スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理二六&第二部定義五説明

2016-07-24 19:26:00 | 哲学
 第四部定理二八では,最高の善また最高の徳が神の認識にあるということが示されていました。この理由のひとつは,神が最高に完全という特質proprietasを有していることです。そしてこれは認識されるものからの説明です。もうひとつ,認識する側からの理由というのもあります。それは理性ratioの特質に関係するものです。そういう特質が示されているのは第四部定理二六です。
                                     
 「我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして精神は,理性を用いる限り,認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない」。
 ここで認識することといわれているのは,十全に認識することという意味です。これは理性による認識が必然的に十全な認識であるということからまず明らかで,そのゆえに理性が有益と判断するのは,十全な認識に役立つことだけであり,もし事物を混乱して認識することに役立つ何かがあるのだとしたら,理性はそれを有益とは判断しないということも帰結します。
 次に努力といわれているのは,ある意欲を意味するのではありません。たとえ理性による認識であっても,精神は自動機械automa spiritualeに類するものなので,何を認識し何を認識しないのかということを精神,理性的な精神が選別できるわけではありません。第三部定理七でいわれているような意味において,それが現実的に存在する理性の本性に属しているということです。
 最後に,十全な認識に役立つものを有益であると判断するというのは,第四部定義一により,そうしたものを善bonumと認識するという意味です。たとえばXが何かほかの事物を十全に認識することに役立つなら,理性はXを善と判断するということです。
 この最後の部分から,神の認識こそが最高の善であるということは明白であるといえるでしょう。第一部定理一五により,どんなものも神なしに十全に認識し得ないということが明らかです。だからあるものを十全に認識させることに最高に役立つのは,神,あるいは神の観念であるからです。

 スピノザがよい定義といっている分類と,僕の分類の間で差異が生じました。ここからはその差異を埋めていく作業です。しかしそのための障害となりそうな定義がありますので,それを考察しておきます。
 第二部定義五は,スピノザが書簡九でいっている内容と照合すると,よい定義とは認められていない,単なる主張と解する余地があると思います。スピノザがこれを定義として成立すると判断したのは,その直後の説明に起因すると僕は考えます。
 「私は無限定な継続と言う。なぜなら,存在の継続は決して存在する物の本性自身によっては限定されることができないし,また同様にその起成原因によっても限定されることができないからである。起成原因は物の存在を必然的に定立するがこれを除去することはないのだから」。
 要するにスピノザは,知性がある現実的に存在する個物を十全に認識することがあったとしても,その個物の持続の限界を認識することはできず,だからその持続についてはそれが無限定なものと認識する,あるいは認識せざるを得ないといっているのです。僕は現実的に存在する個物の本性には,その個物が持続するものであるということが属していると考えていますから,このスピノザの説明自体は納得できます。
 厳格にいうならこの説明というのは,第二部定義二の意味とか,あるいはそれと同じような意味を事物の本性だけでなく事物の起成原因causa efficiensに対しても適用することで論証されているということになるとは思います。つまりこれは公理系の内部では定義としては不適当で,定理でなければならないということもできるでしょう。ただ,知性が現実的に存在する個物を十全に認識する,すなわちそれを概念conceptusするなら,その存在の持続を無限定と認識するというのは,公理的性格を帯びていると僕は認めることができますから,これを定義とすることを僕は許容できます。
 一方,これが定義として成立するなら,僕の分類における純粋種ではあり得ません。これは無限定な継続を持続というだけでは不十分で,持続するものが概念されることを要求するからです。なので僕の分類上は,この定義は亜種としておきます。
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谷津の雑感⑤&純粋種と亜種

2016-07-23 19:15:34 | NOAH
 谷津の雑感④の続きです。
 谷津は1990年3月に試合中に頸椎を負傷して欠場。復帰したのは5月14日の東京都体育館サムソン・冬木と組み,タイガーマスクと川田利明のチームとの対戦でした。この試合中にタイガーが覆面を脱ぎ,素顔の三沢に回帰した一戦です。谷津はその前に,三沢を素顔に戻すことを馬場に進言したといっています。実際にこの試合中,谷津がタイガーの覆面に手を掛ける場面もあり,タイガーが覆面を脱ぎやすい状況にもっていったのは事実。なので進言したのが虚偽だとは僕は思いません。ただし実行については最終的に馬場が決断した筈で,その決断の理由が谷津からの進言であったというようには僕は考えていません。
 谷津はこの後,7月途中から試合を欠場し,8月にSWSに移籍しました。この理由については,この時点でジャパンプロレスからの同僚が永源遥だけになってしまったことと,負傷が完全に癒えていない自分に三沢や川田が気を使うのはよくないと考えたという二点を説明しています。谷津は天龍源一郎が離脱した全日本が盛況を迎えるためには三沢や川田がトップクラスにいくほかないと考えていたので,自身は身を退いたという意味だと僕は解します。谷津はSWSからは多額の移籍金を受け取っていないとしていて,要は金銭面が移籍した理由ではないといっているわけです。この部分が真実であるかは僕には判断がつきかねます。ただ,三沢や川田の上昇が必要だと考えていたのはおそらく真実で,事実として全日本はむしろこの後で最良の時代を迎えたのですから,その点は慧眼であったと思います。ただし,そういう時代を迎えるほどに全日本の人気が出るとは考えていなかったのではないでしょうか。
 移籍自体は契約違反であったようで,裁判になりました。これについても興味深い発言がありますので,それを最終回にすることにします。

