tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師「吉野山と嵐山」(4)蔵王権現は、釈迦・観音・弥勒の権化

2023年03月31日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてご自身のFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり聞く機会のない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。

役行者は山上ヶ岳(大峰山)で、一千日の修行をしてご本尊を祈り出した。すると最初にお釈迦さま、次に千手観音菩薩。最後に弥勒菩薩が現われた。しかし役行者は悪魔を降伏するような姿をさらに念じると、悪魔降伏の大変怖い姿のご本尊が出現した。お釈迦さまと観音さまと弥勒さまが、大峰の岩を割って「蔵王権現」という恐ろしい姿になって出現した…。では師のFacebook(3/3付)から、全文を抜粋する。

※トップ写真は、金峯山寺蔵王堂のあたりから望む南朝妙法殿(2023.3.28 撮影)。南朝妙法殿は〈南朝の四帝と忠臣たちを祀り、第二次世界大戦の戦死者と有縁無縁(うえんむえん)の霊を合祀する三重塔として昭和33年(1958)に建立されました。かつてここには、後醍醐天皇が行在所とした実城寺がありました。南朝妙法殿には旧実城寺の本尊と伝えられる、奈良県指定文化財の木造釈迦如来坐像が安置されています。また、毎年10月15日に後醍醐天皇御聖忌法要が営まれます〉(金峯山寺のHP)。

シリーズ「吉野山と嵐山」④
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年11月に開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、7回に分けてアップします。講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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話を元に戻します。もともと、神仙境としての吉野があって、天皇家が吉野離宮を中心に行幸をされたというような場所として知られていた。そして、その時代の後の吉野の歴史は俄然、修験との関係が大きいわけです。そうしますと修験道というのはどういうものなのか?この話を少しします。

葛城山のふもとに生まれた役行者という方が、…吉野から南に24キロ参りますと、大峰山山上ヶ岳という山がございますが、ここで一千日の修行をされ、山伏の宗教・修験独特のご本尊を祈りだした。自分が修行していた山上ヶ岳の山頂に、その祈りだした金剛蔵王権現という悪魔降伏の、大変怖いお姿のご本尊をお祀りし、山のふもとの吉野山にもお祀りした。

山上というのは、今も女の人が登れない女人禁制のお山であります。山が開いているのが夏だけ。現在は5月3日から9月23日。144日しか開いていない。いつでも誰でも行けるところではないので、いつでも誰でもお参りできるところとして、山のふもとの吉野山にお祀りをしたのが金峯山寺の始まりで、その金峯山寺の勢力を頼って、先ほど縷々申し上げたいろんな歴史が展開をされることになります。

役行者が蔵王権現を祈りだした時に、最初にお釈迦様が現れたそうであります。続いて千手観音菩薩。続いて弥勒菩薩。次々とあらたかな仏さまが現れたのですけれども、役行者は悪魔を降伏するような姿をさらに念じられると、悪魔降伏の大変怖いお姿の御本尊が出現された。お釈迦様と観音様と弥勒様が、大峯の岩を割って「蔵王権現」という恐ろしい姿に権化して出てきた。メイドインジャパンです。

権現(ごんげん)の「権(ごん)」は権力(けんりょく)の「権(けん)」。「仮」という意味なんです。仮に現れた。仏さまが大峯の岩を割って湧出してきた神様です。これが金剛蔵王権現で、もとのお姿のお釈迦様は過去世、観音様は現在世、弥勒様は未来世。過去・現在・未来、三世にわたって人々を救うという役行者の願いにこたえて現れたのが権現さまです。権現は、かりに現れた姿、仏さまが神の姿で現れた、権現とは神と仏の融合であるということになります。

そのお姿は大変怖い、目は怒りに燃え、毛髪は逆立ち乱れ、口の両方には牙、右手には三鈷杵という武器を持ち、左に刀印を結んで腰、左足は盤石を踏み、右足は大地を蹴り上げ、背後には智慧の火炎があると。

