『サングラハ』第170号:近況と所感

2020年04月07日 | 広報

  第170号・近況と所感

 

 温暖化―暖冬傾向が続き今年も春が早いようです。

 これを書いている時点では、東京などは桜が満開で、待ちに待っていた我が家の平安枝垂れ桜も可憐かつ華麗という風情に咲き始めていますが、本誌がお手元に届く頃は、東北、北海道以外はもう桜がすっかり散っていることでしょう。

 みなさん、いかがお過ごしでしょうか。ご健康・ご無事を心からお祈りしています。

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 それにつけても、新型コロナウイルス感染の世界的流行がどうなっていくのかとても心配です。

 感染拡大防止のため、出入国制限、学校の一斉休校、イベントの自粛等々が行なわれ、経済・社会的に深刻な影響が出ています。経済への打撃は、リーマン・ショックや東日本大震災よりもはるかに大きく、世界恐慌が危惧されるとのことです。何よりも終息の見通しがつかないのが厳しいところです。

 経済・社会的にも心理的にも厳しい状況にある皆様に、心からお見舞い申し上げ、何とか耐え抜いていただけますようお祈り申し上げます。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、ご遺族の方に心からお悔やみ申し上げます。

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 しかし、私たちは、諸行は無常であり、終わらない出来事はないことを学んできました。幸運であれ災害であれ、必ず終わり、変化していきます。そして、その変化の方向は行為・業・カルマの質によることも学びました。

 終わる、終わらせる時まで、よりよいカルマを集積することを心がけながら、人生という修行の一環として耐え切ってワークしていきましょう。忍辱波羅蜜多!です。

 今回のコロナウィルスが直接その影響であるかどうかわかりませんが、気候変動により感染症全般が増えてくることはIPCCによってすでに警告されてきたとおりです。その警告に真剣に耳を傾けていれば、ある意味では「思いもかけない」「想定外」のことではなかったのではないかと思われてなりません。

 そして、こうしたことが今回だけで済むとは、残念ながら想定できません。警告に耳を傾け、人類がこれからしばしば、感染症に脅かされることも、これまで体験したことのないような自然(?)災害に襲われることも、想定しておく必要があります。

 これからの時代は、望むところではありませんが、いくつもグローバルな危機が次々に起こりうることを「想定内」のこととして、人類共同で可能な最大の備えをすべきなのではないかと思われます。

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 ところで、ポジティブシンキングの基本的考え方に「すべてのよくないことは、おなじくらいかそれ以上のよいことの種を秘めている」というのがあります。

 もし今回のことを、教訓として活かせれば、またありうる次の事態への本気で本格的な準備の出発点にすることができるでしょうし、さらにエコ・システムとしての地球からの、これまでどおりではない生き方や社会のあり方への方向転換を促す圧力――いわば「ガイアからの勧告」――と捉えれば、より根本的・本質的に活かすことができるのではないか、と筆者は考えています。

 けれども、「自分(たち)は強者だから生き残ることができるし、弱者が滅びるのはやむを得ないことだ」と内心思っていたり、時には公言さえするようなかなり多数の世界のリーダーたちは、このくらいではまだ目を覚ましてくれないかもしれません(筆者は毎日のように彼らの幸福な引退と菩薩的リーダーの誕生―成長を神仏・宇宙に祈っているのですが)。

 だとしたら、今回のことをきっかけに、まずこれから先まだ長く生きる世代の人たちに、「これまでどおりでいけるだろう」「誰かがうまくやってくれるだろう」という発想を終わりにして、「これまでどおりでないやり方に変えなければならない」「それは私たちがやるんだ」という思想と強い意志を確立してもらいたいものだ、と切望しています。

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 ここで、私たちが目指したい「これまでどおりではないあり方」とは、まず環境と福祉と経済の好循環システムによる「人間同士の平和、人間と自然の調和に満ちた和の国・日本」、さらに広くは「エコロジカルに持続可能な福祉世界」・「和の世界」の建設であり、それはもともと「日本の理想」でもあったことの再確認をしておきましょう。

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 特に東京土曜講座「般若経典と日本の心」では、般若経典・大乗仏教が語っている「菩薩による仏国土=和の国建設」が、聖徳太子はもちろん、天武天皇や聖武天皇の国家理想でもあったことの確認―共有の作業をしています。

 第一回目・二月の天武天皇と『仁王般若経』についての講義は、準備過程で筆者自身にとっても驚きの発見続きでした。何よりも『仁王般若経』における「護国」が、支配者の権力や地位や既得権を護ることではなく、「国土が安全であり、すべての人々が幸福であれるようにする」という意味だったことは、嬉しい驚きでした。

 考えてみれば般若経典が大乗の菩薩の思想である以上、当然のことだったのですが、戦前の軍国主義的な「護国」のイメージが強すぎて、これまでそこには思い到りませんでした。そのため、『仁王般若経』は、中国で偽作されたもので、般若経典の思想を権力者に都合のいいように歪曲したものなのではないか、という予断と偏見があったのです。

 しかし、テキストそのものをちゃんと読んでみると、それはまさに予断・偏見・誤解でした。『仁王般若経』は、般若思想をしっかりと踏まえた上でそれを国家論や指導者論に展開したものだったのです(少なくとも筆者にはそう読めてきました)。

 そして、それを天武天皇や持統天皇や聖武天皇は非常に重んじています。それは、彼らが『仁王般若経』に語られている民への慈しみ・仁の心のある王・リーダーでありたいという願い・理想を抱いていたことの証だ、と筆者は解釈します。

 とはいえ、凡夫にはマナ識があり、したがって当然、志・理想と野心・権力欲は入り混じりがちで、天武天皇や聖武天皇にもそういう両面があったことはまちがいないでしょう。

 しかし、そこでまちがえていけないのは、どちらか片面だけではないということです。まず公平さということで言えば、しっかり両面を見る必要があります。

 その点に関し、筆者の読んできたかぎりでの進歩派の歴史学者の著作は、どちらかというとマイナス面を批判することに熱心で、プラス面を十分見てきていなかったのではないか、と思われます。

 そうした著作に影響されて、筆者も古代のリーダーたちのプラス面を見ることができていませんでしたが、聖徳太子の学び以来『日本書紀』や『続日本紀』と大乗経典のテキストを併せて読むことで、次第に古代日本のリーダーたちが本気で理想を抱いていたということを読み取ることができるようになってきました。

 そうした読みは、硬直した愛国心や思い込みの日本主義に陥ることなく、柔軟で開かれており、自己肯定と他者肯定のバランスの取れた、何よりもしっかりした歴史的根拠のある日本人としてのアイデンティティの確立を可能にしてくれるものだ、と筆者は実感しています。

 講座に参加していただけなかった方にも、その嬉しい驚きの発見を共有していただきたく、一部をブログ記事にしていますので、ぜひご覧ください。

 また、より詳しく学びたいと思っていただける方は、HPから当日の講座DVDのご注文をいただけると幸いです。

 


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