 定義されるものAと定義の内容Bが一対一で対応し合わなければならないのだとしたら,BとはAにとって何であるのか,あるいは何でなければならないのかということが当然のように問われ得ることになります。なので単純にAをBと解するという定義がスピノザがいうよい定義であったとしても,Bに関してはその内容を問わなければならないのです。
                                     
 ただし,これは一般的にそういうことができるという意味です。どんな定義であったとしてもそれを問わなければならないというものではありません。確かにスピノザが書簡九でいっているように,それ自身が吟味されるためのみに立てられる定理,立てられなければならない定理というのは存在するでしょうし,公理系を全体としてみれば,そういった定義はむしろ必要とされるでしょう。いい換えれば知性が十分に理解することができる,すなわち概念することができさえすれば十分な定理もあるのです。たとえばBがAの何らかの性質,それは本性natura,essentiaであろうと特質proprietasであろうとあるいは共通概念notiones communesに類するものであろうと何であっても構わないのですが,そういう性質を意味するという場合に,この性質のことをAという,あるいはそういう性質を有するものについてはすべてAというというタイプの定義もあることになります。『エチカ』でいえば第二部定義六とか第四部定義八などはそういうタイプの定義であると僕は考えます。
 このようなタイプの定義の場合は,BがAにとって何かを問わなくて構いません。一方で,後に示すように問うべき定義というのもある筈で,したがって僕は実はスピノザが最初に分類したパターンのうち,僕が第一のパターンといったもののうちに,純粋種と亜種とがあると考えます。問わなくてよいのが純粋種で,問うべきなのは亜種です。
 僕の見解を示せば,第一部定義七第一部定義八も純粋種です。また第二部定義四第三部定義一なども,純粋種に数え上げてよいと考えます。これらの定義は定義されているものの性質について何かを示そうとしているというより,ある性質を有するものについて,それを定義されているものというということを示そうとしているからです。
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模倣の欲望&対応

2016-07-22 19:15:27 | 歌・小説
 第三部諸感情の定義三三で示されている競争心という感情は,基本感情affectus primariiのうちのひとつである欲望のうち,とくに他者の欲望を模倣することによって発生する欲望のことをいいます。いい換えれば感情の模倣affectum imitatioによって生じる欲望は,すべからく競争心といわれることになります。
 こうした感情というのは,亀山郁夫の文学論のキーのひとつになっています。もっとも亀山はスピノザ主義者ではありませんし,おそらくスピノザを読んではいないでしょうから,競争心とか感情の模倣といった,『エチカ』に著されていることばを用いることはありません。ですがこれを僕は「父殺し」や「使嗾」といった概念と同じ程度に,亀山は重視して文芸作品の読解を行っていると僕は解します。一方,僕自身はスピノザ主義者ですから,この観点において亀山が示している概念は不要です。僕はそれを感情の模倣というスピノザ主義に特有の概念によって説明することができるからです。たとえば先生の神聖な恋を恋したKの恋への模倣であるということを,僕はスピノザ主義的に解します。ですがスピノザ主義者ではない亀山には,これとは別の概念が必要になるのです。もちろん亀山の専門はロシア文学ですから,『こころ』を読解するということはありません。ですがもしも亀山がそれをすると仮定したなら,ロシア文学の読解のための概念装置をそのまま適合させるだろうと思われます。
                                   
 いろいろな著書で示されていますが,ここでは『共苦する力』から示します。この本の中で亀山は,フランス人哲学者のジラールの,模倣の欲望という概念をとりあげています。亀山の説明ですと,人は必ず誰かが欲望しているものだけを欲望するというのがジラールの見解のようで,これはスピノザとは違った考えです。ただそれはおそらく,欲望という感情自体の定義の相違に由来すると僕には思えます。亀山はこのジラールの概念を読解に大いに用います。ですが僕にはこの概念は不要なのです。

