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奈良ものろーぐ(14)石橋信夫は川上村出身/大和ハウスを創業、日本で初のプレハブ住宅を開発!

2017年06月14日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
奈良日日新聞に毎月第4金曜日に連載している「奈良ものろーぐ」、先月(5月26日)紹介したのは「石橋信夫 川上村出身 大和ハウス創業」だった。川上村は山林王・土倉庄三郎翁を輩出したことで知られるが、昭和の偉人・石橋信夫も川上村の出身である。林業を営む家(川上村寺尾)に生まれた石橋は、土倉翁を尊敬していたという。
※トップ写真は、大和ハウス工業総合技術研究所敷地内の「石橋信夫記念館」(奈良市左京) 

先の大戦を満州で戦った石橋の生涯は、まさに波乱万丈。強い精神力でシベリア抑留から生還した石橋は、先見性のあるアイデアを次々に打ち出し、大和ハウスを大企業に育てていった。今、石橋の生家は、大滝ダムの底に沈んでいるそうだ。では、全文を紹介する。

ミゼット(midget)とは英語で「超小型のもの」。日本でミゼットといえば、1つはダイハツ工業の軽三輪トラック、もう1つは大和ハウス工業のプレハブ住宅「ミゼットハウス」が思い浮かぶ。ミゼットハウスは、日本で初めて商品化されたプレハブ住宅だ。

そんな大和ハウスを創業し陣頭指揮をとったのが、川上村寺尾出身の故石橋信夫氏だ。《大正10年9月9日生まれ。満州国営林局勤務をへて応召、シベリアに抑留。昭和23年兄が経営する吉野中央木材にはいる。30年大和ハウス工業を創業。38年社長、55年会長。わが国初のプレハブ住宅を開発。また大規模住宅団地開発にいちはやく進出した。平成15年2月21日死去。81歳。奈良県出身。吉野林業学校卒》(『日本人名大辞典』)。

満州では真冬に抗日ゲリラの襲撃に遭い、3日間、山野をさまよい九死に一生を得るという経験をする。その後応召、任地は再びの満州だった。そこで石橋は大事故に遭う。雪中演習で馬が暴走し、速射砲のソリがぶつかってきたのだ。石橋は脊髄を損傷し、下半身がマヒ。再起不能と懸念されたが、名医の手術により奇跡的に治癒。原隊に復帰するも敗戦、シベリアへ送られる。3年間の抑留の後、帰国し、吉野中央木材に入社。
 
昭和25年のジェーン台風の被害状況を見て、石橋はふと気づく。立木や家が倒れているのに、稲や竹は倒れていない。稲や竹のパイプ構造を応用すれば、軽くて丈夫な家が建つのではないか。
時あたかも戦後復興で木材は払底していた。鉄パイプを使って家を建てれば、木材に頼らずに済む。

昭和30年、石橋は大和ハウス工業を創業した。社名の「大和」は出身地の大和から。会社創業と同時に「大和式組立パイプハウス」を発売した。軽くて丈夫なパイプハウスを国鉄(現在のJR)や電電公社(NTT)に売り込み、生産が追いつかないほどの注文を受けた。

昭和34年には「ミゼットハウス」を発売。石橋が趣味の鮎釣りをしているとき、子供が暗くなるまで釣糸を垂れていた。理由を聞くと《「家に帰っても、部屋が狭くって、ろくに本も読めないもん」「そうか…」そのとき、少年が言った言葉が私の胸に響いた。「自分の部屋が欲しいなァ」》(石橋信夫著『運命の舞台』)。

これにヒントを得て「3時間で建つ11万円の家」のキャッチフレーズでミゼットハウスを売り出したところ、注文が殺到する大ヒット商品となった。今、パイプハウスとミゼットハウスは、国立科学博物館の「未来技術遺産」(重要科学技術史資料)に登録されている。

奈良市左京のならやま研究パークの一角、大和ハウス工業総合技術研究所の敷地内に「石橋信夫記念館」が建つ。今年で開館10周年を迎えた。石橋の偉業をしのぶ施設として、多くの方にお訪ねいただきたい。


あらかじめ電話予約を入れて大和ハウス工業総合技術研究所を訪ねると、職員さんが親切に石橋信夫記念館と、研究所内の見学施設を案内してくださった。予約が必要だが、平日と土曜日には開館しているので、家族で訪ねたり、夏休みの自由研究に訪ねるのも良いだろう。

この記事を書くにあたっては、研究所の職員さんやご本社の広報ご担当者に大変お世話になりました。ありがとうございました、貴社ますますのご発展を祈念いたします。

コメント (2)
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