tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

饅頭の祖神、菓子の祖神(「饅頭祭」からの発想)

2023年04月30日 | 日々是雑感
知人のMさんは、奈良市の林(りん)神社(漢國神社境内)で営まれた饅頭祭(まんじゅうまつり 2023.4.19)に、スタッフとして協力された。そんな彼は、ご自身のFacebook(2023.4.20付)に、菓子の祖神などのゆかりの地を思いつくままに記された。
※写真は全て饅頭祭で撮影(2023.4.19)。トップ写真はこの日、復元された「奈良饅頭」
説明書きには、〈古文献から薯蕷(じょうよ)饅頭に紅粉で一点を打った奈良饅頭を復元〉



以下の文章は「裏を取ってない資料もありますので、ご注意ください」とのことだった。あくまで「未定稿」として掲載させていただくので、そのつもりでお読みいただきたい。私はこれをヒントに、ゆかりの地を訪ねてみようと思っている。なお文章は読みやすさを考えて、句読点などを補った。


お天気が心配だったが、何とか傘なしでしのげた

大和國
奈良市に鎮座される漢國(かんごう)神社の林神社は、饅頭の祖である林浄因(りんじょういん)を祀り、国内の和菓子匠を中心に菓子を扱う方々の信仰を集めている。



但馬國
豊岡市に鎮座される中嶋神社は、菓子の祖である田道間守(たじまもり)を祀る。 国内の菓子メーカーの信仰を集めている。

兵庫県豊岡市に隣り合う京都府京丹後市久美浜町そして網野町
垂仁天皇の命を受けた田道間守が、非時香果(ときじくのかぐのこのみ)つまり橘を持ち帰ったとされる地。久美浜町の箱石浜(旧くは函石浜)に上陸したとも、網野町の木津浜に上陸したともされる。

木津は「きつ」と読み、橘の音の「きつ」からきているという。地名の「木津」も古くは「橘」であり、今も橘小学校などにその名を残している。飛鳥時代の律令制導入に伴い、地名の好字二字化が行われた時に、変更されたものだという。



京都府与謝郡伊根町
話はひょいと飛ぶが、京丹後市網野町から東へ丹後半島をぐるりと回り込むと、京都府与謝郡伊根町となる。舟屋建築などで知られた伊根町に ハコ石(ハコ岩)というところがある。田道間守が、大陸から非時香果を持ち帰って来た時に、上陸地となったとされる候補地のひとつ「箱石(函石)」。


おお、どこかで見たような巫女さんだ!

伊根町の「ハコ石(岩)」は、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を探しにやってきた 徐福(じょふく)が上陸したという伝承を持つ。いわゆる虚構として知られる伝承だが、同じ「ハコイシ」という名前のところに、ひとつは非時香果を持ち帰った田道間守、ひとつは不老不死の薬を求めてやってきた徐福。なんとなく裏返しの類似性を持つ伝承が丹後半島を挟んで東西にある、そんなところが好きであったりする。



近くには浦島太郎伝承の地もある網野町は、倭姫命による元伊勢伝承もある。近くには間人皇后の隠棲地もある。乙姫伝説と天女伝説もある。静御前伝説もある。細川ガラシャが幽閉された地も近い。安寿と厨子王…山椒大夫の伝承地も近い。鬼退治の麻呂子親王伝説の地でもある。饅頭祭から 頭の中をめぐったあれこれである(笑)




以下は、私の書き込みに応える格好で書かれたMさんのコメントである。

但馬から丹後という土地が太古から大陸との行き来が盛んであり、常世伝承を生む源となっていてことは事実でしょうね。函石浜は非常に有名な大量の古墳群、弥生期の遺跡、大陸からもたらされた品々が発見されているところ。但馬国守たる田道間守との関連が生まれても、これまたしかたがないところかと思われます。

徐福伝説は、あくまで「虚構として知られる伝承」であるが、丹後半島の突端とつけ根に「裏返しの類似性を持つ伝承」があるというのは、興味深い。現地リサーチできる日が、今から楽しみだ。

