竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 その廿四 土佐日記から万葉歌を鑑賞する

2013年04月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その廿四 土佐日記から万葉歌を鑑賞する

 最初にお詫びいたします。今回もまた前回に引き続きある種の読書感想文のようなものです。ただ、ご承知のように素人の思い入れを持って例の癖のある立場で行っていますから、この感想文に悪意の悪臭が漂うことをご容赦下さい。

 今回は、少し古い本ですがNHKブックスから平成十六年に初版出版された「万葉歌を解読する(佐佐木隆)」と云う本を取り上げたいと思います。内容としては、個人の解釈と要約ではありますが、前半は基本的な万葉集の読み解き方法を紹介し、後半では万葉集の原文を紹介し、その原文に対し平安後期から鎌倉時代に点じられた訓みをテキストとして使用し、これを下に広く知られている訓読みについて検討・検証を行い、問題があればそれに対して新たな訓読みと解釈を提案しています。万葉集を人の解釈を読むと云う態度ではなく、自力で鑑賞とする人に向けた万葉鑑賞の入門書のような本であります。
 この本の題名に「万葉歌を解読する」とありますように万葉集の歌の解説本としては少し毛色の違うもので、万葉集の初心者に原文から歌を鑑賞すことの重要性を気付かせてくれる特徴があります。そのため、ここのブログにお立ち寄りされる方にはお勧めの本の一つであります。

 今回は、内容の説明の前に少し長めの寄り道をします。退屈でしょうが、お付き合いのほど、お願いいたします。
 さて、紀貫之が残した作品に土佐日記と云う有名な作品があります。その巻頭に次のような一節があります。
「男もすなる日記といふものを 女もしてみむとて するなり」
 通常、この文章を土佐日記の原文として紹介することが多いと思います。もし、これを「翻訳 土佐日記」と云う名称で紹介するのですとこれでも良いと思います。ただし、紀貫之の作品として紹介する場合、本来のものは題名は「土左日記」ですし、紹介した巻頭の一節についても表記方法が違います。
 国語での文字の歴史からすると、紀貫之の生きていた時代、平安時代前期に相当しますが、平安時代に始まる国風表記の特徴とされる平仮名の連綿体表記方法はまだ存在していませんでした。紀貫之の時代では、まだ、万葉仮名とも称される真仮名を草書体で以って連綿表記が始まった時代です。つまり、草仮名連綿体が生まれつつある時代で、先に紹介した土佐日記巻頭文のような漢字混じり平仮名で表記されたものは「紀貫之の土左日記」の原文ではなく、鎌倉時代以降の「翻訳 土佐日記」の原文です。なお、紹介した土佐日記巻頭の一節は、正確には藤原為家が翻訳・書写したものの系統伝本からのものです。
 では、本来の紀貫之が著書した土左日記の原文はどのようなものかと云うと、高千穂大学の渋谷栄一氏が率いる渋谷栄一(国語・国文学)研究室の努力により藤原定家の書き残した土佐日記の写本から次のように復元されています。

原文 乎止己毛春止以不日記止以不物遠ゝ武奈毛志天心美武止天寸留奈利
詠下 をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもして心みむとてするなり
推定 男もすといふ日記といふ物を、女もして心みむとて、するなり