これはそれぞれの悪魔調伏の意味がありますが、ひとつ注目して頂きたいのは、悪魔調伏の姿ですけれどもただ怖いだけではない。元々は仏さまが本地(元の姿)ですから、仏さまの慈悲を持っておられる。それを肌の色で表わすと言います。青黒い色です。青黒は慈悲の色です。怖いお姿ですけれども、その本質は仏の慈悲がある。これが権現さん。

さっき言いましたが、「権(ごん)」とは「仮」という意味、で、「現」は「あらわれる」。かりに現れた。いわゆるアバター、化身ですね。仏さまの化身。

日本では仏教が伝来してきて、最初少し蘇我氏と物部氏との争いがありますが、基本的に神様と仏さまは仲良くやって参りました。日本人は元々仏さまを神様として受け入れたんです。それは『日本書紀』なんかを読むと、外来から来た仏さまのこととして「アダシクニノカミ」、「蕃神(ばんしん)」と書きますけども、元々日本人は仏さまと神様を分けていなかった。

仏とは新しく外国から来た神様なのです。そして元々いる神様と外国から来た神様で、最初少し揉めましたが、その後は仲良くなっていくわけであります。で、仲良くなっていって「本地垂迹」という日本独特の考え方が、ここで生まれてくるわけであります。

月の光が湖や沼や水たまりに映るような、この場合本体の月が「本地」仏さんであるとすると、その池に映った月というのは「垂迹」つまり神様。神様と仏さまは、実はそういう関係にあって、同じものである、そういう考え方です。

吉野には釈迦観音弥勒の権化である蔵王権現、熊野には熊野三所権現。これは本宮の家都御子神(けつみこのかみ)様が本地・阿弥陀如来。ですから本宮は阿弥陀浄土ということで、時宗を開いた一遍上人がここでお悟りを開かれたといわれます。

それから、新宮速玉の神様は薬師如来。那智の夫須美の神様は千手観音、というような権現といいますか、神様と仏さまを融合させた信仰が生まれた。羽黒は、羽黒権現。これは観音さんの本地。白山は、白山妙理権現、これは十一面観音尊が本地。富士山は浅間(せんげん)大菩薩、これは大日如来が本地。京都には愛宕神社、愛宕権現というのは、これは地蔵菩薩の権化。全国に展開をしていきます。

なんと、江戸時代には徳川家康が死んで、東照大権現になった。これは薬師如来の権化…というような、神様と仏さまを融合させたそういう信仰。仲のよい仏という父と神という母の夫婦の間で生まれたのが修験信仰で、神仏習合、権現なのです。権現というのは、神でもあり仏でもある、ということになります。

そして吉野ではその蔵王権現様を役行者が祈りだした時に山桜の木に刻んでお祀りしたという由来から、山桜は蔵王権現の御神木として尊ばれてきた、千年単位で人々が大切に守ってきました。

その歴史が吉野中の、山を埋め、谷を埋め、千本桜ー花の名所になっていったわけでありますが、先ほど申し上げましたように、江戸の八代将軍吉宗の時に始まった庶民の花見より、はるかに以前に、信仰の証という形で、吉野では花がたくさん植えられてきて、それを人々が見るようになってきた。権現信仰あるいは金峯山寺というお寺の関係と、この山桜、吉野の桜というのは、大変深い関係なわけであります。
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「京都の食文化」を探る/奈良新聞「明風清音」第86回

2023年03月30日 | 明風清音(奈良新聞)
みうらじゅん曰く「京都はBeautiful、奈良はStrange」。京都は、Beautifulな「和食の都」である。しかしそんな京都の「食」にも、構造的な変化が起きているという。それを食文化の観点から論じたのが『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』(中公新書)だ。本書から抜粋する格好で、その「構造変化」を探ってみたい。奈良新聞「明風清音」(2023.3.16付)から。
※写真は全て「西陣 魚新」の料理(2010.11.28撮影)

「京都の食文化」を探る
佐藤洋一郎著『京都の食文化 歴史と風土がはぐくんだ「美味しい街」』(中公新書、税込み968円)を興味深く読み終えた。著者は、京都府立大学文学部和食文化学科特別専任教授だ。生まれも育ちも京都の外で、京都人ではない。フィールドワークの対象として、京都を見てこられたという。



帯には〈三方を山に囲まれ、水に恵まれた京都。米や酒は上質で、野菜や川魚も豊かだ。それだけではない。長年、都だった京都には、瀬戸内のハモ、日本海のニシンをはじめ、各地から食材が運び込まれ、ちりめん山椒やにしんそば等、奇跡の組み合わせが誕生した。近代以降も、個性あふれるコーヒー文化、ラーメンやパン、イタリアンなど、新たな食文化が生まれている。風土にはぐくまれ、人々が創り守ってきた食文化を探訪する〉。以下、私の印象に残ったところを紹介する。

▼京都の食文化の特徴
〈ひとつは、良質な水が地下水としてふんだんに利用できたこと。二つ目は街が盆地に立地し、山、川の食材が入手しやすかったこと。そして三つ目はその盆地が適当なサイズで周囲から隔離され、そこに暮らし、なりわいを営む人同士の関係が世代を越えて続いてきたこと〉(本書から抜粋、以下同じ)。



▼食材の宝庫ではなかった
〈京都には古くから多くの食材が集められた。食材を集めるための街道が一〇〇〇年以上も前から整備され、全国の津々浦々の産物が集められた。そう、京都は都であり、あらゆるものが集められたのである。京都産の食材などほとんどなかったといって過言ではない〉。

▼京料理の「五体系」
大饗(たいきょう)料理、本膳料理、精進料理、懐石料理、有職(ゆうそく)料理(またはおばんざい)の五つが「京都固有の料理」だとされる。ただしこれらは京の都の料理であり、「ハレの食」である。



▼客が決める料理店の水準
〈ある街の食の実力を決めているのは、その街の消費者である。京の場合は訪問客が加わるが、それも含めて消費者の実力である。常連たちが疎遠になれば、店の力は確実に落ちてゆく。回り回って食材の質もしだいに下がってゆく。力をつけるには長い時間と努力が必要だが、転落するのはすぐである〉。

▼空洞化する京都の食
現在「食の地域性」がどんどん失われ、「旬の感覚」も薄れてきている。その一方で「食べ物の工業化」が進んでいる。

〈こうした、おそらく全世界で進みつつある動きは、京都の食だけを例外にはしておかない。ただし、京都の場合、他の街とは大きく違う点がひとつある。それは、京都が「和食の街」としての看板を背負っているところだ。(中略)店の主人たちが口をそろえていうのが、伝統を継承することの難しさだ。先出の村田吉弘さん(菊乃井主人)も、このことを繰り返し強く主張している。精神論をいっているのではない。食材や食器、調理器具、室内のしつらえの生産者たちが、後継者不足や業績不振を理由に次々と廃業してゆく〉。



締めにはスッポン鍋がでてきた、さすがは京都である

▼伝統の和食材が売れない
それにも増して深刻なのが「京都人の和食離れ」だという。〈かつては「京都の台所」といわれた錦市場でも伝統の和食材はどんどん売れなくなってきている。足もとの市民たちが和食への関心を薄めていく状況で、果たして和食に未来があるといえるだろうか〉。

「京都はビューティフル、奈良はストレインジ」とはみうらじゅんの名言だが、きらびやかなイメージの「和食の都」にも、このような構造変化が起きているのだ。和食について奈良は、京都の「胸を借りる」立場にある。京都が直面する課題は将来の奈良の課題として、今からよく考えておかねば…。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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田中利典師「吉野山と嵐山」(3)豊太閤大花見が、花見宴会のルーツ

2023年03月29日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は、吉野山東南院のしだれ桜(手前)とシロヤマザクラ(奥)(2023.3.28撮影)。今年は開花が早く、しだれ桜はすでに3/24に見頃を迎えていたのでハラハラしたが、まだ咲き残っていた、ラッキー!

