竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 「万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く(上野正彦)」を読む

2017年01月08日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 「万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く(上野正彦)」を読む

 弊ブログに上野正彦氏より表記の出版についてご紹介がありました。その後、アマゾンから『万葉集難訓歌 一三〇〇年の謎を解く』(以下、「一三〇〇年の謎を解く」)を、やっと、購読することが出来ましたので、この有意義な著書を紹介させて頂きます。
 著書「一三〇〇年の謎を解く」は、一般な万葉集解説書で扱われる難訓歌や未定訓歌だけでなく、万葉集全歌の中で既に定訓が得られているとされるものについても、上野正彦氏は原歌から再検討され、疑義を持ったものに対して上野氏の見解とその訓じを示されています。つまり、万葉集全歌を網羅した訓じの再点検の位置にあります。そのため、専門研究書ではない啓蒙書の位置にある図書ですが五百頁を越える大部な書籍となっています。
 内容としまして、目次を紹介しますと次のようなものになっています。(なお、巻末付属資料については省略しています)

はじめに
凡例
第一部 難訓歌
誤った先入観がもたらした難訓歌 六首
訓解に語学以外の知識を必要とする難訓歌 八首
唱詠歌と表記歌の乖離による難訓歌 三首
これぞ超難訓歌 三首
異なる原文があることによる難訓歌 三首
歌の情況把握ができないことによる難訓歌 六首
語彙の理解不足に起因する難訓歌 九首
第二部 定訓歌に見られる誤訓(準難訓歌)
詠まれている事象を誤解した誤訓 七首
意図的な誤訓 六首
誤字説がもたらした誤訓 九首
原文の誤記から生まれた誤訓 四首
一字一音表記の歌における誤訓 四首
第三部 真相に迫る新解釈(補追)
万葉歌の再発見 四首
弓削皇子に関する歌の謎 三首

 紹介します「一三〇〇年の謎を解く」では、校本万葉集などで現在も訓じが得られていない難訓歌(ここでは超難訓歌)や有力な訓じが複数存在し決着が得られていない未定訓歌だけでなく、校本万葉集で定訓が得られているものについても再検討をなされています。見方によっては現在の万葉集読解への批判書的なポジションを持つものです。つまり、標準的な校本万葉集での「漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌を漢字交じり平仮名表記の歌へと翻訳し、それをこのように鑑賞しろ」と与えられているものへの批判があります。与えられたその漢字交じり平仮名表記の歌への翻訳は正しいのですかと云うことです。従いまして、上野氏の提示する新しい訓じが正しいか、否かと云う問題とは別に、著書は万葉集読解での現在の標準的な立ち位置を認識させられる面では特別 有意義なものがあります。
 かように紹介しましたが、上野正彦氏は角川文芸などから多数の著書を出版され、また、この「一三〇〇年の謎を解く」は大著であり、本著書は出版社「学芸みらい社」の多いなる支援を得て出版されたものと推定され、万葉集難訓歌の試案提示としては王道なものです。著書は3800円+税金と比較的高価なものではありますが、お手にされる価値はあると考えます。追記して、インターネット検索では法医学者上野正彦氏の出版物と区分するため、「上野正彦 万葉集難訓歌」で検索されることを推薦致します。
 なお、素人的な感想として、著書は読み易い文体と構成となっていますが、上野氏の豊富な学識から為され、また扱う未定訓歌の分量と紙面からの制限からか、旧来の訓読との論点整理や問題点確認は、一種、既知のような場面もあります。さらに、内実は事前に万葉集訓読方法への基礎知識や訓読経験を求める内容の濃いものです。少なくとも、阿蘇瑞枝氏が再発見した万葉集歌の表記分類や万葉仮名の文字と発音問題、時代における古音(秦漢音)・呉音・漢音(隋唐音)・唐音(宋音)・現代音などの発音相違問題、さらに奈良貴族が用いた隋唐以前のものと平安時代中期以降での漢字や漢語の意味解釈とその相違問題などを理解している必要があります。そのため、本著書とは別な難訓歌の啓蒙書、例えば『万葉難訓歌の研究』(間宮厚司 法政大学出版局、2001)などと併読されることを推薦致します。また、インターネットではこの種の未定訓歌を含む解説としてHP河童老「万葉集を訓む」などがあります。