 このように「紀貫之の土左日記」と鎌倉時代以降の「翻訳 土佐日記」とは、その記述方法からして大きく違うのです。このことは、復元された土左日記の原文が一般へと知られる以前から、日本語表記の進化の歴史からは推定されていた事柄でした。その推定された事柄を実証したのが、この渋谷栄一研究室の成果なのです。国文学者であれば、「紀貫之の土左日記」と「藤原定家の土佐日記」とでは表記方法が違うであろうと推認して置くことは、初歩的な研究態度なのです。
 ここで「藤原定家の土佐日記」に戻りますと、実は土佐日記の巻頭の一節はその伝本の系統により「をむなをして心みむとして」と「をむなをしてみむとして」との相違があります。違いとは定家系の伝本が「心みむ」ですが、為家系の伝本が「心」と云う文字が無く「みむ」となっています。つまり、翻訳を行った両者の間でも文章表記やその文章の示す意味が違います。
 拙いですが、素人業での訳文・句読点を使って説明しますと、定家の文章は「女をして、心みむとして、するなり」ですが、為家のものは「女をしてみむ、として、するなり」となります。これを従来の解釈では、定家のは「女の身ではありますが、試みとして日記を書いてみました」と解釈し、一方、為家のは「日記を書くことない女ですが、それでもそれをしてみようとして、日記を書きました」となります。
 ところがです。一度、じっくりと定家の原文を見て下さい。漢語表記は「日記」、「物」、「心」の三つの単語に対してです。従来はその内の「日記」と「物」の二つの漢語はそのまま漢語として扱い、残りの「心」の漢語だけは「心みる→試みる」の当て字の一部と決め付けています。さて、原文鑑賞をする時、そのような決め付けだけで良いのでしょうか。疑問として、元々の文章に対して「心、見む」との解釈は成り立たないのでしょうか。個人の鑑賞ですが、その可能性はあると思います。もし、「心、見む」との解釈が成り立つのですと、「をむなをして心みむとして」の一節は「女をして、心、見むとして」と解釈が出来ますから、土佐日記の巻頭の文章は、
男もすといふ日記といふ物を、女もして、心、見むとて、するなり
となります。現代語訳文ですと「男の人がすると云う日記と云うものを、女の身ではありますが、その日記を書き残すと云う気持ちを知ろうとして、日記を書いてみました」となると思われます。ずいぶん、一般に解説されているものと景色が変わってきます。
 紀貫之の著作した土左日記の原文では「心」と「己ゝ呂」の二種類の表記で「心」を表現・表記していますが、他方、「心」の字を当て字の一部として扱った例はありません。つまり、従来の「心みむ」を「試みる」と解釈する説とは紀貫之の著作した土左日記においては非常に特殊な解釈であると推定することが可能と思われます。端的に云えば、無理筋です。なお、ややこしいのですが、現在の流行として紀貫之の著作した土左日記は研究の対象外で、藤原定家の翻訳したものまたは藤原為家の翻訳したものを土佐日記の原文として研究の対象とします。外部の人間には不思議なのですが、国文学の世界では土佐日記の研究においては「紀貫之の記した原文 土左日記」を土佐日記の原文としては取り扱わないことを研究の出発点としているようです。

 普段とは違う観点から土佐日記の巻頭一節を紹介しました。同じような視点から古今和歌集の一番古い時代の写本の一つとされる秋萩帖を紹介したいと思います。この秋萩帖もまた漢語と真仮名を草書体で以って連綿表記で歌が記されています。そのため、秋萩帖の書体は比較的判り易いことから、書道の草仮名の手本などの目的で古くから歌が詠われた時代の漢語と真仮名が復元されています。図らずも、書道の分野からは古今和歌集もまた土左日記と同じように原文では漢字混じり平仮名の歌集では無いことは知られていた事実なのです。
 そうした時、「所(処)」の文字に注目して下さい。藤原定家の時代にはそれをどのように訓むのかが不安定となっていた「所(処)」と云う文字は、紀貫之の時代では真仮名としては「所(処)」を「ソ」と訓みます。参考に、漢語と真仮名だけで書記された、秋萩帖全体では「所(処)」の文字が廿三回使われていて、例外なくその文字は真仮名として「ソ」と訓みます。従いまして、紀貫之の時代、「所(処)」の文字は漢語として「ところ」と訓まなければ、国語としては、まず、強調の助詞として「ソ」と訓むことになります。

伝小野道風筆 秋萩帖
第一紙 第一首
原文 安幾破起乃之多者以都久以末餘理処悲東理安留悲東乃以祢可転仁數流
詠下 あきはきのしたはいつくいまよりそひとりあるひとのいねかてにする

第一紙 第四首
原文 閑見難川幾之久礼登毛耳駕美難悲能母理能許乃者々布利爾己所布礼
詠下 かみなつきしくれともにかみなひのもりのこのははふりにこそふれ

 追加して説明しますと、渋谷栄一研究室の土佐日記の原文復元研究はインターネットへも公開されていますし、秋萩帖は草書の手本書としても有名な書本ですので、専門家だけではなく、ここで紹介した事柄は世に知られた事実と考えます。つまり、注意深く対応していますと、平安前期の段階では真仮名の「所(処)」は「ソ」と訓むと云うことは、国語でも約束事としなければいけません。逆に奈良時代に「所(処)」の真仮名の訓みが「ソ」とは違うとする場合は、どの時代から紀貫之の時代のように「ソ」と訓むようになったのかを指摘する必要があります。


