tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良検定1級の合格通知書が到着!

2009年02月27日 | 奈良検定
昨日(2/26)、「奈良まほろばソムリエ検定試験」を主催する奈良商工会議所(奈良検定事務センター)から、「奈良通1級」の合格通知書と認定証(カード)が届いた。自己採点と同じ81点で、「合格おめでとうございます」という「判定」がついていた。

マークのミスがなかったわけで、ホッとしている。なお合格通知の「受験者データ」によると、1級の受験者数は614名、合格者は270名、合格率は44.0%、平均点は68.0点だった。昨年の合格率は29.2%だったから、大幅に改善している。
※おかげさまで、奈良検定1級合格!(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/7e0240ff25fde4ac55155c1d9c62292c

2/26日付の朝日新聞と奈良新聞によると、2級の受験者数は956名、合格者は533名、合格率は55.8%、平均点は69.9点。昨年の合格率は34.9%だったから、これも大きく改善した。2級はもう少しやさしくなって、合格率がコンスタントに6割を超えるようになれば、受験者も増えるだろう。

今年は出題者(出題スタッフ)が入れ替わったのだろう、昨年までのトリビアが減り、本当に大切な事項がきちんと出題されていた。これは大きな前進だ。

最高級の「ソムリエ」は、記述式があるので採点にはもう少し時間がかかりそうだが、あの難解な四択をどれだけの人が得点できたのか、とても楽しみである。

奈良検定1級、2級に合格された皆さん、おめでとうございます。来年は、ぜひソムリエ、1級をめざしましょう。残念ながら不合格となった皆さん、ぜひ再チャレンジしようではありませんか!

※冒頭の写真は、吉野郡大淀町の道の駅で、2/8撮影。
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Coming Soon!町家の雛めぐり

2009年02月26日 | 奈良にこだわる
いよいよ3/1(日)から、高取町(奈良県高市郡)で「第3回 町家(まちや)の雛(ひな)めぐり」が始まる(3/末まで)。運営するのは「高取土佐街なみ天の川計画実行委員会」(野村幸治代表)という地元住民のボランティア団体である。

《山城「高取城」の城下町として栄えた高取町。昔からの町家が、多く現存し、その当時の佇まいを残しています。その名は、土佐街道。この町並の佇まいを、ひとつのテーマパークに見立てて、開催されるのが「土佐町並み町家の雛めぐり」です。2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で3回目。昨年は、70数軒の展示ですが、町あげてのイベントに発展し、今年は、約80軒のお雛さんを町並みのあちらこちらで展示しています》(高取土佐町並み「町家の雛めぐり」のホームページ)。
http://www.hinameguri.jp/



《展示箇所は、民家の玄関や、縁側、店先など、現在実際に生活されているご家庭に展示しており、基本的に、そのご家庭に縁のあるお雛様で、飾り付けも、そちらの方々で行われています。また、住民との会話も、大好評。展示会場によっては、雛人形を飾っているお宅の住民さんと、会話が出来ることがあります》。


夢創館の展示

注目は「雛の里親館」の企画展示である。《第1は「天段のお雛さま」 16段もの天高くそびえるお雛さまに圧倒されてください。第2は「曲水の宴」 宮中の句会である「曲水の宴」をお雛さまで表現しています。企画展示担当の通称「こだわり大臣」が、こだわり抜いて演出しきった芸の細かい再現性をお楽しみください!そして、皆さんも一句いかがですか?》。


衣料の店まつむむら

土佐街道沿いふるさと農道周辺で行われる「菜の花狩り」という企画もあ。《春の訪れを告げる菜の花。綺麗に咲き誇る菜の花畑で、菜の花を摘んで持ち帰ってみませんか? 》。これは「3月7日~8日 午前10時~午後3時」「3月14日~15日 午前10時~午後3時」「3月20日~22日 午前10時~午後3時」の期間限定だ。


同 上

このほか琴の演奏会、写真撮影会・写真展、茶席、地元産品の直売など、楽しい企画が目白押しである。
※効率的に回れるよう、目的に応じた2つのモデルコースが用意されている。
http://www.hinameguri.jp/routeguide.html

「高取町観光ボランティアガイドの会」のHPには、「雛めぐり」のウォークスルー映像が掲載されているので、雰囲気がよく分かる。
http://www.takatori-guide.net/


代表の野村幸治(ゆきはる)さん

このイベント、初回の一昨年は8,151人、昨年の第2回は25,710人を集めた。野村代表は「観光客ゼロだった町に3万人集めた男」として、一躍有名になった。新企画目白押しの今回は、何人の方が来られるのか、今から楽しみである。皆さん、ぜひお訪ね下さい。

※アクセスマップはこちら。近鉄吉野線・壷阪山駅下車である。
http://www.hinameguri.jp/access.html

※当記事の写真は、すべて2010.3.6に追加撮影したもの。
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パワースポット探訪!山添村の巨石めぐり

2009年02月24日 | 奈良にこだわる
山添村は巨石・巨岩の宝庫である。聖石、石神、磐座(岩座、いわくら、イラクラ)など様々に呼ばれており、今でいうパワースポット(スピリチュアルスポット)である。これら巨石は縄文人による「超古代巨石文明」の現れであるとして、02年7月には「山添村いわくら文化研究会」が設立された。奥谷和夫さん(山添村観光ボランティアの会副会長)は、この会の副会長も務めておられる。

「研究会」のHPで奥谷さんは《①調査の結果、鍋倉や他の「いわくら」は自然にできたものではなく、誰かが(古代の人)何らかの意図をもって作ったものである。したがって、そこに法則性がある。②誰が、いつの時代に、何の目的でつくったかが明らかになれば、超古代の大和高原の姿、大和の原像、そして日本の原像が見えてくるのではないか》と書かれている。
http://www1.kcn.ne.jp/~k-okutan/framepage2.htm


布目(ぬのめ)ダムとダム湖(2/18撮影)

遊絲社(ゆうししゃ)からは『イワクラ』(税込1,680円)という本(新書版)も出た。《古来、秀麗な姿を持つ山には神が宿るとされ、人々はその山中の奇岩や巨石を神が降臨する岩、『磐座(イワクラ)』と呼んだ。最新の古代の信仰や呪術・祭祀に関わる遺跡・遺物の調査から「イワクラ」「古代文化」の正体に迫る渾身のレポート》である。奥谷さんはこの本の共著者のお1人だ。
http://www.yuubook.com/center/hanbai/syoseki_syousai/syousai_iwakura.html

オカルト系の月刊誌『ムー』(学習研究社)でも、「奈良のメガリス・オーパーツ(=謎の巨石遺跡)」(02年12月号)として紹介された。


布目ダム湖(同)

今回(2/18~20)、奥谷さんに村の巨石群をご案内いただいた。これが「超古代巨石文明」を現すものかどうか、私には判断がつかないが、少なくとも漢字の「磐座」であることは間違いない。つまり《社殿の発生以前の信仰的対象物。(中略)神が降臨した際に座す石という観念より起こったもの》(『日本考古学小辞典』ニュー・サイエンス社刊)である。

村の巨石は、3つのエリアに集中している。ちょうどこの順にご案内いただいたので、以下に紹介させていただく。
http://www1.kcn.ne.jp/~k-okutan/framepage2.htm

1.布目(ぬのめ)ダム周辺(奈良市との境に近い同村北西部エリア)
http://shigeru.kommy.com/nunomedamusekibutu.htm
2.神野山(こうのさん)周辺(同村中西部エリア)
3.中峰山(ちゅうむざん)周辺(伊賀市との境に近い同村東部)

1.布目ダム周辺
●共同墓地六地蔵磨崖仏(牛ヶ峰)
2/18(水)、ダム近くの東山公民館で待ち合わせ、まずご案内いただいたのが、湖畔の牛ヶ峰共同墓地内の六地蔵磨崖仏(まがいぶつ)である。ここはダムに沈んだ牛ヶ峰の民家(6軒)の共同墓地だ。ここに車を駐めて、山に入る。