(ご参考)TVN(奈良テレビ)ニュース「菓子業界の発展を祈願 林神社の饅頭祭り」
 2023.04.19 18:45配信

奈良市の林神社では、菓子業界の発展を祈願する饅頭祭が19日、行われました。近鉄奈良駅近くの漢国神社境内にある林神社には、室町時代に小豆餡の饅頭を考案したとされる林浄因が祀られています。この饅頭祭は、毎年4月19日に行われており、奈良をはじめ東京や徳島など全国から菓子業界関係者などが集まり、業界の繁栄を願いました。

また、祭を盛り上げる催しとして奈良の和菓子の即売が行われました。こちらは、江戸時代に林浄因の子孫が考案した「奈良饅頭」の復刻版です。饅頭祭限定で500箱販売され、約2時間で完売するほどの人気でした。訪れた人は林浄因の遺徳を偲びながら祭を楽しんでいました。
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田中利典師の「今の苦しみは、ムダにはならない」

2023年04月29日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈・田中利典師のブログ「山人のあるがままに」から、印象に残った過去の名作を紹介している。今回は「人生に無駄はない」(2009.7.30)。師が「蔵王清風」欄(金峯山時報)に寄稿された文章である。

なお、当ブログで利典師の文章を紹介する記事が、120本を超えた。「利典師の文章だけを読みたい」という読者のために、新たに「田中利典師曰(のたまわ)く」というカテゴリを作り、そこにまとめたので、ご覧いただきたい。このカテゴリ名は、論語の「子曰(のたまわ)く」に引っかけている。

ところで師の座右の銘は、「人生に無駄はない」だそうだ。そのココロは〈苦しみを乗り越えたとき何事にも代え難い学びが得られるし、生きてこそ花実が咲くのである。今の苦しみは絶対に無駄にはならない。そう信じて、あきらめず、ぐっとこらえて、笑ってみることが大切なのである〉ということで、究極の「ポジティブシンキング」である。

私もよく「若いときの苦労は買(こ)うてでもせよと言うが、トシを食ってからの苦労も買うてでもせよと言いたい。ただしおカネの苦労は除く」と申し上げているので、これは師と共通する考えである。では、師のブログから全文を紹介する。

人生に無駄はない!!今月の早出し…金峯山寺の機関誌に毎月シコシコ書いている駄文の欄がありますが、その原稿の早出しです。ま、原稿締め切りに追われる中、さっき、気軽に書いた文章です。ご高覧あれ!

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「人生に無駄はない」
私の座右の銘のひとつは「人生には無駄がない」という信条である。こういうと、ほとんど無駄なことばかりをくりかえす人生を送ってきた人間の負け惜しみのように聞こえるかも知れないが、人生に無駄はないと思うことこそ、自分の人生をポジティブに変えてくれるのである。

ポジティブとは前向き志向のこと。反対をネガティブという。後ろ向きな生き方のことである。後ろ向きではなにも解決がしないのが人生なのだ。人生の答えは自分の進む前にしかない、のである。いつまでも過去の出来事にこだわっていては前には進めないし、それこそ無駄な、愚かなことなのである。

昨年日本で開催されたG8先進国首脳会議に先立つ、G8宗教指導者会議に幹事委員のひとりとして出席をして、大変示唆に富んだ発言に出会った。イギリスからおいでになっていたキリスト教の宗教指導者の方が、「世界が混迷するほど、宗教者は楽天的に考えないといけない」とお話されたのである。

ややもすると、悲観的にならざるとえない昨今の世界情勢であるが、こういう時こそ宗教者は楽天的に提言していかなければならないのであろう。宗教者までが悲観的ではこの世も行く末は終わる。観音さまを別名施無畏者と呼ぶが、まさに畏怖を取り去ることこそ宗教指導者の役目なのであり、世間を不安がらせて人心を乱すのは本来のあり方ではないのだ。世の東西をとわず宗教者が持つべき心構えだと思う。

人生に無駄はない…などというと大変のーてんきな奴だと思われるかも知れないが、ともかく人生は楽天的にポジティブに、生きていきたい。1年間に3万3千人以上に自死があり、今年も過去最高の自死者が記録されているという。正直、長引く不況、精神の荒廃、社会不安などなど、悲観すべき現実は確かに私たちの前には横たわっている。死にたいようなことばかりである。

でも、その苦しみを乗り越えたとき何事にも代え難い学びが得られるし、生きてこそ花実が咲くのである。今の苦しみは絶対に無駄にはならない。そう信じて、あきらめず、ぐっとこらえて、笑ってみることが大切なのである。ともかく楽天的にポジティブに生き抜いていきたいものである。そんなことを考える日々である。
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「まほろばclub」(南都銀行行員・OBなど)のライブ収録、7月6日(木)開催!(2023 Topic)

