、うまくいかなかったからです。聖テレジアは、彼女にこう言いました。「あなたは、自分の足でまっすぐに立つことができても、まだ歩くことができないでいる小さな子どものように、私には思えます。母親のいる二階に行きたいと熱心に願い、階段の最初の一段を登るために小さな足を上げようとし続けています。しかしできません。登ることができず、足は元のところに戻り続けます。そんな子どものようになりなさい。すべての徳を実践することによって、聖性の階段を登るために、小さな足を上げ続けなさい。しかし、何とか最初の一段だけでも登ることができるなどとは思わないで。天主があなたにお求めになるのは、あなたの善意だけです。階段の上から、天主は愛をもってあなたを見ておられます。やがて天主ご自身が、あなたの無益な努力の姿に心を動かされ、あなたのもとへ下りて来られ、あなたを腕に抱いて、永遠にご自分の国へと連れて行かれるでしょう。そこでは、あなたは、もう決して天主から離されることはありません」。

3.日々の単調さ

ある人はこう言います。「聖人たちはこの世に生きている間、特別なことをした。でも私は、人生で特別なことは何もしていない。私の人生はまったく平凡で単調だ。だから、私は聖人にはなれない…」。これに対して、聖テレジアはこう答えます。「聖性は、私たちの行いが偉大であるかどうかではなく、私たちの愛が真摯なものであるかどうかによるのです」。実際、天主は全能であり、何かのために、誰をも、特に私たち人間を必要とはされません。イエズスがオリーブ園で聖ペトロに言われたことを思い出してください。「私が父に頼めば、今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか」(マテオ26章53節)。天主は、ご自身の天主の命と幸福にあずからせるために、私たちを創造されました。天主の命と幸福は、天主の三つのペルソナの間の完全な愛にあります。この愛の命に入るための功徳を得るために、私たちは地上で天主を愛することを学ばなければなりません。天主が大切にされる唯一のことは、私たちがあらゆることを行う際の愛です。私たちが皿を洗おうが、戦争で栄光ある勝利を収めようが、自分の庭を耕そうが、トヨタ社を経営しようが、東三国の保育園で教えようが、東京大学で教えようが、道路わきのごみを集めようが、総理大臣として日本を統治しようが…、天主の目には、これらの行い自体は何の重要性も持っていません。天主は、私たちの働きが栄光あるものであることも、成功したものであることさえも必要とされません。天主が重要視されるのは、私たちが働く際にどのような愛を持っているかということなのです。聖テレジアは、童貞聖マリアと聖ヨゼフの地上での生涯が、まったく平凡なものであったことを人々に思い出させていたものです。ですから死の前夜、彼女はこう言うことができたのです。「大切なのは愛だけです」。

結論

親愛なる信者の皆さん、聖性はすべての人のためのものです。私たちの罪、不完全さ、徳の進歩の少なさのせいで落胆しないようにしましょう。これらのことをすべて、私たちを謙遜にし、天主のあわれみ深い愛に一層身を委ねるための機会としましょう。私たちの生活に特別なことを探すのではなく、天主をもっともっと愛したいという望みを、私たちがすべてのことを行う理由にしましょう。

今週の火曜日は、幼きイエズスの聖テレジアの祝日です。私たちの主イエズス・キリストと私たちの天の母である童貞聖マリアをもっともっと愛することができるように、聖テレジアに恩寵をお願いするのを忘れないでください。


幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(3)私たちを成長へと導く心構え:謙遜と天主の愛への信頼

2023年11月07日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(3)

ドモルネ神父 2023年9月24日

はじめに

今日は、前の2回の説教に引き続き、幼きイエズスの聖テレジアの聖性への道についての教え、一般に聖テレジアの「小さき道」として知られているものについて、もう一度お話ししたいと思います。1回目は、私たちに対する天主のあわれみ深い愛についてお話ししました。聖パウロはこう言っています。「慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」(エフェゾ2章4-5節)。2回目は、天主のあわれみ深い愛に対する私たちの信仰の結果、すなわち、天主を愛したいという望みについてお話しました。聖ヨハネはこう言っています。「だから、私たちが天主を愛するのは、天主が先に私たちを愛し給うたからである」(ヨハネ第一書4章19節)。今日私は、天主を愛したいという望みが私たちを成長へと導く心構えについて話そうと思います。これらの心構えは、謙遜と天主の愛への信頼です。