●岩屋枡型(牛ヶ峰)
「岩屋枡形石 600m」の道標から、急な山道(幅約1mの階段)を登ると、まずは「岩屋」に到着する。



ここに「金剛界大日如来線刻磨崖仏」がある。室町時代初期の作で、像高は約2m。これが高さ6m×幅13m×奥行き6mの巨石に彫られている。その下に岩屋(岩窟)があり、護摩壇がある。この岩窟は岩屋寺という寺だった。《この地域一帯をみやまと呼んでいる。中世以前の南都春日社境北野都杣の跡と考えられる》《牛ヶ峰善龍寺の僧はここにこもって山居した》と案内板(村の教育委員会)にあった。





ここから少し登ると「枡型(ますがた)」がある。切り立った巨石に枡形の切り込みが入っている。ここに大日如来を彫ったノミとツチが納められていたというが《枡型は本来仏像を安置する石の厨子(ずし)、すなわち石龕(せきがん)であったと思われ》ると村の案内板にある。


枡型石。上の方に小さな切り込み(枡型)が見える

牛ヶ峰周辺には巨石が多い。主なものを紹介する。





●不動磨崖仏(的野川西岸)
車で的野(山添村の西端)の村落に入ると、川沿いの道端に、南北朝時代のお不動さんが祀られている。小さくて愛らしい仏さまだ。お参りする人が多いのだろう、掃除も行き届いていた。





●地蔵菩薩立像(的野)
このお地蔵さんは村指定文化財である。案内板には《地蔵菩薩立像 正安三年(1301)的野区 的野川北岸の岩石に切り付けられた像高90cmの磨崖仏で「正安三年三月十日信賢信順」の銘あり。造像銘から鎌倉時代の石仏に相違ないがやや平面的な感がある。だれかの顔に似ていると思われる表情には、写実的な鎌倉時代の特色が見られ、当地における石仏を考究する貴重な資料である。山添村》。



●阿弥陀如来立像(八幡神社)
これも村指定文化財である。案内板には《阿弥陀如来立像 建長五年(1253) 八幡神社 鎌倉時代の作で「建長五年癸丑十月一日造立」の銘があり、有銘石仏では県下でももっとも古いものの一つである。材質が風化しやすい花崗岩のため、表面はやや風化しているが、作風もすぐれ像自体は充実した立像感にあふれている。山添村》。もと常照院というお寺の跡が、八幡神社になっている。





2.神野山(こうのさん)周辺
●鍋倉渓(なべくらけい)
2/19(木)には、鍋倉渓から神野山に登った。鍋倉渓については「ええ古都なら」(奈良の観光情報サイト)の説明が分かりやすい。《山添村でもっとも知られた磐座が、神野山にある鍋倉渓だろう。全長約650m、平均幅10mにわたって、黒々とした大小さまざまな石がるいるいと並んでいる。その風景はまさに奇観。昔話には伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げ合ったといわれるが、実際は風化現象によって山の表面の地層が細かくなっていくときに岩石として残り、当時の谷底に自然と集まって、堆積したものと考えられている。石の下には伏流水が流れ、大和の名水にも選ばれている》。
http://www.nantokanko.jp/mytown2007


鍋倉渓

《この鍋倉渓は一説には「天の川」をさしているといわれる。また鍋倉渓の周囲にはたくさんの巨石があり、星座を地表に写しているというのだ。それによれば、まず鍋倉渓の脇にある「竜王岩」はアンタレスをさす》。


竜王岩

《また神野山山頂の「王塚」が白鳥座のデネブを、「八畳岩」が琴座のベガを、「天狗岩」がわし座のアルタイル(ひこ星)をさし、これらは「夏の大三角形」を写したものという。また八畳岩に近い「北斗岩」は北極星を表す。古代の人々も地表に描いた星座と宇宙とをみつめていたのだろうか。そう思うと何ともいえないロマンがかき立てられてくる》。


八畳岩


天狗岩

●天王の森(牛頭天王祭祀 峰寺)
布目川にかかる大橋の北側に隣接している。村の指定史跡で、案内板には《天王の森(牛頭天王祭祀)峰寺区 一種の巨石崇拝と考えられ、山頂の巨岩群に牛頭天王(ごずてんのう)を勧請(かんじょう)したので天王の森と呼ばれ、古くから神聖禁忌の地である。布目川の中にある水神の森(水神祭祀)とあわせて、近在の信仰を集めている。なお、布目ダム建設によって、この岩山の一部が道路敷となったが、巨岩は現状のままこの地に保存された。山添村》とある。


天王の森(牛頭天王祭祀)

牛頭天王は、神波多神社(同村中峰山)の祭神だった。神波多神社は畿内を護る疫神鎮座施設として大和国と伊賀国の境に設けられ、その祭神に牛頭天王(インドの疫神)を迎えた、ということのようだ。その信仰が村内で広まって祭祀が設けられたのだろう。


水神の森(布目川)

3.中峰山(ちゅうむざん)周辺
最終日の2/20(金)には、長寿岩と中峰山周辺をご案内いただいた。

●長寿岩(大西 ふるさとセンター内)
名阪国道山添インターからほど近い「山添村ふるさとセンター」(ふるさと創生1億円で建てられた)の敷地内にある巨大な岩である。直径約7m、重量約600t。縄は、村の若い衆によって、99年から掛けられているものだが、いい感じに仕上がっている。岩は「ふるさとセンター」建設途中に出土したもので、約700万円かけてここに移設したそうだ。



材質は花崗岩で、地中10km~20kmのところでマグマが冷えて固まったもの。約1億年前のマグマの活動が活発だった頃に誕生し、建設工事で地表に姿を現した。やがて長い年月をかけて風化され、砂や土に変わっていく。《赤道、子午線とおぼしき謎の十字ベルトがあり、夏至の太陽との関係がある》と注目する人もいる。


ご案内いただいた奥谷和夫さん

●中峰山の巨石
中峰山は名阪国道五月橋インターの南東、神波多神社の北東にある。ここは3日間の巨石巡り中の圧巻であった。

猪が掘り返した穴などを見ながら、枯葉を踏みしめて山を登る。下は雑木林だが、次第に杉の人工林に変わる。「もとは茶畑もあったんですがね」と奥谷さん。確かに、畝(うね)の石垣や野壺の跡が残る。


手毬岩(てまりいわ)


UFO岩

やがて巨石が姿を表す。名前は「山添村いわくら文化研究会」のメンバーなどが付けたものだそうだ。


男根石



下の岩は、大亀石とか八畳岩などと呼ばれている。記事冒頭の写真と同じ岩で、奥谷さんがとても小さく見える。何しろこの岩は、30m×15mはあろうかという超ド級の巨石なのである。



岩には亀裂が入っていて、長さ5mほどの小さな洞窟ができている。言い伝えによれば、ここから神波多神社の祭神(素戔鳴尊=牛頭天王)が出てきたという。



これらが単なる自然石なのか、磐座なのかを判定するには、「祭祀の跡があったか」がポイントになる。それは今後の「山添村いわくら文化研究会」の研究を待ちたいと思う。

それにしても貴重な3日間だった。すでに当ブログでお寺と神社を紹介したが、書き残した民宿や景色のことは、日を置いて紹介させていただくつもりである。こんなに魅力的な山添村があまり知られていないのは残念だ。次は桜の季節にお邪魔し、写真をたくさん撮らせていただきたい。

奥谷さん、3日間のご案内、本当に有難うございました。
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山添村の神社めぐり

2009年02月23日 | 奈良にこだわる
山添村には古社が多いのに、残念ながらあまり知られていない。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)のテキストには1社も掲載されていないが、由緒も特徴もある神社が多いので、ここでまとめて紹介することにしたい。

