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煉獄の霊魂たちは、煉獄の恐ろしい苦しみで罪の償いをし、天主を愛することを学ぶ。苦しみを受け入れることが天主をお喜ばせすることを知り、霊的な喜びをもって苦しむ。

2023年11月23日 | お説教・霊的講話

あわれな霊魂が煉獄での苦しみをどのように耐え忍んでいるかについての説教

ドモルネ神父 2023年11月12日

はじめに

今月11月は、煉獄の霊魂がどのようにして苦しみに耐え忍んでいるかについてお話ししたいと思います。彼らは、私たちが地上での苦しみにおいて見習うべき模範なのです。

1.煉獄の役割

煉獄とは、天国に入る前に、苦しみによって清められる場所のことです。煉獄に行く人々は、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪の償いが十分にできていなかった人々です。自分の罪を償うとは、どういう意味でしょうか。それは、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして天主を愛するために、すべての自己中心と罪への愛着から自分を清めることを意味します。具体的に言えば、償いを行うのは、大斎や小斎のような自発的な自己否定によって、また疲労があったり無関心であったりするにもかかわらず、自分の義務を十分に果たすよう自らに強いることによって、また病気や事故のような人生の試練に我慢して耐えることによって、また怠惰や反感にもかかわらず、隣人に対する愛徳のわざを行うようにすることによってです。償いを行うことは必要です。私たちの主イエズスは、こう言われました。「償いをしないなら、あなたたちもみな、同じように滅びる」(ルカ13章5節)。

苦しみがあるにもかかわらず償いを寛大に行う人々は、天主への愛が深まり、人生の終わりには、直接天国に行きます。一方、償いを十分に行わない人々は、霊的に生ぬるいままです。彼らの天主への愛は、多くの自己中心と地上の物に対する乱れた愛着と、混在したままです。そしてそのため、彼らが死ぬときには、すぐに天国には行けません。なぜなら、天国には、完全な天主への愛しかないからです。

したがって、煉獄は死んだ後の清めの場所であり、そこで霊魂は、すべての乱れた自己愛から清められ、天主を完全に愛することを学びます。この清めと学びは、神秘的な火の中での苦しみを通して行われます。黄金が炉の火の中で清められるように、霊魂は煉獄の火の中で清められるのです。

煉獄の霊魂は、私たちの想像を絶するほど激しく苦しんでいます。これが、神学者たちの一般的な教えであり、地上に出現した煉獄の霊魂たちが明らかにしていることです。しかし、苦しみの激しさにもかかわらず、煉獄の霊魂は平安のうちに、さらには喜びさえもって苦しんでいます。このことを理解するためには、私たちはまず、天主の御摂理の計画における苦しみの役割を思い起こす必要があります。

2.私たちの人生における苦しみの役割

人間は、天主の善意によって創造されたため、原罪以前は、苦しみや死を受けませんでした。苦しみと死は、原罪と私たち個人の罪の結果です。そして、これは正当なことです。実際、罪を犯すこととは天主の法に背くことであり、天主のご意志よりも自分の意志を優先させることです。言い換えれば、それは天主を愛することを拒否することです。私たちの主は、私たちにこう言われました。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は、父にも愛され、私もその人を愛して、自分を現す」(ヨハネ14章21節)。罪の罰は、罪の反対の動き、つまり自分自身の意志に反することを負うことにあります。これが苦しみなのです。

苦しみは、私たちの罪に対する正当な罰です。そのため、限りなく正当である天主は、洗礼の後でも、私たちの人生から苦しみを取り除かれることはありません。しかし、天主は、その限りない知恵と慈悲において、苦しみを私たちの霊的解放の手段、つまり、私たちが乱れた自分自身への愛から天主への愛へと立ち戻る手段、私たちが失ったもの、すなわち永遠の幸せを私たちが取り戻す手段とされたのです。そのため、私たちを限りなく愛し、私たちが永遠に幸せになることを望んでおられる天主は、私たちが苦しみを受けることを望んでおられるのです。良い医者が、患者のために、患者を癒やす苦い薬を望むように、天主は、私たちのために、私たちを霊的に癒やす苦しみを望んでおられるのです。幼きイエズスの聖テレジアは、このことを特別に単純かつ深淵に説明しています。彼女はこう問います。「私たちが苦しむとき、私たちを愛しておられる善き主が喜ばれるということが、どうしてありえるのでしょうか」。そして彼女はこう答えます。「いいえ、私たちの苦しみが主をお喜ばせすることは決してありませんが、このような私たちの苦しみは、私たちにとって必要なものです。ですから天主は、まるで御顔を背けられるかのように、つまりご意志に反するかのように、その苦しみが起こるのを許されるのです」。聖テレジアは、こうも言っています。「天主は、私たちが涙の泉から飲むようにすることを好まれませんが、それが、天主がご自分を知っておられるように私たちが天主を知り、私たちが天主のようになるための準備を私たちにさせる唯一の方法であることを知っておられます」(セリーヌへの手紙、LT57)。

