スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&同義反復

2016-08-27 19:16:51 | 将棋
 昨日の第29期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
 三浦弘行九段の先手で丸山忠久九段の一手損角換り4。ただし△2二銀と上がりました。後手が9筋の位を取って早繰り銀。先手は金矢倉に囲いました。
                                     
 後手が角を打ち込んだ局面。ここで▲4六角と打ったのが後手の読み筋になかった手で,局面も先手がリードしたようです。実戦は△4九角成▲6五歩△7三銀▲6八金引△7五歩▲同歩△8四飛▲6九金引△8六歩▲同歩△9四馬▲8七金△6七馬という進展。後手が歩を突き捨てたのは馬を生還させるため。ところが▲8七金と力強く上がられてみると押さえ込まれて完封負けになりそうなので再び△6七馬と侵入し,後に切っていかざるを得なくなりました。この手順をみても第1図ですでに後手がリードされているのは明らかだと思います。
 先手は早々に攻め合いにいき,もう一歩のところで決めきれなかったので受けに回ることに。攻め合いが望めなくなった後手の投了となりました。
 三浦九段が勝って1勝1敗に。第三局は来月8日です。

 第三部定理九備考では,現実的に存在する人間が希求するものがその人間に善bonumと判断されるといわれています。また,そうはいわれていませんが,現実的に存在する人間が忌避するものはその人間に悪malumと判断されるという意味も実質的に含んでいるといえます。これに対して第四部定理一九の方では,現実的に存在する人間は必然的に善を希求し悪を忌避するといわれているのです。
 善と悪にだけ注目したときに,このような矛盾が『エチカ』の内部に生じてしまう理由は,第四部定義一第四部定義二のうちにあると僕は考えています。これらの定義Definitioにおいては確知するということが人間にとってどのような思惟作用であるのかを確定する決め手がないので,これらふたつの矛盾が統合されてしまう,いい換えれば善と悪についての異なった観点を橋渡ししてしまうような役割を果たしているといえるからです。
 しかし,もし善が何であり悪が何であるのかということをさしあたって無視してしまえば,これらの部分でいわれていることは,人間は現に希求しているものを希求し,現に忌避しているものを忌避するということにほかなりません。これは同義反復ではありますが,現実的に存在する人間がどういう態度,これは思惟作用も含めた上での態度ですが,どういう態度をとるのかという点からは,はっきりとした矛盾があるとはいえません。繰り返しますが僕の解釈では,第四部定理一九でもスピノザは,個人的な認識を超越した概念notioとしての善と悪に言及しているわけではないのですから,そこの部分さえ抹消してしまえば,単なる同義反復にすぎず,矛盾ではないということになるのです。
                                      
 それなのになぜ僕がこのことを考えてみたいのかといえば,スピノザの哲学におけるこの種の矛盾に関する疑問というのは,必ずしも工藤に限定されたようなものではないからです。チャールズ・ジャレットというアメリカ人のスピノザ哲学の研究者は,『知の教科書 スピノザ』の第七章で,工藤があげたのと同じ矛盾を指摘しています。ただしこの本の日本語版では,第四部とあるべきところが第五部となっていますので,その点に注意してください。
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第三部定理五〇備考&矛盾

2016-08-26 19:16:26 | 哲学
 第三部定理五〇では,どんなものであっても偶然的な理由によって希望spesや不安metusの原因となり得ることが示されていました。このとき,こういう原因によって希望の原因になったり不安の原因になったりするものがどのようにいわれるのかということが,その直後の備考の中で示されています。これはそういうものについて何といわれるかということなのであって,そうした場合の希望ないしは不安が何といわれるのかということではありません。要するに感情affectusについて何かがいわれているのではなく,ある特定の感情の対象となるものについて言及されているということです。ですからそれらが備考の中で言及されることはあっても,諸感情の定義の中に含まれることはないのです。
                                     
 「偶然によって希望あるいは恐怖の原因たる物は善い前兆あるいは悪い前兆と呼ばれる」。
 僕は,スピノザがバリングPieter Ballingに宛てた書簡十七の内容について,『エチカ』と最も関連する定理として第三部定理五〇を示したのでした。その理由はこの備考の冒頭部分からよく理解してもらえるものと思います。バリングにとって子どもの泣き声は,この備考でいうところの悪い前兆であったとスピノザはいっているわけです。
 第四部定理一から分かるように,たとえバリングがスピノザのいったことを理解したとしても,それだけでバリングがかつて経験した事柄を悪い前兆であったと表象することをやめることにはならないでしょう。そのことはスピノザも承知していたと思います。また,この理解は強力な感情を産みだすとは思えないので,第四部定理七により,バリングの悲しみを癒すことにも効果的ではなかったと思います。そう分かっていても,あるいはそう分かっているからこそ,それについて「考えるconcipere」ことをしなければならないのだと僕は思います。

 『スピノザ哲学研究』の記述を僕が解する限り,スピノザは第三部定理九備考では個別的な善bonumについて語り,第四部定理一九では概念notioとしての善と悪malumについて語っていると工藤は理解しています。これは工藤自身が概念としての善悪を前提しているのでなく,スピノザがそう解していると認識しているという意味で重要です。ただ,僕は必ずしもそうは考えません。第四部定理一九は,各人が善を希求し悪を忌避するといっていますが,そのときの善と悪は各人が解する善と悪なのであって,したがってたとえばAの善がBの悪であるという場合を想定していると思われるからです。つまりこの定理は,各人は各人にとっての善を希求して,各人にとっての悪を回避するということだと僕は考えます。少なくともここに普遍的な意味においての,いい換えれば万人に共通するような善と悪が意味されているとは考えません。
 そうはいっても,第三部定理九備考でいわれていることと,第四部定理一九でいわれていることの間に,善と悪に注目するなら,矛盾が示されているということ自体は否定できないと僕にも思えます。たとえば現実的に存在する人間が何かを志向するというとき,前者の考えからすれば善を志向することはできないといわざるを得ません。ですが後者からは必然的に善を志向し,悪を忌避するということが帰結しているからです。ですから,スピノザは原因というのを起成原因causa efficiensと解しますが,仮にその条件を外し,人間に目的条件なるものを設定できるとすれば,前者からは善も悪も目的原因とはなり得ないということが帰結しますが,後者からはむしろ善と悪が人間にとっての目的原因であると結論されるように思うのです。
 しかし,僕はこういう矛盾というのは矛盾のまま放置しておいて構わないと考えます。というのは,善と悪に注目せず,単に現実的に存在する人間の態度について言及されているとすれば,これらは字面上ほどの乖離があるとは思わないからです。とくに僕は,第四部定理一九の方も,現実的に存在する人間が認識する個別的な善と悪について言及されていると解するので,無理に矛盾を解消する必要性を感じないのです。
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日刊スポーツ賞スパーキングサマーカップ&第四部定理一九

2016-08-25 19:32:16 | 地方競馬
 笠松から1頭が遠征してきた昨晩の第13回スパーキングサマーカップ
 一旦はレガルスイが前に出ましたが外からブルーチッパーが交わしての逃げ。控えたレガルスイと大外から上がってきたリアライズリンクスの3頭が飛ばしていく展開。離れた4番手集団はストロングジーン,バーンザワールド,インプロヴァイズ,ミラーコロの4頭。また差が開いてグランディオーソが追走。前半の800mが50秒7というミドルペースのわりにはかなり縦長になりました。
 3コーナーを回って前の3頭からリアライズリンクスが脱落。ブルーチッパーとレガルスイが併走で開いた3番手に上がってきたのがバーンザワールド。直線半ばで外のレガルスイが息切れし,ブルーチッパーが突き放す形に。バーンザワールドが追って迫ったものの届かず,逃げ切ったブルーチッパーが優勝。4分の3馬身差の2着にバーンザワールド。大外を伸びたグランディオーソが2馬身半差の3着に届き,レガルスイは半馬身差で4着。
                              
 優勝したブルーチッパーは昨年暮れの東京シンデレラマイル以来の勝利で南関東重賞3勝目。第12回に続きスパーキングサマーカップを連覇。この馬は逃げなければ持ち味が発揮できないことが分かってきて,レガルスイは逃げることもできる馬ですが,控えてくれたので最良の形となりました。縦長になったのは前が競り合っているように見えたからではないかと思いますが,さほど速いペースでもなく,それが並ばれてからまた突き放す形に持ち込めた一因になったのではないかと思います。注文がつくので相手次第ということになりますが,牝馬重賞ならば勝ってもおかしくないと思います。母の半弟に2010年2011年のNARグランプリ最優秀短距離馬のナイキマドリード。Blue Chipperは賢人。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は先週の黒潮盃に続く南関東重賞制覇。スパーキングサマーカップは初勝利。管理している大井の荒山勝徳調教師は連覇でスパーキングサマーカップ2勝目。

 スピノザが善bonumと悪malumに関して,もうひとつ別の視点から言及している代表例としては,第四部定理一九をあげることができます。
 「各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する」。
 工藤はこの定理がスピノザの感情論の基礎となる命題であるとしています。何をもって感情論というかを別とすれば,僕はこの定理が感情論の基礎であるとは考えません。ですがスピノザの哲学における人間の倫理の基礎になる定理であるとは思います。おそらく工藤はそうしたことも感情論に含めているので,たぶん僕と工藤の間で大きな見解の相違はないのだろうと僕は解しています。
 この定理は一読すれば,僕たちが善なるものを希求し,悪なるものを回避すること,しかもそうしたことが必然的に生じるということを示しています。ところが,第三部定理九備考が示しているのは,僕たちは希求するものを善と判断し,忌避するものを悪と判断するということでした。したがって後者でスピノザがいっているのは,僕たちは何を希求し何を忌避しているかを知る前に,何が善でありまた何が悪であるのかを判断することができないということだと解せます。ところが第四部定理一九というのは,あらかじめ善なるものと悪なるものがあって,あるいは少なくともそれは判明していて,僕たちはそのうちの善については希求し,悪については忌避するといっているように解せます。これは善悪を語る視点として異なっている,両極端であるといっていいほど異なっているといえるでしょう。
 工藤の議論はここから型としての完全性perfectioすなわちpotentiaという観点からみられた本性natura,essentiaと,現実的本性actualis essentiaとの比較へと進みます。つまり『概念と個別性』が議論しようとしているところへ向かいます。議論の性質および結論は異なっていますが,僕はこのことは問題にはしません。工藤の問いの立て方を借りれば,スピノザは第三部定理九備考では現実的に存在する人間にとっての個別性に類する善と悪について言及しているのであり,第四部定理一九では,それを超越した普遍的な概念notioとしての善悪について語っていることになります。
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北条早雲杯争奪戦&第三部定理九備考

2016-08-24 19:04:14 | 競輪
 準決勝が台風の影響で順延となったため決勝も今日に延期された被災地支援の小田原記念。並びは高橋‐佐藤の青森,山中‐郡司‐武田の南関東,稲垣‐椎木尾の近畿で吉田と原田が単騎。
 椎木尾が勢いよく飛び出して稲垣の前受け。3番手に山中,6番手に原田,7番手に高橋,最後尾に吉田の周回に。残り3周半くらいから高橋が吉田まで連れて上昇。ホームで原田が吉田の後ろにスイッチ。バックに入って原田まで稲垣を叩きました。今度は外を山中が上昇。高橋を叩くと吉田が武田の後ろにスイッチ。引いた稲垣が早くも発進。バックから山中もスピードアップし打鐘で稲垣は郡司の外まで上昇。そのまま稲垣がかまして前に。郡司が椎木尾を捌いて稲垣の番手に。武田と吉田も続きました。バックで吉田が捲っていくと郡司も稲垣の後ろから番手捲りの形。吉田は武田の牽制もあって一杯。後ろから迫る選手がなくなり郡司が優勝。武田も半車身差の2着に続いて地元のワンツー。吉田の後ろから最終コーナーで内に切り込み,直線で武田の外に出た高橋が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は1月の和歌山記念以来の記念競輪2勝目。新田と武田豊樹が脱落したものの,楽なメンバーにはなりませんでした。ただ,山中という好目標を得て,その山中も準決勝は地元の和田の先行策で決勝進出を果たしていましたから,今日は地元勢を引き立てるレースをすることが予想され,最も有利だろうと思っていました。稲垣の巻き返しが意外なほどに早かったため,思い描いていたようなレースにはならなかったのではないかと思うのですが,うまく捌いて番手を奪い,よい展開に持ち込めました。昨日もイン粘りで番手を奪って1着。こういう競走ができてくるようならもっと活躍が見込めるかもしれません。番手の武田もいい仕事をしたと思います。

 『スピノザ哲学研究』から最後にもうひとつ考えておきたいことがあります。
                                     
 17章の中で工藤は,スピノザの哲学に含まれているある矛盾を指摘しています。工藤はそれを個物res singularisの現実的本性actualis essentiaと類型としての完全性perfectioという観点から考えています。ですが僕は工藤の指摘をそのような観点からは考えません。第四部定義一第四部定義二,すなわち善bonumと悪malumに関係する矛盾として考察します。工藤が指摘しているような観点から先にこの問題の性質を簡潔に述べておけば,スピノザは善悪を異なったふたつの視点から説明しています。しかしその異なった観点からの説明は一致せず,むしろ解消することが困難な矛盾を生み出しているのです。
 まず,ふたつの視点がどのようなものであるかをみておく必要があるでしょう。第一の視点を代表するのは第三部定理九証明の直後の備考の最後の部分でスピノザが善悪に言及する場合です。工藤自身も代表的な例としてこの部分を示しています。
 「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのでなくて,反対に,あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する」。
 実際にはスピノザは善だけについて記述しているのであり,悪については何も語っていません。ですがあるものを肯定することと善が関連付けられているのですから,あるものを否定するならそれは悪と関連づけることができるのは明白です。つまり我々はたとえば悪と判断するからそれを回避することに向かうのではなく,回避することに向かっているからそれを悪と判断するともここでは語られていると解してよいでしょう。
 スピノザが第四部定理八で善悪について述べている部分も,この視点と同様であると僕は解します。たとえば喜びは第三部諸感情の定義二によりより大なる完全性への移行です。これは第三部定理七から,個物の現実的本性に合致します。いい換えれば第三部諸感情の定義一により現実的に存在する個物が欲望することです。その認識が善なら,欲望するからそれを善と判断するということと合致するでしょう。悪の場合も同様に説明できます。
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王位戦&定義

