スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

私は金がない&感情と意志作用

2017-05-23 19:17:41 | 歌・小説
 『それから』も『こころ』も裕福な男と困窮した男の間で三角関係が生じているという構図は同じです。しかし困窮者にあたる『それから』の平岡と『こころ』のKの間には,自身の困窮という経済的状況に対する自意識には差異があるように見受けられます。平岡はそのことを強く自覚しているふしがあるのに対して,Kはまるで無自覚であるかのように思えるのです。とはいえ,『こころ』のテクストの中に,Kによる自身の困窮への発言が皆無というわけではありません。
                                     
 Kがお嬢さんすなわちに恋愛感情を抱いているということを知った先生は,それを諦めるように仕向けるのですが,どうもKにはその気がないようだと感じます。そこでKに対して秘密裡に,奥さんつまり静の母親に,静への求婚を申し込みます。奥さんはかなりあっさりとそれを承諾します。こうして先生と静は結婚することが決まるのですが,おそらくKに対して負い目があったために,先生は自身の口からそれをKに報告することができません。象徴的にいえば先生はを開けることができなかったのです。その間に,このことは奥さんの口からKに伝えられます。先生はそれがKに伝えられたことを知らぬままに数日を過ごします。おそらくKの先生に対する表面的な態度が変わったように見えなかったので,先生はそのことをKが聞き及んでいることに気付かなかったのでしょう。そして,先生もまたそれがKに伝えられたことを奥さんから教えられるのです。
 先生はそれを聞いて,そのことを話したときのKの様子はどうであったのかを逆に奥さんに尋ねます。奥さんによればKは平然と「そうですか」と一言だけ言いました。そして奥さんが「あなたも喜んでください」と言うと,ようやく「おめでとうございます」と言いました。Kはそのまま席を立ち,それが伝えられた茶の間の障子を閉めるときに,結婚がいつであるかを尋ね,お祝いをあげたいけれども私は金がないからあげることができない,と言いました。
 確かにKは自分には金がないと言っています。でもこれはたぶん,自身の困窮を意識した発言ではないのです。

 この一件は哲学的に考察できます。
 高価で丈夫な傘を置き忘れてしまうのではないかというのは,感情affectusとしてみれば僕がいう不安metusです。第三部諸感情の定義一三にあるように,未来のものの観念ideaから発生する不確かな悲しみtristitiaだからです。安価なビニール傘を持ち歩くことは,この不安を軽減するのに役立つでしょう。なぜなら,高価な傘を失う悲しみより安価な傘を失う悲しみの方がより小さな悲しみであるからです。ところで,スピノザの哲学における善悪は,比較の上でいわれます。よってより小さな悲しみによってより大きな悲しみを避け得るのであれば,より小さな悲しみは,それ自体では第四部定理八にあるように悪malumといわれなければなりませんが,より大きな悲しみすなわちより大なる悪と比較したなら善bonumです。つまり丈夫な傘の代替にビニール傘を持ち歩くことは,一見するとより大なる悪を避けるための善なる行動と思えます。
 ところが,それを感情としてではなく,単に観念としてみた場合には様相が異なります。高価な傘であろうと安価な傘であろうと自分がそれを忘れてなくすことは,観念としていえば表象の種類のうち想像に該当する表象像imagoです。第二部定理四九は,観念は観念である限りにおいて必然的に意志作用volitioを含んでいることを意味します。これは,その観念が十全な観念idea adaequataであろうと,この場合の表象像のような混乱した観念idea inadaequataであろうと同じです。したがって,自分が傘を置き忘れてなくすことを想像することのうちには,自分自身に対して傘を置き忘れることを肯定するような意志作用が含まれていることになります。このような意志作用が,実際に傘を置き忘れないようにするために,むしろ逆効果であることは明白でしょう。なぜなら,傘を置き忘れないようにするために効果的な意志作用が存在するとするなら,それは傘を置き忘れることを自分自身に対して否定するような意志作用でなければならないからです。これでみれば分かるように,傘を置き忘れることを肯定する意志作用は,むしろ実際に置き忘れてしまうことに対して貢献するような意志作用であるといえます。
 こうした考察から,一般的結論を導くことができます。
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五稜郭杯争奪戦&ビニール傘