1.謙遜

天主は、あわれみ深い愛で私たちを愛してくださいます。このことは、私たちに対する天主の愛は、私たちの小ささと弱さによって動かされている、という意味です。私たちが小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、天主のあわれみ深い愛を引き寄せるのです。このことに驚いてはなりません。なぜなら、人間同士でも、同じことが起きているからです。子どもは、小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、親から多くの注目と保護と愛を受けます。天主は聖書の中で、この現実についてこう述べておられます。「小さい者は誰でも、私のもとに来させよ」(箴言9章4節)。「あなたたちは胸に抱かれ、膝の上にのせてなでられる。母親がその子をなでるように、私もあなたたちを慰める」(イザヤ66章12-13節)。

ですから、天主の愛から恩恵を受けたいのならば、私たちは小さな者となり、自分の小ささを喜ばなければなりません。このことは、私たちが天主に完全に依存する弱い被造物、自分では何も持っていないみじめな被造物、自分では何もできない無力な被造物であることを喜ばなければならない、という意味です。私たちが霊的に小さければ小さいほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は大きくなります。逆に、私たちが自分の力に頼って力強く自立したふりをすればするほど、天主のあわれみ深い愛を受ける権利は小さくなります。小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもは、その小ささのおかげで、母親の腕の中に横たわる特権を持っています。しかし、子どもが成長するにつれて、つまり小ささを失うにつれて、その特権は失われていきます。私たちも同じです。自分が小さいとかみじめだという感情から逃れることは、天主の愛から逃れることを意味するのです。

したがって、天主の愛から恩恵を受けるためには、私たちの努力が、自分の小ささを考えること、自分の小ささを素直に告白すること、自分の小ささを平和的に喜ぶことでなければなりません。なぜ、これが努力なのでしょうか。なぜなら、私たちは非常に高慢だからです。私たちは、自分自身の力によって、何らかの方法で強くなりたいのです。私たちは、天主のあわれみの対象にはなりたくないのです。原罪以来、ルチフェルの「non-serviam」、つまり「私は仕えない」という言葉が、私たちの霊魂の奥深くにこだましているのです。これこそが、聖ヨハネの言う「生活のおごり」(ヨハネ第一書2章16節)なのです。私たちが聖性のために努力しているときでさえ、ほとんど無意識のうちに、偉大な者になりたいという密かな望みを抱いています。高慢に根差したそのような望みは、私たちの霊魂に注がれる天主の愛を、直ちに枯渇させてしまうのです。

具体的に言えば、日常生活において、私たちは、自分の小ささによって、天主のあわれみ深い愛を、どのようにして引き出すことができるでしょうか。自分の無力さ、失敗、不完全さ、罪による自分の小ささを、私たちが目の当たりにするたびに、平安のうちに天主に立ち返り、信頼をもって天主に身を委ねることによってです。自分に腹を立てないでください、動揺しないでください、落胆しないでください。これらの態度はすべて、高慢に根差しています。このテーマで私たちの手本である、小さな子どもたちのことを考えてみましょう。自分の小ささが理由で何かを成し遂げられないとき、小さな子どもならどうするでしょうか。ただお父さんのところに駆けて行き、自分の代わりにそれをしてくれるよう、お父さんにお願いするのです。私たちも同じようにしましょう。自分の限界と弱さを静かに認めましょう。そして、信頼を持って、天の御父に助けを求めましょう。

