夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

照鏡見白髪  張九齡

2006年11月22日 23時13分30秒 |  漢詩を長崎弁で
宿昔青雲志
蹉[X]白髮年
誰知明鏡裏
形影自相憐
 x=た 蛇の偏が足
   照鏡見白髪  
張九齡 

       
宿昔 青雲の志
蹉たり 白髮の年
誰か知らん 明鏡の裏
形影 自ら相ひ憐まんとは
     「鏡に照らして白髪を見る」 

青雲の志に満ち溢れていた時は過ぎてしまって
今では白髪の歳になってしまった
自分と鏡に映った影が互いに哀れむようになってしまうなんて
誰が予想しただろう


風車訳

これがあの花の末路か
枯れ尾花

      天才~~!!!
      大統領~!!!
       


いっぱい夢を持ってた若いときはもう過ぎてしもうた
今では白髪いっぱい
鏡を見ながら自分と鏡に映った自分を互いに哀れんだ目で見交わすようになってしまうなんて
昔は思いもせんかったとに

独居高齢男性「親友なし」4割(内閣府)

2006年11月22日 17時03分52秒 |  姥捨て山は大騒ぎ
内閣府の調査によれば、独居高齢男性の4割が親友もなく、地元との付き合いもない人が4人に一人に上ると11月21日の読売新聞が報じている。
厳しい現実を見せ付けられたという気がする。
まだ健康、だけど独居、そして友人もなく、周りの社会とのつながりもなく、引きこもり、、
引きこもりが認知症や、寝たきりの温床になるということはよく言われている。
この調査の数字は、今日本のいたるところで、そこへの道をまっしぐらに走っていく老人たちの姿を見せてはいないだろうか。

確かに、生活費すら満足でない年金、さらに追い討ちをかけるような医療費など、高齢者を取り巻く環境は引きこもりを余儀なくするしかないような状況がある。

家族がいても、核家族化し人手の少ない家庭であれば、障害がでてきた高齢者を守るすべもなく、家庭崩壊のニュースもたくさんでてきている。

10月29日の朝日新聞のトップ記事も「介護予防 出足は低調」として予防介護のシステムが旨く働いていないことを報じていた。

http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/2e05b3772be3550a1c23a3e450c37bed

ブログでは何回か書いているけど、これらの独居老人をもっと身近な社会に引き出す方法はいくらでもあると思う。ただ政府なり、地方の役所なりが直接やっても無理があると思う。役所はその動きをアシストしてくれればいいのだし、むしろその方が費用的にも、効果的にもえられるものが大きいと思うのだけど。

http://blog.goo.ne.jp/t_ashizuka/e/69a98ea9812f33bbaf1071bbfd4a4660

でも、現実には何も動かないね。


いじめによる自殺にしろ、介護疲れによる自殺や、家庭崩壊であれ、その他もろもろ、なにかできるようなシステムが出来上がるまでに何人死ねばいいのだろう。
馬鹿な助成金とか、無駄な公費とか切り詰めて、現場に渡してあげ、もっと現場の自由裁量を認めれば、もっと有効に使えるし、苦しむ人を救えると思えるのだけど。(もちろん事後の報告は必要だろうけど) 
政府にそれを望むのは、絶対に無理って気がするのは、悲しいことですね。



2 心  企画者にも; アートマネージメントって何よ

2006年11月22日 16時04分37秒 | 芸術・文化
私はよくアーティストがいう芸術とは自分の心の表現という言葉を使い、それならアーティストである限り、自分の心、何を表したいのか、その底まできちんと把握するように努力しろっていう。

でもアーティストが作品を作るのが仕事であれば、それを人に紹介していく企画者は見るのが仕事といえないだろうか。心を表現するのはなにもアーティストだけの専売特許ではない。それに携わるものは、必死でそれを見ようとしているのだから。

企画者にとってはアーティストの心の叫びを受け止めることはまず最初に必要なこと。
でも掃いて捨てるほどいるアーティストとそれに輪をかけた数の作品、そのどれを取るのか、それも自分の心、思いの産物。企画書にめんめんと綴る言葉は企画者が本当にそのアーティストの作品に心を打たれ、また自分の気持としてそれをどう受け止めたかが行間にあふれるものであるはず。
もちろん文面は相手にとってその企画がどれほどのメリットがあるのかというような作文であるにしてもだけど。

美術館などの学芸員でなく、主催者側の新聞や、テレビでもなく、それらの人を説得し、自分の企画を受け入れてもらうためには、その企画のメリットだけなら、その人たちの前には10も20もの同じような企画が提出されているはず。新聞社の文化事業部のスタッフの机に行けば、そんな企画書は山のように積み上げられているのを見ることができるだろう。
それだけでは彼らの気持を動かせない。

企画者自身がそれにどれだけ感銘を受けて、どうしてもやるべきだと思っているかどうか、その気持が伝わるものでなければ、相手は動かない。

もちろん感銘、感情だけでは企画は動かない。だからマネージメントが必要なのだけど、単にメリットだけの計算ずくで動くのであれば、それはどんなに優れた作品、作家のものであっても、それは単なるマネージメントであり、アート・マネージメントではないし、単なるイベントであって、アート・イベントではない。

幸いなことに私は相手に恵まれたことも会って、35年近くもそのような、素晴らしいものを紹介したいという気持が底にあるものを相手に受けてもらってきた。
もし、たいしたものじゃないけど、仕事だから、これをやることで名前が挙がるからっていうような企画であれば、私はやらなくてもよかったのは本当に幸いなことだった。

作家の心が、企画者を動かし、それが企画者のネットで主催者や、その他のアートスペースを動かして広がっていく。
出だしは作家の心なのだろうけど、それが広がるのも心のネットワーク、なんていうと、おそらく馬鹿にされるのでしょうね。

でもそれで一生を過ごしてきた私の人生は誇るに足りるものだったのかもしれない。
私が価値を認めなかった多くの作家には申し訳ないけど。

アクセスランキング、足跡 そしてSNS; おまけに宣伝

2006年11月22日 10時27分42秒 | 芸術・文化
数ヶ月前にブログをこちらへ引越しして、昔の記事を転載したりしているけど、アクセスランキングを見ていると、一月ほど前に完全に昔のアクセス数を越え、この一、二週は昔の多い時期を毎日越えている。
MIXIをやられる方はご存知だと思うけど、MIXIには足跡というカウンターが着いていて、こちらのPVと同じような数を示している。
MIXIの足跡はこちらの一割にも満たない。
でも、そこがSNSの面白いところ。日記にコメントを頂く数はブログでは殆どないのに、MIXIはかなり多い。
気になって覗きに来て、何もしない人もいるのだろうけど、足跡を見ている限りではマイミクが多く足跡をつけ、コメントを残している。
MIXIの閉鎖性が、かえって親密感を増しているのでしょうね。
だから、MIXIと殆ど同じ機能を持ち、デザイン的にも同じようなSNSが誰でもアクセスできるという、一見プラスな要因を持っているにもかかわらず、会員数を延ばせないのも、この他人への不信感が基盤にある社会を反映したものっていうといいすぎかな。

ブログでのPVやアクセスIPの増加は、見られているっていう安心感は保障してくれるけど、道路に流れるディスプレイの映像、音楽や、街頭アナウンスと同じで中身までみてくれているわけじゃないんだという一抹の不安、不満もある。

広報を目的とした見てくれればいいという情報の流し方と、少数でもいいので相手とのインタラクティブ性を重視する立場、どちらをとるかだろうけど、、、

仕事でも同じね。人の批判を受けながらも自分の活動を大げさにPRして、それで自分の次の活動を容易にしていく、それが自分の夢への道と思う人は、特に個人的な力量で仕事をする人には多いのだろう。私は一種のハウスエージェントとして、大きなものの影に隠れて仕事をしてきているし、それが自分の性格にもあっていると思っているので、黒子でやれたことを却ってありがたく思っている。
たまにどうしても新聞やテレビに出なきゃいけなくて、そのあと「なんかどっかで見た顔」なんて相手に見られたりするととても気持が悪くなる。もちろんそれで仕事がやりやすくなる部分があるのは判るのだけど。
完全に理解している極少数の相手を間においての仕事が一番私にはあった仕事の仕方だったな。
どこまでいっても、なにをやっても道楽でしかない私の仕事ってことかもしれない。