 最後に上野氏の提示する新しい訓じについて触れますと、弊ブログは近々の難訓歌読解の啓蒙書である『万葉難訓歌の研究』よりも、同種の『万葉難訓歌の解読-「新用字法」の提唱を中心に』(永井津記夫 和泉選書、1993)を好みとする立場です。そのため、未定訓歌に対する訓読手法やその読解について王道を行く上野氏とは別な考えを持っています。例えば、巻十六 巻末の「怕物謌三首」と云う標題を持つ歌番号三八八七から歌番号三八八九までの三首を、弊ブログでは全てを上野氏基準での「詠まれている事象を誤解した誤訓」または「これぞ超難訓歌」に分類をしております。結果、歌番号三八八九の一首を特に注目する上野氏のものとは、訓じも解釈もまったくに違うものになっています。まず、標題の「怕物」と云う言葉の対象物と解釈からしてまったくに違います。
 さらに弊ブログは西本願寺本万葉集の原歌を鑑賞するのが目的で、他の伝本での歌表記や予定された解釈から生まれた誤記論などは預かり知らない世界です。益して、以下に示しますように標準的な万葉集歌の鑑賞からしますと、弊ブログの鑑賞態度は相当に違うものがあります。他方、上野氏の万葉集歌の鑑賞態度は王道の鑑賞です。このまったくに違う鑑賞態度からしますと未定訓歌の読解手法や目的にも多大な影響があると考えます。従いまして、弊ブログで未定訓歌に対する読解の啓蒙書である「一三〇〇年の謎を解く」へコメントすることは不適切と考えております。
 ここで紹介するものは歌に言葉遊びを認め、「漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌」ですが、歌に掛詞技法を見出した鑑賞となっています。かような可能性を認めて、歌を、その推定する万葉集編集態度に沿って鑑賞するために、鑑賞の過程として未定訓歌に訓じを与えています。弊ブログでの訓じは万葉集と云う歌物語を歴史の中で楽しむためのものです。

湯原王贈娘子謌二首  志貴皇子之子也
標訓 湯原王の娘子(をとめ)に贈れる謌二首  志貴皇子の子なり
集歌631 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
訓読 表辺(うはへ)無きものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す念(おも)へば
私訳 愛想もないのだろうか。あの人は。このように遠い家路を帰してしまうとは。
<別解釈>
試訓 上辺(うはへ)無き物聞きし人は然(しか)しこそ遠き家路(いへぢ)を還(かへ)しむ念(も)へば
私訳 話の初めも終わりも聞かないような野暮な人は、だからこそ、遠い道をはるばるやって来たのに逢いもせずに帰そうとするのを思うと。(=歌の表と裏とが判らない野暮な人は気付かずに歌を放置する)

集歌632 目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
訓読 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹をいかにせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂(=金木犀)の故事(=嫦娥)のような美しい貴女をどのようにしましょう。
<別解釈>
試訓 目には見に手には取らえぬ月内(つきなか)し楓(かつら)しごとき妹を啼かせむ
私訳 目には見ることが出来ても取ることが出来ない月の中にある桂の故事、その嫦娥のような美しい貴女を閨で抱き臥し、玉のような夜声を上げさせましょう。

娘子報贈謌二首
標訓 娘子の報(こた)へ贈れる謌二首
集歌633 幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之
訓読 幾許(ここだく)も思ひけめかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
私訳 しきりに恋いこがれていたからでしょうか。栲を敷いた床の枕が一つではなく、貴方との二つになる、そのような情景が夢に見えました。
<別解釈>
試訓 幾許(ここだく)も思ひ異めかも敷栲し枕(まくら)片(かた)去る夢そ見えける
試訳 まぁ、どうしたことでしょう。貴方と想いが違っていたようです。私には貴方が私の閨からお帰りになる姿を夢の中に見ましたが。

集歌634 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
訓読 家にして見れど飽かぬを草枕旅しも妻(つま)とあるし乏(とも)しさ
私訳 我が家でお逢ひしても、私はいつも飽き足りませんのに、旅にまでも奥様と一緒とは、そのような関係がうらやましい。
<別解釈>
試訓 家にして見れど飽かぬを草枕度(たび)しも端(つま)とあるし乏(とも)しさ
試訳 屋敷の中に居て眺めていても飽きることのないその満月を、遠くからやって来て何度も軒先から眺めるとはうらやましいことです。

湯原王亦贈謌二首
標訓 湯原王のまた贈れる謌二首
集歌635 草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
訓読 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども匣(くしげ)し内し珠こそ念(おも)ふ
私訳 草を枕の旅に妻を連れてはいるが、宝物を納める箱の中の珠をこそ大切と思います。
<別解釈>
試訓 草枕旅には妻は率(ゐ)たれども奇(く)しけしうちし偶(たま)こそ念(おも)ふ
試訳 確かに草を枕にするような苦しい旅に妻を連れていきましたが、それは特別なことで、偶然なことですよ。