2016-08-23 19:25:06 | 将棋
 飯塚市の大浦荘でで指された第57期王位戦七番勝負第四局。
 木村一基八段の先手で角換り相腰掛銀。羽生善治王位が戦後同型の一歩手前で待機し先手から仕掛ける将棋に。戦いに入ってすぐに後手に誤算があったのではないかと思います。
                                     
 後手が玉頭を叩いて形を乱したところ。ここで△8一桂と受けています。こういう手で粘らなければいけない局面なら,ここではすでに先手優勢でいいのではないでしょうか。
 ▲5五金とやや遊んでいた駒をぶつけて△6三歩。以下▲5四金△6四歩▲7一竜△9二飛▲4三歩成△5四歩▲3二と△同金▲8一竜と進みました。後手としては仕方がない手順の連続であったように思います。
 △2六馬と引いて▲4四桂を防いだ手に対して▲4四歩と打ちました。これは取ると4五に歩を打たれて▲4四桂が発生しますので△6五桂から攻め合いを目指しました。先手は▲同銀と取ってしまい△同歩。
                                     
 ここで▲4三金と打つと千日手模様ですが▲4三銀と打ちました。これは先手が優勢とみて打開し勝ちにいった一手といえるでしょう。
 △4四馬と歩を取ったのはおそらく最善の粘り。こうなると▲3二銀成△同飛は必然。先手は▲5六桂と打ちました。すぐに攻め合うことはできないと△5五馬と逃げましたがこれは次の▲4四桂打が厳しいのでさすがに苦しそうです。それでも△4二飛と逃げて▲3二金△同飛▲同桂成△同王▲3一飛△2二王▲2一飛成△1三王という手順で後手玉は詰まず,先手玉は危険。ですがそこで▲6七桂と打ったのが決め手であったと思います。
                                     
 後手も馬を逃げている場合ではないでしょうがこれで先手への攻めが続かず,先手の勝ちとなりました。
 木村八段が勝って2勝2敗。第五局は30日と31日です。

 創造される事物とされない事物だけが存在するわけではないので,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の定義論をそのまま適用することはできません。すべての定義Definitioの一般的条件は,これまでの考察から共通性を抽出することで規定されます。
 まず定義されるものと定義内容は一対一で対応しなければなりません。定義内容を含むものが定義されるもの以外に存在してはいけません。
 次に,定義は定義されるものを知性が十全に認識すること,いい換えれば知性がそれを能動的に肯定することに資するものでなければなりません。そしてそれ以外のことに資する必要はありません。
 最後に,定義から定義されるものの特質proprietasのすべてが知性によって十全に認識されなければなりません。この意味において定義は定義されるものの本性natura,essentiaを含む必要があります。
 これらが絶対的な条件になります。いい換えればそれはあらゆる定義に妥当しなければなりません。
 これらの条件を満たせるのであれば,定義されるものがどのように記号化されるかは重視しなくても構いません。いい換えれば定義は唯名論に則していても構いません。ただし,それによって第二の条件を満たせなくなる場合があり得るので,すべての定義で定義されるものを任意に命名することは事実上は不可能だといえます。
 第三の条件を満たすためには,定義のうちに定義されるものの起成原因causa efficiensが含まれていることが望ましいことになります。そして第二の条件により,その起成原因が定義されるもの以外の概念conceptusに依拠しなければならない場合には,知性が定義されるものと関連付けて肯定できる起成原因であって構いません。つまり,定義されるものと関連付けないで知性が肯定するなら,それが虚構ないしは虚偽とみなされる起成原因であって構いません。ただし,定義されるものが特定できる何らかの事物ではなく,いくつかの事物に共通する性質であるような場合には,その性質の起成原因は,第三の条件それ自体から明らかなように事物によって異なり得ます。このときには定義のうちに起成原因を一般に示すことはできません。よってそれは望ましいものであり,絶対的なものではないことになります。
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渕正信&『エチカ』の定義

2016-08-22 19:06:32 | NOAH
 全日本プロレスのジュニアヘビー級は,大仁田厚からその時代が始まったといえます。それまではヘビー級が中心で,ジュニアヘビー級は存在しないも同然であったのです。僕は大仁田よりマイティ・井上をレスラーとしては評価しますが,井上の時代があったとまではいいません。はっきり一時代を築いたのは,その後のタイガー・マスクすなわち三沢光晴です。そしてタイガーがヘビー級に転向した後,長く王者に君臨したのが渕正信でした。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,渕は日本にはいませんでした。渕は大仁田そしてハル・薗田と共に全日本の若手三羽烏として将来を嘱望された時期があったようです。大仁田は王者として帰国。薗田もマジック・ドラゴンというマスクマンとして帰国。それに比べれば渕が最前線に躍り出たのはかなり遅くなったといえるでしょう。ですが遅くなったのはかえって渕には幸いしたのかもしれません。
 タイガーがヘビー級に転向した後も,また井上が王者に返り咲いたりしていました。つまり井上は大仁田とタイガーの間を繋いだだけでなく,タイガーと渕の間も繋いだことになります。ですが渕が王者になってからは,ほぼ絶対的な存在として君臨していたといえるでしょう。
 目立つことができた理由はふたつあります。ひとつはラッシャー・木村マイクによるパフォーマンスのターゲットに渕を選択したことでした。独身であることを強調したものでしたが,それまで明確なキャラクター性に欠けていた渕が,認知されるために大きかったと思います。この流れで悪役商会の一員になりました。渕が初めてピンクのコスチュームを披露した試合も僕はライブで観戦しています。
 もうひとつ,超世代軍がジャンボ・鶴田に牙を剥いたとき,鶴田軍の一員として大きな働きをしました。こちらはプロレスそのものをアピールするのに絶好だったといえます。長くジュニアの王者に君臨できたのは,この部分のアピールが大きかったからだったと思います。

 『エチカ』に含まれる定義のうち,確実に創造されない事物の定義であるのは第一部定義一,第一部定義三,第一部定義六です。これらの定義が創造されない事物の定義の条件を満たしていることは明白なので,これ以上の説明は不要です。
                                     
 第一部定義四は,厳格にいえば第一部定義三に依拠することによって創造されない事物の定義としての要件を満たします。これは第一部定理一〇が第一部定義三から論証されていることから明らかです。ただし第一部定義三と第一部定義四は抽象的な概念を含んでいません。また第一部定義四が概念される起成原因causa efficiensとして第一部定義三が要求されるというのとも違います。なので僕は第一部定義四も創造されない事物の定義に含めます。
 スピノザによる論証はありませんが,第一部定義八は,同様に第一部定義一に依拠して創造されない事物の定義としての要件を満たし得るといえます。しかし第一部定義八と第一部定義一の関係は,第一部定義四と第一部定義三の関係とは異なります。よって僕は第一部定義八は創造されない事物の定義には含めません。この定義は創造されない事物の定義であり得ますが,創造される事物の定義でもあり得るからです。第一部定理二一では直接無限様態が,第一部定理二二では間接無限様態が,それぞれ永遠であるといわれていることに注意してください。
 第一部定義七も,第一部定義一に依拠すれば,自由の部分に関しては創造されない事物の定義を満たせます。かつ第一部定義一と自由の関係は,第一部定義三と第一部定義四の関係に酷似します。実体の本性が属性であるように,自己原因を本性とするものだけが自由であるからです。なので僕は自由に関しては創造されない事物の定義に含めても構わないと考えます。しかしこれには反対の考え方もおそらくあり,それにも一理あるでしょう。なので僕はそれについての論争はしません。僕は創造されない事物の定義に含めるということだけを理解しておいてください。
 これ以外に創造されない事物の定義はありません。ただしだから残る定義のすべてが創造される事物の定義というわけではない点には注意しておいてください。
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海と宝石①&補完

2016-08-21 19:13:41 | 歌・小説
 「波の上」や「時代」は,意味を両様に解せます。どちらかの解釈が正しいと判定できるものではありません。ですがことばの上ではいくつかの意味に解せても,ある解釈が正しいという場合もあります。僕が以前は誤って解釈していた曲に「海と宝石」があります。
                                     
 「吹雪」は部分的には意味が不明なところがあります。それはこの曲がひとつの物語にはなっていないことが影響しています。「海と宝石」はひとつの物語になっていて,全体的な意味が僕にはまったく分かりません。これらふたつの事柄をおそらく3回か4回に分けて説明します。

     臆病な女を 抱きしめて
     蒼ざめたうなじを あたためて
     かもめたち ぽつりと 振り返る
     宝石に映った 朝陽を見る


 これは冒頭部分で,僕が誤って解釈していた部分です。
 僕は当初,カモメたちが女を抱きしめつつ振り返ったら,そこに宝石が落ちていて,その宝石に昇りつつある朝日が映っていたと解釈していました。カモメが人間を抱きしめるのは異常ですが,ことば上の意味としては成立していると思います。
 ですが15年以上前,職場の同僚にそれは間違いだと教えられました。最初の二行は女が海に向かって独白しているのです。海には何羽かのカモメが飛んでいて,声が聞こえたので振り返ります。その女は宝石を身につけていて,そこに昇る朝日が映じていたのです。これなら意味も成立する上,状況的にもおかしなところはありません。
 今から思うとなぜそんなおかしな解釈をしていたのかが不可解です。けれどもこの部分に関しては,僕にも確かな意味が理解できるようになりました。

 条件①が,知性が創造されない事物を認識するために,定義される事物以外の概念に依拠してはならないという意味であるとすれば,自己原因causa suiも起成原因causa efficiensのひとつと考える限り,その定義のうちに定義される事物の起成原因が含まれていてはならないという意味ではないことになります。むしろ起成原因として,定義される事物以外の事物が含まれていてはならないということになるでしょう。逆にいえばそれは,創造されない事物は自己原因として認識できるように定義されていなければならないという意味になります。
 第一部定義一から分かるように,自己原因の本性にはその存在が含まれています。したがって知性はあるものを自己原因と認識したら,そのものが存在しないと概念するconcipereことはできません。つまり条件①をこう解するなら,それだけで条件②も満たされているといえます。さらにいうと条件②は,単に知性がそのように定義されたものが必然的に存在すると概念するという意味だけを有するのではありません。たとえ知性を離れて,その事物が知性の外にあると把握される場合にも,その事物が必然的に存在する,すなわち形相的に存在するということも担保します。条件①が満たすそれ自身によって概念されるということと,条件②が形相的な意味で満たすそれ自身によって存在するということは,スピノザはすでにみたように同じことであると考えていると解することができるからです。ですから条件①と条件②は矛盾するどころか,互いに互いを補完し合うような関係にあることが分かります。
 さらに僕の見解をいえば,創造されない事物の定義がこれらふたつの条件を満たすために,条件③は必然的に要求されるのです。抽象的に認識されたものがそれ自身によって認識されるというのは,ことばの上では可能かもしれませんが,思惟作用としては絶対に不可能です。抽象化はそれ自身から発生する思惟作用ではないからです。さらに抽象的なものが必然的に存在するというのは,ことばの上でも不条理です。これは実在的でないものすなわち無であるものが有であるといっているに等しいからです。だからこれは品詞の問題ではないと僕は解します。
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第四部付録第二一項&根拠

2016-08-20 19:16:38 | 哲学
 スピノザは阿諛追従の徒に関しては,きわめて限定的にといわざるを得ませんが,人間社会に利を齎す場合があると認めています。第四部付録第二一項をみてみましょう。またそれによって,スピノザが阿諛という行為をどのようなものと解しているかもみてとれます。
                                     
 「阿諛もまた和合を生ずるがそれは醜悪な屈従もしくは背信によってである。だが阿諛に最も多く捉えられるのは,第一人者たらんと欲してそうではない高慢な人間である」。
 人間が和合することは人間社会の利益のひとつです。阿諛はそれに貢献する場合があるという点において,スピノザがそれを評価していることが分かります。
 次に,醜悪な屈従とか背信といわれていることについては,僕はそう深く考える必要はないと思っています。ここから理解できるのは,スピノザが必ずしも阿諛というのを,何らかの目的をもって人間がとる態度というようには必ずしも解していないように思われることです。むしろ対象がだれであるかを問わずに,他者に取り入ろうとする態度のことがここではすべて阿諛といわれているように思われます。こういう人のことを俗に太鼓持ちなどといいますが,スピノザがここでいっている阿諛は太鼓持ちが採用する態度と似ているようです。したがって阿諛追走の徒というのと太鼓持ちというのとは,さして変わるところがないと解してよいのではないでしょうか。
 最後のところでスピノザが示しているのは,太鼓持ちが存在することを最も喜ぶのが高慢な人間であるということです。ですがこの説明は第四部定理五五に準じていると思われるので,おそらく自卑的な人間も太鼓持ちの存在を喜ぶことになるでしょう。さらにこの部分は,阿諛が高慢な人間をより高慢にするといっているようなものですから,むしろ阿諛の害悪について説明していると解するべきでしょう。確かに阿諛は和合を齎し得るけれども,害悪の方がずっと大きいといって差し支えないと思います。

 僕が自己原因causa suiも起成原因causa efficiensのひとつに加えて考えるのは,以下の理由によります。
 スピノザがフッデJohann Huddeに宛てた書簡三十四,ならびに第一部定理八備考二では,事物の定義がその事物の本性だけを含むという主旨のことがいわれていました。これは,書簡の方では神が「唯一」であるということを神の本性に必然的存在が含まれているということ,いい換えれば神が自己原因であることから導出するための条件のひとつです。また『エチカ』の方では,実体が自己原因であるということを根拠に,第一部定理五,すなわち同一本性を有する複数の実体は存在しないということを導出するための条件のひとつです。違ったことが導出されているのですが,それらは同じ論証を経て導くことが可能なのです。
 このための条件がほかにもあって,そのひとつに,存在するものにはそれが存在する原因が必然的に存在するというものがあります。僕はこのことが創造されない事物にも適用されると解します。ここでいわれる原因というのは起成原因のことなのですから,創造されない事物が存在するためにもその起成原因が必然的に存在しなければならないということをスピノザはいっていると解するのです。さらに別の条件として,ものが存在する原因,すなわち起成原因は,そのものの本性のうちにあるか,そうでなければそのものの外にあるかのどちらかであるというものもあります。これは明らかに前者が自己原因すなわち創造されない事物に適用され,後者は自己原因ではない事物すなわち創造される事物に適用されるという意味です。したがってこれらを論拠にする限り,少なくともこの部分においては,スピノザ自身が自己原因を起成原因のひとつに含めているという僕の解釈は間違いないと思うのです。
 創造されない事物の定義の条件①でいわれている原因というのを起成原因と解すると,条件②との間で難題が発生するのは僕も認めます。ですが条件①の主旨は,知性が創造されない事物を概念するconcipere場合には,定義されるその事物以外の何かに依拠してはならないということでした。このときその何かが原因といわれていると解すれば,この問題は解消可能だと思います。
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農林水産大臣賞典サマーチャンピオン&起成原因

2016-08-19 19:10:37 | 地方競馬
 昨日の第16回サマーチャンピオン
 3頭の併走状態から最内のグレイスフルリープがハナへ。真中のタガノトネールが2番手で外だったカッサイは3番手に。その後ろにテイエムチカラとミリオンヴォルツが併走。その後ろがワンダーコロアール。前半の600mは36秒2のミドルパース。
 向正面に入ると2番手と3番手の差が開きました。一旦はミリオンヴォルツが3番手でしたが,外から交わしていったのがワンダーコロアール。3コーナーあたりでタガノトネールの直後まで追いつきました。ここからタガノトネールは逃げるグレイスフルリープの外へ。ワンダーコロアールは逆に内に進路を選択。ですが追い上げていこうとした2頭より逃げたグレイスフルリープの方が手応えはよく,直線では2頭を突き放して4馬身差の快勝。内から伸びたワンダーコロアールが2着に入り,タガノトネールは4分の3馬身差の3着。
 優勝したグレイスフルリープは重賞初勝利。一昨年の12月以降はこの距離ばかりを使ってオープンで2勝していましたから,能力は通用。地方競馬の馬場への適性が不明でしたが,何も問題ありませんでした。この距離は多くの重賞がありますので,これからもタイトルを積み重ねていくのは可能でしょう。もっと上のレベルで戦えるかはまだはっきりしていないと思いますが,可能性は十分にあるでしょう。父はゴールドアリュール。Graceful Leapは優美な飛躍。
                                     
 騎乗した小牧太騎手は第4回と5回を連覇していて11年ぶりのサマーチャンピオン3勝目。管理している橋口慎介調教師は今年3月が厩舎開業で重賞初勝利。

 スピノザの哲学における原因が一義的に起成原因causa efficiensを意味するのであれば,第一部公理三でいわれている原因も当然ながら起成原因でなくてはなりません。つまり結果を発生させるものがスピノザの哲学では原因といわれることになります。そしてすでにみたように,僕たちの知性は延長Extensioとしての原因と思惟Cogitatioとしての原因だけを認識します。つまり物体が存在したり作用したりすることを発生させる原因か,そうでなければ観念に代表される思惟の様態を発生させる原因だけを認識するということです。
 このときに定義論との関係で重要になるのは,第一部定義三でいわれていること,すなわち起成原因が与えられれば必然的に結果は発生し,何の起成原因も与えられることがなければ結果が発生することは不可能であるということが,創造された事物だけに適用されるべきなのか,それとも創造されない事物にも適用されるべきなのかということです。他面からいえば,起成原因というのは創造される事物にのみ必要なことであるのか,それとも創造されない事物にも必要なことなのかということです。さらにいい換えればこれは,創造される事物だけが結果として発生するといわれるべきなのか,それとも創造されない事物が発生することも結果といわれるべきなのかということでもあります。起成原因が与えられなければ結果は発生しないので,もしも創造されない事物の発生も結果であるといわなければならないとしたら,創造されない事物にも起成原因が必要であるといっているのと同じことだからです。
 これは考え方によってどちらの解釈も成立すると僕は思っています。そして僕がどちらの立場を採用するのかといえば,このことは創造されない事物にも適用されなければならないという立場です。つまり起成原因は創造される事物の発生にのみ必要なのではありません。創造されない事物が発生するためにも必要なのです。
 他から創造されない事物はそれ自身によって発生する必要があります。これは自己原因causa suiです。つまり僕の考えは,他を創造する原因だけでなく,自己原因も起成原因のひとつと解釈するというものです。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&原因

2016-08-18 19:29:33 | 地方競馬
 北海道から2頭,愛知,笠松,兵庫から1頭ずつが遠征してきた昨晩の第50回黒潮盃
 最も逃げたかったのはジャストフォファンではなかったかと思うのですが,押してもあまり行き脚がつきませんでした。北海道のレースは発走後にそこまで速いペースにならないことが多いので,ダッシュ力に差があったようです。逃げたのはミスミランダー。1コーナーを過ぎてから外をクラトイトイトイが進出。掛かっていたと思いますが何とか2番手に抑えました。発馬がよかったグランユニヴェールが2頭の後ろでこれと並んで追走になったのがジャストフォファン。4頭を見る位置のカツゲキキトキトまでが先行グループ。この後ろはモリデンルンバとドンナディヴィーノの2頭。また差が開いてスティールキング,ジャーニーマン,追い上げたサブノクロヒョウ,ワカチナ,プレイザゲームまでが中団。また差があって後方グループの最前列にマテリアメディカとキーパンチャー。最初の800mは49秒9のハイペース。
 グランユニヴェールは3コーナーを回って後退。内から捌いたカツゲキキトキトが直線入口で内からクラトイトイトイを交わして2番手に。そこから外に出て逃げるミスミランダーを追いましたが,追いつくまでの鋭い脚は使えず,逃げ切ったミスミランダーの優勝。1馬身4分の1差の2着がカツゲキキトキト。直線で大外から猛然と伸びたマテリアメディカが4分の3馬身差まで追い込んで3着。
 優勝したミスミランダーは南関東重賞は初勝利。このレースは南関東の上位勢の比較が難しい上,北海道の2頭と愛知の1頭は明らかに通用する能力があると分かっていたので混戦。この馬は前々走でタイニーダンサーに食い下がり重賞で2着,前走で古馬相手のB級1組の特別戦で4馬身の差をつけて勝っていましたから候補の1頭。逃げたのは正直にいうと意外でしたが,その作戦が功を奏したというだけではなく,はっきりとした能力があったということでいいと思います。常識的にはロジータ記念を目指すことになるのではないかと思いますが,そこでは最有力候補といっていいでしょう。牝馬限定の南関東重賞なら古馬相手でもすぐに通用しそうです。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手羽田盃以来の南関東重賞制覇。黒潮盃は初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第42回,47回に続き3年ぶりの黒潮盃3勝目。

 哲学では原因はいろいろな様式で規定されます。しかしスピノザの哲学において原因といわれる場合には一義的に起成原因causa efficiensを意味します。起成原因とは事物が発生する原因のことです。これ以外の意味においてスピノザ哲学には原因は存在しないと理解して間違いありません。スピノザが第一部定理一六で,神の本性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で発生することを論証した直後の第一部定理一六系一で,神が無限知性intellectus infinitusによって把握されるすべてのものの起成原因であるといっているのは,起成原因以外には原因は存在しないということを強調するためであったと僕は解します。
                                     
 したがって,第一部定理一六系三で,神が絶対に第一の原因であるといわれるとき,それは絶対に第一の起成原因であるという意味でなければなりません。あるいは第一部定理一八で,神が超越的原因ではなく内在的原因であると証明されるときにも,神は内在的な起成原因であると理解しなければならないのです。
 第二部公理五から,人間の知性が認識するのは延長Extensioの属性に属するものであるか,思惟Cogitatioの属性に属するものであるかのどちらかであることが分かります。一方,延長と思惟には共通点がありませんから,第一部定理三により,一方は他方の,また他方が一方の原因であることはないということが分かります。このことを一般的に示しているのが第二部定理六であるといえるでしょう。したがって人間の知性は,ある思惟の原因ないしは原因としての思惟と,ある延長の原因あるいは原因としての延長を認識するということになります。いい換えるなら僕たちは認識の原因と物体が存在するという意味での在る原因を認識することになるのです。そしてそのどちらの場合も,原因というのは一義的に起成原因と考えられなければならないことはいうまでもありません。つまりスピノザの哲学において僕たちが認識する原因というのは,ある事物が在るということそしてそれが運動および静止するということが発生する原因か,ある事物が認識されるという思惟作用が発生する原因のどちらかであることになります。これが条件①と②に関係します。
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