2017-05-22 19:01:04 | 競輪
 昨日の函館記念の決勝。並びは新田‐守沢の北日本,浅井‐阿竹の90期,大竹‐脇本‐松岡‐村上の近畿で小原は単騎。
 牽制の末に守沢がスタートを取って新田の前受け。3番手に浅井,5番手に大竹,最後尾に小原の周回。最初に牽制があった影響からラインとラインの間に間隔があり,9人が一列に並ぶのに多少の時間を要しました。残り3周のバックの入口から小原が動いて前まで上昇。バックの出口から大竹が発進すると小原は誘導を斬って前で待ち受けました。そのままホームで大竹が叩くと小原は脇本の後ろで競り。あっさりとこの位置を奪いました。バックで村上に迎え入れられた松岡が小原の後ろに入り,6番手に新田,8番手に浅井の隊列で打鐘。ホームに入る手前から松岡が小原の外に並び掛け,再び位置を奪いにいきました。これを見た後方の浅井が発進すると併せて新田も発進。守沢と浅井が絡むような形になり,ふたりとも新田を追えずに単騎の捲りに。バックから脇本も発進しましたがこれはタイミングを逸していて新田がバックの出口では先頭に。脇本も追いましたが寄せつけずに新田が優勝。脇本が1車身差で2着。奪った位置を守り通した小原が半車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は昨年6月の高松宮記念杯以来となる久々の優勝。記念競輪は昨年3月の玉野記念以来で通算6勝目。函館記念は初優勝。このレースは自力のある4人が並んだ近畿勢が断然有利で,脇本と松岡の優勝争いになるのではないかと見立てていました。しかし単騎で格下の小原が自分にも勝機が出る競走をしたために思い通りの展開となりませんでした。後ろが小原になってしまったために脇本も番手から出るのに躊躇があったかもしれません。そして多少ですが隊列が短くなったために,浅井より前に位置していた新田に有利になったというところ。個人的にはこのレースの小原のように,あまり遠慮せずに勝ちにいく競走をしにいくのは好ましいことだと思っています。

 診察の最後に,H先生から,次回の通院のときに,採血と採尿以外に検査を受けるよう指示がありました。受けるべき検査は4つで,このときにH先生が予約した順に並べると,神経伝道検査,血圧・血脈検査,頚部血管エコー検査,CVR-R検査でした。これらはいずれも入院中にした検査です。3番目のものは頸動脈のエコー検査で,これだけは退院後にも受けたことがあったもの。また,4番目のものは検査の詳細が説明された紙に書かれた通りに記したものですが,心電図です。予約時間は最初のものが11時40分になっていましたので,次回はそれに間に合うように来院しなければならないことになりました。
                                     
 帰途に薬局に寄りましたが,この日は薬剤の発注を忘れていたとのことで受け取ることができませんでした。僕は薬局でインスリンと針とを受け取った後,次回の通院日を報告しています。薬局ではそれに合わせてそれらを発注しているのですが,それを忘れてしまったということです。いくらかの在庫はあったのですが,少量だけを受け取るとあとで数を確かめるのにかえって面倒なことになりますので,この日は何も受け取らずに代金だけを支払って帰りました。なお,インスリンと針は,薬剤師が僕の家まで届けてくれることになりました。前にもいったかと思いますが,僕は針は郵送で受け取ることもしますがインスリンは拒否し,自分で取りにいくか届けてもらうかのどちらかにしています。インスリンは劇薬ですので,万一のことがあってはならないからです。
 ところでこの日,薬局にを置き忘れてしまいました。僕は傘を忘れることはないのですが,このときは理由がありました。僕は傘は軽くて丈夫なものを使用します。そういう傘は大概は高額です。忘れないのはそういう理由もあったと思います。ただ,忘れそうになったことは何度もあり,いつか忘れるのではないかという危惧はありました。降雨であればさしますから忘れません。忘れるのは持ち歩いているけれどもさしていない場合です。なのでそういうときのために,安価のビニール傘を買って持ち歩くようにしていました。この日に忘れたのはそのビニール傘だったのです。
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優駿牝馬&2016年8月の通院

2017-05-21 19:01:30 | 中央競馬
 第78回オークス。田辺騎手が5レースで落馬し負傷したためハローユニコーンは柴山騎手に変更。
 レッドコルディスがゲートの中で立ち上がってしまい出遅れ。先手を奪ったのはフローレスマジック。ソウルスターリングとミスパンテールが並んで2番手、ブラックオニキス,ヤマカツグレースの並びで向正面に入りましたが,ヤマカツグレースは押さえきれなかったようで3コーナーにかけて単独の2番手まで進出しました。好位にモズカッチャン,カリビアンゴールド,レーヌミノルの3頭。中団にブラックスビーチ,モーヴサファイア,リスグラシュー,ホウオウパフュームの4頭。この後ろにディーパワンサとアドマイヤミヤビ。残る4頭はディアドラ,マナローラ,レッドコルディス,ハローユニコーンの順。最初の1000mが61秒7の超スローペースだったこともあり,先頭から最後尾まで一団でした。
 2番手に進出していたヤマカツグレースはコーナーの途中では一杯になったようで外に退避。ソウルスターリングが動いて2番手に上がり,直線ではかなり外に持ち出し,そのままフローレスマジックを交わして先頭に。大きく開いたところを突いたのがモズカッチャンで,一時的に差が詰まったのではないかと思いますが,ソウルスターリングには余裕があったようで,残り200mあたりからまた引き離して快勝。モズカッチャンが1馬身4分の3差で2着。2馬身半差の3着争いは馬群と無関係のところを追い込んだ2頭の争いになり,大外のアドマイヤミヤビ。対照的に最内から伸びたディアドラがアタマ差で4着。
 優勝したソウルスターリングは前々走のチューリップ賞以来の勝利。大レースは阪神ジュベナイルフィリーズ以来の2勝目。無敗で挑んだ桜花賞は3着に敗れましたが,特殊な馬場状態が影響したものでしょう。距離の不安を感じさせる馬ではありませんでしたから,良馬場であれば巻き返すことができるだろうと思っていました。3歳の牝馬では間違いなくトップの馬で,無事なら秋以降の活躍も約束されていると思います。
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はヴィクトリアマイルに続いて2週連続の大レース制覇。オークスは初勝利。管理している藤沢和雄調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。オークスは初勝利。

 8月14日,日曜日。母と妹が美容院に行きました。
 8月15日,月曜日。平日でしたが夏休み中ということもあり,ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。この日の利用はほかにも理由がありました。母がKさんと昼食を摂ることになっていたためです。Kさんの亡くなった旦那さんというのは芸術家でした。この時期,遺作の展覧会が開催されていて,母はそれを鑑賞に行き,会場にいたKさんと食事をしたものです。
 そしてこの日は僕の通院の日でもありました。病院に着いたのは午後12時40分くらいでした。中央検査室では採血を待つ患者がいませんでしたので,すぐに採血し,それから採尿して注射針の処理をしました。予約は午後3時でしたので,外食しています。
 病院へ戻り,午後3時からさほど待たずに診察開始となりました。HbA1cは7.0%と,5月より改善していました。サマリーによると計測した血糖値の平均値は上昇していました。これは,H先生が注射するインスリンの量の調整を僕にかなりの程度まで任せてくれたため,低血糖の発症を抑制することができたからです。血糖値の平均値が上がっているのにHbA1cが下降したのは,高血糖状態になることもそれだけ少なくなったからです。総じていえばかなりうまくいっているということになるでしょうが,これは季節的なものの影響もあったのだと思います。やはり気温が高い時期の方が,血糖値を正常に統御しやすくなるのです。
 このほかに出ていた異常はLDLコレステロールで,65㎎/㎗と,下限値を下回っていました。これは3月と同じ値で,とくに注意は受けませんでした。ただ,異常とはいえないのですが,尿検査によるケトン体が±になっているのは気になると言われました。これはケトン体が検出されているという意味なのだそうです。初めて受けた注意なので調べてみましたが,検査詳細情報を受け取って以降はずっと-で,±はこれが初めてでした。H先生の話だと,食事の量が足りていないか,インスリンの量が足りていないと検出されるケースがあるそうです。ただ,なぜこのときに検出されたのかは分かりませんでした。
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柳澤による解釈&尿鮮血

2017-05-20 19:45:08 | NOAH
 『1964年のジャイアント馬場』で示されている三沢と鶴田の試合の解釈は,僕の解釈とは異なっています。柳澤の記述は,この試合はジャンボ・鶴田が「ひとり急所打ち」をしてしまったために三沢光晴から3カウントを奪われたと解釈できるような内容になっています。
                                   
 柳澤の解釈のうち,この部分も僕は問題視しません。それにはふたつの理由があります。
 まず,試合の解釈は観戦者に委ねられるというのが僕の立場だからです。ちょうど小説のテクストの読解は読者が主導権を握るべきであり,作者の意図は尊重しなくていいという僕の考え方とこれはパラレルな関係にあります。ですからある読者がテクストを僕とは異なって解しても,そこに一定の合理性があるならば僕はそれを尊重します。同じように柳澤による解釈を僕は尊重します。
 次に,「ひとり急所打ち」というのはギミックのひとつと僕はみなします。そしてそれは,試合を決着させるための手段となり得ます。さらに,本来は格上とみなされる選手が格下である筈の選手に負けるという場合に,このギミックは有効です。僕はこの試合は鶴田に傷がつかないような形で三沢が勝つというのが最善の選択であったと判断しています。鶴田が「ひとり急所打ち」で負けたのなら,それは最善の選択の要素を満たします。つまりこの解釈には一定の合理性があることになります。なので僕はこの解釈が合理的であるという理由によって問題視しません。それは,この試合の中で実際に鶴田が「ひとり急所打ち」をするシーンがあったかなかったかも問わないという意味です。
 一方,柳澤は,この結末は,馬場が鶴田にアドバイスしたものだという独自の解釈をしています。試合の結果はブレーンによる進言を馬場が受け入れたものと僕は考えていて,最終決断は馬場が果たしたものでしょう。ですからおそらく負けることを嫌った鶴田に対して,馬場が傷つかない負け方を助言するということはあり得ます。ですが柳澤が示しているその助言の内容は,柳澤がプロレスを純粋スポーツとみなさないという観点に大打撃を与えてしまうものになっていると僕は思うのです。

 7月29日,金曜日。妹の養護学校の保護者会があって母が出掛けました。僕はこの日は長者町に行っています。
 7月30日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はボーリングでした。ボーリングは以前は新杉田にあるボーリング場に行っていたのですが,そこは閉鎖になりました。この日からは上大岡のボーリング場に変更になっています。上大岡は僕の家の近くのバス停から1本で行くことができます。新杉田もバスで行けば1本ですが,バス停の位置は上大岡に行くバスの停留所より遠くになります。新杉田は同じ磯子区内で,上大岡は港南区,そして行く途中では南区も経由することになりますが,所要時間は別に,単に行くということだけでいえば僕の家からなら新杉田より上大岡の方が楽です。たぶん距離でいっても,新杉田より上大岡の方が近いと思います。ただ,上大岡に行くためには途中で上り坂があるので,歩いていくということになればどちらが楽かは一概にはいえません。
 8月2日,火曜日。O眼科へ眼科検診に行きました。この日も異常はありませんでした。
 8月4日,木曜日。7月15日に母と行く予定だったものの大雨で中止した墓参りに,この日に行きました。お盆の墓参りというにはあまりに遅くなってしまいました。遅くなったのはそれ以降では母と僕で予定を調整できる日がこの日までなかったからでした。
 8月6日,土曜日。妹の土曜出勤でした。8月は納涼会です。これは母も一緒に参加しています。
 8月12日,金曜日。この日から妹が夏休みに入りました。妹は遺伝科で検診を受けたときに,尿に鮮血がみられるという結果が出ていました。こども医療センターでは再検査はしないということでしたので,この日に母が磯子中央病院に連れて行って,また検査をしました。尿鮮血の検査だけなら検尿だけでいい筈なのですが,採血もしたということでした。要するに改めて健康診断を受けたということでしょう。僕はこの日も長者町に出掛けていました。
 8月13日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は前夜のうちに先生から電話があり,午後2時の開始になっています。
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書簡四十三&水曜の夕食

2017-05-19 19:24:35 | 哲学
 フェルトホイゼンLambert van VelthuysenからオーステンスJacob Ostensに宛てられ,それがまたスピノザに送られたのが書簡四十二です。これに対してスピノザが反論し,オーステンスに送り返したのが書簡四十三になります。フェルトホイゼンは書簡四十二を書いて時点では『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の著者がだれであるかを知らなかったふしが窺えますが,オーステンスはそれをスピノザに読ませたのですから,スピノザが著者であることを知っていたことになります。そしてスピノザは書簡四十三をオーステンスに送ったのですが,それはフェルトホイゼンが読むことを前提としていました。少なくとも,フェルトホイゼンに対してあまりに非礼と思われるような内容があれば,その部分を削除するなり訂正するなりしてくれと,書簡の最後の方で依頼していて,オーステンスがどういう処置をしたかは僕には不明ですが,反論のおおよその内容はフェルトホイゼンも読んだのではないかと思われます。なのでそのときに,フェルトホイゼンが『神学・政治論』を書いたのがスピノザであると知った可能性もあるでしょう。
                                     
 反論の内容は個別に何度か示していますのでここでは詳しくは立ち入りません。スピノザはまず,フェルトホイゼンがスピノザの生活態度をみれば,無神論者ではないことを是認するであろうといっています。
 この後で,『神学・政治論』で示されている内容についての反論が展開されます。フェルトホイゼンはその内容が思想的な意味での無神論と解し,そのゆえにスピノザが無神論者,すなわち敬虔pietasではない人間と解したのですが,フェルトホイゼンがスピノザの主張を無神論と解する根拠に対する反論がこの部分では説明されます。そしてその中心をなすのは,神Deusが本性natura,essentiaの必然性necessitasによって一切のことをなすということは,神を運命に従属させることではないという点です。
 このゆえにスピノザはフェルトホイゼンを,『神学・政治論』を読むのに相応しくない人物であると断定しました。しかし後のユトレヒトでの滞在中にフェルトホイゼンと面会したスピノザは,その認識を改めるに至ったのです。

 7月2日,土曜日。妹の土曜出勤。この日は物品の販売でした。母が木曜日の説明会のとき商品製作のボランティアに参加したのは,この日に販売する物品の製作でした。
 7月3日,日曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後5時からでした。
 7月9日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
 7月10日,日曜日。母と妹が美容院へ。また,この日は参議院議員選挙の投票日でした。僕はWINS横浜へ馬券を買いに行き,その帰途に投票するというのがこれまでのパターンでした。ただ,この日は帰途に別に寄らなければならないところがあり,そこからの帰りに投票を済ませるというのは,投票所の所在地との関係から不便でした。なので投票はせずに帰宅し,午後から改めて投票に行っています。投票所は地区センターで,僕が住んでいる町内にあります。歩いて2分ほどの場所ですから,投票に行くということ自体は負担にはなりません。
 7月11日,月曜日。この日は長者町に出掛けていました。その帰りのバスの中で,以前によく会っていた,小学校と中学校時代の同級生に久しぶりに会いました。僕は長者町には週に2回か3回は出掛けていて,いつも同じ時間に帰ることができるとは限りませんが,乗車するバスは3本のうちのどれかです。長らく会わなかったのは,この同級生の方がその時間帯のバスに乗るのが久しぶりだったからのようです。
 7月15日,金曜日。母とお盆の墓参りに行く予定を立てていましたが,中止しました。これは豪雨になってしまったためです。磯子区内の特定の地域は崖崩れが発生する可能性があるということで,一定程度以上の降雨が予想される場合には避難勧告が発令されます。この日もその勧告が発令されるような大雨でした。
 7月17日,日曜日。妹のピアノのレッスン。この日は午後5時半からでした。
 7月20日,水曜日。Kさんが家に来て,夕食を食べて帰りました。この日から,基本的に水曜日はKさんが来て,一緒に夕食ということになっています。Kさんはひとり暮らしになっていますから,週に1度くらいは大勢でという母の配慮でした。
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東京スポーツ賞川崎マイラーズ&説明会

2017-05-18 19:14:33 | 地方競馬
 昨晩の第9回川崎マイラーズ
                                     
 タマモホルンが簡単に先手を奪いました。トロヴァオ,オウマタイムの順で追う形で1周目のスタンド前を通過。向正面に入ると隊列がばらけ始め,位置取りも変わりました。タマモホルンの逃げを1馬身差でトロヴァオが追い,その後ろに3馬身くらいの間隔ができてサクラレグナムとオウマタイムの2頭。さらにリアライズリンクス,プリンセスバリュー,ジャーニーマンの3頭が続き,タイムズアローとセイスコーピオンの2頭。ここから大きく差が開いてフェスティヴイェル,ジャルディーノ,ポイントプラス。あとの2頭はここからも大きく離れての追走。最初の800mが48秒8の超ハイペース。
 タマモホルンは3コーナーを回ると一杯。すぐ後ろで追走していたトロヴァオが先頭に。サクラレグナム,プリンセスバリュー,ジャーニーマン,タイムズアローの4頭が雁行のような形で追っていきましたが,これらは直線で力尽きました。この雁行した馬たちの後ろでインを回っていたリアライズリンクスが直線でサクラレグナムの内から1頭分だけ外に持ち出されると1頭だけトロヴァオを追い,直線で捕えて優勝。内容的には強い競馬だったトロヴァオが1馬身差で2着。後方から大外を回って追い上げたポイントプラスが2馬身差の3着で同様に後方から内目を回って伸びてきたジャルディーノがクビ差の4着。
 優勝したリアライズリンクスサンタアニタトロフィー以来の勝利で南関東重賞3勝目。能力の上限は高いので,このくらいのメンバーでのレースでは常に優勝候補なのですが,レースでその能力を十全に発揮することが少ないという馬。馬券的な面では人気が下がったときが狙い目というタイプです。このレースはトロヴァオが強気にレースを進め,早めに追ってきた馬たちを疲れさせました。深追いせずにそれらが一杯になってから前を追うことができたのが勝利の要因になったものと思います。父は2000年のシンザン記念とスプリングステークスと鳴尾記念,2001年の京都金杯,2002年の京都金杯を勝ったダイタクリーヴァでその父がフジキセキ。母の父はマイネルラヴ
 騎乗した大井の的場文男騎手はフジノウェーブ記念以来の南関東重賞制覇。第3回以来6年ぶりの川崎マイラーズ2勝目。これが地方競馬通算7000勝目。ですが僕は騎手の勝利数をこのように限定的に表示することには疑問を禁じ得ないです。管理している浦和の小久保智調教師第6回以来3年ぶりの川崎マイラーズ2勝目でした。

 6月23日,木曜日。月曜日に報告を受けた作業所の閉鎖に関する説明会が,午前10時から施設であり,母が出掛けました。新しい作業所がまだこの時点では未完成でした。なので7月からそちらに通うことはできません。というか,これはいくつかの作業所を運営している施設の統合整理による変更です。つまり新作業所には別の作業所からも人員が集まってきます。そうした作業所は今年の3月まで運営することになっていましたから,妹が通っていた作業所の人だけが移動しても何かできるわけではありません。そうした事情もあり,7月から今年の3月までは,施設へ通うということになり,施設で行っていた作業に加わるということになりました。なお,これは職員の不足の影響であったわけですが,妹が通っていた作業所だけが休止になることが決定したのは,この作業所が施設から最も近いところに立地していたからだと思います。どちらも僕がいう本牧にあり,僕の家からみると作業所より施設の方がやや遠く,新作業所はそれよりさらに遠いところ,これは僕の地理感覚では本牧ではなく小港にあります。僕は週に2日くらいは本牧に出掛けていますが,これは位置としていえば作業所と施設の中間にあるところ。新作業所は施設と,僕が通院しているみなと赤十字病院の中間にあたります。急な変更ですと通うことに問題が生じる可能性がありますが,妹が行っていた作業所に通えるのであれば,施設に通うのは何ら問題はありません。たぶんこの作業所の閉鎖が先行したのはこういう理由からだったと思います。説明会自体は午前中で終ったようで,母はほかの保護者と昼食を摂って帰りました。僕はこの日は長者町に出掛けていました。
 6月25日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は前夜に先生から電話があり,午後3時開始になっています。
 6月30日,木曜日。保護者会があって母が出掛けました。この日はそれだけでなく,商品製作のボランティア活動もあったようです。僕はこの日は屏風浦に出掛けていました。
 7月1日,金曜日。この日から妹は施設の方へ通うことになりました。妹は陶芸の作業に加わりました。
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マイナビ女子オープン&作業所の閉鎖

2017-05-17 19:14:58 | 将棋
 西浦温泉で指された昨日の第10期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 加藤桃子女王の先手で上田初美女流三段のノーマル四間飛車からの穴熊。先手は9八玉型の左美濃から銀冠という持久戦に。
                                     
 3三の角を引いた局面。この手では☖6五歩から戦えば後手が有望だったようです。引いたのは戦いにしたくなかったからという感想がありますが,穴熊が戦いに持ち込めるのにそれを避けようとするのは不思議に感じます。ここで怯んだのが敗因のひとつだったかもしれません。
 先手は☗2四歩☖同歩☗5五歩☖同銀☗2四角☖2二飛☗4六角☖2八飛成☗同角と飛車交換の手順に進めました。ここで☖4六歩と突いて銀取りを受けましたが,これは緩手で,受けるなら☖3三角とすべきだったようです。
 ☗2二飛と打ち込んで☖7六歩の攻め合いに。先手は☗同金と取って☖7五歩のときに☗7二歩と打ちました。これを後手が☖同金と取ったときに☗同飛成と取れず☗7五金と手を戻し☖7一歩と受けられるのでは,変調ではないかと思えました。
                                     
 しかし第2図は後手が7筋に歩を打てなくなったために大した攻めがなく,先手はゆっくりと攻めていけば間に合う局面でした。つまり第2図はすでに後手がじり貧の傾向にあり,先手がかなり優勢になっているようです。
 3連勝で加藤女王が防衛第7期,8期,9期に続く4連覇で4期目の女王です。

 考察はここまでとして日記に戻ります。『スピノザの生涯』を読み終えたのが昨年の6月9日でしたから,今日からはそれ以降のことです。
 この6月9日は妹の宿泊訓練があった日でした。したがって10日の金曜日は持ち帰る荷物が普段よりも多かったため,母が迎えに行っています。僕はこの日は新横浜に出掛けていました。
 6月11日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
 6月12日,日曜日。母と妹が美容院へ。この日もいつものように13時に予約を入れていたのですが,帰ったのはいつもより早く,15時前でした。
 6月15日,水曜日。妹の歯科の通院がありました。この日はクリーニングをしただけです。僕はこの日は川崎に出掛けていて,帰ったのが午後6時頃になりましたので,そのときにはふたりは家に戻っていました。
 6月19日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。前夜までに連絡がなかったので,17時半からの予定だったのですが,当日になってから連絡が入り,16時からの開始に変更となりました。
 6月20日,月曜日。母が妹を作業所まで送って行くと,作業所が6月一杯で閉鎖になるという報告を受けました。朝の迎えがなくなったのは職員不足の影響でしたが,この閉鎖も同じ理由からでした。ただ,6月一杯での閉鎖というのは急な話でしたが,閉鎖自体はもっと前から予定されていたものです。翌年,というのは今年のことですが,4月に,施設が運営している諸々の作業所等を統合整理して,今年の4月から場所を変えて作業をするということは前々から決まっていたのです。つまり今年の3月には閉鎖になるということが事前から決定していて,それが職員の不足による影響から,前年の6月に約半年ほど前倒しされるということになったのです。なので6月一杯という期限については驚きでしたが,施設の閉鎖ということ自体は,母にとっても僕にとっても,そしておそらくはこの作業所で作業していた人たちの保護者にとっても驚きではなかったものと思います。妹は新しい作業所で作業することは決まっていましたが,まだその作業所は未完成でした。
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宇都宮ワンダーランドカップ&自己

2017-05-16 19:05:13 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された宇都宮記念の決勝。並びは武田‐神山‐牛山の茨城栃木,山田‐稲川‐北野の近畿中部,北津留‐園田の福岡で渡辺は単騎。
 稲川がスタートを取って山田の前受け。4番手に武田,7番手に北津留,最後尾に渡辺という周回に。残り2周のホームに入る手前から北津留が上昇開始。ホームで山田を抑えました。このラインに続いていた武田はバックまで山田の外で牽制。打鐘の少し前に北津留をゆっくりと叩き,誘導も交わして先行態勢に。ですが山田がすぐさま外から巻き返していったために,ホームの入口では先行争い。これを山田が叩いて武田は稲川の内で粘ることになりました。この競りに決着がつかないままバック。引いていた北津留が満を持して発進すると短くなっていた隊列をあっさりと捲り切り,マークの園田と抜け出しました。直線では園田も迫りましたが北津留が粘りきって優勝。マークの園田が半車身差の2着で福岡のワンツー。最後尾だった渡辺もこのラインを追うような形で3車身差の3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は立川記念以来となる記念競輪5勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは茨城栃木勢が人気になっていましたが,最近の武田は自力ではあまり結果が出ていないこと,また山田にも先行意欲がありそうなことから,福岡両者の方が有利ではないかと見立てていました。武田のイン粘りは予想外でしたが,展開上は致し方ないところ。そのために僕が想定していた以上のいい展開となったため,福岡勢だけで抜け出すことになったものと思います。北津留はイン捲りのようなレースで好走することが多くなっていましたから,絶好の展開とはいえ外を捲っての快勝というのは今後に向けて収穫だったのではないでしょうか。

 人間の精神mens humanaが第三種の認識cognitio tertii generisによって認識できる個物res singularisが,自分の精神だけに限定されるわけではないことは,第五部定理二五からなお明らかだといえます。この定理Propositioではものを第三種の認識によって認識することが精神の最高の徳summaque virtusであるとされています。このとき,ものといわれているのが自分の精神だけに限定され得ないことは明白です。さらにそれが精神の最高の徳といわれ得るのは,現に人間の精神が第三種の認識によってものを認識することができるからにほかならないからです。
                                     
 よって,第二部定理二四の意味から,人間の精神が個物を第三種の認識で認識することは,単に人間の精神による個物の認識であるというよりは,神Deumの認識です。なので現実的に存在する思惟の属性Cogitationis attributumの個物である自分の精神を第三種の認識で認識するということは,人間の精神による自己の認識ではなく神の認識であるということになります。すでにこの様式でのみ人間の精神は自分の精神を十全に認識することが可能であるということは明らかになっています。よって人間の精神による自己認識は,十全な認識であることができないと僕は解します。他面からいえば,人間の精神が自分の精神について十全に認識するときには,実際には自分の精神について何かを認識しているのではなくて,神について十全に認識しているのだと僕は解します。
 一方,現実的に存在する人間が,自分の身体corpusや自分の精神について,それらが現実的に存在するものと認識することはあります。というか,そのような認識は人間が現実的に存在している以上は,必然的にnecessario生じなければならないといえます。ですがこの認識というのはすでにみたように十全な認識ではなく,表象imaginatioです。そしてこれについては僕は人間の精神による自己認識であると解します。つまり人間の精神による自己認識として発生する観念ideaは表象像imagoであると解します。したがって,人間による自己認識は,すべて混乱したものであるというのが僕の結論になります。つまり,自己原因causa suiといわれるときの自己は,僕たちが一般的に認識しているような自己とは,単に語句として一致しているだけであり,実情には相当の差異があると考えます。
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小石のように&第五部定理二四の意味

2017-05-15 19:02:25 | 歌・小説
 「海と宝石」と僕の精神のうちで結びついている楽曲があります。それが「小石のように」です。実際にふたつの曲に関連があるわけではありません。ただ石という語に僕が連想を与えられただけです。
                                   
 「海と宝石」では雛のカモメが石を咥えて飛んでいきます。カモメが咥えるのですから小石に違いないでしょう。そのままカモメは海に流れ着く川を上流へと飛んでいき,山まで辿り着いて小石をぽとりと落とします。すると「小石のように」が始まります。

     山をくだる流れにのせて
     まだ見ぬ景色あこがれ焦がれ
     転がりだす石は16才
     流れはおもい次第


 この石は川を下って流れていきます。

     川はいつか幅も広がり
     暗く深く小石をけずる
     石は砂に砂はよどみに
     いまやだれにも見えない


 石は砂になってしまっても,何とか海まで辿り着くでしょう。そして流れ始めた山のことを思い出します。

     砂は海に海は大空に
     そしていつかあの山へ


 砂になってしまった石は,カモメに咥えられて大空を渡って再び山に戻ります。そこで再びカモメは石を落とし,石はまた山から川を下り出すでしょう。このようにして,「海と宝石」と「小石のように」は無限に連鎖していくことになるのです。

 第五部定理二四は,単に個物をより多く認識するのに比例して神をより多く認識するQuo magis res singulares intelligimus, eo magis Deum intelligimusといわれています。ですが実際はこの認識は第三種の認識cognitio tertii generisを意味します。つまりある人間の精神mens humanaが第三種の認識によって個物を多く認識すれば,その分だけその人間の精神は神をより多く認識するという意味です。なお,第三種の認識はそれ自体が十全な認識なので,ここでいわれている神の認識もまた当然ながら十全な認識になります。現実的に存在する個物をより多く表象するimaginariことが神を認識するということではないという点には注意が必要でしょう。
 この定理Propositioからいくつかのことが理解できます。まず第一に,スピノザは第三種の認識で個物を認識することを神を認識することと等置しているということです。個物を多く認識するほど神を多く認識するのですから,これはそれ自体で明らかでしょう。したがって,人間の精神による第三種の認識での個物の認識は,単に個物の認識であるというより,神の認識であると説明されなければなりません。つまり,現実的に存在する人間の精神が思惟の属性の個物であるということに注意するなら,人間が自分の精神について第三種の認識で何かを認識することは,単に自分の精神を認識しているというのではなく,神を認識しているのだと説明されなければなりません。このゆえに僕はこれは自己認識であるというより,神の認識であると解するのです。
 ただ,もしもこうした認識が,現実的に存在する人間にとって,自分の精神が対象objectum,subjectumとなった場合にのみ特有に生じる思惟作用であるとしたなら,確かにそれは神の認識ではあっても自己認識でもあるといわなければならないでしょう。ですが第五部定理二四の存在は,それを否定しているといえます。なぜなら,もしも現実的に存在する人間による第三種の認識が,自分の精神が観念の対象になった場合にのみ固有に生じる思惟作用であると仮定するなら,第五部定理二四は単に論理的に正しいということを意味するだけで,現実的には無意味になってしまうからです。逆にいうなら,人間の精神が自分の精神以外の個物も第三種の認識で認識し得るから,このことが主張されているのです。
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ヴィクトリアマイル&第五部定理二四の認識の種類