2023年04月28日 | お知らせ
南都銀行の行員・OBなどからなる大人バンド「まほろばclub」の公開録画(ライブ収録)が、7月6日(木)12:30~14:30、東向北のライブハウス「奈良ビバリーヒルズ」(奈良市花芝町6 プラザ花芝 1F)で開催される。入場は無料だが、ワンドリンクの注文が必要だ。

コンテストに応募するために必要な演奏動画の収録のための本格的なコンサートで、オリジナルとカバーの演奏が行われる。チケットは不要で、お申し込みは大村公伸(きみのぶ)さんの携帯へ(090-2060-9410)。

なおこれ以外にも、このGW中に、以下のライブが開催される(いずれも入場無料、申し込み不要)。まほろばclubは新メンバー(女性ドラマー)を迎え、ますます脂が乗ってきた。ぜひ、足をお運びください!

1.高槻ジャズストリート2023
日時 5月4日(祝日・木) 午後1時から40分のライブ
場所 大阪府高槻市立日吉台公民館2階大集会室 (高槻市寺谷町50-1 072-688-6636)
高槻ジャズストリートの 公式ウェブサイトは、こちら

2.曽爾クラッシックカーフェスタ
日時 5月7日(日) 午前11時から30分のライブ
場所 曽爾村シルバー人材センター (宇陀郡曽爾村大字長野140-1)
曽爾クラシックカーフェスタの公式サイトは、こちら


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南都銀行退職者による「OB美術展」(第6回)、6月7日(水)~11日(日)!(2023 Topic)

2023年04月27日 | お知らせ
南都銀行退職者による「第6回 OB美術展」が6月7日(水)~11日(日)まで、奈良市美術館ミ・ナーラ5階)で開催される。10:00~17:00で、最終日(6/11)のみ入場は14:00まで(15:00から撤収のため)。入場は無料だ。「OB」とあるが、実際の出展は「OG」の方が多い。
※トップ画像の絵は、OBのN先輩がこのポスターのために描き下ろされたものだ

この美術展、初回は2009年(平成21年)だった。以後、2~3年おきに開催されていたが、2018年(平成30年)に開催されてからは、コロナ禍でストップしていた。今回は実に5年ぶりの開催となる。私も嬉しくなって、写真を3点、初出展させていただく(橿原市今井町で撮影したもの)。案内ハガキから内容を抜粋すると、

第6回 なんとぎんこう OB美術展
日時 令和5年6月7日(水)~11日(日)
   午前10時~午後5時(だだし11日の入場は2時まで)
場所 奈良市美術館(ミ・ナーラ5階)
出品 写真、絵画、書、和紙絵、水墨・墨彩画、仏像彫刻、一刀彫、木工、陶芸、刺繍、
   タペストリー、パッチワーク、エコクラフト、硝子工芸 等
出品者36人・出品点数120点
5年ぶりの開催です、気軽にお越しください。ご厚志は辞退申し上げます


私もこれまで何度か足を運んだが、中には「玄人はだし」の作品もあって、驚かされる。1階の「ロピア」への買い物ついでに、ぜひ足をお運びください!

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田中利典師の「お葬式」論

2023年04月26日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈・田中利典師のブログ「山人のあるがままに」から、印象に残った過去の名作を紹介している。今回は「葬儀研修の講義」(2008.10.12)。この内容は、「葬儀概論」として、師は実際に研修でお話しになった。
※トップ写真は、吉野山「一目千本」からの眺望(2023.3.28 撮影)

トシを食うと、周囲で亡くなる人が出てくる。お葬式は葬儀屋さんが仕切ってくれるので、家族葬だとお寺に連絡したり、お布施の金額を決めたり、位牌を手配したりという程度で、深い意味を考えることはなかった。だから今回のお話(霊肉分離説)は、とてもタメになった。皆さんも、ぜひ最後までお読みください!