 書簡九シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに対して明示した定義Definitioのふたつのパターンのうち,僕が第一のパターンとしたタイプの定義が,『エチカ』のすべての定義を占めています。ではもうひとつのパターンに関しては,『エチカ』の定義を分析する際には有用ではないのかといえば,僕は必ずしもそうは考えていません。これは次の事情によります。
 一般に,AをBと解するという命題は,BであるものをAというという命題に置き換えることが可能です。この場合,Aが定義されるものを指示し,Bはその定義内容を意味すると考えてください。なのでAをBと解するという命題が定義として成立する,スピノザのいい方に倣えばよい定義であるのなら,BであるものをAというという命題もよい定義でなければならないと僕は考えます。
 おそらくスピノザもそのことを是認するものと思います。たとえば第二部定義二というのは明らかにBであるものをAというという形式で記述されています。ですがこの定義は,あるものの本性に属するものは,それがなければあるものが,またあるものがなければそれが,あることも考えることもできないようなもののことと解する,というようにいい換えることができる筈です。つまりこの定義も第一のパターンの定義であるということができなければなりません。つまりAをBと解するがよい定義であるというのと同じ意味で,BであるものをAというもよい定義だとスピノザは認めなければならないと僕は考えます。なお,本性に関するこの定義は,スピノザの定義の概念を複雑にさせていると僕は考えています。ですがそれは後に詳述するでしょう。
 このことから明らかなのは,AとB,すなわち定義されるものと定義された内容は一対一で対応し合わなければならないということです。つまりAをBと解するのなら,公理系の内部でBであるものをAというだけではまだ不十分なのであって,BであるものはAだけであるということができるのでなければなりません。もっと単純にいうと,AがBであるだけでは不十分で,BであるのはAであり,Aだけである,A以外のものはBではないことが成立しないといけないのです。
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絶対的権限&第一のパターン

2016-07-21 19:13:46 | 哲学
 スピノザは自身の政治論ないしは国家論に関するホッブズとの相違を,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十の冒頭部分で簡潔に説明していました。それによれば,ホッブズの国家論では市民が国家に対して自然権jus naturaleを全面的に譲渡している,他面からいえば市民の自然権の行使に対して国家が絶対的な権限を有しているけれども,スピノザの国家論においてはそれはなく,ホッブズが自然状態と規定しているような状態において個人が保持しているとみなされている自然権を,そっくりそのまま国家状態の市民も保持しているというものでした。少し別の面からもこれを検討してみます。
                                       
 これがホッブズとスピノザの,自然状態と国家状態の概念についての相違から生じているのは間違いありません。ホッブズにとって国家とは,万人の万人に対する戦いと表現される自然状態を,人間が克服した結果として得られる状態のことです。ホッブズが実際に国家がそのようにして成立したと考えていたのか,それとも現にある国家状態を上手に説明するための思考装置としてのみそう考えていたのかは僕には分かりません。ただ,その点に関してホッブズがどう考えていたのかとは関係なく,これでみれば自然状態と国家状態,すなわち自然と国家とが対立的な関係に置かれていることは一目瞭然といえるでしょう。哲学的にいえばこの考え方は,理性によって感情を統御することが可能であり,それが人間にとっての倫理であると規定したデカルトの考え方と近似性があるのではないかと僕には思えます。
 それに対してスピノザは,ホッブズのようには自然と国家を対立するものとは考えません。むしろ国家もまた自然の一部であると考えます。ですから自然状態であろうと国家状態であろうと,個人が自然権を同じように有するということは,きわめて当然の帰結でした。
 スピノザはこの部分の末尾に,自然状態においてはこれが常道だと書いています。これはホッブズのような考え方をする人には意味不明かもしれません。国家も自然の一部なので,市民に対して絶対的権限を有することは現実的に不可能であるとスピノザはいいたいのです。

 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の中で,第一のタイプの定義についてスピノザが示している事例は以下のようなものです。
 もしも公理系の製作者が,実体はただひとつの属性のみを有するといったとします。スピノザによればこれは単なる主張です。したがって証明する必要があります。つまりこのテーゼは公理系の内部では定理として記述されなければならず,定義としては不適当であることになります。
 しかしもしも,実体はただひとつの属性からなるものと解するというなら,これは定義として成立するとスピノザはいっています。ただこの場合には,公理系の内部に複数の属性からなる有が出現したときに,それを実体とは記述できなくなります。いい換えればその条件が守られる限りにおいて,これは定義として成立するテーゼであることになります。
 実際にはスピノザは後者の命題について,それはよい定義であり得るといっているのであり,定義として適当であるか不適当であるか,あるいは定義として成立するか成立しないかということを明確に言及しているわけではありません。ここでは便宜的にスピノザの説明をそのように解するということです。
 また,スピノザが実例としてこのテーゼを出したのは,書簡八でフリースが出した別の質問と関連付けるためです。実際にはスピノザは実体がただひとつの属性から成ると考えているわけではありません。第一部定理一一が無限に多くの属性から成る実体が必然的に存在すると主張していることからそれは明らかでしょう。そしてこの場合に実体とは第一部定義三でいわれている実体のことにほかなりません。
 スピノザの最初の分類に則していうならば,たぶん『エチカ』の定義というのはそのすべてがこのタイプの命題であるのです。この形に最も適合して記述されているのは,第三部定義一第三部定義二です。ここでは私はAをBと解するという形式になっているからです。しかし第一部定義一とか先述の第一部定義三のように,だれがという主語がなく単にAをBと解するという形式で記述されていても,これはこのパターンに分類されるというのが,現時点での僕の見解です。
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習志野きらっとスプリント&二種類の定義

2016-07-20 20:44:05 | 地方競馬
 地方競馬スーパースプリントシリーズファイナルの第6回習志野きらっとスプリント
 好発はリコーシルエット。1馬身は前に出たので普通はこの馬の単独の逃げになるところですが,フラットライナーズは追っていき,3コーナーに入るあたりでは併走から外のフラットライナーズが前に出るような形に。アドマイヤサガスが3番手。途中から行き脚が鈍ったように見えるルックスザットキルが何とか4番手。ネオザウイナー,イセノラヴィソンと外枠勢がこれらを追う位置。ランドクイーン,ラッキープリンス,サトノタイガーらが続きました。最初の400mは23秒1。これは超ハイペースなので,この距離のレースとしては縦長に。
 4コーナーではフラットライナーズが先頭。並んでいったのがアドマイヤサガス。結局はこの2頭のマッチレース。その時点ではアドマイヤサガスの方が手応えは優勢に思えたのですが,最後まで抜くことができず,優勝はフラットライナーズ。半馬身差の2着にアドマイヤサガス。大外を追いこんだサトノタイガーが4分の3馬身差まで詰め寄って3着。
 優勝したフラットライナーズは南関東重賞初制覇。昨年は南関東のクラシックに参戦した馬で,素質は高いものがありました。古馬とはB級からの対戦になりましたが苦戦。しかし3月に出走した1200m戦で勝利。次の大井の1400mのレースは負けましたが4月にA級との混合戦を1200mでで勝利。前走の川崎でのトライアルも差し切って勝ち,これで3連勝。つまりスプリント戦に高い適性があったということでしょう。ここも最近は苦戦が多かったJRAオープンからの転入馬が2着になっているように,現状のこの路線はJRA勢に能力の高い馬が多いので,重賞を勝つのは難しいかもしれませんが,地方馬のみでのスプリント重賞ならまだ勝てるのではないかと思います。母の父はタイキシャトル。母の半姉に1998年の優駿牝馬,1999年の中京記念,マーメイドステークス,府中牝馬ステークスを勝ったエリモエクセル
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は昨年の平和賞以来の南関東重賞制覇。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している船橋の林正人調教師も習志野きらっとスプリント初勝利。

 『スピノザ哲学研究』の12章の冒頭では,スピノザの哲学における事物の定義Definitioがいかなるものかが検討されています。僕はこのテーマについてはそれを主題に考えたことはありません。ですがほかのテーマにとっての必要性から,幾度となく定義がいかなるものであるのかを説明しました。とはいえそれは各々のテーマのための検討なので,一方でいっている説明と他方でしている説明とが,喰い違って理解されているおそれを感じています。よい機会ですのでここからそれらを矛盾なくまとめ上げることにします。なのでここからの検討は,工藤の論考とは直接的には関係しません。スピノザの哲学においてはどのようなテーゼが定義として成立し得て,逆にどのようなテーゼは定義として成立し得ないのかということの,僕の一般的な見解を示すことに比重が置かれます。
 まず基本的にスピノザは,定義,これはとくに公理系の内部での定義を意図していると思われますが,その中で成立する定義には,タイプの異なった二種類のものがあると考えています。この二種類の分類が,第一の分類であると僕は解します。そしてそのうちのひとつは,単なる言語の問題なので,文法的に成立するならそれ自体で定義として成立し得るとスピノザは考えていて,もうひとつのタイプは,実際に何が定義されるのかということと関係するので,ただ単に文法的に成立しているのはもとより,命題が真であるというだけでも定義としては成立し得ないとスピノザは考えているというのが僕の見解です。
                                     
 スピノザはシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の中で,この二種類の分類について触れています。スピノザが述べている順番は,僕が上に示したものとは逆ですが,第一のタイプの方が結論を出しやすいので,僕はそちらを先にしました。僕の順序に則していうなら,前者はそれ自身が吟味されるためにのみ立てられる定義で,後者は本性が求められているものを説明するために役立つ定義です。後者は命題が真でなければならないのは当然ですが,前者の場合にはその必要がないとスピノザはいっています。つまり真の命題でなくとも成立する定義があるとスピノザはいっているのです。
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サマーナイトフェスティバル&スピノザの前提

2016-07-19 19:07:58 | 競輪
 川崎競輪場で被災地支援競輪として実施された昨晩の第12回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは平原‐武田‐諸橋の関東,深谷‐金子の師弟,吉田‐浅井の中部で村上と園田は単騎。
 浅井がスタートを取って吉田の前受け。3番手に平原,6番手に村上,7番手に深谷,最後尾に園田という周回に。残り3周のバックから深谷が上がっていこうとすると先に村上が動き,これを平原が追って,ホームで吉田を叩いた平原が前に。さらに深谷が叩き,園田も続いて前に。引いた吉田が上昇していき,最後尾になった村上はこちらに切り替え,バックで吉田が深谷を叩き,村上まで出て打鐘。吉田はそのままスピードを緩めなかったので早めのかまし先行に。3番手に村上,4番手に深谷,6番手が園田で7番手に平原という一列棒状でホームを通過。バックに入ると浅井が外へ自転車を振りつつ後ろを警戒。直後の村上は何とかバックの中ほどで発進するもその後ろの深谷はまったくタイミングがつかめず。村上は浅井に半車身くらいまでは迫れましたが,浅井の再三の牽制で前には出られず,コーナーから踏んでいった浅井を追う形に。平原は浮いた深谷の影響を受けたため,バックから内を回った武田が村上を追い,直線は村上の外から粘る浅井に迫ってフィニッシュ。しかしこの猛追は届かず,優勝は浅井。8分の1車輪差の2着が武田で半車身差の3着に村上。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の福井記念からの連続優勝。ビッグは昨年の競輪グランプリ以来の4勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。吉田は愛知ですが深谷ラインとは連係せず,中部が別ラインの勝負。しかしやり合うことは考えにくく,場合によっては協力するようなレース展開もあり得るとみていました。村上がうまく浅井を追ったので4人で並ぶことにはなりませんでしたが,ラインの厚い関東を後方に置くことには成功。たとえば園田も村上を追い掛けていて,浅井の内を突くようなレースになっていたら厳しかったかもしれませんが,自身のインに割り込まれるようなレースにはならず,早めに駆けた吉田を最大限に利し,村上の捲りを封じることにも成功しての優勝。なかなか大変なレースであったとは思います。2着に突っ込んだ武田は伸び脚が目立ち,調子を取り戻しつつあるかもしれません。

 スピノザは硝石の本性を単に永遠の真理として認識していたというより,永遠であるからそれは不変であるということを主軸にロバート・ボイルRobert Boyleと議論していたように僕には思えます。つまりボイルは現実的に存在する硝石の実証実験を行った上で,硝石は分解され得るし生成もされ得ると主張したのに対して,スピノザは硝石の形相的本性が永遠であるということを論拠として,硝石の本性は不可分的なものでなければならないと主張していると僕は解するのです。これはボイルからすれば硝石は分解されもしないし生成されることもないとスピノザが主張しているという意味になりますから,そういう見解を受け入れられなかったのは当然のことと思えます。
                                     
 したがってこのときのスピノザは,硝石という個物の存在を,神の延長の属性に含まれているいるものとして前提していたというよりも,端的に分割不可能なものと前提していたと解する方が正確かもしれません。要するに第一部定理一三系物体的実体は分割不能であるとスピノザがいうとき,そのような物体的実体としてスピノザは硝石の本性を前提していたように思われるのです。
 どのような仕方でこれを説明するにしても,この論争におけるスピノザの前提が,『エチカ』の自然学において物体,とくに現実的に存在する物体について言及する場合とは相容れないということは間違いないように思います。むしろそれに則していたのはボイルの方であったというべきでしょう。したがってボイルが実証という方法で示した事柄を,議論していた当時のスピノザは受け入れていなかったとしても,後にはその見解を受け入れるようになったという工藤の見解は正しいものと思います。つまりその意味において,スピノザは実証主義的見解を是認するに至ったということは,極度の誤謬ではないと思います。ただし思考の方法論としては,スピノザは実証的なものより合理的なものが確実な認識の基礎になるという見解は変えていないと僕は考えますので,このような意味においてスピノザが合理主義者から実証主義者になったというのは誤りだと思います。
 ボイルとの論争に関しての考察はこれで終了です。
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農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&硝石の把握

2016-07-18 19:19:03 | 地方競馬
 第20回マーキュリーカップ
 先手を主張する馬が不在。ゆっくりとマイネルバイカがハナへ。正面では2頭が2番手を併走していましたが,向正面に入るあたりでケイアイレオーネが単独の2番手,タイムズアローが3番手に。この後ろはハイフロンティア,ストロングサウザーで加わっていったのがマイネルバウンスとクラージュドール。ユーロビートがこれらの後ろでそれをマークするような位置にソリタリーキング。超スローペースだったものと思います。
 3コーナーを回るとケイアイレオーネがマイネルバイカに並び掛けていってややペースアップ。タイムズアロー,クラージュドールが前を追い掛け外を回ったのがユーロビートで内からストロングサウザー。直線に掛けてマイネルバイカが外に出したので,外を回った馬は距離をロス。開いた内に突っ込んだのがストロングサウザーとタイムズアローでさらにその内からマイネルバウンス。外に出して粘り込みを図ったマイネルバイカ,大外になってしまったユーロビートの5頭による争い。ここからストロングサウザーだけは抜け出して優勝。2馬身差の2着はその外のタイムズアロー。ハナ差の3着がさらにその外のマイネルバイカ。大外のユーロビートが半馬身差の4着で最内のマイネルバウンスはアタマ差の5着。
 優勝したストロングサウザーは2月の佐賀記念以来の重賞2勝目。このレースはJRAからトップクラスの出走がなく,南関東から上位の馬が遠征してきたので大混戦。結果的にコース取りが明暗を分けた部分も大きかったように思います。ただ,2着争いが熾烈だったところを抜け出しているので,快勝だったことに間違いはありません。とはいえこれより上のレベルで戦うのはまだ苦しそうという印象が残りますから,相手次第でまたチャンスを得られるかといったところではないかと思います。父はハーツクライ。Southerは南風。
 騎乗した田辺裕信騎手と管理している久保田貴士調教師はマーキュリーカップ初勝利。

 『スピノザ哲学研究』では,スピノザがロバート・ボイルRobert Boyleと硝石の本性に関して論議しているときには,ボイルは硝石を現実的に存在する物体として把握していたのに対して,スピノザはそれを理性の有entia rationisと解していたという主旨で記述されています。これはスピノザが硝石の本性を現実的に存在する物体の本性としては認識していなかったという意味において僕の見解と同一です。したがってその点においては僕は工藤の見解に同意します。ただしスピノザの哲学を全体としてみた場合には,この説明は好ましくないと僕は考えています。
                                     
 スピノザの哲学における理性の有というのは,真の意味における有ではありません。いい換えれば実在的有ではありません。しかしボイルと論争していたときのスピノザが,硝石を実在的有と把握していなかったというようには僕には思えないのです。むしろ個物の存在に則していうなら,ボイルは硝石の現実的本性actualis essentia,すなわち現実的に存在している硝石の本性について言及しているのに対して,スピノザは神の属性の中に含まれている硝石の形相的本性について言及しているように思えるのです。個物は神の属性に含まれて存在していようと現実的に存在していようと,実在的有であるという点に変わりはありません。なので僕はスピノザが理性の有として硝石の本性を認識していたという説明は,正確さを欠く一面があると思うのです。
 ただし,スピノザが,理性によって認識される硝石の本性を認識していたというなら,僕はそれを否定はしません。第二部定理四四系二から明らかなように,理性に基づいて硝石の本性を認識するというのは,硝石の本性を永遠の相の下に観想するということにほかなりません。しかし硝石の現実的本性は永遠の相の下に把握されるものではありません。現実的に存在する本性が永遠に存在するというのは,持続のうちに存在するものが永遠のうちに存在するといっているのと同義であり,それ自体では不条理であるからです。
 もっとも,このようにいうと,単にスピノザが硝石の本性を永遠の真理として認識していたという側面だけが強調されそうです。それはそれで誤解を生じるかもしれません。
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第三部定理五〇&分解と生成

2016-07-17 19:03:20 | 哲学
 スピノザはバリングPieter Ballingに送った書簡十七の中で,人が感覚する前兆とか予兆について詳しく語っています。『エチカ』の中でこれと最も関連するのが第三部定理五〇です。
                                     
 「おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる」。
 岩波文庫版で恐怖と訳されているmetusを,僕は不安と訳すということは再三いっている通りです。ですからこの定理はこのブログの表記だと,どんなものも偶然に希望や不安の原因となり得るということになります。
 どうしてこのようなことが起こり得るのかということの基本は,第二部定理一八にあります。この定理によって,僕たちはある表象像から別の表象像へと容易に移行するということ,いい換えればAを表象することによってBを連想するということがしばしば生じるということを理解します。このとき,Aは希望も不安も感じさせないような表象であったとしても,Bは希望なり不安なりを感じさせる表象であるという可能性はあり得ます。しかるにこの人はAを表象すればBを連想するのですから,Aはそれ自体では希望の原因でも不安の原因ではないとしても,Bを連想させる限りでは希望または不安の原因であることになります。かくしてこの人にとってAは,偶然によって希望または不安の原因となるのです。
 バリングは自身が表象した泣き声,おそらくそれは空耳ですが,その表象像から自分の子どもの死の表象像を連想しました。このためにバリングにとって空耳の表象像は,偶然によってバリングの不安の原因になったといえます。他面からいえば,その泣き声から自身の子どもの死を連想しなかったなら,バリングにとって空耳の表象は,バリングに不安も希望も感じさせないような表象であったといえるでしょう。

 現実的に存在する硝石といわれる物体にある外部の原因が与えられることによって,その物体の運動と静止の割合が破壊され,いい換えるならその特定の有機的結合を果たしている運動と静止の割合に変化がもたらされるなら,その物体はもはや硝石といわれる物体としては現実的に存在し得なくなります。ただしそれは,物体が存在しなくなるという意味ではあり得ません。物体は物体として存在し続けるけれども,硝石といわれる固有の物体としては存在し得なくなるという意味です。よってこの場合には,硝石といわれる物体とは異なった運動と静止の割合を有する物体が存在するようになります。化学的にいえば,硝石が分解されるというのを,『エチカ』の哲学に基づいていうならこのように説明されるということです。
 『エチカ』では詳述されていないのですが,この現象から逆の場合も生じ得るといえます。すなわちある固有の運動と静止の割合を有するいくつかの物体に,外的な原因が与えられることにより,それらいくつかの物体が有機的に結合を果たす結果,硝石といわれる物体に固有の運動と静止の割合に変化するなら,それによって硝石の本性を有する物体が現実的に存在し始めるようになります。前の場合が硝石の分解を意味するのなら,こちらは硝石の生成を意味するといえるでしょう。
 このようにして,『エチカ』では現実的に存在する硝石は分解され得るし,逆にいくつかの物体の有機的結合によって硝石が生成され得るということが是認されているといえます。このことからスピノザとロバート・ボイルRobert Boyleの間で交わされた硝石の本性に関する論争を探求した場合には,それに則したことをいっているのはボイルの方であって,スピノザはむしろそれに反駁しているように僕には思えます。なので,この当時のスピノザには,後に『エチカ』の自然学に示したような物体に関する見解というのが,確たるものとしては存在していなかったと思えるのです。そしてボイルは実際に硝石が分解されるということを実証しているといえるので,『エチカ』の見解はその分だけ実証主義的見解を取り入れているというように解することも可能と思うのです。
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大仁田厚&硝石の本性

2016-07-16 19:10:46 | NOAH
 『全日本プロレス超人伝説』の第6章は大仁田厚です。これは僕には意外でした。僕は1985年の正月に全日本を引退し,1989年にFMWを設立してエースとなって以降のプロレスラーとしての大仁田は評価していますが,全日本時代の大仁田はあまり評価していないからです。正直にいえば僕にとって全日本の大仁田は,1982年11月に,試合後にチャボ・ゲレロにトロフィーで襲われて腕に大怪我を負わされた選手以上でも以下でもないのです。
                                     
 その後,1983年の4月に大仁田は左足の膝を粉砕骨折するという大怪我に見舞われました。この負傷も実は僕が大仁田をあまり評価しない理由のひとつになっています。というのはこの負傷というのは,試合中のアクシデントによるものではありませんでした。この日はチャボの弟のヘクター・ゲレロと対戦。タイトルマッチで防衛に成功したのですが,その試合後,エプロンからリングサイドに飛び降りたときの負傷だったのです。もちろん膝の状態の悪化はおそらくそれまでの試合によるもので,この瞬間に強い負荷がかかったための負傷ではあったでしょう。ですがどう考えてもこれは避けられる筈だったアクシデントで,こういう仕方で負傷してしまうというのはプロとしてどうなのかと思ってしまうのです。
 この後,手術などで1年以上の休養を経て復帰しました。このときは王者がマイティ・井上。井上に挑戦という形になり,1度は両者リングアウト。2度目の挑戦で敗れ,これが自身に引退を決意させたようです。このとききちんと相手の膝を容赦なく攻撃した井上の方が,大仁田よりも僕には評価できるのです。
 大仁田本来の能力が開花したのはやはりFMW設立後でしょう。FMWの試合は僕も何度か生観戦しています。身体は小さい選手でしたが,自分を大きくみせる術というのをよく心得ていたというのが最も強い印象です。

 一般に物体の現実的本性actualis essentiaが,その物体に与えられている運動と静止の割合によって決定されるなら,たとえば硝石といわれる物体に関しては,硝石に固有の運動と静止の割合があるのでなければなりません。
 このとき,硝石の本性すなわち運動と静止の割合が,理性ratioによって推論される限り,それは永遠の真理です。これは第二部定理四四系二から明白だといわなければなりません。そしてそれが永遠の真理として概念されるのは,硝石という個物の存在の形相的本性が,神の延長の属性の中に含まれたものとして認識されるからです。これについては第二部定理八を参照してください。しかし理性による認識とは異なり,個物が現実的に存在する場合,他面からいえば個物の現実的本性が概念される場合には,それは永遠の真理ではありません。むしろある一定の持続のうちで真理であることになります。こちらについては第二部定理八系を参照してください。
 第三部定理六とか第三部定理七というのは,現実的に存在するすべての個物に妥当します。したがって硝石が現実的に存在するという場合にも妥当します。よってこれらの定理から,現実的に存在するある硝石の現実的本性が,その硝石自体を原因として排除されるとか消滅するといったことは生じ得ません。いい換えれば,知性が現実的に存在するある硝石を十全に認識するということがあったとしても,それだけでその硝石の現実的本性が破壊されるというようには認識し得ないことになります。
 ところが,現実的に存在する硝石,いい換えれば一定の持続のうちに存在する硝石の現実的本性は,破壊され得ないものではありません。これは第四部公理から明白だといえます。ところで硝石の現実的本性は,ある定まった運動と静止の割合なのですから,硝石が破壊されるとは,その運動と静止の割合にある変化が生じるということです。こちらは岩波文庫版の114ページからの第二部自然学②補助定理四,五,六,七から導けると僕は考えます。これらは運動と静止の割合が同一なら同一の物体であるという意味なので,逆に運動と静止の割合が変化したら別の物体になるということだと解せるからです。
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時代&第二部自然学①補助定理一の意味

2016-07-15 18:55:51 | 歌・小説
 「波の上」という歌は,歌い手が貨物船に乗船していると解することもできるし,桟橋で出港する貨物船を見送っているというようにも解することができます。歌詞というのは決まった数のことばで語られるので,この場合のように意味が両様に解釈できるケースというのが意外に多くあります。とても有名な歌の中でいうと,「時代」はそういう解釈が可能な歌詞になっています。
                               
 この曲の場合は同じ旋律のふたつの部分がどちらも両様に解せるようになっています。両方を紹介するまでもありませんから,後から出てくるフレーズの方を例示します。

     まわるまわるよ時代は回る
     別れと出逢いをくり返し
     今日は倒れた旅人たちも
     生まれ変わって歩きだすよ


 この部分でいうと,旅人が倒れるのはいつなのか,あるいは歩き出すのがいつなのかということについて,ふたつの解釈が可能になっています。
 ひとつは,今日は倒れてしまった旅人も,いつか生まれ変わって歩き出すというものです。この場合には旅人が倒れるのは現在で,歩き出すのは未来ということになります。
 もうひとつは,かつて倒れてしまった旅人が,今日は生まれ変わって歩き出すというものです。この場合だと旅人が倒れるのは過去で,歩き出すのが現在ということになります。
 僕はこの曲を聴く場合には,第二の意味の方で解釈している場合が多いように思います。しかし「今日は」が冒頭にある語順からすると,第一の意味に解する人の方が多いのかもしれないとも思うのです。

 ある特定の運動と静止の割合を有する物体が,同一の記号で表現されるという見解は,岩波文庫版の111ページの第二部自然学①補助定理一から確かめられると僕は考えています。この補助定理では,物体は運動と静止に関して相互に区別されるということがまず述べられています。このとき,物体Aと物体Bが運動と静止に関して区別され得るためには,物体Aの運動と静止が,物体Bの運動と静止と異なっているからだといわなければなりません。もちろんその直後の第二部自然学①補助定理二の論証でいわれているように,物体Aも物体Bもあるときは運動しまたあるときは静止するという点では一致します。ですがこれは物体Aも物体Bも第二部定義一でいわれている意味において,神の本性を一定の仕方で表現するからにほかなりません。物体Aと物体Bが異なる物体として区別され得るためには,各々の現実的本性actualis essentiaには相違がなければなりません。その現実的本性の部分が,運動と静止の割合の相違を意味すると僕は考えるのです。
 この補助定理は同時に,速さと遅さでも区別されるということを主張しています。僕はこの部分が何を意味するか分かりません。それでもあえて現時点での解釈を示しておけば,ある物体は運動と静止の割合が同一であっても,その速さに相違があるなら,異なった記号で表現されることがあるというほどの意味ではないかと思います。たとえば水と氷というのは,運動と静止の割合でいえばそれは同一でなければなりません。これは同一の本性を有するものが,液体であるか固体であるかの相違だけを示しているといえるからです。したがって運動と静止の割合が同一であっても,その運動がある規定された速度よりも速い場合には水と表現され,それよりも遅い場合には氷と表現されるということがあるというような意味がここには含まれているのではないかと思います。
 いずれにしても,ある特定の運動と静止の割合を有して現実的に存在する物体は,同一の現実的本性を有するということでないと,第二部自然学①補助定理一は成立しないと僕はみます。この『エチカ』の観点から硝石の本性についての論争を検討します。
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