天主は、御摂理によって、私たちを永遠の幸せへと導かれます。そして、苦しみは私たちの聖化のために必要な手段であるため、既に述べたように、天主は、私たちが自発的に償いをすることを期待しておられます。そして、それだけでは十分ではないため、天主は、私たちへの愛のゆえに、私たちの選択にかかわらず、一定量の苦しみを私たちに経験させられます。そして同時に、これらの苦しみに我慢して耐え忍ぶために必要なすべての恩寵を、私たちに与えてくださるのです。

御摂理のご計画によれば、私たち一人一人は、この人生の償いと苦しみを通った後、直接天国に行くはずです。私たちが煉獄に行くことは、御摂理の計画ではありません。

3.煉獄の霊魂はどのように苦しむのか

煉獄に行く人々は、自分の罪に対して十分な償いをしていない人々、すなわち、自発的な償いや慈悲のわざをすることを拒否した人々、人生の試練のせいで天主に反抗した人々、または試練に耐えかねた人々です。彼らの心は、利己主義から完全に清められてはいないのです。

死んだ後の私審判のとき、これらの霊魂は、自分がいかに利己主義に染まっているか、そして自分が天国に入り聖三位一体の愛の命にあずかるに値しないことを知ります。彼らは、苦しみこそが、自分たちを利己主義から清めるために必要な手段であり、唯一の手段であることを理解します。彼らは、苦しみが、天主を完全に愛することを学ぶための学校だということを理解します。そこで彼らは、煉獄の恐ろしい苦しみに身を投げ出し、そこで罪の償いをし、罪に対するすべての乱れた愛着を取り除き、心を尽くし、力を尽くし、霊魂を尽くして天主を愛することを学びます。彼らはひどく苦しみますが、清めが完了するまでは自由になりたくないため、忍耐強く苦しみます。彼らはひどく苦しみますが、天主がこの方法で癒やしてくださることを知っているため、平安のうちに苦しみます。彼らはひどく苦しみますが、喜びをもって苦しみます。どうして喜びをもって苦しむことが可能なのでしょうか。もちろん、それは感覚的な喜びではありません。なぜなら、苦しみは、必然的に悲しみや重荷を負う感情を意味するからです。それは霊的な喜びであり、愛徳の実であり、自分の愛する者を幸せにする喜びです。煉獄の霊魂がこの喜びを持つのは、天主を愛しているからであり、また自分が苦しみを受け入れることが天主をお喜ばせすることを知っているからです。

結論

親愛なる信者の皆さん、煉獄の霊魂がいかに苦しむかについて私が今述べたことが、私たちが地上での人生の中でいかに償いを行うべきか、私たちの人生の中で天主が許される苦しみにいかに耐えるべきか、を示しています。あわれな霊魂たちは、自分たちの聖化のために償いと苦しみが果たす役割を理解します。しかし、それは少し遅かったのです。地上での人生において天主が彼らに求められた償いは、はるかに小さいものでした。私たちは同じ過ちを犯さないようにしましょう。

天主が煉獄の霊魂の清めの時間を短くしてくださるよう、ミサ、聖体拝領、ロザリオ、犠牲、愛徳と施しの行いを天主に捧げることによって、煉獄の霊魂を助けましょう。そのお返しに、煉獄の霊魂は、私たちがいつか、煉獄を通らずに直接天国で彼らに会えるように、私たちが忍耐をもって、平安と霊的な喜びのうちに、私たちの人生の苦しみを耐えることができるよう、私たちを助けてくれることでしょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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