万葉雑記 色眼鏡 百 遊仙窟と万葉集
前回、『遊仙窟』と集歌2390の歌の句「千遍死」との関係について触れ、それは『遊仙窟』の創作年代と日本への将来時期を無視した大正時代までに行われた誰かの単なる思い付きからの典拠説であることを小島憲之氏の研究などにより示しました。
今日、師弟関係にない第三者が相互の古典原文を使って全文検索での比較を行うことは現代では非常に容易であり、短時間での出来事です。さらにインターネットを使うと、その検索比較に対する参照文献を見つけ出すことも容易です。その例として『遊仙窟』の将来時期の見当と万葉集作品の典拠時期を前回に検討しました。
さて、ここのところテーマが見つからない関係で、今回もまた、もう少し、『遊仙窟』と万葉集の関係から遊ばせて貰います。こうした時、巻四から大伴家持が詠う集歌741の歌と集歌742の歌を紹介します。これらの歌は家持から若き恋人である坂上大嬢へ贈った歌群の中でのもので、二首は一般には鎌倉時代からの伝承で『遊仙窟』の影響を多大に受けたものとされています。
集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。
集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。
この二首における『遊仙窟』の影響について『萬葉集釋注』では次のように解説します。
唐代の伝奇小説『遊仙窟』に「夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス」とあり、これに拠った歌である。
七四二の歌もまた『遊仙窟』の「日々衣寛ビ、朝ナ朝ナ帯緩ブ」を踏まえる。
こうした時、大伴家持は日本に大量の漢籍をもたらした第八次遣唐使が帰朝した養老二年(718)以降の人物ですから、『遊仙窟』と云う書物に触れる機会は否定できません。また、第七次遣唐使の一員として山上憶良が将来した可能性もありますが、この場合も、慶雲元年(704)となりますので、時間軸において典拠としても問題は生じないことになります。
ところで類型歌と云う視点から見てみますと、集歌741の歌と詠う世界が類似するものが巻十六にあります。それが集歌3857の歌です。歌自体と云うより、その歌に付けられた左注と集歌741の歌が同じ情景を示します。
戀夫君謌一首
標訓 夫(せ)の君を戀ふる謌一首
集歌3857 飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有 赤根佐須 君之情志 忘可祢津藻
訓読 飯(いひ)食(は)めど甘(うま)くもあらず寝(ゐ)ぬれども安くもあらず茜(あかね)さす君の情(なさけ)し忘れかねつも
意訳 飯を食べても美味しいと感じられない。寝たとしても安眠も出来ない。私の体を朱に染める貴方の愛撫を、忘れることが出来ない。
左注 右謌一首、傳云佐為王有近習婢也。于時、宿直不遑、夫君難遇、感情馳結、係戀實深。於是當宿之夜、夢裏相見、覺寤採抱、曽無觸手。尓乃哽咽歔欷、高聲吟詠此謌。因王聞之哀慟、永免侍宿也
注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「佐為王(さゐのおほきみ)に近習の婢(まかたち)あり。時に、宿直(とのゐ)遑(いとま)あらずして、夫(せ)の君に遇(あ)ひ難く、感情(おもひ)馳せ結ばれ、戀の係(かかは)り實(まこと)に深し。ここに當宿(とのゐ)の夜、夢の裏(うち)に相見、寤(ね)を覺(さ)め採(と)り抱(むだ)くに、曽(そ)の手に觸(ふ)れるはなし。乃(すなは)ち哽咽(むせ)び歔欷(なげ)きて、高き聲に此の謌を吟詠(うた)へり。因りて王(おほきみ)聞きて哀(かな)しび慟(いた)みて、永く侍宿(とのゐ)を免(ゆる)しき」といへり。
注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「佐為王に近く仕える下女がいた。ある時、宿直が続いて夫と逢うことが出来ずに、夫への思いだけがただ結ばれ、夫を愛する想いが実に深かった。ある宿直の夜に、夢の中で夫に逢い、目覚めて夫を採り抱こうとしても、その手に触れるものはなかった。そこで咽び泣き悲しみ、高い声でこの歌を口ずさんだ。それで、王は聞いて哀れみ同情し、永く宿直を免除した」という。
『萬葉集釋注』で示すこの集歌3857の歌の解説では、句中の「係戀實深」は『遊仙窟』の一節「芙蓉生於澗底、蓮子實深、木棲出於山頭、相思日遠」に類似を見出し、また、「ここに當宿の夜、夢の裏に相見、寤を覺め採り抱くに、曽の手に觸れるはなし」に対しては『遊仙窟』の一節「少時ニシテ座睡スレバ、則チ夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス。心ノ中悵佒ミテ、マタ何ゾ論フベケンヤ」との類似を見出し、その典拠とします。
また、『萬葉集釋注』ではさらに『日本文学古典大系』の補注を引用して和歌の句「飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有」と『日本書紀』景行天皇四十年の「寝不安席、食不甘味」や欽明天皇二年「所食不甘味、寝不安席」との共通点を見出します。
このような指摘を下に、無名歌人の作品である集歌3857の歌の作者に『萬葉集釋注』は漢籍や『日本書紀』に造詣が深い人物として山上憶良ではないかと疑惑の目を向けます。確かに山上憶良はその「沈痾自哀文」の作品で「遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直」と記しますし、これは『遊仙窟』の一節「少府謂言兒是九泉下人、明日在外談道兒一錢不値」から要約引用したものです。ただし、これは「沈痾自哀文」に載る多くの古典の一部ですので中国一流の漢文作成時での美句修辞にすぎません。
ここでもし、山上憶良が『遊仙窟』の確実な読者であることを推認しますと、万葉歌人の中では山上憶良がその筆頭となります。そして、集歌3857の歌の作歌者が山上憶良でしたら、集歌741の歌は『遊仙窟』を直接の典拠としたのか、それとも集歌3857の歌を典拠としたのかは難しい判断となります。さらに、問題提起として、青年期の大伴家持が『遊仙窟』を十二分に享受できたかどうかには多少の疑問が残ります。さらに、単なる用字の類似からしますと「光儀」と記述して「恋人の姿」を暗示させる用法は『遊仙窟』と『万葉集』とに共通します。これは「すがた」と訓じますが、この類似を指摘した人はいたでしょうか。なお、この「光儀」と云う言葉は『遊仙窟』以前の東漢時代などでは王などの高貴な人物を示し、恋人と云う用法ではありません。
雑談として明治から大正期の『万葉集』研究では、やや苦しいのですが、他に巻五に載る大伴旅人の作品「遊松浦河序」の前置漢文で使われる「下官對曰」や「娘等皆咲答曰」の表現が『遊仙窟』での「下官答曰」や「五嫂笑曰」などと似た表現としてその影響を想定します。時代背景として魯迅が中国帰国後に日本で入手した『遊仙窟』版本を中国での最古に位置する小説として校訂し、紹介して文学的な話題となっており、その余波として日本でも評判となりました。つまり、ある種の流行として『遊仙窟』と『万葉集』とを、そこで使われる文字比較から結びつけることがあったようです。ただ、それらは早く、鎌倉時代には指摘されており、そのままでは進歩がないのではと考えます。
参考情報として『遊仙窟』は、一番官能的な文章である次に示す段を理解できて初めて、そこまでの文章を遡り、僕(余、下官、少府の別称あり)と十七歳の乙女である十娘とが一夜を共にするまでの経緯を、(その多くは比喩を持つ漢詩で語られています)、鑑賞できることになります。従いまして、相当な学識がなければ作品を享受出来ないものです。例として、小説の最初の方での下官と十娘との間で交わされた「梨を剥く小刀」を題材とした詩文で「自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中」と「數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何」と云う有名な問答があります。ここで、『遊仙窟』は唐初の中国小説ですので詩中の「梨」は中国原産の鴨梨です。(その画像や解説はインターネットで検索・確認下さい)つまり、詩で云う「尖頭物」は当然のこと「刀」ではなく、芳しく果汁たっぷりの「梨」の一部分です。そうした時、この詩文問答の下品さが楽しめるか、どうかですし、詩文の鑑賞者が経験で「それ」をちゃんと観察出来ているか、どうかです。
また、中盤の場面では「下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多」と云う「硯」を題材とした詩文があります。これを下品なポルノと鑑賞できるか、どうかにあります。なぜか。それを解説しますと「研」と云う漢字の意味は「硯で墨を摺る」と云うのが本来ですが、別に「とぎすまして見る」と云う意味もあります。そうした時、相手の十娘は硯で墨を摺るときに使う水差しである「鴨頭鐺子」を題材に取り、「硯」の詩文の返歌として「嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻」と詠います。
このように詩文は裏の顔をも持つと認めますと、現代人の感覚からしますと、当時の国家最高の学識者が大真面目に、発行された国では評判だがそれは非常に下品なポルノ小説として認定された作品に対して、広く一般のために翻訳・伝授をするか、どうかです。それも、例に示したように『遊仙窟』の建前での日本語直訳ではそれほどのポルノ小説にはなりません。文中で言葉が暗示する意味を十分に吟味して解釈した時、初めて、きわどいポルノ小説となります。つまり、翻訳においてその翻訳・意訳を行う者の経験や体験をも取り入れて行わなくてはいけないような「研難竟」などの表現を持ち、明らかな性行為を記す作品に対して、そのような暗示する言葉の内容までを解説するのか、どうかです。なお、先の詩文問答の落ちは共に「向来漸漸入深也」です。
他例として、『遊仙窟』での一番のクライマックスを以下に示しますが、その文中の「摩挲髀子上」と云う句の「髀」の漢字は「太もも」と云う体の部位を表します。つまり、「摩挲髀子上」とは「女性の太ももの上の方を手で撫でる=愛撫する」ことを示します。ただその解釈において「髀子上」とは女性のどこを比喩するのかは解説者の好みと判断になります。ここで「挲」の漢字には「手を水につけてすすぐように動かす」との意味がありますから、その“水につけて”の意味合いを重視すると、「髀子上」とは女性のどこを示すでしょうか。さらにその鑑賞では先ほど紹介しました「數捺皮應緩、頻磨快轉多」や「良由水太多」などの文章が効いて来ます。これが、『遊仙窟』と云う作品です。さてはて、律令体制での選ばれし大学教授級の人物がこのような伝授を行ったでしょうか。さらに、平安時代中期には、すでに『遊仙窟』は少々の学識では解釈出来ない漢籍となっており、伝説では訓じるには潔斎沐浴して神の手助けを必要としたとされています。
なお、紹介した文中の桂心と芍藥とは女召使いの名前ですが、同時に滋養強壮の生薬名からのパロディーです。これもまた『遊仙窟』が持つ遊びです。
<遊仙窟 後半一部抜粋>
於時夜久更深、情急意密。魚燈四麵照、蠟燭両邊明。十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣襆頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去襪。花容満麵、香風裂鼻。心去無人製、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏酸庳、心中結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間、數回相接。誰知可憎病鵲、夜半驚人、薄媚狂雞、三更唱曉。遂則被衣對坐、泣涙相看。
ここで、今一度、集歌741の歌と集歌742の歌に戻りますと、歌は標題「更大伴宿祢家持贈坂上大嬢謌十五首」で括られる、家持から年下の若い坂上大嬢へ贈ったものです。一般にこの二首を『遊仙窟』を典拠とするものとするなら、歌を贈られた坂上大嬢がその歌を理解したかどうかが問題となります。
寝とぼけてはいけないのですが、『古今和歌集』以降の表舞台に残る歌は実際の恋愛関係なんぞは無視した職業歌人の技巧を凝らした業務上の歌です。公式の歌合や私邸での準公式の場である宴会で鑑賞者に和歌を披露するものであって、現代でのアカデミーの場で公表しそれを鑑賞するような作品ですから、歌を鑑賞する受け手はいかに高度な技巧を凝らしたものや中国古典を引いたものであってもその歌を理解する義務があります。また、それが出来ると認定された人だけが歌合や宴に参加出来るのです。つまり、詠い手にも、鑑賞者にも、参加資格が求められます。
一方、『万葉集』の世界において実際の恋愛相手への贈答歌では歌を贈る相手が容易に歌意を理解出来なければ歌を贈る意味がありません。特にこの集歌741の歌や集歌742の歌は標題で坂上大嬢へ贈るとあるのですから、鑑賞に参加資格は求められていません。ここが重要です。
では、坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛であったのでしょうか、それとも「右謌一首傳云」と記すように歌サロンでは知られていた集歌3857の歌の鑑賞者だったのでしょうか。個人の感想からすると坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛ではなかったと考えます。もし、そのような真摯な読者としますと、『遊仙窟』が示す内容は二人の共通認識であったと考えられますので、坂上大嬢は家持に『遊仙窟』に載る愛撫の方法を容認し、二人してそれを楽しんでいたことになります。だから、奈良と富山とで別れて暮らす坂上大嬢に家持は『遊仙窟』から引用して歌を詠ったと云うことになります。それはそれで万葉時代の貴族階級がする性戯の内容と家持夫婦の好みを具体的に想像させる例となりますので学術的には非常に貴重な資料です。ただ、そのような指摘は見たことがありません。(どのような性戯かは、『遊仙窟』を参照下さい)
このような空想は暇潰しや遊びとしては良いのですが、本格的に『万葉集』を鑑賞し、その作品は誰が享受するのかと云う視線で鑑賞や検証を進めますと、従来のものが正しいのかどうか、いろいろな素人考えが現れます。『遊仙窟』の臭いがあるとするならば、最低限、『遊仙窟』を原文から点検するのがマナーではないでしょうか。単なる文字列の一致程度では悲しくなります。でなければ、引用を用いずに個人の趣味での鑑賞とするのが良いのではないでしょうか。
今回も訳の判らない、変なものとなりました。反省です。
ところでいま、前回の「千遍の歌を鑑賞する」を勉強した関係で『遊仙窟』の原文を眺めています。もう少し理解が進み掲載の準備が出来ましたら、少し時間は掛かりますが、検索の便を図る為に『遊仙窟』の訓読みを資料として載せたいと思っています。(ただし、硬い方の訓です、具体的な性戯の方法は漢文からどうぞ、)
前回、『遊仙窟』と集歌2390の歌の句「千遍死」との関係について触れ、それは『遊仙窟』の創作年代と日本への将来時期を無視した大正時代までに行われた誰かの単なる思い付きからの典拠説であることを小島憲之氏の研究などにより示しました。
今日、師弟関係にない第三者が相互の古典原文を使って全文検索での比較を行うことは現代では非常に容易であり、短時間での出来事です。さらにインターネットを使うと、その検索比較に対する参照文献を見つけ出すことも容易です。その例として『遊仙窟』の将来時期の見当と万葉集作品の典拠時期を前回に検討しました。
さて、ここのところテーマが見つからない関係で、今回もまた、もう少し、『遊仙窟』と万葉集の関係から遊ばせて貰います。こうした時、巻四から大伴家持が詠う集歌741の歌と集歌742の歌を紹介します。これらの歌は家持から若き恋人である坂上大嬢へ贈った歌群の中でのもので、二首は一般には鎌倉時代からの伝承で『遊仙窟』の影響を多大に受けたものとされています。
集歌741 夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
訓読 夢し逢ひは苦しかりけり覺(おどろ)きて掻(か)き探れども手にも触れづそは
私訳 夢の中で抱き合うことは苦しいものです。ふと目覚めて手探りに探っても貴女の体が私の手にも触れないので。
集歌742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
訓読 一重(ひとへ)のみ妹し結ばむ帯(おび)をすら三重(みへ)結ぶべく吾が身はなりぬ
私訳 一重だけで貴女が私の体を結ぶでしょう、その帯でも、三重に結べるような私の体に成ってしまった。
この二首における『遊仙窟』の影響について『萬葉集釋注』では次のように解説します。
唐代の伝奇小説『遊仙窟』に「夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス」とあり、これに拠った歌である。
七四二の歌もまた『遊仙窟』の「日々衣寛ビ、朝ナ朝ナ帯緩ブ」を踏まえる。
こうした時、大伴家持は日本に大量の漢籍をもたらした第八次遣唐使が帰朝した養老二年(718)以降の人物ですから、『遊仙窟』と云う書物に触れる機会は否定できません。また、第七次遣唐使の一員として山上憶良が将来した可能性もありますが、この場合も、慶雲元年(704)となりますので、時間軸において典拠としても問題は生じないことになります。
ところで類型歌と云う視点から見てみますと、集歌741の歌と詠う世界が類似するものが巻十六にあります。それが集歌3857の歌です。歌自体と云うより、その歌に付けられた左注と集歌741の歌が同じ情景を示します。
戀夫君謌一首
標訓 夫(せ)の君を戀ふる謌一首
集歌3857 飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有 赤根佐須 君之情志 忘可祢津藻
訓読 飯(いひ)食(は)めど甘(うま)くもあらず寝(ゐ)ぬれども安くもあらず茜(あかね)さす君の情(なさけ)し忘れかねつも
意訳 飯を食べても美味しいと感じられない。寝たとしても安眠も出来ない。私の体を朱に染める貴方の愛撫を、忘れることが出来ない。
左注 右謌一首、傳云佐為王有近習婢也。于時、宿直不遑、夫君難遇、感情馳結、係戀實深。於是當宿之夜、夢裏相見、覺寤採抱、曽無觸手。尓乃哽咽歔欷、高聲吟詠此謌。因王聞之哀慟、永免侍宿也
注訓 右の謌一首は、傳へて云はく「佐為王(さゐのおほきみ)に近習の婢(まかたち)あり。時に、宿直(とのゐ)遑(いとま)あらずして、夫(せ)の君に遇(あ)ひ難く、感情(おもひ)馳せ結ばれ、戀の係(かかは)り實(まこと)に深し。ここに當宿(とのゐ)の夜、夢の裏(うち)に相見、寤(ね)を覺(さ)め採(と)り抱(むだ)くに、曽(そ)の手に觸(ふ)れるはなし。乃(すなは)ち哽咽(むせ)び歔欷(なげ)きて、高き聲に此の謌を吟詠(うた)へり。因りて王(おほきみ)聞きて哀(かな)しび慟(いた)みて、永く侍宿(とのゐ)を免(ゆる)しき」といへり。
注訳 右の歌一首は、伝えて云うには「佐為王に近く仕える下女がいた。ある時、宿直が続いて夫と逢うことが出来ずに、夫への思いだけがただ結ばれ、夫を愛する想いが実に深かった。ある宿直の夜に、夢の中で夫に逢い、目覚めて夫を採り抱こうとしても、その手に触れるものはなかった。そこで咽び泣き悲しみ、高い声でこの歌を口ずさんだ。それで、王は聞いて哀れみ同情し、永く宿直を免除した」という。
『萬葉集釋注』で示すこの集歌3857の歌の解説では、句中の「係戀實深」は『遊仙窟』の一節「芙蓉生於澗底、蓮子實深、木棲出於山頭、相思日遠」に類似を見出し、また、「ここに當宿の夜、夢の裏に相見、寤を覺め採り抱くに、曽の手に觸れるはなし」に対しては『遊仙窟』の一節「少時ニシテ座睡スレバ、則チ夢ニ十娘ヲ見ル。驚キ覚サメ之ヲ攪レバ忽然トシテ手ヲ空シクス。心ノ中悵佒ミテ、マタ何ゾ論フベケンヤ」との類似を見出し、その典拠とします。
また、『萬葉集釋注』ではさらに『日本文学古典大系』の補注を引用して和歌の句「飯喫騰 味母不在 雖行徃 安久毛不有」と『日本書紀』景行天皇四十年の「寝不安席、食不甘味」や欽明天皇二年「所食不甘味、寝不安席」との共通点を見出します。
このような指摘を下に、無名歌人の作品である集歌3857の歌の作者に『萬葉集釋注』は漢籍や『日本書紀』に造詣が深い人物として山上憶良ではないかと疑惑の目を向けます。確かに山上憶良はその「沈痾自哀文」の作品で「遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直」と記しますし、これは『遊仙窟』の一節「少府謂言兒是九泉下人、明日在外談道兒一錢不値」から要約引用したものです。ただし、これは「沈痾自哀文」に載る多くの古典の一部ですので中国一流の漢文作成時での美句修辞にすぎません。
ここでもし、山上憶良が『遊仙窟』の確実な読者であることを推認しますと、万葉歌人の中では山上憶良がその筆頭となります。そして、集歌3857の歌の作歌者が山上憶良でしたら、集歌741の歌は『遊仙窟』を直接の典拠としたのか、それとも集歌3857の歌を典拠としたのかは難しい判断となります。さらに、問題提起として、青年期の大伴家持が『遊仙窟』を十二分に享受できたかどうかには多少の疑問が残ります。さらに、単なる用字の類似からしますと「光儀」と記述して「恋人の姿」を暗示させる用法は『遊仙窟』と『万葉集』とに共通します。これは「すがた」と訓じますが、この類似を指摘した人はいたでしょうか。なお、この「光儀」と云う言葉は『遊仙窟』以前の東漢時代などでは王などの高貴な人物を示し、恋人と云う用法ではありません。
雑談として明治から大正期の『万葉集』研究では、やや苦しいのですが、他に巻五に載る大伴旅人の作品「遊松浦河序」の前置漢文で使われる「下官對曰」や「娘等皆咲答曰」の表現が『遊仙窟』での「下官答曰」や「五嫂笑曰」などと似た表現としてその影響を想定します。時代背景として魯迅が中国帰国後に日本で入手した『遊仙窟』版本を中国での最古に位置する小説として校訂し、紹介して文学的な話題となっており、その余波として日本でも評判となりました。つまり、ある種の流行として『遊仙窟』と『万葉集』とを、そこで使われる文字比較から結びつけることがあったようです。ただ、それらは早く、鎌倉時代には指摘されており、そのままでは進歩がないのではと考えます。
参考情報として『遊仙窟』は、一番官能的な文章である次に示す段を理解できて初めて、そこまでの文章を遡り、僕(余、下官、少府の別称あり)と十七歳の乙女である十娘とが一夜を共にするまでの経緯を、(その多くは比喩を持つ漢詩で語られています)、鑑賞できることになります。従いまして、相当な学識がなければ作品を享受出来ないものです。例として、小説の最初の方での下官と十娘との間で交わされた「梨を剥く小刀」を題材とした詩文で「自憐膠漆重、相思意不窮。可惜尖頭物、終日在皮中」と「數捺皮應緩、頻磨快轉多。渠今拔出後、空鞘欲如何」と云う有名な問答があります。ここで、『遊仙窟』は唐初の中国小説ですので詩中の「梨」は中国原産の鴨梨です。(その画像や解説はインターネットで検索・確認下さい)つまり、詩で云う「尖頭物」は当然のこと「刀」ではなく、芳しく果汁たっぷりの「梨」の一部分です。そうした時、この詩文問答の下品さが楽しめるか、どうかですし、詩文の鑑賞者が経験で「それ」をちゃんと観察出来ているか、どうかです。
また、中盤の場面では「下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多」と云う「硯」を題材とした詩文があります。これを下品なポルノと鑑賞できるか、どうかにあります。なぜか。それを解説しますと「研」と云う漢字の意味は「硯で墨を摺る」と云うのが本来ですが、別に「とぎすまして見る」と云う意味もあります。そうした時、相手の十娘は硯で墨を摺るときに使う水差しである「鴨頭鐺子」を題材に取り、「硯」の詩文の返歌として「嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻」と詠います。
このように詩文は裏の顔をも持つと認めますと、現代人の感覚からしますと、当時の国家最高の学識者が大真面目に、発行された国では評判だがそれは非常に下品なポルノ小説として認定された作品に対して、広く一般のために翻訳・伝授をするか、どうかです。それも、例に示したように『遊仙窟』の建前での日本語直訳ではそれほどのポルノ小説にはなりません。文中で言葉が暗示する意味を十分に吟味して解釈した時、初めて、きわどいポルノ小説となります。つまり、翻訳においてその翻訳・意訳を行う者の経験や体験をも取り入れて行わなくてはいけないような「研難竟」などの表現を持ち、明らかな性行為を記す作品に対して、そのような暗示する言葉の内容までを解説するのか、どうかです。なお、先の詩文問答の落ちは共に「向来漸漸入深也」です。
他例として、『遊仙窟』での一番のクライマックスを以下に示しますが、その文中の「摩挲髀子上」と云う句の「髀」の漢字は「太もも」と云う体の部位を表します。つまり、「摩挲髀子上」とは「女性の太ももの上の方を手で撫でる=愛撫する」ことを示します。ただその解釈において「髀子上」とは女性のどこを比喩するのかは解説者の好みと判断になります。ここで「挲」の漢字には「手を水につけてすすぐように動かす」との意味がありますから、その“水につけて”の意味合いを重視すると、「髀子上」とは女性のどこを示すでしょうか。さらにその鑑賞では先ほど紹介しました「數捺皮應緩、頻磨快轉多」や「良由水太多」などの文章が効いて来ます。これが、『遊仙窟』と云う作品です。さてはて、律令体制での選ばれし大学教授級の人物がこのような伝授を行ったでしょうか。さらに、平安時代中期には、すでに『遊仙窟』は少々の学識では解釈出来ない漢籍となっており、伝説では訓じるには潔斎沐浴して神の手助けを必要としたとされています。
なお、紹介した文中の桂心と芍藥とは女召使いの名前ですが、同時に滋養強壮の生薬名からのパロディーです。これもまた『遊仙窟』が持つ遊びです。
<遊仙窟 後半一部抜粋>
於時夜久更深、情急意密。魚燈四麵照、蠟燭両邊明。十娘即喚桂心、並呼芍藥、與少府脱靴履、疊袍衣、閣襆頭、掛腰帶。然後自與十娘施綾被、解羅裙、脱紅衫、去襪。花容満麵、香風裂鼻。心去無人製、情来不自禁。插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏酸庳、心中結繚。少時眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間、數回相接。誰知可憎病鵲、夜半驚人、薄媚狂雞、三更唱曉。遂則被衣對坐、泣涙相看。
ここで、今一度、集歌741の歌と集歌742の歌に戻りますと、歌は標題「更大伴宿祢家持贈坂上大嬢謌十五首」で括られる、家持から年下の若い坂上大嬢へ贈ったものです。一般にこの二首を『遊仙窟』を典拠とするものとするなら、歌を贈られた坂上大嬢がその歌を理解したかどうかが問題となります。
寝とぼけてはいけないのですが、『古今和歌集』以降の表舞台に残る歌は実際の恋愛関係なんぞは無視した職業歌人の技巧を凝らした業務上の歌です。公式の歌合や私邸での準公式の場である宴会で鑑賞者に和歌を披露するものであって、現代でのアカデミーの場で公表しそれを鑑賞するような作品ですから、歌を鑑賞する受け手はいかに高度な技巧を凝らしたものや中国古典を引いたものであってもその歌を理解する義務があります。また、それが出来ると認定された人だけが歌合や宴に参加出来るのです。つまり、詠い手にも、鑑賞者にも、参加資格が求められます。
一方、『万葉集』の世界において実際の恋愛相手への贈答歌では歌を贈る相手が容易に歌意を理解出来なければ歌を贈る意味がありません。特にこの集歌741の歌や集歌742の歌は標題で坂上大嬢へ贈るとあるのですから、鑑賞に参加資格は求められていません。ここが重要です。
では、坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛であったのでしょうか、それとも「右謌一首傳云」と記すように歌サロンでは知られていた集歌3857の歌の鑑賞者だったのでしょうか。個人の感想からすると坂上大嬢は『遊仙窟』原典を読み解くほどの才媛ではなかったと考えます。もし、そのような真摯な読者としますと、『遊仙窟』が示す内容は二人の共通認識であったと考えられますので、坂上大嬢は家持に『遊仙窟』に載る愛撫の方法を容認し、二人してそれを楽しんでいたことになります。だから、奈良と富山とで別れて暮らす坂上大嬢に家持は『遊仙窟』から引用して歌を詠ったと云うことになります。それはそれで万葉時代の貴族階級がする性戯の内容と家持夫婦の好みを具体的に想像させる例となりますので学術的には非常に貴重な資料です。ただ、そのような指摘は見たことがありません。(どのような性戯かは、『遊仙窟』を参照下さい)
このような空想は暇潰しや遊びとしては良いのですが、本格的に『万葉集』を鑑賞し、その作品は誰が享受するのかと云う視線で鑑賞や検証を進めますと、従来のものが正しいのかどうか、いろいろな素人考えが現れます。『遊仙窟』の臭いがあるとするならば、最低限、『遊仙窟』を原文から点検するのがマナーではないでしょうか。単なる文字列の一致程度では悲しくなります。でなければ、引用を用いずに個人の趣味での鑑賞とするのが良いのではないでしょうか。
今回も訳の判らない、変なものとなりました。反省です。
ところでいま、前回の「千遍の歌を鑑賞する」を勉強した関係で『遊仙窟』の原文を眺めています。もう少し理解が進み掲載の準備が出来ましたら、少し時間は掛かりますが、検索の便を図る為に『遊仙窟』の訓読みを資料として載せたいと思っています。(ただし、硬い方の訓です、具体的な性戯の方法は漢文からどうぞ、)