同じように、私たちは、否定的な判断、軽蔑、不正、忘却、その他私たちを辱めるものの犠牲となるたびに、平安のうちに天主に立ち返り、天主の愛を信頼し、天主に身を委ねる必要があります。このような状況は、実際には、自分の小ささを深く自覚するのにとても役立ちます。ですから、他人に腹を立てたり、動揺したり、悲しみに打ちひしがれたりしないでください。ここでもう一度、私たちの手本である小さな子どもたちのことを考えてみましょう。小さな子どもたちが悲しみを抱いたときに何をするかを見たことがありますか。泣くことも、文句を言うことさえもせず、母親のところに行って腕の中に抱かれます。母親の愛に触れながら、母親の胸の上でしばらく休みます。次に、こうして慰めを受けてから、自分の活動に戻っていくのです。私たちは、試練に直面するたびに、天の御父に対して、このようにしなければならないのです。イエズスは、福音の中でこう言われなかったでしょうか。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11章28節)。

要するに、天主を愛したいという望みは、私たちが天主の愛でこれまで以上に満たされるようになるために、小さくなるように、ますます小さくなるように駆り立てるのです。

2.信頼

私たちが述べたことから、皆さんはすでにお分かりだと思いますが、自分の小ささの自覚を育むことは、天主のあわれみ深い愛への限りない信頼を育むことと常に密接に結びついているのです。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「聖性とは、心構えにあります。すなわち、天主の腕の中でへりくだって小さくなり、自分の弱さを自覚し、天主の父としてのやさしさを大胆に確信することにあります」。謙遜は、私たちを自分自身から遠ざけ、信頼は、私たちを天の御父の腕の中に投げ出させます。私たちは自分では無ですが、天主は無限の存在であり、私たちは弱いですが、天主は全能であり、私たちにはすべての完徳が欠如していますが、天主にはそのすべてがあります。そして天主は私たちを愛しておられます。私たちが天主に自分の霊魂に入っていただく限り、天主はその力と完徳をもって、私たちに自らを与えたいと望まれます。ですから、まさに私たちの弱さが、私たちを力ある者としているのです。これで、そしてこれだけで、たとえば殉教者たちが、ひどい拷問を受けたにもかかわらず、忠実であり続けることができた理由を説明することができます。

これまで説明してきたように、私たちの小ささを愛するという謙遜は、決して私たちを臆病にさせるものではありません。なぜなら、謙遜に伴うものは天主のあわれみ深い愛への信頼であり、この信頼があるからこそ、天主が私たちに求められるどのような使命であっても成し遂げることができるのですから。こういうわけで、聖パウロは、ローマ人にこう書き送ったのです。「誰がキリストの愛から私たちを離れさせ得よう。……死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエズスにある天主の愛から、私たちを離せないのだと、私は確信する」(ローマ8章35-39節)。

聖テレジアは自叙伝の中で、謙遜と天主への信頼が、いかに最も困難な任務を成し遂げることを可能にするかを示す話を語っています。修道院では、修練女を修道生活で訓練し、霊的生活で指導する修練長の役割が非常に重要です。修道院の将来は、修練女たちの適切な養成によって、ですから修練長によって、大きく左右されます。修練長の役割を適切に果たすためには、多くの思慮深さ、識別力、愛徳が必要です。しかし、テレジアがまだ22歳であったとき、カルメル会の長上は彼女を副修練長に任命しました。それについて、聖テレジアは次のように書いています。「人々の至聖所の奥深く分け入るようになりましたとき、私はすぐに、これが自分の力に余る務めだとわかりました。そこで私は小さい子どものように、天主さまの腕の中に身を寄せ、私の顔をその髪の毛の中にうずめて言いました。『主よ、私はあなたの子どもたちを養うにはあまりに小さすぎます。もしも私を通して一人ひとりに適したものを与えようとなさるならば、どうぞ私の小さい手をいっぱいに満たしてください。そうすれば私はあなたのみ腕の中にとどまったまま、頭さえふり向けずに、私のところへ糧を求めに来るものにあなたの宝を与えましょう』。……事実、私の期待は決して裏切られませんでした。修練女たちを養う必要のあるたびに、天主さまは私の小さい手をいっぱいにしてくださいました」(原稿C 第二部)。

こうして聖テレジアは、謙遜と天主への信頼に満たされて、自らの小ささによって、非常に困難な任務を見事に果たすことができたのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、結論はいたって簡単です。私たちが天主を愛したいならば、幼きイエズスの聖テレジアが教えてくれたように、謙遜を実践し、天主のあわれみ深い愛に信頼を置きましょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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