 ずいぶん、長い寄り道をしました。ここで本来の「万葉歌を解読する」の読書感想へと進みます。そこで、取り上げる「万葉歌を解読する」の「第四章 原文から歌へ」の章から今回のテーマを提供したいと思います。その第四章、第一節では万葉集の歌番十の歌を例題として取り上げ、通説のその訓みと解釈に対して検証が進められています。
 その最初の部分を紹介しますと、

本節では、訓に問題があると考えられる第二首を取り上げる。その第二首は注釈では次のように訓し、また次の口語訳のように解釈している。
君が代も 吾が代も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな
 あなたの命も私の命も支配する磐代の岡の草を、さあ結びましょう。
草や木の枝を結んで無事や幸運を祈るという儀礼が、当時たびたび行われた。
・・中略・・・。
第一句と第二句に見える「代」は、「生涯」「寿命」「世の中」「治世」などのおおくの意味を持つ語だが、この歌の場合は「寿命」の意で用いたものだと見られる。
・・中略・・・。
歌末の「・・てな」は、「・・しよう」の意の希求・勧誘などを表す表現である。
この歌は、原文に次のようにある。
君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名

とあります。
 引用が長くなりました。本編ではここから訓みに問題がある点を万葉集歌の訓点を引用しつつ指摘し、本来であるはずの訓みの提案へと進んで行きます。ここで、筆者が特に問題として挙げたのが、第二句の「吾代毛所知哉」の訓、それも「所知哉」の訓みです。通説では「所知哉」を「知るや」と訓みますが、これを多くの万葉歌の例題を挙げることで白紙に戻す必要があるとしています。そして、次の文へと論説は進みます。

以上のことをふまえて、(所知)という表記について考える。
一般的に言えば、助字の(所)には、「所云人」(443)のような受身、「国所知良之」(933)のような尊敬、「所泣」(645)のような自発、「不所忘」(149)のような可能などを中心として、実に多様な用法がある。
・・・中略・・・
「知るや」という訓は、実は賀茂真淵が考案したものである。以降の研究者のほとんどがその訓を採用し、現在もそれが通説となっているわけである。一方、さきに紹介したように、「知るや」に疑問をいだき、「知れや」と訓ずるべきと主張する研究者もいたが、根拠の提示と論の展開に無理があった。また、「知る」の語義を正しく見抜くことが出来ず、歌全体の解釈もかなり屈折したものだった。それらの理由で、「知れや」と訓ずべきだという主張は認められなかった。
通説と新説とを客観的に対等に扱い、それぞれの長所・短所を検証するという作業が行われなかったのは、非常に残念なことである。

と、論を結んでいます。
 ここで通説が「所知哉」を「知るや」と訓むことへの問題提起をするにあたって、その根拠として取り上げた例文紹介記事の「助字の(所)には、・・」の説明で使われている言葉「助字」とは、実は漢文読解での術語の概念で、大和言葉への術語の概念ではありません。
 どのようなことかと云うと、この「助字」と云う言葉に対する解説に、

漢文で、名詞・動詞・形容詞などのいわゆる実字・虚字を助ける語をいう。断定・詠嘆・疑問など表す「也」、「矣」、「乎」や、前置詞の「於」や「与」、疑問詞の「何」や「誰」などがある。

