sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

レオ・レオーニ展

2018-08-31 | 芸術、とか
集団で何かするというのにどうしてもなじめなかったわたしは、
「スイミー」に特に惹かれたことがないのですが、
「フレデリック」は好きで、前に→ブログに書いたこともあります
詩はうまく作れないけど、気持ちだけは詩人だからフレデリックに惹かれるのかな。
それだけじゃなく、この毎日書いてる自分のブログ自体が、
フレデリックが春や夏に色や光を集めるようなものだなと思う。
人生の冬に備えて、いいものを全部ここに残しておくのです。

それでレオ・レオーニ展見てきました。

チケットがかわいいと、それだけでうれしい。



展示はこじんまりとはしてたものの、
前回のディック・ブルーナ展より原画も多く、初めて見る油絵や
グラフィックデザイナー時代の作品も興味深くてよかった。
特に油絵がよかったですね。

レオ・レオーニという人は、元々、
母親は世界的オペラ歌手というような裕福なインテリ家庭の出身で
才能があり恵まれた人だったのは、ディック・ブルーナと似てるかな。
絵本以外のアート作品を作るときの、眈々と楽しそうな様子は
余裕のある人が好きなことを楽しんでいる感じだな。
そして、絵本でも繰り返し描いているように
多様性というのがテーマの人なのだなぁと、インタビュー動画を見て思った。


そして、美術館に行ったら、チラシで封筒を作ります。
デザインによっては封筒にできないのもあるけど、
レオ・レオーニのは表にほとんど文字が入ってないシンプルなデザインなので
ちゃんと定形サイズかできました。
チラシ2、3枚もらってすみません。もらった分、宣伝します・・・。

プラドとボローニャ

2018-08-31 | 芸術、とか
兵庫県立美術館のプラド美術館展ですが、ツイッターでフォローしてる方が、
めっちゃかわいいと褒めてたベラスケスの「東方三博士の礼拝」の赤ちゃんイエスが、
本当に本当にかわいくて、
何か巻かれてマトリョーシカ体型になってるとこといい、
むずかった顔にすぐつながりそうな表情といい、たまらんかったでした。
こんなにかわいくていいのか。


「ぷらっとプラド」って、このコピーどうなの?というのはさておき、
この美術館ね、駅から美術館への道が本当にダメ。
広々としてきれいでまっすぐな道なんだけど、車のことしか考えないで、
歩く人のことを全然考えないような人が作ったのね。日陰が全くないのです。
真夏は真冬に、大型の良い展示をしてることが多いんだけど
どっちもこの道の暑すぎ寒すぎがつらい。行くたびに犯罪級の酷い道だなと思う。
その、あまりの暑さのせいか、閃輝暗点という、視界の一部がモザイクのように
キラキラ眩しく光る症状が始まってしまったので
(片頭痛の前によく起こる症状です)
視界の三分の一くらいが欠けてて、たくさんの絵を見る集中力が全く足りず
雑な見方をしてしまった。
ティッツィアーノとベラスケスとルーベンスの前のベンチで、
欠けた視界で20分くらい休んだら少しマシにはなったし
贅沢な休憩といえば、途方もなく贅沢な休憩でしたね。

静物画は、大きな宗教画に比べると身近な感じがして、
頼めばもらえそうな気分になり、大きな絵より熱心に、
どれ貰おうかなぁと見てしまう。
パパ・ブリューゲルのお花もいいけど、
印刷では全然良くなかった、2つの果物皿と果物の絵をもらおうかな〜。
くれるなら。(くれないけど)


あと印象的だったのは1615年の行列の絵でした。
画家はDenis van Alsloot または Denijs van Alslootで、
「ブリュッセルのオメガングもしくは鸚鵡の祝祭:職業組合の行列」
長〜い長〜い幾つもに折れ曲がった行列。これは絵本的に楽しい。絵本にしてほしい。
ちょっと安野光雅さんっぽいかな。
一人一人がそれぞれ細かく個性豊かに描かれてて、一人ずつ見ておもしろかった。
実物はとても大きな絵で、ここの写真じゃ良さは全然わからない。


そのあとに行ったボローニャ国際絵本原画展も、
もう夏のルーティンだから毎年行くけど、行くたびに、暑い暑いと文句が出る。
何十年も毎年真夏にやってるわけですが、なんで秋じゃないのか。
絵本展だから夏休みに、ということなら仕方ないんだけど、ここも駅から遠い。
でも文句言いながら毎年行くし、これからもずっといくと思います。仕方ない。
30年以上通ってるから、50年を目指して毎夏行くしかない。

今年は、個人的にはすごい好みというのが少なかったかなぁ。
図録は買いませんでした。
絵本原画展って、次元は少し違うけど、
おもしろい現代アート見たときと同じくらい、気持ちが自由になって、
こんなんありなのか」!という驚きに心が解放されるのが楽しみなんだけど、
今年はそういう驚きが少し足りなかった気がする。個人の感想です。好みは色々。

美術展のチケットをいつもくれる友達がいるのだけど、
今回もプラドのチケットは、その友達がくれました。
見に行ったら必ずその展示の絵葉書を買って、
その友達にお礼の葉書を送るまでが、遠足だし、おまけの楽しみ。
前述した幼子イエスの絵葉書を送りました。

家計簿

2018-08-30 | Weblog
結婚してた頃も、家計簿は何年もつけてて、大体把握してたけど、専業主婦で
自分のお金じゃなかったので、お金の使い方にあまり満足してる感じはないというか
自分できちんと管理してる感じは、どうもなかった。
でも今は、本当にちょびっとのお給料で、ほどほどにやりくりして、
自分なりに納得できてる。

家は親にもらったものだけど築30年以上の古い公団だし、
そこに14年住んだ後にした去年のリフォームは、
リビングの床以外はすごい節約してどれも規格品の一番安いやつにしたし、
普段、服はほとんど買わないし、髪は千円床屋で切るし
化粧品は500円とかで、全体にかなりお金を使わない方だと思うけど、
そのかわり、美味しいものと楽しいことには少しタガをはずす。
たまに外しすぎちゃうけど。笑

今は、家計簿をかなりちゃんとつけてて
自分の家計を自分で管理できてる感じがあって、無駄遣いしても割と楽しい。
自分でわかっててやる失敗は、案外楽しいんですよね。反省もちゃんとできる。
自由がなくて自分の失敗さえ自分で出来ない人生が長かったので、今は失敗さえ楽しいの。
間違える自由があるって、いいなぁ。自分でなんとかしなくちゃいけないにしても。
年をとったのでそんなにひどい間違いをすることもなくなってきて、
ほどほどの間違いをしては、後始末をこそこそする、というのさえ、昔に比べたら楽しい。

でも、昔も今も、自分のお金の使い方は、実はあんまり変わってないなぁと思う。
もしもお金がすごくいっぱいあったら違うかなぁと考えてみたけど、
多分たまにタガをはずす、その外し方が大きくなるだけで
(雑貨屋さんのラグではなく、トルコに絨毯を買いに行くとかかな)
やっぱり築30年以上の公団にそのまま住んで、
タクシーでなく電車に乗って、映画はレディースデイに1100円で見てると思う。
そしてお金持ちになっても千円床屋で髪を切ってる気がする・・・。
でも500円の化粧水はやめて、高くていい匂いのクレドポー買ってるかもな。

死刑反対

2018-08-29 | Weblog
死刑反対を、わたしはまず普通に人権的見地から言います。
わたしは子供への犯罪や女性への犯罪は特に許せない。
そういうニュースにふれると、身体中の血が怒りで逆流して、
会ったこともない犯人への憎しみでいっぱいになってしまうこともある。
でも、そんな、とっとと苦しんで死ねばいいと思うほどひどい犯罪者であっても
やっぱり死刑はダメということにするしかない・・・と考えることに決めています。
人権的見地から。

でも、別に死刑囚がかわいそうとか、そういうことでは、全然ないのです。
人間として云々みたいなのではない。

死刑に反対することは、人権的見地以外にもまた、
誰かをとっとと苦しんで死ねばいいと思う荒んだ自分の心を救うことにもなる。
とっとと死ねと思った相手がその通りに死んだ時に、
すっとして気が済むというのは恐ろしいことだからです。
他人を殺せと願ってそれがかなうことで、憎悪から解放されてすっきりすること
・・・恐ろしいことと思いませんか?その自分の心がこわい。
それを恐ろしいと思わず、溜飲を下げる人たちがたくさんいるのは
とてもいやな感じだ。

自己評価と自尊感情

2018-08-28 | Weblog
自分は多分自己評価はそんなに低くないと思う。
自分自身のことになると色々間違えてしまう人は多いし、
わたしも間違えてると思うけど、間違えてるかもという自覚は常にあって、
いわゆる外からの客観的評価との差を計るようにいつも気をつけてはいる。
自分の優れているところと劣っているところの把握は、
謙遜や驕り抜きでちゃんと把握しようと、いつも思ってはいるのです。
内心でも態度でも謙遜が強すぎる人はかえって傲慢だし、
驕っている人はただの馬鹿者だし、どっちにもなりたくないから。
でも見誤ることは多いから、それも必ず勘案に入れるようにしないとね。

でも、むしろ、わたしが低いのは自尊感情だ。
自尊感情に関しては、どうしたものか。
小さな時から何十年も叩きのめされて育つと、自尊感情を持つのは難しいけど
なきゃないなりに、折り合いをつけてやっていく方法を
その場しのぎでやるしかないだけかな。

占い

2018-08-27 | Weblog
先日、仲のいい友達に占い的なことをしてもらったんだけど、
基本で出て来る特徴てきなこと自体は、自分に関しては1割くらいしか当たってなかったと思うし
それはほぼ意味がないと思うんだけど、
ただそれを解釈したりそこから読んでいく人が上手ければ、1割を、7割くらいまでに
思わせることはできそうだなものなのだなと思った。

占いって、基本的には何も当たってなくても、占う人の勘や経験や読解力や表現力、
ボキャブラリーで、すごく当たってると思わせるものだと、やっぱり思う。
あとはカウンセリング力。相手の言って欲しいことをうまく言ってあげる力。
これされるとみんな信じる。信じるのはラクだし気持ちいいことだから。
でも、信じさせるのは占いではなく、カウンセリング力などの技術なんだな。
昨日占ってくれた友だちは、勘もいいしカウンセリング力もあるし、おもしろかった。

例えば全く家庭的でないと思われている人に、家庭的という占いが出た時に、
本人含めて人はまわりはみな、え〜!全然違う〜!と最初は思うんだけど、
占う人が上手ければ当たってる占い以上にそれを納得させることができてしまう。
外れているような診断が出ても、それを納得させると強い。
どんなに逆のことが出ても、人には確かにいろんな面があるし隠された面も多いわけだから、
それを納得させるのは案外簡単なのよね。言葉の定義を少しずらしてもいいし。
先の例なら、一般的な「家庭的」とは違うけど、好きな人との生活を大事にするところがあるよね?
そういう意味で、すごく家庭的なところがある人なのよ。とか言えば、
なるほど〜、そういう意味か〜!そういうとこあるよね〜、と納得されたりして、
最初から当たってることをいうより、
むしろ逆張り的なとこから始める方が信じられやすい気がする。

ただ、占いって、個人的に信じたり疑ったりしてるうちは、
たいして悪いところのない遊びとも言えるので、レトリックを考えずに楽しむのもいいし、
レトリックのパターンに当てはめながら眺めるのも面白いけど、
占いで結婚相手を決めたりするのも、本人が納得してればいいのかな。
占いで変な家を変なとこに建てたり、占いにすごい大金をつぎ込んだりする人もいるだろうけど、
それは自己責任なのか。それも本人が納得してればいいのかな。
なんにしろ、信じるということは、良くも悪くも大変なことだと思う。
わたしが信じるのは、騙されててもいいと思える相手のときだけだ。
それは、信じるのではなく、信じるふりをする、というのに近いので
結局は信じてないんだけどね。

そういえば、小学校の同級生に、誕生日と血液型の同じ女の子がいた。
家も近かったのでよく一緒に帰ったけど、肌の白さ以外に似てるところは一つもなかった。
わたしは勉強に苦労したことがなかったけど、その子は勉強が苦手だった。
高学年くらいから友達づきあいに苦労し始めたわたしと違ってその子は友達も多かった。
わたしはトイレに一人で行ったけど、その子はいつも友達と行った。
顔立ちも、好きなものも友達も考え方も性格も服の好みも何もかも違って、
誕生日や血液型(一緒だった)の占いはおかしいなーと、その時しみじみ思って以来、
占いを信じたことはない。
それ以来、同じ誕生日の人に会ってないけど。笑

パワーマイノリティ

2018-08-26 | Weblog
自分はゲイだけど祝福されて結婚式もしたし、全然差別されてないし、
差別差別と騒ぐのはサヨクやフェミに利用されてる奴らだ
みたいなこと言う人を、ときどき見かける。
マイノリティの側にいる人でも、
反対側から同じマイノリティを踏みつけるようなことを言う人って、いるんだなぁ。
自分さえよければって心理なんだろうか?
そいう気持ちで人を踏みつけて自分だけ助かっていようとすると、
クモの糸が切れて地獄に落ちるのは自分も一緒だと思うんだけど。

いや、自分さえよければというのではなく、単純に思慮の浅い人たちで
自分の幸せと幸運を元に、他人の不幸や不運を、
そんなものないと否定してしまうだけの人たちなのかも。
人の不幸の大きさや有無を、なんで他人が勝手に否定できるのかわからないけど、
そんな差別は日本にないとわざわざ言い散らす、そういう人に、
それは違いますよと誰かが言ったら、
わらわらと、人の幸せに水をさすな、批判するようなことを言うな、
という人が出てきて、なんというか、
和をもってよしとなす的なのって、かなり害だなぁと思った。
空気と同調圧力で、間違ったことも飲み込めというのだもの。
そんな風に、自分もマイノリティなのに、マイノリティ差別はないと言い募り
差別反対なんて必要ないと、差別者側に立ってしまうような人のことを
パワーマイノリティと言うようです。

ただ、思い起こすと、わたしにもそういうところはあったんだよね、若い頃。
自分はこころ強く低劣な差別なんか跳ね飛ばせる在日だと思ってたので、
それのできない、日本で在日を名乗れないような人たちを、厳しく冷たい目で見てた。
傲慢で無神経だったなぁと思う。狭量で好戦的だった。
今の自分はその頃よりは少しはマシになったと思うけど、
反省ばかりの人生だ。でも反省しないよりはマシよね。

死ぬかもとすぐ考える

2018-08-25 | Weblog
年を取ってきたので、地震のときとか、いつもと違うタイプの頭痛や痛みや不調の時とか
すぐに、あー死ぬのかなーと思うんですけど、この頃。

今日も炎天下自転車乗ったあとに駐輪場で少しふらふらして胃が気持ち悪いなー、
熱中症急に来て、ここで死んだりするかなー、
今倒れたら困るかな?今日死んだらどんな後悔があるかなぁと
駐輪場で少し立ち止まって考えてみたけど、
苦手な夏に汗だくなのは嫌だけど、まあ今死んでも仕方ないし、ま、いいっか、と
案外心安らかに思えて落ち着いた。

この前の地震の時は、わー今死んだらどうしようー!?わー!となんだか結構焦ったので
その瞬間の気持ちの余裕は大事だなぁと思った。
でも常にいつもいつも、心の準備できてるってのは、まだ遠いな。

厭世的な気分とかは全然なくて、普通に機嫌よく考えてることで、
自分が死ぬということに悲劇的な感じをあんまり持ってないのです。
というか、死んだことないからわかんないし。

スイカまるごと

2018-08-24 | お弁当や食べ物
スイカ1個まるまる自分のもの、って、小さい頃の夢の一つだったな。
いちご1パック一人でと、プリンをどんぶりでというのは、
大人になってすぐやったけど、スイカはまだやってなかった。
すいかは、子供の頃は一番好きな食べものだったけど
大人になってからは、イチゴや桃も同じくらい好きで選べなくなり
相対的にすいかの地位は落ちてたんだけど、一回くらいは、と、買ってみた。
こういうことで、毎日毎日なにか楽しいことがあってうれしいな〜と思うけど、
ささやかすぎるしあわせの日常だな。
でもいろいろとキャパが小さい人間なので、これくらいの幸せがいいのかも。

大きなスイカを丸々買ったけど、2日ほど時間がなくてそのまま台所の床に。
やっと時間のできた週末に、まず半分に割って、一方はザクザクっと切って
ボウルに入れて冷蔵庫へ。今年のすいか、甘い。
スイカ食べ放題。王様の気分ですよ。
小さいスイカの小さい一切れをちまちま買って食べるより、
こっちの方がいいなーと、気づいたわ。
重いので、コープさんの配達で買いました。
食べても食べてもまだ冷蔵庫にスイカがあるので、
世界に対してとても寛容な気持ちになっている。
みんなが、好きなだけスイカが食べられればいいのに。

残りの半分は、トマトくらいの大きさに丸くくり抜いて、冷凍。

凍ったら焼酎と炭酸で、スイカチューハイにします。おいしい。かわいい。

黄色いきのこ

2018-08-23 | 小さいもの
バロータという、ふわふわした葉っぱの植物が、今ベランダのプランターにあるんですけど
ある朝、洗濯物を干しにベランダに出た時に、なんかどぎつい黄色が目に入って
ええっ?とよく見たらキノコっぽかった。

翌朝みたら傘が開いて、色は少し落ち着いてた。

ググってみたらよくあることらしく、それはいいんだけど
どのサイト見ても「食べないほうがいいです」と書かれていて、みんな
キノコと見たらとりあえず食べものと思うのか、食べてみるのか、となんかおかしい。
ある友達も、大きな木の植わっている鉢に、毎年生えて毎年消えるよというし
悪さをするわけでもないので、まあそのままにしててもよさそう。
完全に退治したかったら、そのプランターの土を黒いビニール袋に入れて
炎天下に置き、熱さで胞子?を全滅させるといいと書いてあったけど、
まだバロータが元気だから、まあそのままにしとこ。

暑い日が続いて、傘が開いてた2つ以外の、小さくぽこぽこ出てたキノコたちは
全部いなくなっちゃったし、残ってる子も元気がない。


きのこたちって、造形的にもこんなにおもしろいうえに毒があったりなかったりもするから、
想像上の植物で実は実在しないと言われても信じたくなる。
不思議なものたちだな。