スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&手稿の発見

2024-04-09 19:15:56 | 将棋
 7日に名古屋で指された第9期叡王戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太叡王が10勝,伊藤匠七段が0勝。持将棋が一局あります。
 不二家の社長による振駒で藤井叡王が先手となって角換わり相腰掛銀。後手の伊藤七段は右玉。先手が仕掛けてからは激しい攻め合いの将棋になりました。
                                        
 第1図で後手は☖5五歩と銀を取りましたが,これが最終的な敗着とされています。
 最善だったのは☖8七歩成の王手。これには☗同桂の一手。そこでさらに☖7八角成と取って☗同王のときに☖7六銀と出ます。先手は☗8八歩と受ける一手。
 そこまで進めてから後手は☖5五歩と銀を取ります。この手は詰めろではないので先手が反撃に転じる局面。最も早い手は☗6九飛。しかし後手は構わず☖5六歩と銀を取ります。☗6三歩成が厳しそうですが☖5一玉と逃げて後手玉は詰みません。
                                        
 第2図は後手有望の局面とのこと。ただこの順に進めるのは後手としてはリスクも高そうに感じられます。この順しか後手になかったのなら,もっと前の段階での変化が後手には必要だったことになるでしょう。
 藤井叡王が先勝。第二局は20日に指される予定です。

 『エチカ』の手稿を携えたままロンドンを経由してパリに入ったチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは,そこでライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに出会いました。チルンハウスはライプニッツが優れた思想家であるとみたため,持参していた手稿をライプニッツに読ませることの許可をスピノザから得ようとしました。それが書簡七十です。その返信となる書簡七十二で,スピノザが許可を出さなかったので,チルンハウスはライプニッツには手稿を見せませんでした。というより,手稿があること自体を教えなかったのだろうと僕は推測しています。『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』では,シュラーGeorg Hermann Schullerが介したものも含めてチルンハウスとスピノザの間の書簡には,ライプニッツが介在していたとされていて,そういうことがあった可能性は僕は否定しませんが,それはライプニッツが『エチカ』の手稿を読むことができたからではなく,チルンハウスが部分的にスピノザの考え方をライプニッツに伝えるということはあったからだと僕は考えています。
 2010年になってこの手稿を発見したのはオランダ出身の哲学研究者のレイン・スプラウトという人物で,場所はヴァチカン図書館でした。この図書館には,かつての異端審問所に証拠として保存されていた多くの文書が1900年代の前半に移されました。この手稿は,元々は証拠文書として保存されていたものが,ヴァチカン図書館に移されたもののひとつであると推測されます。つまり,チルンハウスがもっていた『エチカ』の手稿は,一旦は異端審問所に証拠として保存されることになり,その後に多くの証拠文書と同時にヴァチカン図書館に移され,それがスプラウトによって発見されたという経緯があったことになります。
 したがって,まずはなぜこの手稿が異端審問所の証拠物件になったのかということを知る必要があります。そこには次のような事情があったと國分は説明しています。
 チルンハウスはスピノザが死んだ時点ではパリにいたのですが,その年の8月にはパリを離れてローマにいました。そこでひとりの人物に出会います。それがかつてはスピノザの友人であり,その後にカトリックに改宗して書簡六十七の二をスピノザに送った二コラ・ステノNicola Stenoです。
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