これらは2/18~20にかけて、奥谷和夫さん(山添むらづくり協議会会長、山添村観光ボランティアの会副会長)のご案内でお参りした神社である。参拝順に記載すると…。

●六所神社
初日(2/18)、まずお参りしたのは、六所(ろくしょ)神社(同村峰寺)である。峰寺、的野、松尾それぞれの村落の氏神として祀られているが、式内社「天乃石吸(あめのいわすえ)神社」の候補地でもある。なお「式内社」とは《「延喜式」の中の巻9、10の神名帳に登載された神社の称》(奈良検定テキスト)である。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと=山の神)で、神社の背後に氏神山がそびえる。
※参考:いいちの杜「奈良 山添村の神社」(関西の神社を紹介するホームページ)
http://www.kcat.zaq.ne.jp/iiti906/yamazoe.htm





ご覧のように、巨石の上に祠が建てられている。この巨石は「磐座(いわくら)」なのだ。磐座とは、『日本考古学小辞典』(ニュー・サイエンス社刊)によれば《社殿の発生以前の信仰的対象物。(中略)神が降臨した際に座す石という観念より起こったもの》である。もともと氏神山や巨石(磐座)を拝んでいたものが、後になって社殿を建てたのだろう。巨石は、今回の同村探訪中に、村内各所で目にすることになる。



境内の巨石の1つには、建武5年(1338年)の銘文のある「不動明王像」(像高約70cm)が刻まれ、村指定文化財となっていた。

●(北野)天神社
六所神社から東に行くと天神社(てんじんじゃ 同村北野)がある。室町時代の建築様式を伝える一間社春日造(いっけんしゃ かすがづくり)の本殿は、国の重要文化財に指定されている。



なお一間社とは、横に並んだ丸柱の間隔が1間(柱は2本)のもの。間隔が3間だと三間社(柱は4本)という。春日造とは、正面に庇がついた形で、大陸の建築手法の影響といわれる。ちなみに山添村で拝見した社殿は、ほとんどすべてが春日造だった。



祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という天地創造の神さまだ。この神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味なのだそうだ。この天神社本殿の隣りに美統(みすまる)神社が祀られている。北野地区の五つの社が明治時代に移され、大正時代に社名が付けられたものだという(本殿は村の指定文化財)。道路際には立派なしだれ桜があり、これはぜひ、桜の季節に再訪しなければ…。

●八柱神社
2/19には八柱(やばしら)神社(同村岩屋)にお参りした。名前の通り8人(柱)の神さまをお祀りしている。写真の向かって右(燈籠の向こう側)にムクロジ(無患子)の木がある。筒井順慶が伊賀攻め(1580年)のときに八柱神社に立ち寄り、この木に鉾(ほこ)を立てかけて戦勝を祈願したことから「鉾立ての木」と呼ばれている。





鳥居の手前に川が流れていて、高さ6mほどの滝がある。修行の滝なのだろうか、2人の子供を従えた不動明王像が安置されていた(向かって右のまん中あたり)。



●神波多神社
最終日の2/20には、3つの神社にお参りした。まずは中峰山(ちゅうむざん)の式内社・神波多(かみはた、かんぱた)神社だ。この神社のことは山川出版社の『奈良県の歴史散歩(下)』に出ている。

《由緒については、1581年(天正9年)の織田信長の伊賀攻めの際に古記録を焼失したようで詳らかではないが、『延喜式』によると、畿内の堺10カ所に疫神(えきしん)をまつった記事が見えるのと主祭神のにおいては素戔嗚尊(すさのおのみこと)から式内社とされている。そのため古来「波多の天王さん」ともよばれ大和・伊賀の信奉を集めていたようである》。10/15の例祭では《神輿(みこし)の渡御(とぎょ)・獅子神楽(ししかぐら)が行われている》。


向かって左が拝殿、右が本殿

拝殿の額に「牛頭天王社」とある。神波多神社は、素戔嗚尊と、その本地(ルーツ)である牛頭天王(ごずてんのう)という神さまをお祀りしているのだ。



本殿は五間社流造(ごけんしゃ ながれづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)・銅板覆だそうだ。山添村では春日造ぱかり見てきたので流造は珍しい。よく見ようと思ったが、残念ながら拝殿と本殿がギリギリに接近していて、よく見えなかった。



境内には正和元年(1312年)の銘がある石灯籠があり、信長の伊賀攻めの戦火の跡をとどめている(支柱に、焼けたような赤い色が残っている)。


神波多神社の若宮社

神社の急な石段を下り、真っ直ぐに小高い丘を上り下りすると若宮社がある。10/15の例祭では、お神輿が若宮社まで行くのだそうだ。


若宮社の牛の像
 
●岩尾神社
岩尾神社は山添村吉田にある。吉田地区の氏神さまだそうだが、とてつもなく大きな2つの岩(高さ約4m・村指定文化財)がご神体である。祭神は岩尾大神。岩尾は「巌」(「いわお イハホ[ホは穂の意]高く突き出た大きな石」広辞苑)のことだろう。




岩尾神社(冒頭の写真とも)

六所神社のところで「磐座」(いわくら=神が降臨した際に座す石)に触れたが、岩尾神社には、神体石以外にも、岩尾大神がここに降りられたときの荷物という箪笥(タンス)、長持、ハサミ、つづら(葛籠)、鏡台、水鉢などと名付けられた巨石がゴロゴロしている。境内の案内板にあるように《巨石崇拝の伝承として極めて貴重な存在》なのである。
※参考:「山添村の聖石群」考古学好きのサラリーマンMURY(ムーリー)さんのホームページ
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe1top.html





奥谷さんによるとこの神社には、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者に売り、参拝者はその石を神前に備える、という祭儀(石売り行事)があるそうだ。

●吉備津神社と山の神
吉備津神社(山添村西波多)も、巨石がご神体である。案内板によると《当神社の御神体は、境内山腹の巨岩(高さ6メートル・幅1メートル)であり、古代人が崇拝した「神」降臨し給う岩石信仰をそのまま継承して今日に及び、村内においてもその起源は極めて古い》。木が茂り、石は見えにくいが、写真中央の祠の背後にある。



祭神は、大和朝廷に刃向かう吉備の国を攻めて平定した吉備津彦之命(きびつひこのみこと)である。《鉄の神吉備津神社関係は全国に約五百社とされるが、奈良県内に於ては当社ただひとつである》。



この神社の境内地(丘の上)に「山之神」の石碑があった。毎年1/7、山添村の各村落では、山の神さまの祭りを行うのである。山の神さまは春に山から下りて田の神となり五穀豊穣をもたらし、秋には山に入って山仕事をする人たちの安全を守って下さるのである。


3日間ご案内いただいた奥谷和夫さん

祭りの日は早朝から各戸の男性(山の神さまは女性なので男性だけが参加)が集まり、石碑や神体岩に鍬(くわ)や熊手、鋤(すき)、鎌などの農具のミニチュア(木製)や木刀をお供えする。同時に、2メートルほどの椿の枝を木に引っ掛け、引っ張るような所作(鍵引き)をする。福が舞い込みますように、と願うのだ。その時に歌う歌が石碑に刻まれていた。



「西のくにのいとわた(糸・綿) 東のくにのぜにこめ(銭・米) だいこ(大根)はきね(杵)ほど かぶらはうす(臼)ほど 山の神のヤッサンヤー」~♪。奥谷さんは、これに節をつけて歌って下さったが、村落によって多少歌詞は異なるのだそうだ。


ホウデン(Hoden)

枝には、藁で作った二股の房(福俵)が付いていて、これをホウデンと呼ぶ(1つだけ残っていたのを写真に撮った)。男性の睾丸を象(かたど)っているのだ(山の神さまを喜ばせるため)。ホーデン(Hoden)はドイツ語で睾丸のことだが、偶然の一致とはいえ、面白いネーミングである。

巨石信仰に山の神、磨崖仏にしだれ桜など、山添村の古社には知る人ぞ知る魅力がいっぱい詰まっている。ぜひ、いちどお訪ねいただきたい。

奥谷さん、ご案内有難うございました。

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山添村のお寺めぐり

2009年02月22日 | 奈良検定
2/18(水)~20(金)、休暇を取って山添村(奈良県山辺郡)に泊まってきた。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)の公式テキストには、山添村のことがよく出てくるが、神野山(こうのさん、こうのやま)以外には行ったことがないので、どうもピンと来なかった。

昨年11/15、地域づくり支援機構(理事長:奈良県立大学教授・村田武一郎氏)が主催するシンポジウムがあり、そこでパネラーの奥谷和夫さん(山添むらづくり協議会会長、山添村観光ボランティアの会副会長、同村議会議員)から、同村で宿泊観光に取り組んでおられるという話をお聞きした。県立大の学生によるモニターツアー(民家に宿泊)も受け入れられたそうだ。
※地域づくり支援機構シンポジウム(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/419b10a57a705e4671259c558e2263bc


いつも笑顔の奥谷和夫さん(08.11.15撮影)

早速、シンポジウムの後で名刺交換をさせていただき「いちど、山添村で宿泊観光を体験させて下さい」とお願いすると、二つ返事でご承諾いただいた。奥谷さんのお車に同乗し、観光ガイドもしていただけるとの有り難いお話だった。
※山添村観光ボランティアの会ホームページ
http://www.yamazoemura.jp/

私はちょうど1週間の永年勤続休暇(勤続30年の特別休暇)が取れるので、このたび厚かましくお願いすることにした。3日間、奥谷さんにガイドしていただいたおかげて、村の魅力を存分に体感することができた。これから何回かに分けて、当ブログで同村の見どころを紹介することにしたい。

●毛原廃寺
お寺をご案内いただいたのは、すべて2/19(木)だ。山添村のお寺といえば、まずは「毛原(けはら)廃寺」跡(国指定史跡 山添村毛原)である。村のHPによると《笠間川を眼下に見る山麓に、奈良時代帝都の大寺院に比肩する堂々たる七堂伽藍が毛原に建立されていたことを立証する金堂跡、中門跡、南門跡の礎石が当時のまま残っている》。

《毛原廃寺に関する文書記録はないが、奈良大仏殿建立のために勅施入された東大寺領板蠅の杣の境域内にあったことから、東大寺の杣支配所とも考えられている》。板蝿杣(いたばえのそま)とは、板蝿の地にあって、木を植え育て、東大寺で使う材をとる山林のことだ。ただし奥谷さんによれば、橿原考古学研究所の『毛原廃寺の研究』は、この説を否定しているそうだ(東大寺より毛原寺の方が完成が早いことなどから)。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-keharahaiji.htm




金堂跡の巨大な礎石群(冒頭写真とも)

奈良検定テキストには《『大和志料』(上巻)の山辺郡の項に「気原伽藍址」とあり、礎石の数170余》と出ている。奥谷さんによると、現存しているのは約70個だそうだが、それでもすごい数だ。目についた石をいくつかカメラに収めたが、立派な礎石ばかりである。石の状況からすれば、金堂は唐招提寺の金堂に匹敵する規模だという。




南門跡

下の写真の毛原寺食堂(じきどう)跡の礎石は、バス停「毛原神社前」の横にある。現地の案内板(山添村教育委員会)によると、食堂跡は、礎石の場所から東へ行ったところ(現在は田んぼ)で、その地下に埋設していた礎石は、1938年(昭和13年)に運び出されて行方知れずになっていた。その後、芦屋市の黒川古文化財研究所が文化財の散逸を防ぐため一括入手して保管していたことが判明し、1974年(昭和49年)、同研究所が移転するにあたり、地元へ寄贈する旨の申し入れがあって26年ぶりに里帰りしたものだそうだ。これらの礎石は金堂や南門の礎石に比べると小ぶりで、食堂跡も金堂跡に比べると小規模なのだそうだ。




食堂の礎石(食堂跡は、もっと東)

奥谷さんに面白い記事を見せていただいた。伊和新聞(三重県名張市)2004年(平成16年)の記事で、見出しは《毛原廃寺創始者は? 有望視される長屋王説》だ。郷土史家の森本氏(名張市黒田荘)の説で、「美江寺観音縁起」によれば、元正天皇は長屋王に美濃の美江寺建立を命じた。そこから類推して、その次に天皇は長屋王に伊賀寺(毛原寺)の建立を命じたのではないか、という説だ。有力説ではないようだが、それほど立派な寺跡なのである。


尻尾に特徴がある

毛原廃寺南門跡付近の畑に、何やら奇妙な動物がいた。タヌキかと思ったら、奥谷さんは「アライグマですよ」とおっしゃる。動物園以外でアライグマを見るのは初めてだ。「あらいぐまラスカル」というアニメがあったが、「これは、あらいぐまケハラスカルだな」などと、くだらないシャレを思いついてしまった。もちろん、奥谷さんには内緒である。
※あらいぐまラスカル(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%90%E3%81%BE%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB


私たちに見つかったので、あわてて垣根の向こうの道路に飛び出した


やがてケハラスカルは、もとのねぐらに帰って行った

●長久寺
毛原廃寺近くの長久寺(同村毛原)というお寺にご案内いただいた。村指定の名勝で、案内板によれば《「毛原寺」の荒廃後に建てられたもので、古くから東大寺戒壇院の末となっていた》《長久寺中興の祖と仰がれる智龍上人(ちりゅうしょうにん)は、自力で山を開き自然を活かしつつ数多くの石仏を安置し、明治15年霊場「大師山(たいしやま)」を創設した》とある。裏山に「新四国八十八ヶ所霊場」を作るなど、相当パワーのあるお坊さんだったようだ。




長久寺本堂


新四国八十八ヶ所霊場への入口

●阿弥陀磨崖仏
ここから笠間川の方に降りていくと、対岸に「下笠間の永仁阿弥陀磨崖仏」(宇陀市指定文化財 宇陀市室生区下笠間)があった。鎌倉時代後期の永仁2年(1294年)の作で、163cmの花崗岩製石仏だ。笠間街道は、古来大和から伊勢に向かう道だったので、お伊勢参りなどの旅の平安を祈る石仏が彫られているのだそうだ。相当摩滅しているので、写真でお分かりいただけるかどうか不安だが、柔和なお顔の仏さまである。





●神野寺
山添村で最も著名な観光地が、神野山だ。昭和33年に奈良県指定名勝となり、昭和50年には「県立月ヶ瀬神野山自然公園」に指定されている。奥谷さんのご案内で鍋倉渓(なべくらけい)を登り、山頂から少し下ると神野寺(こうのでら、こうのじ 同村伏拝)に着いた。下から探すと相当分かりにくそうな場所だが、奥谷さんに従って山頂から降りると、あっという間に山門が見えてきた。



村のHPには、《聖武天皇の時代、天平12年(740)僧行基によって建立されたと伝えられ、平安初期にはすでに世に知れた名刹であったと思われます。また、当寺の薬師如来坐像は僧行基が自作奉安したものと伝えられています》《国指定重要文化財の銅造菩薩半跏像は、奈良国立博物館に寄託》とある。
http://www.vill.yamazoe.nara.jp/kankou/k-kounoji.htm


神野寺山門

お寺の看板には「聖武天皇勅願所」とあるが、不思議と奈良検定のテキストに神野寺の記載はない。お寺は競争率が高いのだろう。飛鳥時代の仏さまといわれる「銅造菩薩半跏像」は写真で拝見したが、中宮寺と同じスタイルの仏像の小型版で、見事な宝冠を頂いていた。


神野寺本堂

神野山の境内と寺領は村の指定名勝である。奈良時代の山間寺院の境内形態をよく残し、寺領地域には、亜熱帯に生育するマテバシイ(馬刀葉椎)やタブノキ(椨の木)の群生林が残り、弁天池にはジュンサイ(蓴菜)やハッチョウトンボ(八丁蜻蛉=日本一小さいトンボ)が見られ、生物学上の価値が高いのだそうだ。


帰路、奥谷さんが「茶畑の上で梅が咲いていますよ」と教えて下さった

山添村にこんなに名刹があるとは、ついぞ知らなかった。他にも西方寺(さいほうじ 同村広瀬)には、快慶作の檜造阿弥陀如来立像(国重文)があるそうだ。写真を見せていただいたが、損傷のない立派な仏さまである。毛原廃寺以外、山添村と寺院はあまり結び付かなかったが、これからは心を入れ替えなければならない。
コメント (10)
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