とあります。このように「助字」とは漢文読解のために作られた日本独特の術語なのです。
 ではなぜ和歌を鑑賞・解説するのにこのように漢文読解のための術語の概念を持ち出さなければならないかと云いますと、それは使用しているテキストに因るものと推測されます。つまり、平安末期から鎌倉時代に万葉仮名「之」「所」「而」などの字が読めなくなった、その時代の万葉集の訓点をテキストとして採用しているために、当時の歌人たちの歌訓みの癖が評価・検証されることなく、論拠での引用・参照へとストレートに取り上げられたためと思われます。
 ご存じのように真仮名では「之」は「シ」、「所」は「ソ」、「而」は「ニ」と発音しますが、同時に漢文読解の世界ではこれらの文字は「助字」でもありますから「之」は「の」、「が」、「は」、「し」などと日本語の接続語として自在に訓みが与えられます。そこが紀貫之の時代と藤原定家の時代の差です。平安末期から鎌倉時代に行われた万葉集の訓点では「之」、「所」や「而」の文字を漢文読解での「助字」として扱っている節があります。従いまして、藤原定家の時代の歌訓みの癖から推定して、その伝本の書写された時代が古いからと、それが江戸期の研究や現代のものより万葉集の原本の解釈に近いとする考えは危険だと思います。所謂、テキスト論が指摘する、資料の質と信頼性の問題です。
 立場を変えて、「万葉歌を解読する」で提案されている新たな訓みの提案や主張は、鎌倉初期に藤原定家たちがどのように万葉集を訓んでいたかの研究としては、正しい方向と思います。ただ、その時、万葉集を原文からどのように読解するかを研究する賀茂真淵の立場と、鎌倉時代に和歌人たちがどのように万葉集を理解していたかを研究する「万葉歌を解読する」の筆者の立場とは、同じ研究の土俵の中にはいないことを理解する必要があると思います。テキスト論が指摘するように、使用するテキストにより結果として、意図するしないは別として、その研究する対象が変わっているのです。

 さて、紀貫之が古今和歌集の仮名序で宣言したように、互いの詠み人知らずの歌では詠まれた歌の時代が重なる危険性がありますが、万葉集4500余首と古今和歌集1100余首との間で採用された歌において重複するものは、ほぼ、ありません。(参考に個人の数えでは、三首)。ここから推測して紀貫之たちは万葉集に載る短歌を全て訓み切っていたと思われます。従いまして、土左日記や古今和歌集での真仮名の用法と万葉集での真仮名の用法の間では、大きな相違はなかったものと推測することが可能と考えます。
 そうしますと、賀茂真淵も含めてそうなのですが、万葉集歌の読解への正しい方向性としては最初に「所」の文字を漢語としての「ところ」、または真仮名としての「ソ」と訓んでみて、その可能性を検討してから、初めて次のステップへと進めるべきではないでしょうか。
 参考として、「所」を真仮名として扱うと無理に助字の概念を導入しなくても、先に例題引用のところで登場した歌は次のように訓読みと解釈が出来ます。ただ、場合により、知られている句切れの位置からは変わります。

集歌10 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君し代も吾が代もそ知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方が治めた時代も、私が治めている時代をも、きっと、知っているでしょう。その磐代の岡に生える草を、さあ、願いを籠めて結びましょう。

集歌149 人者縦 念息登母 玉蘰 影尓所見乍 不所忘鴨
訓読 人はよし念(おも)ひ息(や)むとも玉蘰(たまかづら)影にそ見つつ忘らえそかも
私訳 他の人が例え貴女への恋いを止めたとしても、私は美しい蘰がきっと貴女の面影のように思えて、絶対、貴女のことが忘れられないでしょう。

長歌抜粋
集歌443 天雲之 向伏國 武士登所 云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉
訓読 天雲し 向伏(むかふ)す国し 武士(ますらを)とそ 云はれし人は 皇祖(すめおや)し 神(かみ)し御門(みかど)に 外(そと)し重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)し重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)り
私訳 空の雲が遠く地平に連なる国の、その国の立派な勇者だと云われた人は、皇祖である神が祀られる御門の外の重なる塀に立ち警護して、内の重なる御簾の間に仕え申し上げて、

集歌645 白妙之 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
訓読 白栲し袖別るべき日を近み心に咽(むせ)ひ哭(ね)のみしそ泣く
私訳 共寝して白妙の袖を交わした、その袖を分けて別れる日が近いので、心の中に別れの悲しみにむせびながら泣き濡れます。

長歌抜粋;
集歌933 天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國
訓読 天地(あまつち)し 遠きが如(ご)と 日し月し 長きが如(ご)と 臨み照る 難波の宮に 吾(わ)ご大王(おほきみ) 国そ知ららし 御食(みけ)つ国
私訳 天と地が永遠であるように、日と月が長久であるように、照る陽に臨む難波の宮で吾らの大王がこの国を統治される。御食を奉仕する国・・・、

