スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

国際競技支援競輪&宿主

2017-02-12 19:34:17 | 競輪
 被災地支援競輪として小田原競輪場で開催された国際自転車トラック競技支援競輪の決勝。並びは根田-小埜-田中の千葉,堀内-新田の南関東,石塚-西岡の和歌山,松川-渡部の西国。
 根田がスタートを取って前受け。4番手に堀内,6番手に松川,8番手に石塚の周回。残り3周のホームから石塚が上昇。バックで根田に並び掛けたあたりで根田も突っ張る構えをみせましたが,石塚が叩いて前に出て,根田は3番手に。残り2周のホームに入ると3番手から根田が発進。小埜が踏み遅れて離れましたが,バックで追いつき番手を確保。4番手に石塚でしたが打鐘前から堀内も動いていき,田中の後ろには堀内。新田の後ろに石塚と松川が併走するような隊列に。バックに入ると堀内が発進。しかし小埜が番手から出ていったので前まではいかれず。小埜の後ろの田中が直線入口の手前から踏み込むと小埜を交わして優勝。後方から捲った松川の勢いをもらった渡部がバンクの中ほどから伸びて1車身差で2着。最後まで外を踏み上げていた堀内が4分の3車身差で3着。
 優勝した千葉の田中晴基選手はGⅢ初優勝。このレースは根田がどういう走りをするかによって結果が大きく変わるだろうと推測できました。後ろを引き出すような駆け方になったので,展開的には自力もある小埜が有利に。しかし踏み出したとき一時的に離れてしまい,そこで脚力を消耗していたのでしょう。堀内の捲りに合わせて発進した時点で,余力はそう残っていなかったようです。むしろ小埜にはしっかりと続いた田中は余力十分で,直線では抜け出すことができました。ラインから優勝者が出ましたので,千葉勢の作戦が成功したというところではないでしょうか。

 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesが生前に金銭の提供を申し出たけれどスピノザはそれを断ったという逸話は,リュカスJean Maximilien Lucasの伝記にも書かれています。このことからもそれは事実であったと断定できると思います。リュカスはスピノザの友人であり,少なくともフリースの遺言による年金をスピノザが受け取っていたということは知っていたと思われます。たぶんこの話も,スピノザから直接に聞いたことであったでしょう。ですがコレルスJohannes Colerusはそれをスピノザの話として聞くことはありませんでした。コレルスの取材対象はスぺイクだったのですから,スぺイクからこれを聞かされたのだと思われます。
                                     
 確かに金銭の提供を断ったというコレルスによる記述は真理だったと思われます。しかしそれを宿主の前で断ったとコレルスは書いているのです。この宿主とはだれのことでしょうか。
 コレルスはスぺイクに取材したことを基に伝記を書いたのですから,この宿主はスぺイクと解釈するのが妥当です。そして僕は事実,コレルスはそういう意図でこの部分を記述したと考えます。他面からいえば,コレルスの精神のうちに,スピノザがスぺイクの面前でフリースからの金銭の提供の申し出を断ったのだという認識があったのだと考えます。スぺイクがどういうようにこのことをコレルスに語ったのかは分かりません。ただ少なくとも,コレルスがそのように認識し得るような形でスぺイクは話したのだと僕は考えます。この見解はフロイデンタールJacob Freudenthalと一致してるといって間違いありません。
 しかしこれは事実に反するのです。フリースは1667年には死んでいます。そしてスピノザがスぺイクの家に居住するようになったのは1671年5月です。なのでスピノザがフリースの申し出をスぺイクの面前で断るのは不可能だからです。おそらく申し出はスピノザがフォールブルフVoorburgに住んでいるときになされたものと推測されますので,もし断ったのが宿主の面前であるのなら,その宿主はティードマンでなければなりません。ですがティードマンは1677年,すなわちコレルスがオランダに来る前には死んでいるので,コレルスがティードマンから話を聞くことはできなかったのです。

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