2017-05-14 19:15:13 | 中央競馬
 第12回ヴィクトリアマイル
 よく逃げているという馬が不在でしたのでどの馬が先手を奪うかがまず注目されましたが,スプリント路線で結果を残していたソルヴェイグの逃げに。追い上げてきたリーサルウェポンが2番手,以下,アスカビレン,レッツゴードンキ,スマートレイアー,クリノラホール,ジュールポレール,ミッキークイーン,クイーンズリング,アットザシーサイド,デンコウアンジュ,アドマイヤリードという隊列に。ただ,1頭1頭の間隔はほとんどなく,これらより後ろの馬も含めてほぼ一団でのレース。前半の800mは47秒9の超スローペース。
 直線に入る手前からソルヴェイグが徐々に外に出てきたので,内もがらりと開く形。ソルヴェイグの内に入ったのがスマートレイアーでさらにその内からクイーンズリング。さらに直線の半ばではスマートレイアーとソルヴェイグの間をアドマイヤリードが突いてきて,ソルヴェイグの外からジュールポレール。そして大外を回ったのがデンコウアンジュ。ペースの関係からどの馬も余力を残していたので大激戦になりましたが,やや詰まっていたのも幸いして最後に脚を使うことになったアドマイヤリードが抜け出して優勝。大外のデンコウアンジュが1馬身4分の1差で2着。その内にいたジュールポレールがクビ差で3着。内から2頭目のスマートレイアーがアタマ差の4着で逃げたソルヴェイグがクビ差の5着でした。
 優勝したアドマイヤリードは今年に入って1000万と1600万を連勝。前哨戦の阪神牝馬ステークスは2着でここに出走。重賞初制覇を大レースで達成しました。昨春のクラシックに乗った馬ですが,今年に入って本格化してきたとみていいでしょう。今日のレースは再戦すればまた結果も変わるであろう内容だったと思いますが,現役の牝馬の中で上位の能力をもつグループの中に加わっているのは間違いないところだと思います。父はステイゴールド
                                     
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手は川崎記念以来の大レース制覇。ヴィクトリアマイルは初勝利。管理している須貝尚介調教師は一昨年の天皇賞(春)以来の大レース制覇。ヴィクトリアマイルは初勝利。

 延長の属性の三様態についてはスピノザは明示していますが,思惟の属性Cogitationis attributumについては間接無限様態が何であるか示されていません。間接無限様態を特殊的事物res particularisのうちに含めるべきか否かということは,僕が示した第二部定義七や岩波文庫版の116ページの第二部自然学②補助定理七備考のほかに,第一部定理二八をどのようにスピノザが論証しているのかということも検討材料になると僕は考えています。ただ,この定理Propositioは一般に個別的事物res singularisが存在existentiaと作用に決定される様式を示しています。つまり延長の属性Extensionis attributumの個別的事物にも妥当しますが思惟の属性の個別的事物すなわち個別的事物の観念ideaにも妥当しなければなりません。ところが思惟の属性の間接無限様態が何であるかが分からないので,十分に検討することができません。そして今は,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,自分の精神の永遠性aeternitasを認識するということを考察の課題としていますから,その課題との関連性ももっと薄くなります。なのでこのことはここまでとし,現状の考察の方へ回帰します。
 現実的に存在する人間の精神が,現実的に存在する個物といえる自分の精神について何かを認識することが,自己を認識するということではなく神Deusを認識するのだということを,第五部定理二四に訴求して示すためにはある条件が必要です。それは,人間の精神による自分の精神の永遠性の認識は,一般的認識ではなく個別的認識である,いい換えれば第二種の認識cognitio secundi generisではなく第三種の認識cognitio tertii generisであるということになっているのですから,第五部定理二四で示されている個物の認識もまた,第三種の認識でなければならないということです。
 このことは,第五部定理二三備考において,明らかに第三種の認識が言及されていると考えられ,その直後に第五部定理二四が示されているという,定理Propositio,備考Scholium,定理という配置の意図からして,妥当な解釈であるといえます。ですがそれだけではありません。スピノザは次の第五部定理二五で,精神の最高の徳summaque virtusがものを第三種の認識で認識することだといっています。そしてその論証Demonstratioにおいて,第五部定理二四を援用し,そこで示されている認識を第三種の認識と等置しているからです。
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