 こうしますと、「万葉歌を解読する」の第四章、第一節を結ぶにあたって使われた言葉、「通説と新説とを客観的に対等に扱い、それぞれの長所・短所を検証するという作業が行われなかったのは、非常に残念なことである」がしみじみと感じられます。
 伝聞・又聞きですが、第二次世界大戦で敗戦するまではきちんと高等教育を受けた人は変体仮名を使った連綿の文章が書け、読めたそうです。また、変体仮名は和語の発音五十一音字ではなく、数百文字ありますから、変体仮名を使う人は教養を示すと云う要請から場面や事柄に応じて変体仮名となる漢字を選択する必要があったそうです。つまり、紀貫之の時代と同じ風景です。
 悲しいことですが、何時の時代もそうですが、私のようなまともな教育を受けていない文盲は存在します。そのためでしょうか、藤原定家は古典を書写するときには、当時の人々が読み間違い易いと思われる文字は定家仮名遣いのルールを使い定家好みの仮名文字に変換したそうです。典型が土左日記の書写では「无(mo)」の真仮名の語を「毛」や「裳」に換字した例です。これは定家と為家とで土佐日記の表記が違うことで判明した事実ですので、両者が同じように読み間違いをしていた場合は、発見は難しいのではと思います。(この事実は裏返せば土左日記は漢字と変体仮名によって書かれた作品であって、平仮名文学ではない証明でもあります)
 さらに、注意しなければいけない事実に、秋萩帖に載る古今和歌集の歌と藤原定家書写の古今和歌集の歌との間に違いがあります。秋萩帖第一紙第一首は字足らずの三十文字の歌ですが、藤原定家書写の歌の方は三十一文字の口調が良い歌へと歌の内容とともに変わっています。第二首もまた同じです。現代も校本万葉集と云う名目で西本願寺本をベースに現代風にアレンジを加え万葉集原文に修正・訂正を加えていますが、同じように藤原定家も彼の解釈や歌詠みの口調に合わせて修正や訂正を行っていると推定されます。従いまして、万葉集についても、およそ、訓点の入ったテキストを訓読万葉集のテキストとして使う場合、それは原本テキストでは無いと云う事を十分に理解して、歌の鑑賞を行わないといけないのではと考えます。

第一紙 第一首
原文 安幾破起乃之多者以都久以末餘理処悲東理安留悲東乃以祢可転仁數流
詠下 あきはきのしたはいつくいまよりそひとりあるひとのいねかてにする
推定 秋萩の下葉いつく(=美しい)今よりそ独りある人の寝ねかて(=糧)にする

伝藤原定家写本 古今和歌集 220番歌
題しらず よみ人しらず
原文 あきはぎの下葉いろづく今よりやひとりある人の寝ねがてにする
詠下 あきはぎのしたはいろづくいまよりやひとりあるひとのいねがてにする

第一紙 第二首
原文 奈幾和多留閑里能美当也於知都羅武毛能毛布也登乃者幾能有部能都由
詠下 なきわたるかりのみとやおちつらむものもふやとのはきのうへのつゆ
推定 啼き渡る雁のみとや(=だけでしょうか)落ちつらむ物思ふ屋戸の萩の上の露

伝藤原定家写本 古今和歌集 221番歌
題しらず よみ人しらず
原文 なきわたる雁の涙やおちつらむ物思宿のはぎのうへのつゆ
詠下 なきわたるかりのなみだやおちつらむものもふやとのはぎのうへのつゆ

 最後に、「能書きは判った。万葉集を鑑賞するのに、では一体何を根拠とするのか」との質問には「万葉仮名に忠実であれ」と回答したいと思います。また、コンピュータ解析で急速に復元作業が進む平安時代の漢語と変体仮名文字で書かれた古典はここで参照資料としたように有力な万葉集解読の武器になると思います。また、古典読解を解説する場合は、国字の進化の歴史と使用するテキストをリンクして行う方が良いと考えます。参考に有名な源氏物語もまた原本は伝わっていなくて、紫式部がどのような書体で源氏物語を書いたのかは不明です。そして、現在、原本と称されるものは定家の写本が源流となっているようです。
 今回もまた手前味噌の内容となりました。実に恥ずかしいことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする