実は最初の卒業した大学の専攻が英米文学で、
ひねくれもののわたしはシェイクスピアではなくアメリカ文学を選び、
卒業論文はフィッツジェラルドにしたのでした。
でもフィッツジェラルドでも有名な「華麗なるギャツビー」ではなく
とても短いエッセイのようなものを題材に
彼自身の人生をまとめるような卒論でした。
有名な作品については、もう書くこと残ってない気がしたしなぁ。
「華麗なるギャツビー」も、もちろん大学でも読んだけど
なんかピンと来なかった。
長編でも他のものの方が好きだったし
なーんか、よく分かんない話だなぁ、と思っただけでした。
ロバート・レッドフォードとミア・ファーロー主演の映画も
何度か見たけど、映画は小説よりはわかりやすくて好きでした。
レッドフォードがあまりにいい男なのが悲しくなるほどで
ミア・ファーローが浅はかに悲しさや恋に酔ってるだけの、
他人に興味のない、豪奢できれいな女の酷薄さをちらりと見せるのが、
うまいなぁとうなります。
20年代のファッションやデザインも楽しい。
今回のはディカプリオで、最初全然見る気がしなかったんだけど
友達に誘われて行ってきました。
キャスティングに関しては、見る前からの印象はかわらず
不満は残りました。
キャスティングだけで、もう全部OK!というくらいの
「細雪」をみたところだったので
キャスティングが今ひとつだと、いろいろ苦しいなぁとしみじみ。
ディカプリオは、かわいげのあるいい男だとは思うんだけど
いわゆる、はっとするきれいなハンサムではないし
ぴしっと背筋の伸びるような雰囲気も足りない。
一目見ただけで、目が釘付けになるような何かがほしい役なのです。
キャリー・マリガンも同様に、社交界の花というには
顔が善良でかわいすぎ。ファニーフェイスと言うかなんというか。
彼女の演技は良かったと思います。
あのかわいい顔に、浅はかさや酷薄さを、たまに滲ませるのには
成功してたと思う。
主演の二人ともいい演技だったのではないでしょうか。
でも
レッドフォードとミア・ファーローとは格が違うなぁ・・・。
今なら、他の俳優なら誰がいいかなぁと思うと
似すぎているけどブラッド・ピットとか
やはり正統派のきれいなハンサムがいいと思うんですけどね、
個人的には。
と、キャスティングに文句をいいましたが
それ以外はとても楽しい映画!
アメリカのビッグバジェット映画を見る楽しみを満喫できます。
パーティーシーンが、もう豪華で楽しくて素晴らしい。
狂騒のの1920年代の贅を尽くしたパーティを
派手に見せてくれます。
パーティーシーンの音楽は、20年代にはこのリズムはなかったやろ!と
つっこみたくはなるくらい、今風のアレンジで
がんがん聴かせますが、全然いやじゃない。
むしろ楽しくて、映画見ながら身体が揺れたくらいです。
なんで「アンナカレーニナ」の変なひらひら創作ダンスは許せなかったのに
ここでの時代を無視した音楽は楽しいんだろうなぁ~。
これはサントラも聴きたくなりましたね。
ドレスも素敵だし
車や、豪邸、豪邸の間の小さな家のお茶会もかわいいし
見る楽しみが一杯の映画です。
印象に残ったのは
ギャツビーが、デイジーを自宅に呼んだシーンで
たくさんのきれいなシャツを投げ広げるところ。
美しいシャツを何十枚も投げ広げ
それにうっとりとしながら涙ぐむデイジー。
儚さ、ばからしさ、美しさ、浅はかさ、が渾然一体となったシーンです。
そういう場面は他にもたくさんあって、
それが名作と言われるゆえんなのだろうと思います。
このシーンがいつも印象に残るのは
大学の時にこの場面の象徴することについて
誰かと話したか授業でテーマになったのかもしれない。
覚えてないけど、やはりよく考えたことというのは
どこかに残っているものなのかな。
あと、トムの愛人があまりにはすっぱすぎるのは気になりました。
単細胞な遊び人だとしても、米国有数の財閥の金持ちのトムです。
安っぽいながらも、どこかそそる労働者階級の女、という存在はわかるし
それにずるずると溺れる名家の金持ちというのもわかるけど、
も少しうまく演出できないものか。
ここまではすっぱで安っぽい女に入れあげることはないだろうと思ってしまう。
彼女にも、もう少し切なさが出てるとよかったのにな。
ゴージャスで楽しい映画だけど
ラストの事件あたりから、とてもイヤな気分に苦しくなります。
古い方の映画でも、何度見ても、こういう展開は胸が苦しい。
ギャツビーの純情が身にしみて切ないです。
ギャツビーのデイジーへの気持ちは、愛ではないのかもしれない。
彼女不在での、執着と妄想でしかないのかも。
ものすごく我慢強いタイプの。
本物のデイジーを見てはいなかったように思うよ。
でも、愛とは違うにしても、彼の切実さ、想いの深さ、
自分を捧げる気持ちは、誰にも真似できないものではある。
「コレラの時代の愛」(→日記)もひとりの女性を五十年も思い続ける
執着と妄想の深さの物語だけど、
彼らはもう、相手がどんなでも構わない境地だよなぁ。
例えば相手の中身が変わってしまっても、事故や病気で姿が変わってしまっても、
その人がその人である限り、求め続けるのだろう。
それを愛と呼んでも、まあいいか、と思う。
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