集歌636 余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座
訓読 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲し枕し放(さ)けず纏(ま)きにさ寝(ね)ませ
私訳 私を偲ぶ衣をさし上げましょう。貴女の床の枕もとに離さず身に着けておやすみなさい。
<別解釈>
試訓 余(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る布細(くは)し枕し放(さ)けず巻(ま)きにさねませ
私訳 私の衣を想い出として差し上げましょう。その衣の布は美しいので木枕の飾りに使って下さい。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復(ま)た報(こた)へ贈れる謌一首
集歌637 吾背子之 形見之衣 嬬問尓 身者不離 事不問友
訓読 吾が背子し形見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず事(こと)問(と)はずとも
私訳 私の愛しい貴方がくれた思い出の衣。貴方の私への愛の証として、私はその形見の衣をこの身から離しません。貴方から「貴女はどうしていますか」と聞かれなくても。
<別解釈>
試訓 吾が背子し片見し衣(ころも)妻問(つまと)ひに身は離(はな)たず言(こと)問(と)はずとも
試訳 私の愛しい貴方のわずかに見たお姿。貴方がする妻問いの時に。でも、私は貴方に身を委ねません。(本当に私を愛しているのと)愛を誓う言葉をお尋ねしなくても。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌638 直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
訓読 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
私訳 たった一夜だけでも逢えなかったのに、月替わりして一月がたったのだろうかと、不思議な気持ちがします。
<別解釈>
試訓 ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)遮(いぶ)せし
試訳 (貴女は昨夜は身を許しても、今日は許してくれない) たった一夜が違うだけでこのような為さり様ですと、貴女の身に月の障り(月経)が遣って来たのかと、思ってしまいます。

娘子復報贈謌一首
標訓 娘子の復た報へ贈れる謌一首
集歌639 吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
訓読 吾が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)らずけれ
私訳 愛しい貴方がそんなに恋い慕ってくださるので、闇夜の夢に貴方が見えるので夢うつつで眠ることが出来ませんでした。
<別解釈>
試訓 吾が背子がかく請(こ)ふれこそぬばたまの夢そ見えつつ寝(い)し寝(ね)るずけれ
試訳 愛しい貴方がそれほどまでに妻問いの許しを求めるから闇夜の夢に貴方の姿は見えるのですが、でも、まだ、貴方と夜を共にすることをしてません。

湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくてまるで雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。

娘子復報贈和謌一首
標訓 娘子の復た報(こた)へ贈れる和(こた)ふたる謌一首
集歌641 絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付經事者 幸也吾君
訓読 絶ゆと云(い)ふは侘(わび)しみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さ)くや吾が君
私訳 二人の間も終りだといったら、私が辛い思いをするだろうと思われて、焼いて刃を鋭くした太刀の、端だけを使うような役にも立たない言葉でおっしゃるのならば、それで本当に私が幸せでしょうか。ねぇ、私の貴方。
<別解釈>
試訓 絶ゆと云(い)ふは詫(わび)そせむと焼太刀の経(へ)つ古(ふ)ることは避(さ)くや吾が君
試訳 二人の仲が終わったと云うことが詫びる気持ちを見せるとしても、焼太刀の端(へ)、その言葉の響きではありませんが、二人の仲での使い古しの言葉を使うことは避けるのではありませんか。ねぇ、私の貴方。

湯原王謌一首
標訓 湯原王の謌一首
集歌642 吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
訓読 吾妹子に恋ひて乱(みだ)らば反転(くるべき)に懸(か)けて縁(よ)せむと余(あ)し恋ひそめし
私訳 貴女に恋して心も乱して、糸巻きの糸にかけて引き寄せるようと思って、私は恋を始めたのだろうか。
<別解釈>
試訓 吾妹子に恋に未(み)足(た)らば狂(く)るべきにかけに寄せむと余(あ)が恋ひそめし
試訳 愛しい私の貴女との恋の行い(=夜を共にすること)に満ち足りないのなら、きっと、心は動転してしまうでしょう。ですが、心にかけて貴女の気持ちを引き寄せようと、それほどまでに私は貴女に恋をしてしまった。


 得意げに紹介しましたが、弊ブログは建設作業員が趣味で万葉集を好みのままに鑑賞するものであり、万葉集読解と云う研究分野には本人の基本教養と訓練からして寄り着くことが出来もしないものであります。ただただ、指弾されますように「トンデモ論」を世に垂れ流す次第です。しかしながら「トンデモ論」であっても論を残す目的から、藤原定家までの万葉集読解史については弊著「原万葉集、奈弖之故と宇梅乃波奈に遊ぶ」に、未定訓歌については弊著「万葉難訓歌を読み解く」に、弊ブログでの考え方を集約して載せさせて頂いております。万葉集読解の王道を行く上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」とは行く道が違います。

 今回、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」を紹介しているようで、自著の紹介をすると云う恥知らずな行いをしてしまいました。反省する次第です。なお重ねて、高価ではありますが、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」の購読を推薦致します。
 追記して、弊書は出版社が限定部数の自費出版であっても勝手に増刷しているようで、今でも一冊を除き入手は容易ですが、上野氏の著書「一三〇〇年の謎を解く」は非常に入手が困難なようです。ただ、それでも古書で8000円は高いと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする