スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理一八&賞罰の配分

2016-12-09 19:29:18 | 哲学
 第四部定理五五および第四部定理五六は,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaと第三部諸感情の定義二九の自卑abjectioが,反対感情ではあるけれどもよく似ているということを示しています。しかし第四部定理五六備考によれば,自卑は高慢よりも容易に抑制され得るとされています。逆にいえば高慢という感情affectusは自卑という感情ほどには抑制されにくいということです。これはその他の条件が同一であると仮定すれば,高慢の方が自卑よりも感情として強力であるということを意味します。
                                     
 なぜ高慢の方が自卑よりも強力であるといえるのかは,各々の感情の定義から明白なのです。すなわち高慢とは喜びlaetitiaの一種であり,自卑は悲しみtristitiaの一種です。このことが高慢は自卑より強力であることの理由です。つまり一般的にいえば,喜びという感情は悲しみという感情よりも強力なのです。それを示しているのが第四部定理一八です。
 「喜びから生ずる欲望は,その他の事情が等しければ,悲しみから生ずる欲望よりも強力である」。
 この定理は,喜びと悲しみのどちらが強力であるかが比較されているというより,それらの感情から生じる欲望cupiditasではいずれが強力であるかが比較されています。ですが欲望というのは第三部諸感情の定義一から分かるように,受動的である限りにおいて人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。ですから与えられた喜びないしは悲しみのどちらが強力であるかを比べるより,与えられた喜びおよび悲しみによってどの程度まで強力な欲望が自身のうちに発生するかを比べる方が,感情の強さを正しく比較する尺度となるのです。たとえばある人間を喜ばせたいという欲望と悲しませたいという欲望のどちらが強いかを比較することで,その人を愛しているか憎んでいるかがよりよく比較できるようにです。
 つまり,高慢の方が自卑よりも強力な感情であるということの具体的な意味は,高慢から生じる欲望の方が,自卑から生じる欲望よりも強力であり,そうした欲望を抑制することがより困難であるということなのです。

 書簡四十二では,『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者が提示する神Deusには支配や摂理の余地がなく,賞罰の配分が排除されていると批判されていました。僕はこのことを,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenが人間的な力によって神の力を判断していたこと,いい換えれば神の力と支配者の力を混同していたことの証拠として示しました。しかし同時にこのことは,人間がほかのものより完全な存在であるとフェルトホイゼンがおそらく無意識的に前提していたことの証拠でもあると僕は考えます。なぜなら,フェルトホイゼンがここで賞罰の配分というとき,その配分を受けるのは人間だけであってほかのものではないと判断していたに違いないからです。他面からいえば,神が賞罰を配分するとすればそれは人間に対してだけであって,その意味において人間はほかのものと異なる特別の地位が与えられていると解していたに違いないからです。
 この書簡を正確に解そうとするなら,フェルトホイゼンは,神が賞罰,とくに賞を配分するのはキリスト教徒に対してだけであると判断していたとしなくてはなりません。つまりキリスト教徒は異教徒より完全であるというようにフェルトホイゼンは認識していたとみるべきです。同じ段落の中で,マホメットが預言者でなかったということを証明できないし,トルコ人,というのは異教徒,とくにイスラム信者のことを意味すると思われますが,かれらがキリスト教徒と異なっているということを示せないという意味のことを述べているからです。また,スピノザもそれに対して反論しています。そこではマホメットが預言者であるということは否定され,異教徒といえども敬虔pietasである限りキリスト者なのであるという主旨のことがいわれています。
 ですがこうした宗教的な文脈に関してはここでは考慮しません。というのは現在の考察の論点は,人間とほかのものとの完全性perfectioを比較することなのであって,ある人間と別の人間の完全性を比較するということではないからです。フェルトホイゼンは少なくともキリスト教徒が神の賞罰の配分を受けると思っているのであり,人間以外のものがキリスト教徒と同じように賞罰の配分を受けるとは思ってないでしょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

竜王戦&フェルトホイゼンの人間観

2016-12-08 19:37:52 | 将棋
 昨日から甲府で指されていた第29期竜王戦七番勝負第六局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4△2二銀。相腰掛銀に進みました。
                                     
 後手が先攻の構えをみせて組み上がったところ。待たずに△6五歩と仕掛けました。
 ▲同歩△同銀▲同銀△同桂と進行したのですが,桂馬で取られるのを先手は軽視していたようです。
 ▲6六銀と逃げるのは仕方がないところですが後手は△5七桂成と強襲。これは▲同銀と取ると△6九角で困るということなので▲同金と取りました。おそらくこのあたりの手順が先手の想定外だったものと推測します。後手は△6五歩と追撃。
                                     
 ここで▲7七銀と逃げると△3九角から後手の攻めは切れないようです。なので▲2四桂から攻め合いにいきましたが,放置して△6六歩と取り,後手の攻め合い勝ちとなっています。したがって先手が第1図のように組んではまずいということでしょう。
 丸山九段が勝って3勝3敗。第七局は21日と22日です。

 人間の身体corpusが人間の精神mens humanaによって統御されるべきものであるというデカルトの哲学の考え方については,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenは踏襲していると解してよいでしょう。ですから,フェルトホイゼンが,人間がほかのものよりも完全であるというとしたら,その場合の人間というのは人間の精神のことでなければなりません。この点ではフェルトホイゼンの人間観とフーゴー・ボクセルの人間観とは一致しているといえるでしょう。ただし,デカルトの哲学では,人間というのが精神と身体が合一unioしたものであるというのは基本的な原理で,フェルトホイゼンがそのことを否定するとは考えられません。なので純粋に人間観だけを抽出すれば,人間というのは不完全である身体と完全である精神の合一体であると解するのが適当と思います。ただしそこで完全とか不完全といわれているのはあくまでも相対的な意味です。いい換えれば精神は身体より完全であり,身体は精神より不完全であるという意味です。延長が不完全で思惟が完全であるということは,デカルトの哲学の形而上学から絶対的な意味に解してもあまり問題ないと思いますが,人間の精神が絶対的に完全なものだということは,必ずしも肯定されないと解しておくのが安全だと僕は判断します。
 一方,スピノザがすべての個体が精神animataを有するという場合には,フェルトホイゼンはそのことを肯定しないでしょう。したがって人間をほかのものと比較して完全であるという場合に,人間の精神だけがその規準となるとしても,それをほかのものの精神と比較しようという意図をフェルトホイゼンはもたなかったろうと思います。他面からいえばフェルトホイゼンは,精神を有するのが人間だけであって,それが人間がほかのものよりは完全であると認識する理由になっていたものと推測されます。この点でも,その人間観はボクセルに類似すると僕は考えます。
 書簡四十二でフェルトホイゼンが述べていた事柄のうち,今回の考察ですでに示しておいた部分が,フェルトホイゼンがおそらくは暗黙裡に,人間だけが精神を有している特別な存在であるということを前提していたことの証明にもなるだろうと僕はみています。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

デイリー盃クイーン賞&ボクセルの人間観

2016-12-07 21:47:36 | 地方競馬
 第62回クイーン賞
 逃げることが予想されていたトーコーヴィーナスが発走後に外へ外へと行きたがる素振り。このため外枠の馬たちの中には不利を被ったものがあったかもしれません。発走後の直線が長いこともあり,徐々に立て直して内に入っていったトーコーヴィーナスが先手は奪い,予想された展開に。隊列が概ね定まったのは向正面に入ってから。単独の2番手にノットオーソリティ。3番手はマイティティーとトロワボヌールの併走。ララベル,ミスミランダー,リンダリンダ,タイニーダンサー,ヴィータアレグリアの順で追走。この後ろにジュエルクイーンとケイティバローズが並び,少し差がある後方3番手にタイムビヨンド。残りの2頭は取り残されました。最初の800mは48秒0のハイペース。
 3コーナーを回るとノットオーソリティがトーコーヴィーナスを交わして先頭に。さらに外からトロワボヌールが迫り,直線の入口ではノットオーソリティを交わして先頭に。コーナーでいい勢いで追い上げてきたタイニーダンサーが直線では2番手になり,一時的にはトロワボヌールとの差が詰まりましたが,フィニッシュに向けてはまた差が開いていき,早め先頭のトロワボヌールが快勝。タイニーダンサーが3馬身差で2着。大外から最もよい伸び脚を発揮したタイムビヨンドが半馬身差まで迫って3着。
 優勝したトロワボヌールは昨年のスパーキングレディーカップ以来の勝利で重賞3勝目。第60回に勝っていてクイーン賞は2年ぶりの2勝目。メンバー構成だけでいえば負けられないところ。ハンデ差があったことと,昨年末に故障があり,今年の10月まで長期休養していたため,以前の能力を取り戻せているかという2点が懸念材料でしたが,それらを払拭しました。レース内容と斤量差から着差以上の強さがあったと判断するのがおそらく妥当で,かつてのように牝馬同士ならもっと上のレベルで戦っていけそうです。母は2003年のクイーンカップを勝ったチューニー。Trois Bonheurはフランス語で3つの幸福。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はクイーン賞初勝利。管理している畠山吉宏調教師は第60回以来2年ぶりのクイーン賞2勝目。

 フーゴー・ボクセル書簡五十五で,幽霊は霊の一種であるから神Deusに類似するといっていました。これはスピノザの哲学に則していえば,幽霊は思惟の様態cogitandi modiであるから,少なくとも思惟の様態でもあるから神に類似しているといっていると解せます。また,デカルトの哲学における実践的側面においては,人間の身体corpusは人間の精神mens humanaによって統御されなければならないものです。このことからかれらは,人間の身体がほかの物体corpusより完全であるか否かについては,あまり重きを置いていないと理解しても差し支えないだろうと思います。少なくとも人間の身体と人間の精神とを比較したときには,精神の方が完全であって身体の方が不完全であるとみなしているであろうからです。要するに人間の身体より完全な様態が存在するということについては認めているのですから,もしもあらゆる物体の中では人間の身体が最も完全であるとかれらが主張したとしても,このことは,かれらが人間はほかの様態よりも完全であると主張する場合には,無視してよい要素になると僕は考えます。
 幽霊が精神を有するということについてはボクセルは是認するのではないかと僕には思えます。ですがそのときにボクセルが念頭に置いているのは人間の幽霊のことだと僕は解します。したがっておそらくボクセルは幽霊が精神を有するということについては肯定するでしょうが,それは人間が精神を有することを認めているのと同じことだと考えます。そしてたぶんそのことが,人間がほかの様態よりも完全である,他面からいえば人間的本性が神的本性のうちに優越的にeminenter含まれているとボクセルが主張する根拠になっているものと思われます。つまり人間は精神を有するからほかのものより完全であるとボクセルは認識しているのです。したがってボクセルがそこでいっている人間というのは,精神を有するものというのと同じ意味だと解釈しておきます。つまりスピノザがすべてのものが精神を有するというのに対して,ボクセルは人間だけが精神を有しているといっているのだということです。
 フェルトホイゼンLambert van Velthuysenの人間観も,ある程度まではボクセルの人間観に類似していると僕は思います。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

岸和田キング争覇戦&擦り合わせ

2016-12-06 18:58:10 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された岸和田記念の決勝。並びは山崎に柏野,脇本‐古性‐稲川の近畿1と三谷‐村上‐篠塚の近畿2で林は単騎。
 脇本がスタートを取って前受け。4番手に三谷,最初は稲川の後ろにいたものの下げた林が7番手,8番手に山崎という周回に。残り3周のホームから三谷が上昇。バックの入口で脇本を抑えました。脇本がすんなりと下げたので4番手に林,5番手に山崎,7番手に脇本の一列棒状になって残り2周のホームへ。ここから脇本が発進。まだ誘導を前に置いていた三谷も踏んでいきましたがバックでは脇本が叩きました。三谷は4番手に入り,7番手に林,8番手に山崎の一列棒状に。バックに入るところから三谷が発進。古性は牽制せずに併せて出ていく形。最終コーナーから直線入口にかけてふたりの併走が続きましたが,振り切って古性が優勝。直線でふたりの間を突いた稲川が半車身差の2着に続いて地元勢のワンツー。三谷が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は記念競輪初優勝。このレースは近畿勢が6人もいたために別ラインでの戦いに。このために展開の想定は難しくなりました。結果的に地元勢を連れた脇本が後ろを引き出すようなレースに徹し,三谷はむやみには抵抗せず自分が勝てる位置を取るようなレースをしたため,6人で結束したような展開に。こうなれば自力もあって番手を回る古性には有利な展開。逆に先行争いを望んでいたであろう山崎はあてが外れたようなレース。脇本の奮闘に応えて古性が優勝を勝ち取ったというレースでしたが,年齢的にも脇本より若い選手なのですから,自力で優勝して初めて高く評価するべきなのではないかという印象も残りました。

 スピノザが身体corpusに対する精神mensの優越性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優越性を認めなかったということが,デカルト主義者やフーゴー・ボクセルとの間の争点になっていることは分かりました。次にもうひとつの争点,人間とその他のもの,スピノザの哲学の範疇でいえば人間と人間以外の様態modi,modusとの間の優越性ないしは完全性perfectioについて考えていきます。
 ボクセルは間違いなく人間の本性humana naturaだけが特権的に神Deusのうちに優越的にeminenter含まれているのであり,その他の様態の本性が優越的に含まれているとは思っていなかった筈です。このことが,人間がほかの様態よりも完全であると認識しているのと同じことだということはすでに説明しました。デカルトの哲学でも同じようにいえるとは断定できないですが,少なくとも人間の精神をその人間の身体の観念ideaと解する限りで,人間の身体の観念がその他の様態の観念より完全であるという前提はあったとみなしていいと思います。スピノザの哲学のように,すべてのものが精神を有すると解する限りで,人間の精神はほかのどの精神より完全であるという前提があったとみなしてよいだろうということです。ただし,デカルトの哲学にせよボクセルにせよ,すべてのものが精神を有するということ自体が受け入れられない見解でしょう。いい換えれば,人間がほかのものより完全であるか否かを考察するための前提となっている条件が,スピノザとデカルトあるいはボクセルとでは異なっていると解さなくてはなりません。したがってまず,双方の見解に沿うように,人間がほかのものより完全であるという場合の人間とは何かということを擦り合わせておく必要があります。
                                     
 スピノザの哲学では人間の精神はその人間の身体の観念です。すなわちそれらは同一個体です。よって第二部定理七およびその証明の意味により,因果関係の秩序と連結ordo, et connexioは一致します。なので人間の身体を考察の対象としようと精神を対象としようと,得られる結論は一致します。つまり人間の精神がほかのものの観念より完全なら,人間の身体はほかの物体corpusより完全です。逆に人間の身体がほかの物体より完全なら,精神もほかのものの観念より完全であることになります。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

叡王戦&身体の復権

2016-12-05 19:02:38 | 将棋
 万国津梁館で指された昨日の第2回叡王戦決勝三番勝負第一局。佐藤天彦名人と千田翔太五段は公式戦初対局。
 振駒で千田五段の先手。佐藤名人が横歩取りを誘ったところ,先手が変わった序盤戦を展開しました。
                                     
 第1図はどれくらいあるか分からないほど凡庸な局面。相場は▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛です。しかし先手は金を上がるのを保留して▲2四歩△同歩▲同飛といきました。
 この順だと後手から△8八角成▲同銀△3三角とするのも有力ではないかと僕には思えます。ですが△3二金と自重しました。ここで▲7八金なら相場に戻りますが,先手は▲5八玉と上がりました。
 今度は△8八角成▲同銀△3三角とすると▲2八飛と引いても銀にヒモがつかないので▲2一飛成の一手。指し手を限定できる分だけ後手は決行する条件は上がっていると思います。後手が△8八角成と指した場合に何を警戒したのかは分かりませんが,ここでも△4一玉と寄りました。
 先手はここで▲7八金と上がったので角交換の筋は消えました。以下は△8六歩▲同歩△同飛。これは相場と比べると先手は玉が5八に上がり後手は4一に寄っている形。どちらが得をしているのかは分かりません。
 後手が飛車先を交換したので今度は先手から▲2二角成△同銀と交換して▲7七角という,後手も狙いにできた筋を決行しました。玉の移動がないと成立しない形なので,この手が成立するようになったのは先手の得という判断はあるのかもしれません。
 玉の移動がないと△8九飛成で後手よしですがこの場合は△8二飛と引く一手。先手は▲8三歩と打って△5二飛を強要しました。
 この局面は▲2五飛と引いておくのもあるのではないかと思いますが▲3四飛と横歩を取り△5四歩▲3五飛△5五歩と進みました。
                                      
 この後は5五で飛車の交換に進みましたが,そこまでの飛車の動き方からすると先手が損をしているような感じが僕にはあります。でも局面自体はいい勝負でしょう。中盤で先手に見落としがあったのが影響し,将棋は後手が勝ちました。
 佐藤名人が先勝。第二局は11日です。

 スピノザが身体corpusに対する精神mensの優位性,延長Extensioに対する思惟Cogitatioの優位性を認めなかったことは,フェルトホイゼンLambert van Velthuysenのようなデカルト主義者にとっても,フーゴー・ボクセルのように,おそらくは確たる哲学的見解を有しているとは思われない多くの人びとにとっても,精神の価値を貶めるものと感じられただろうと僕は想像します。ボクセルは書簡五十五で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれるということを否定するなら,自分は神について何がいわれているのかをいっかな解せないという意味のことをいっていました。このとききっとボクセルは,人間の精神mens humanaあるいは思惟作用が神のうちに優越的に含まれていなければならないと判断していたのであって,人間の身体が神のうちに優越的に含まれるというようには認識していなかったと僕は思います。確かにボクセルは見聞きするということが神のうちに優越的に含まれている事柄のひとつだとは指摘しています。そしてスピノザの哲学において考えるなら,見ることも聞くことも延長作用といわなければならないでしょう。ただしボクセルは,神が人間のように手足を有し目や耳を有するというようには認識していなかったのであり,それがボクセルにとっては人間の身体が優越的に神のうちに含まれているのではないということの意味になっていたというのが僕の解釈です。
 スピノザはそれに対して,人間がなす思惟作用も神のうちに優越的に含まれることはないといったのです。ですからそれは精神の価値を貶めているというように思われたとして不思議はなく,実際にそうであったろうというのが僕の理解です。とはいえ,スピノザの主張を全体としてみるならば,それは精神の価値を貶めたというより,身体の価値を引き上げたとみる方が妥当だと僕は考えます。これもまたデカルト主義者からは批判の対象となるのですが,物体的実体substantia corporeaというのはスピノザの哲学でいえば延長の属性Extensionis attributumなのであって,それが神の本性natura,essentiaを構成する属性attributumのひとつであるというのが,哲学史的にはスピノザの新しい主張であったからです。つまり延長あるいは身体の価値の見直し,復権とでもいうべきことが,スピノザの哲学では行われたのです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

チャンピオンズカップ&精神の優位性

2016-12-04 19:04:55 | 中央競馬
 第17回チャンピオンズカップ
 カフジテイクとゴールドドリームはあまりよい発馬ではありませんでした。先手を奪ったのはモンドクラッセ。やや抵抗するところをみせたアスカノロマンが向正面に入ると2番手に控え,その外にコパノリッキーが並び掛けていきました。ブライトライン,モーニンと続き,その後ろにアウォーディーと追い上げてきたゴールドドリームの併走。向正面の半ばでアウォーディーは一時的に行き脚が悪くなり,外に切り返す形に。さらにメイショウスミトモとブライトアイディアが併走で続き,ここまでが中団馬群。差があってアポロケンタッキーが単独で追走。ロワジャルダン,ノンコノユメ,ラニの3頭が後方集団の前。サウンドトゥルーとカフジテイクの2頭がそこからまた差が開いての追走。最初の800mは48秒8のミドルペース。
 直線に入ってもモンドクラッセが先頭をキープ。コパノリッキーは後退してブライトラインが単独の2番手でしたが,道中で外に出していたアウォーディーが猛追。インからモンドクラッセの外に出したアスカノロマンも追い上げて競り合い。さらに最後尾に控えていたサウンドトゥルーとカフジテイクが差し脚を伸ばし,4頭の争いに。一旦は先頭に立っていたアウォーディーの外からサウンドトゥルーが交わして優勝。クビ差の2着にアウォーディー。半馬身差で内のアスカノロマンが3着。大外のカフジテイクはクビ差で4着。
 優勝したサウンドトゥルーは昨年の東京大賞典以来の勝利で大レース2勝目。このレースは距離適性と予想される展開から,末脚を持ち味とするこの馬かノンコノユメが優勝候補とみていました。安定して走っているように,能力の高さは疑い得ない馬ですが,勝ちきるところまでいくには展開面での助けが必要と考えておいた方がよいと思います。1600mだと短すぎるように思いますが,1800m以上のレースで大きく崩れることは今後もないでしょう。母の父はフジキセキ
 騎乗した大野拓弥騎手は昨年の東京大賞典以来の大レース制覇。チャンピオンズカップは初勝利。管理している高木登調教師はJBCレディスクラシック以来の大レース制覇。チャンピオンズカップは初勝利。

 第一部公理五は,同一個体である人間の精神mens humanaとその人間の身体corpusの間の優越性ないしは完全性perfectioの比較の上で,さらに重要な帰結をスピノザの哲学のうちに齎します。というのは,この公理が前提条件となって,第一部定理三が導かれるからです。そして,実在的にrealiter区別される相互のものの間では因果関係は生じ得ないことを一般的に示したこの定理によって,それを人間の精神とその人間の身体との間の関係として示す第三部定理二が,ひとつの具体例として示されることになるからです。
                                    
 ある人間の身体と精神の間に因果関係は生じ得ません。したがって人間の身体がある運動motusないしは静止quiesをすることによって,自分の精神のうちに観念ideaを生じさせたり意志作用volitioをさせたりすることはできません。同様に精神が何かの観念を形成したりある意志作用をすることによって,自分の身体を何らかの運動に決定することもできません。なお,念のためにいっておけば,第二部定理四九により,精神がある観念を形成するということとある意志作用をするということは,スピノザの哲学においては同じ思惟作用の異なった側面です。
 デカルトの哲学からはこうした見解は受け入れられません。なぜならデカルトの哲学では,精神の意志作用によって自分の身体を何らかの運動に決定するということが,一種の道徳ないしは倫理の根底にあるからです。いい換えれば,自分の精神が自分の身体の運動の原因となり得るというのが,デカルト主義におけるエチカの前提となっているのです。つまりこの部分にも,精神の身体に対する優位性を認める必要が生じているのです。
 デカルトの哲学における精神あるいは思惟の身体すなわち延長に対する優越性ないしは完全性というのは,形而上学的には思惟は分割が不可能で延長は分割が可能であるという点にあります。そして実践的には,思惟が延長を延長作用に決定することが可能であるという点にあるのです。スピノザは形而上学的側面については第一部定理一三系で否定し,実践的側面については第三部定理二で否定したのだといえるでしょう。フェルトホイゼンLambert van Velthuysenもフーゴー・ボクセルも,おそらくデカルトの見解に従っているのです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

竜王戦&比較

2016-12-03 19:34:55 | 将棋
 一昨日,昨日と湯川温泉で対局があった第29期竜王戦七番勝負第五局。
 丸山忠久九段の先手で渡辺明竜王横歩取り△8五飛。先手が中原囲いで後手が中住い金開き。手の流れで後手は金無双に組み替えました。当初は先攻の狙いだったと思いますので,後手の作戦が失敗した序盤だったのではないかと思います。とはいえ作戦負けというレベルではなかったのでしょう。
                                     
 後手が金無双を完成させた局面。先手は▲6五歩と動いていきました。
 銀挟みのような形で銀が取られるとか,銀桂交換の駒損の後でまた桂馬を取られて銀損になってしまうというのが後手にとって最悪のケース。それでも△同銀と取っているのですから,大丈夫という判断があったのでしょう。
 先手は▲7七桂と跳ねて銀を狙いにいきました。後手が△8六角と取ったところで▲7五歩と突いていますが,これは錯覚があったためでしょう。△同角に▲6五桂△同桂で駒得になったものの,そこで▲8七歩と受けています。
 手の流れとしていえば7筋を突いた以上はここで▲7六銀でなければおかしいといえます。ここで打てなかったのは,事前に錯覚があったためで,それなら突き捨てずに単に▲6五桂の方がよかったのだろうと思います。
 手番を得た後手は△2七桂と打ちました。無筋に思えるのですがこの場合は最善手だそうです。先手はここで▲7六銀と打ちましたが△1九桂成▲7五銀△同歩の二枚換えの手順に。
                                     
 第2図はまだ難しいと思いますが先手は悲観していたようです。この悲観は勝敗にも影響したかもしれません。
 渡辺竜王が勝って3勝2敗。第六局は7日と8日です。

 第二部定理七系から,神Deusの本性essentiaを構成する無限に多くの属性attributumは,どれも同等の力potentiaを有していることが理解できます。したがってあるひとつの属性を抽出して,その属性がほかの属性より優越的であるとか完全であるとかいうことはできません。むしろすべての属性が同じように完全であるとしかいえないのです。確かに第一部定義六説明により,ある属性が別の属性を否定し得るということは認めなければなりません。ですがこの否定の関係は任意に抽出した複数の属性のどれとどれの間でも成立する関係です。つまり各々の属性が実在的にrealiter区別されるということから生じる否定なのであって,一方が完全で他方が不完全であるという比較によって成立する否定ではありません。したがって人間が認識することができる思惟Cogitatioと延長Extensioの両属性に絞っていえば,思惟の属性Cogitationis attributumが延長の属性Extensionis attributumより優越的ではあり得ませんし,延長の属性が思惟の属性より完全であることもあり得ません。
 第二部定理六は,各々の属性の様態は神がその属性で説明される限りで神を原因とすることを示します。ですから各属性に優越性あるいは完全性の差異がない以上,異なった属性の様態の間でも優越性や完全性はあり得ないことになります。つまり思惟の様態cogitandi modiである観念ideaと延長の様態である物体corpusを何かひとつずつ抽出して,一方が他方より優越的であるとか完全であるとかはいわれ得ないことになります。こうしたことが一般的にいえるのですから,それが同一個体であっても同様です。第二部定理一三により人間の精神humanam Mentemとはその人間の身体の観念ですが,ある人間の精神と身体corpusとの間には,優越性の差異も完全性の差異もありません。むしろ延長の属性と思惟の属性の力が同等であることに注意すれば,同一個体間でも力は同等であるといわれなければならないでしょう。
 さらに第一部公理五は,実在的に区別されたものは,一方の認識によって他方を認識できないことを示しています。このことから,ある属性の様態の完全性を認識したところで,他の属性の様態の完全性は認識できず,したがってそれらを比較することさえ不可能であることが帰結するでしょう。これがスピノザの哲学での結論です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

リコー杯女流王座戦&神との類似

2016-12-02 19:03:33 | 将棋
 11月25日に静岡で指された第6期女流王座戦五番勝負第三局。
 加藤桃子女流王座の先手で里見香奈女流名人のごきげん中飛車。⑤から①-Bの変化に合流。先手が右の銀を進出させて一歩得を果たしました。
                                     
 先手が2筋突破を目指して歩を打った局面。公式戦に二局の前例があり,△9四歩でいずれも後手が勝っていたそうです。先手がそれに挑んだのはおそらく研究があったからでしょうが,後手の方から△2三同歩と変化しました。後手には別の研究があったということでしょう。
 ここは▲2三同銀成もありそうですが▲2三同銀不成でした。△2六歩と打たれたら▲3四銀成と指そうという意図だったと思います。不成でしたので後手は△3三金と逃げ先手は駒得を目指して▲2二歩。
 そこで後手は△5六歩と突きました。後手から角を交換されては王手飛車があるので▲4四角△同金としてから▲5六歩。当然△同飛でここも△5五角があるのでひとまず▲5七歩と受け後手は△7六飛と王手で回りました。
                                     
 僕はまず並べたときにはこんな手順で後手がよくなるわけがないと思いました。今は指さないとはいえ居飛車党ですので,こんな手順でよくされてはたまらないという気持ちもあったかもしれません。
 先手は駒を取ることが見込めるので固く▲7七歩と打つのも有力だと思います。ただしそれは指し方としては弱いのかもしれません。実戦の▲7七銀の方が目一杯に迎え撃っている感じがあります。
 後手はそこで△2七歩と叩いたのですが,対して▲4八飛と逃げたのが悪く△3六飛▲2一歩成のときに△5六歩▲同歩△5七角と攻め込まれました。
                                     
 5八に飛車を逃げていればこの順はありませんでした。この手を境に後手がよくなったようです。
 3連勝で里見名人が女流王座を奪取第3期以来3年ぶり2期目の女流王座です。

 スピノザが精神mensと身体corpusを同一個体とみなすことは,優越性を広く解する場合には,おそらくそれ自体が論難の対象になります。
 フーゴー・ボクセルは,最初は明らかに幽霊が物体corpusでもあると主張していたと僕は解します。ところが,書簡五十五ではあたかもそれが思惟の様態cogitandi modiであって物体ではないかのような主張をしました。そしてその中でボクセルは,幽霊は霊の一種であるから神Deusに類似するのであるといっています。ここで霊といわれているのは思惟の様態と解して間違いないと思います。つまりここでボクセルは,もし幽霊が物体であるならそれは神に類似しないであろうといっているか,少なくとも幽霊が物体としてみられるなら,それが神に類似しているかどうかは自分には分からないといっているのです。これは人間に変換すれば,人間は身体を有するから神に類似するとはおそらくボクセルは認識しないのであって,人間が精神を有するから神に類似するのだと認識するのであろうことを容易に推測させます。
 デカルトの哲学では物体的実体substantia corporeaというのは神ではありませんでした。これに対して思惟的実体というのを仮定すればそれは神です。したがってこの見解はボクセルの認識と似ているところがあるといえるでしょう。デカルトの哲学においてもし人間が神に類似しているというとすれば,それは人間の精神が類似しているのであり,人間の身体が類似しているということにはならないであろうからです。そしてフェルトホイゼンLambert van Velthuysenはデカルト主義者だったのですから,おおよそその種の見解を有していたと判断してよいものと思います。
 つまり,ボクセルにせよフェルトホイゼンにせよ,単に人間がその他の物体ないしは物体の観念と比べて優越的である,あるいは完全であると認定していたのではたぶんないのです。むしろかれらは,人間の精神が人間の身体に対して優越的であるあるいは完全であると認定していたのです。だから,身体に対する精神の完全性perfectioあるいは優越性を否定するスピノザの見解には同意できないのです。
 では,スピノザはどうしてその種の優越性あるいは完全性も認めないのでしょうか。その答えが第二部定理七系です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

勝島王冠&完全性の認識

2016-12-01 19:49:59 | 地方競馬
 昨晩の第8回勝島王冠
 僕は予期していなかったのですがモンサンカノープスの逃げになりました。2番手マークがセイスコーピオンで3番手にムサシキングオー。この後ろはブレーヴマン,ジャルディーノ,コスモカウピリの3頭の集団。発馬がやや悪かったケイアイレオーネは追い上げてその後ろ。逃げ馬ではない馬が逃げたたため最初の800mが51秒7のスローペースになったこともあり,前の10頭まではあまり差がない隊列になりました。
 3コーナーを回ってセイスコーピオンがモンサンカノープスに並び掛けていくとさらに外からムサシキングオーも追い,さらに外からケイアイレオーネが追撃。直線に入るとモンサンカノープスは一杯になり,残りの3頭で壮絶な競り合い。真中のムサシキングオーはやや走りにくいところがあったかもしれませんが,途中からは完全に脱落していますから着順に影響するような不利があったというわけではないでしょう。その後も2頭の叩き合いがフィニッシュまで続きましたが,先に前に出ていたセイスコーピオンが最後まで抜かせずに優勝。ケイアイレオーネがアタマ差の2着。ムサシキングオーは2馬身差の3着。
 優勝したセイスコーピオンは前走のマイルグランプリに続いて南関東重賞連勝。距離は伸びていましたが,JRAでの4勝は1800mと1900mのものでしたから,あまり不安材料ではありませんでした。スローペースは差がつきにくいのですが,同じように実力上位と目された2着馬と抜け出していますので,そのほかの馬たちとははっきりとした実力の差を示したといっていいでしょう。相手次第にはなりますが,重賞でも通用しておかしくない思われます。父はデュランダル。母は2004年のローレル賞を勝ったスコーピオンリジイ。祖母の半弟に2001年のラジオたんぱ賞を勝ったトラストファイヤー
 騎乗した船橋の森泰斗騎手ロジータ記念以来の南関東重賞制覇。第5回以来3年ぶりの勝島王冠2勝目。管理している川崎の八木正喜調教師は勝島王冠初勝利。

 完全性perfectioの尺度が属性attributumである限りは,ある様態modi,modusと別の様態との間で,どちらが完全であるかは決定することができないというのがスピノザの哲学での結論になります。この場合,決定することができないというのは,人間はある様態と別の様態の完全性を比較して,一方がより完全で他方は不完全であると認識することができないという意味です。
                                     
 第二部公理五が示しているのは,僕たちが認識することができる属性は,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのふたつだけであるということです。つまり僕たちは完全性の規準としては延長と思惟だけしか認識できないということです。なので,もしあるものが完全で別のものは不完全であるということを僕たちが認識できるとしたら,あるものには延長と思惟のふたつの属性を帰すことができるけれども,別のものには延長か思惟のどちらかしか帰すことができないという場合だけです。ところが第二部定理七系が示すところによれば,神からDei形相的にformaliter生じるすべてのことが,客観的にobjectiveも生じます。したがってどんな事物にもその観念が存在することになります。ですからある延長の様態が存在するならばその様態の観念も存在します。逆にある思惟の属性を帰すことができないもの,というのは人間にとっては延長のという意味になりますが,その様態の観念が存在するならば,その観念の対象ideatumの延長の様態も存在することになります。つまり延長の属性か思惟の属性のどちらかしか帰すことができない様態というものを僕たちは認識することができません。つまり様態と様態との間でどちらが完全であるかを認識することはできないのです。
 しかしこのことは第二部定理一三備考からより明白であるといえるでしょう。つまりスピノザの哲学にあっては,様態間の完全性は,何をもって精神というのかということと関係するのです。スピノザは形相的なある個体とその個体の観念は合一unioしている,すなわち同一個体であるとみなし,この観点から個体の観念の方をその個体の精神というのです。この限りにおいて,人間の身体corpusはほかの物体corpusより完全だとはいえませんし,人間の精神も人間の身体以外の観念より完全であるとはいえないのです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

竜王戦&様態の完全性

2016-11-30 19:08:22 | 将棋
 21日と22日に指宿温泉で指された第29期竜王戦七番勝負第四局。
 渡辺明竜王の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。ただし△2二銀。相腰掛銀になり,6筋に飛車を回った後手から攻める展開。先手としては守勢になるのは不本意かもしれませんが,総じて正しく受ければ余せるという展開が続いていたように思います。もっとも,後手の攻め方が最善であったかどうかは分かりません。
                                    
 飛車と金桂の二枚換えが行われた局面。ここで先手は▲6一飛と攻め合いに転じました。これは判断としては正しかったのですが,危険な面もあったようです。
 後手は△6七歩成と成り捨てました。これには▲同飛成もあるところでしょうが,渡辺竜王はあまりそういう指し方を目指して敵陣に飛車を打つことはしません。はたして▲5一角△5二玉▲9一飛成△8二銀▲7四角△6三桂▲同角成△同金▲8二龍△5一玉▲5二銀△4二玉▲6三銀不成△3一玉と一直線の攻め合いにいきました。
 ここまで進めて▲6七銀とと金を払うのは変調にも思えますが,むしろ進めてから払った方がいいという読みであったのでしょう。
                                    
 第2図から後手は△6九角▲7八香△6六金と攻めていきましたが,放置して▲2四桂と打った先手が勝っています。第2図ですぐに△6六金と打てば▲同銀しかなく,それから△6九角▲7八香で後手は目指すべき局面に誘導できたようです。それでも先手が残しているようですが,手順前後で先手玉の危険度を減らしてしまったのは確かだといえそうです。
 渡辺竜王が勝って2勝2敗。第五局は明日と明後日です。

 実在性realitasの尺度,すなわち完全性perfectioの尺度が属性attributumにあることは第一部定理九から分かりました。そして第一部定義六では,神Deumは無限に多くの属性から成っている実体substantiam constantem infinitis attributisであるとされています。したがって神が最高に完全であるということは,この定義Definitioを概念するconcipereことさえできればたちどころに理解できることになります。なお,このことは神が絶対に無限であるということから流出してくるのであり,絶対に無限ということが神の本性natura,essentiaを意味するとすれば,最高に完全ということは神の特質proprietasに該当すると,スピノザの哲学の下では考えた方がいいでしょう。しかしそれが本性であろうと特質であろうと,最高に完全なのが神であるということに間違いはありません。
 第一部定理一四は,神以外にはいかなる実体も存在しないことを示しています。そして第一部公理一の意味は,自然のうちに存在するのは実体と属性,そして実体の変状である様態だけであるということです。このうち属性は完全性の尺度であり,同時に第一部定義四によって実体substantiaの本性essentiamなのですから,あらゆる属性は神にのみ帰すことができることがここからも分かります。つまり神が最高に完全であるということはここからも理解できます。では様態の場合にはどうなのでしょうか。ある様態と別の様態は,一方が完全であり他方が不完全であるという関係を有することができるのでしょうか。
 僕たちは通常の場合にはそうしたことが可能であると思っています。フーゴー・ボクセルにせよフェルトホイゼンLambert van Velthuysenにせよ,人間的属性によって神の本性を認識している人は,どういう意味であるかに相違はあるにせよ,神は人間のようなものであると思っているのです。そしてそれは,人間が様態としては最も完全なものであると思っているのと同じです。他面からいえば,広い意味において人間に対して優越性を有するのは神だけであると思っているのと同じです。たとえばもしある人が,人間よりも完全な様態があると思うのであれば,その人はその様態の性質に準じて神のことを想像するでしょう。しかしそういうケースが存在しない,もし存在していたとしても非常に稀であろうということは明白だといえるからです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加