葬儀研修の講義。今日から葬儀に関わる特別研修会を開催している。一泊二日の研修に今年は36名が集った。午後から約1時間半、私も講義をしている。私の「葬儀概論」から。

・・・・・・・・・・

仏教というのは仏になる教えであります。これは、私自身がなるのであります。死んだ人がなるわけではありません。私が仏に成ること、成仏することを説いた教えが、仏教の原理そのものなのです。

しかしながら、その仏教が日本に入って来ますと、仏教の教理とは別に、日本の中にすでにあった祖霊信仰なり、霊魂と肉体とが別のものだという考えの中で、仏教が受容されてきました。日本人は肉体と魂は別のものだと考えます。霊肉分離説というのですけれども、霊魂と肉体は別のものだという、習俗、感性が前提にあります。

ですから、人は死ぬことによって、まさに霊魂になって、葬送と祭祀の対象となるのです。葬儀をする対象、それから祭祀をする対象―― それが霊魂です。葬送と祭祀を通して、日本人は、死んだ人の霊魂が仏になる、祖霊になる、家を守る先祖霊になる、と考えてきました。

ですから、先祖供養が生まれるのです。亡くなった霊は葬送をして、祭祀をして、祖先の霊となっていく、そのように考えて葬儀が行われてまいりました。

葬儀には実は二つの側面があります。一つは、遺体の処理であります。人間死んだら、そこには遺体が残ります。これは、なかなかやっかいです。昔は結構、日本人はその辺に放置していました。みんながみんな、墓を立てたりというようなことはしませんでした。

なぜかというと、霊肉分離説ですから、遺体には魂はないのですから、死んだあとの肉体は言ってみれば着ていた服を脱いだようなものです。そんなわけで疎略に扱いましたが、だんだん時代と共に、その考えも変わってきまして、遺体を大切に処理するようになります。

あるいは、骨に対しては、霊魂との関係で日本人は他所の国の人たちには考えられないぐらい強い執着を持っています。それも、遺体は霊魂の抜けガラですが、骨には霊魂が、依り代としてあるように感じています。

少なくとも死んだ場合、遺体の処理をしなければなりません。現在はほとんど火葬ですが、土葬も残っています。これは遺体の処理の仕方です。昔は、風葬や鳥葬とかが平気で行われていました。今でも、アフガニスタンなどに行きますと、風葬があると聞きますが、ま、現代の日本では、基本的に火葬に致します。

今、西洋はまだ土葬です。日本で火葬が取り入れられたのは、どうしてかといいますと、もちろん仏教の伝来によるところが大きいのですが、もうひとつ見逃せないのがもともとの考えの中に、霊魂分離説があるからなのです。

霊魂は遺体に宿っていないから、焼いて、骨にすることが出来るのです。そういう考えが根底にあるのです。とにかく、遺体の処理をしなければいけない。これが、お葬式の一つの役目であります。

もう一つが鎮魂です。いわゆる霊魂のお弔いの問題です。先ほど申しましたように霊魂と肉体は分離しているわけですから、遺体の処理と、霊魂のお弔いがあります。この霊魂のお弔いに、実は我々は僧侶として関わるわけであります。

私たちは、霊魂の処理をするために、仏教の法にかなった作法をする。皆さん方が今から勉強していただくのは、霊魂のお弔いを、宗教人としてどう関わっていくか、そういう勉強をしていただくのです。

この霊魂のお弔いにも二つの側面があります。一つは、亡くなった霊魂自体の処理。それともう一つは霊魂に関わる、いわゆる遺族の心の処理です。人間は一人では生きていません。一人の人間には、その関わりのある人たち、みんながその人格を作っているわけですから、その個人の死は、個人の死であると共に、その人に関わるみんなの中での共有された死でもあるわけです。

ですから、霊魂のお弔いというのは、亡くなった魂自体の処理もあるけれども、その人に関わる、遺族、関係者の心の処理でもあるのです。この二つの面があるという事も、是非とも思っていただきたいです。

そういう葬儀の二つの側面を考えたときに、霊魂のお弔い、鎮魂と言うことが我々にとって大変重要なことになるわけです。ですから、それをどう行なうのか。葬儀に対する私たちの意義を見い出さなければならないということになります。

・・・・・・・・・・

かくのごとくの講義を縷々述べるわけですが、修験僧の私は祈願はまあ専門分野ですが、いささか葬儀は専門外なので、なかなか難しいです。毎回講義をさせていただきながら、私自身が勉強になります。明日の夕方まで、頑張ります!
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