今日のタイトルは〈豊太閤(ほうたいこう)大花見が、花見宴会のルーツ〉とした。秀吉が吉野山で開いた大花見宴会が、日本の花見宴会の嚆矢(こうし=はじまり)とされている、というお話である。

今年の吉野山の桜は開花が早く、昨日(3/28)の時点で、下千本が7分咲き、中千本でも5分咲きだった。満開はそれぞれ3/30と3/31とされている(吉野町のHPより)ので、吉野山で花見をされる方はお急ぎいただきたい。では、師のFacebook(3/2付)から、全文を抜粋する。


シリーズ「吉野山と嵐山」③
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年11月に開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、7回に分けてアップします。講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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吉野の歴史を繙く続き…
いよいよ今日のテーマに深く関わる、後醍醐天皇、南北朝時代を迎えます。後醍醐天皇は建武の中興という、鎌倉方を討ち破って天皇親政の政治を取り戻しますが、しかし建武の中興はわずか2年数ヶ月で敗れて、後醍醐天皇はこの吉野に逃げておいでになるわけであります。

これも義経の時に申し上げましたように、後醍醐天皇は花見がしたいから吉野に来たわけではなくて、この吉野の持っている金峯山寺の経済力と武力と、それから山伏という全国に網羅されたネットワークと、そういったものを頼りにこの吉野においでになるわけであります。

本題の件はもう少し後で触れるので、ちょっと時代を先に進め、豊臣秀吉の時代のお話。ちょうどNHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で、今やっているのは第一次朝鮮出兵のころですが、この第一次出兵が終わった文禄3年(西暦1594年)4月に、戦国大名の勝ち残りのみなを引き連れ、秀吉は吉野に花見に参ります。

秀吉の花見というと、「醍醐の花見」が有名ですが、実は「醍醐の花見」は、吉野の花見をした後、そのときの花見が非常に良くて心に残っていたのですが、もう吉野には行くだけの体力気力が秀吉になかった。それで、京都の醍醐でやったというのが「醍醐の花見」。吉野の花見が本家なのです。

それはさておき、秀吉は吉野で大花見大会を催します。徳川家康、伊達政宗、前田利家… 戦国大名の勝ち残り、5千人を集めて花見の苑を催したのです。で、ですね、花見っていうと今や、春になれば日本中で皆んながやりますが、花見を一般の人がするようになるのは、結構新しいんです。

皆さんの大好きな「暴れん坊将軍」の時代です。このあいだ、松平健さんが取材に吉野においでになり、私とツーショットの写真撮りました。案外大きな人でしたね。その松平健さんの「暴れん坊将軍」徳川吉宗の時代に、江戸の庶民が、火事や飢饉やいろんな改革で疲れ果てていて、街の治安が悪くなっていた。

そこで江戸の庶民に楽しみを持たせることも大事だろうということで、隅田川の堤など、江戸のいろんなところに桜を植え、庶民に花見をすることを奨励した。以降、庶民が花見を楽しむようになるんだそうです。だからそれ以前は、そんなに庶民が花見をするようなことはなかったのですが、それよりもはるか前に秀吉は、吉野で大花見の宴会を行ったのです。大々的な花見の嚆矢(はじまり)ともいわれています。

ところで、この花見が問題なんですが、吉野山は桜で有名で、吉野即桜のイメージなのですね。ただ実はこの桜は、… 江戸の隅田川の堤とか久度山とか,そんなところの桜は吉宗が人々に花見をさせるために植たのです… 吉野の桜は違うわけです。吉野の桜は人が花見をするために植えたわけではない。これは後で詳しく申し上げます。あ、私は後で申し上げると言いながら、よく申し上げないことがある。そのときはお許しください(笑)。

本居宣長も吉野に3度参詣しております。本居宣長は、吉野一山の水分神社と関係が深い方です。水分神社はもともとは分水嶺、農作に由来する神様ですが、この「水を分ける」と書くので「みくまり」と読みますが、それが「みくまり→みくもり→みこもり… こもり」となって、日本人特有の言霊信仰から、「みくまり神社」を「子守神社」というようになり、子授けの神様になっていきます。

本居宣長は、お父さんとお母さんが、この子守神社の神様に子授けの願をかけて生まれた子供(申し子)なのです。それで生涯3度もおいでになった。金峯山寺は明治までは、神様と仏さまが同居していました。水分神社も一山の中の神社でした。

また西行の足跡を慕って、芭蕉は生涯に2度、吉野に訪れています。これもご神木の吉野桜が持った歴史のひとつ。こうやってみると、ずいぶんいろんな人がおいでになっている。良寛をはじめ、まだ他にもたくさんの方がおいでになります。

いつだったか吉野山で時代行列をするとするなら、古代から幕末の吉村寅太郎の時代くらいまで、吉野を訪れた人たちだけでものすごい行列ができるな、と話したことがあります。残念ながらお金がないので吉野町ではまだできてません。(笑)
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手水屋に祭られる大国主と須勢理姫、「夫婦大国社」(春日大社境内)/毎日新聞「やまとの神さま」第39回

2023年03月28日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2023.3.23)に掲載されたのは〈日本唯一の夫婦大国さま/夫婦大国社(奈良市)〉、執筆されたのは同会会員の毛利明さんだった。
※写真は、櫓(やぐら)が煙出しとして残る夫婦大国社=奈良市春日野町で

この神社、少し複雑だ。大黒天(厨房の神・七福神)、大国主(出雲の神・国土の神・縁結びの神)、須勢理姫(すせりひめ=大国主の妻)が複雑に絡んでいるのである。日本大百科全書「大黒天」によると、

元来ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。(中略)中国南部では床几 (しょうぎ) に腰を掛け金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房 に祀 られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄 によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。

その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強め、七福神の一つとなり、頭巾をかぶり左肩に大袋を背負い、右手に小槌 (こづち) を持って米俵を踏まえるといった現在よくみられる姿になる。商売繁盛を願う商家はもとより、農家においても田の神として信仰を集めている。民間に流布するには天台宗などの働きかけもあったが、音韻や容姿の類似から大国主命 (おおくにぬしのみこと) と重ねて受け入れられたことが大きな要因といえよう。


平安時代、出雲の神さまだった大国主とその妻の神像を春日大社の手水屋(厨房)にお祭りした。しかし厨房の神さまといえば大黒天。しかもわが国で大黒天は、大国主と同一視される(=習合している、どちらもダイコクだから)。だからここは「大国主と須勢理姫」の出雲の夫婦神をお祭りしているが、同時に厨房の神「大黒天」(=大国主)もお祭りしているということになる、ああややこしい。

夫婦大国社の前には、いつもたくさんのハート型の絵馬が掛けられている。色もピンク色で、とてもかわいい。水占(みずうら)同様、バレンタインデーの時期には特に増えるようだ。では、記事全文を紹介する。


この写真は、るるぶ&more から拝借した

世界遺産春日大社の境内と周辺には、摂末社(せつまつしゃ)62社が点在します。その一つ、春日若宮社の南側に鎮座する夫婦大国社(めおとだいこくしゃ)は、古くから篤(あつ)く信仰されています。

祭神は春日若宮社の神饌所(しんせんしょ=台所)だった国重要文化財「手水屋(てみずや)」内の厨子(ずし)に祭られます。手水屋の土間には台所の名残として竈(かまど)や流し台が置かれ、柿葺(こけらぶき)の屋根には煙出し(櫓 やぐら)が残ります。

由緒は平安時代の1135(長承4)年3月甲子(きのえね)の日、春日社の正預(しょうのあずかり=神職)中臣祐房(なかとみのすけふさ)が出雲の神霊を迎え、名工卜弁(ぼくべん)が二体の神像を彫り、手水屋の守護神として祭ったことに始まります。 
 
七福神の大黒天(大国主命 おおくにぬしのみこと)とその妻である須勢理姫命(すせりひめのみこと)が揃って祭られ、日本唯一の夫婦大国さまです。

須勢理姫命は、頭上に米櫃盥(こめびつたらい)を掲げ右手に杓子(しゃもじ)を持つ珍しい神さまで、縁結び、商売繁盛、夫婦円満のご利益があります。昔から杓子を納める風習があり、現在はハート型の絵馬を奉納します。水に浸すと文字が浮かび出る「水占(みずうら)」も人気です。

周辺の福の神十五社の巡拝もでき、高畑町からの参道(祢宜道 ねぎみち)には、葉を財布に入れると長者になるという竹柏(なぎ)が繁(しげ)っています。秋の恒例祭のほか60日に1度の甲子の日に甲子祭があり、いつも参拝者で賑わいます。(奈良まほろばソムリエの会会員 毛利明)

(住 所)奈良市春日野町160
(祭 神)大国主命、須勢理姫命
(交 通)JR・近鉄奈良駅からバス「春日大社本殿」下車、徒歩約10分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有料(春日大社駐車場)
(電 話)0742・22・7788


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田中利典師「吉野山と嵐山」(2)義経は「金峯山寺に参ろう!」と言った

2023年03月27日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」(世界遺産連続講座)という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり知られていない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は吉野山ではなく、ウチの近隣公園のヤマザクラ(コロナ禍の2020.4.5に撮影)今年は桜の開花が早く、吉野山でも下千本から咲き出している。私も花見に行かなければ…。

第2回の今回、私は〈義経は「金峯山寺に参ろう!」と言った〉という見出しをつけた。兄・源頼朝に追われる身となった義経は、吉野山へ逃れた。ねらいは金峯山寺という役行者以来の宗教勢力、経済力、ネットワーク、軍備、それらのものを期待して入山したのだという。では師のFacebook(3/1付)から、全文を抜粋する。

シリーズ「吉野山と嵐山」②
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年11月に東京の奈良まほろば館で開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。吉野の歴史からひもとくので前置きが長く、なかなか本題の「吉野山と嵐山」の話に入りませんが、7回に分けてアップします。講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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(2)吉野の歴史を繙く 続き…
平安時代には空海さんもおいでになっています。空海さんの孫弟子である聖宝理源大師もおいでになった。宇多上皇もおいでになって、宇多上皇に伴って菅原道真公もおいでになった。あまり皆さんはご存じないでしょうが、日本で一番古い菅原道真を祀った天神さんが一体どこにあるかというと、実は吉野にあるんです。

北野天満宮よりも歴史、神歴の古い神社です。吉野に来て頂くとわたしども金峯山寺本堂蔵王堂の向かって左側に、威徳天満宮というのがあります。これは『北野縁起』よりも古い、『日蔵上人冥道記』というお話に由来する神社で、そこに出てくる菅原道真公が、神として祀られるもっとも古い形の天神さまと言われています。

由来の話はこうです。大峯山中に、笙の窟(しょうのいわや)という場所があります。ここで日蔵道賢という金峯山寺のお坊さんが参籠(さんろう)修行をしていると、前後不覚に陥って、冥土へ行ってしまいます。

その冥土に行った先で、菅原道真公の怨霊に苦しむ醍醐天皇の御霊に出会い、「どうかあなたが蘇生してあの世からこの世に戻ったら、道真公のことを祀ってくれ」と日蔵は頼まれる。

そうすることで醍醐天皇への祟りは薄れるから、というようなお申し付けを授かって日蔵は蘇生し、吉野山に天神さまをお祀りした、という縁起なのです。さきほど申しましたように道真公も宇多上皇とともに、生前、吉野においでになっています。そういうご縁もあったのでしょうか。

このように天皇さまや豪族がこぞって吉野においでになる時期がありました。最も有名なのは今から千年前、寛弘4年(西暦1007年)に、京都から藤原道長…時の関白太政大臣がお見えになった。『御堂関白記(みどうかんぱくき)』に詳しく載っていますが、42歳の時に「御嶽詣(みたけもうで)」と称して、蔵王権現にお参りになっている。さらには白河法皇も「御嶽詣」している。法皇の「熊野詣」は有名ですが、「熊野詣」に先立つ形で吉野の「御嶽詣」をなさっているのです。

西行という歌人が、吉野に、吉野の桜を愛して3年の侘び住まいをしている。ちょうど今、西行の侘び住まいをした西行庵が紅葉の見頃になっているころです。それからもう少し時代が下ると鎌倉期には、文治2年(西暦1186年)11月に、源義経が、兄の頼朝と不仲になって、頼朝に追われて全国を逃げ回るのですが、愛妾静を連れて吉野にやって来る。

今11月と言いました。『吉野千本桜』という戯曲と言いますか、歌舞伎や文楽で、後々この義経が吉野に逃げてきたことが物語に描かれるわけでありますが、歌舞伎の『吉野千本桜』通し狂言・・・これは大変長いお話ですけれども、そこで終わり方に吉野山の場というのがございます。

そこは蔵王堂の前が舞台になるのですが、その時の蔵王堂は桜満開の、赤々として大変美しい舞台が描かれます。しかし実際には、義経が来たのは旧暦の11月ですから冬なのです。桜が咲いてる時期に来たわけではないのです。しかし吉野と言えば桜ですから、桜満開の舞台なのですね。

さて、義経は吉野山には4日間しか滞在出来ません。吉野の宗徒は鎌倉方の追手を恐れて、義経に味方をしなかったのです。それで義経は、ここで静と別れて打ち退くということになります。この義経の物語はもう52回くらい、映画とかドラマになっているそうです。

その別れの時、義経は今から大峯山山上ヶ岳へ逃げるので、山上ヶ岳というのは女人禁制であるから、女の人は連れて行けないのでここで静と別れるみたいなことを描いてありますが、実は嘘でありまして、義経は山上ヶ岳方面には行っていません。静を吉野に置いて逃れるわけです。冬枯れした時期ですから、足手まといになる静は邪魔だったのでしょう。その時に静のお腹の中には赤ちゃんがいたといいます。大変悲しい話がここで行われたわけでありますね。

今から10年前に、ジャニーズの男前で、滝沢君が『義経』というNHKの大河ドラマに出ました。あの時にね、ちょっとだけ感激したことがあります。それまでの義経のいろんな物語は、兄頼朝に追われて吉野山に逃げてくるわけでありますが、吉野山へ逃げようとか、吉野へ行こうとか、大体そういう表現なんですね。ところが滝沢君はこのとき、こう言ったんです。「金峯山寺に参ろう!」と。これは実は正しいのです。

義経は確かに吉野に来たのですが、吉野山に来たのではないのです。別に花見がしたいから来たわけでもないのです。金峯山寺という、役行者以来の修験の勢力、その経済力、ネットワーク、それから、昔の寺というのは軍隊を持ってましたからね。

今NHKの大河ドラマで『軍師官兵衛』をやっていますね、あの時代に、信長・秀吉の施策によって、お寺が武装解除させられるのですが、それまではみんなお寺は軍隊持ってたんです。ですから石山本願寺が織田信長と戦うし、比叡山が焼かれるしという事件が起きる。

あの『軍師官兵衛』の時代までは、お寺はみんな軍隊持っていたからなのです。今でもイスラムは、軍隊持ってるでしょ。日本は近世の初めにお寺が武装放棄しているので、今の日本人には宗教が軍隊を持っているという感覚はないんですが、それまでは歴史では厳然として持ってたんです。今でも世界中で持ってるところは、たくさんあるわけです。

で、それまで、たぶん、特に室町時代なんていうのは、国があってないようなもので、政府もあってないような時代でしたから、それぞれが自分たちを守るためには軍隊を持っていたわけです。寺もたくさんの荘園、たくさんのものを抱えていましたから、軍隊も持っていたし、実は国が国の体を成していなかった分だけ、お寺というのが非常にその、国が持っているようなものをたくさん持っていた。

たとえば、今は大蔵省がお酒の税金取っていますけども、中世はお酒の税金って寺が取っていた。油の販売権も寺が持っていた。今となっては、国がやっていることが当たり前なことが、実は当たり前でなかった時代の方が長かったわけです。だから、当然軍隊も持っていた。武士階級はそこから生まれて来たのですからね。

吉野・金峯山寺もまた、役行者以降、寺の発展とともに中世にかけて大変大きな勢力となった。軍隊を持っていました。そういう力を頼って、実は義経はやって来たわけで、義経は吉野に来たわけではなくて、「金峯山寺に参ろう」と滝沢くんが台詞をいったのは、極めて正しいことなのです。

ただまあ、金峯山寺という名前が明治以降ほとんど誰も知らなくなったので、意味わからんな、ということで、物語では「吉野山に参ろう」ということになっているんでしょうけどもね。今でも比叡山とか高野山とかを延暦寺、金剛峯寺をさしているのと同じで、吉野山と金峯山寺という関係性があるのですけれども、そういったような歴史があるのも金峯山寺という修験の信仰を拠点とする勢力があったからということです。
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