sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

映画:三人の夫

2020-02-29 | 映画


一昨年くらいに見て、すごくよかった「香港製造メイドイン香港」
(古い映画のデジタルリマスター版)
の監督フルーツ・チャンの新作が去年来てたのに
見逃してしまったやつを見ました。

甘めのウィスキーとアイリッシュウィスキー練り込んだチェダーチーズをスタンバイして
わくわくしながら見ましたが、冒頭のアワビのシーンのエロやりすぎ感は
ツァイ・ミンリャンの「西瓜」思い出す。わくわく。
「西瓜」もたいがい悪趣味で変態な映画でしたが、「3人の夫」もそういうところありますね。

全編ほぼ性描写の映画ではあるけど、あー、確かにフルーツ・チャンだわーと思いました。
隙があれば忍び込ませる笑いと、それと裏表の叙情。
怪作だなぁと最初の方からひたすら感心してるうちに話は進みます。
安っぽさも健在ながら(褒めてる)、かなり考えられたシーンもあって、
底力のある監督だなぁと思う。
幼稚さの薄い、ドメス度の低いアジアっぽい園子温というか、
ツァイ・ミンリャンの意地の悪さもあるし笑いのセンスもあって、
「香港製造」だけではわからなかった不思議な監督だなぁ。
「香港製造」は何十年か前のデビュー作だったと思うので、成熟も成長もするだろうけど
こういう方向にどんどん行って、荒いのか稚拙なのか計算なのか
渾然一体とした混沌があって、
そうなると、もう好き嫌いを離れて、うれしくなってしまうのです。
こんな風に、どう捉えていいかわからないものや初めてのものを見せられるのは好きです。
わからなさの魔力にはすぐ降参してしまう。
映画は基本的には深刻ではなく、笑える箇所を挟みながら進むのだけど
ストーリーは結構ヘビーで、倫理的にも混乱するし、
ラストは現在の香港情勢云々という解説もあるし一筋縄ではいかない映画ですね。

船上で生活するムイには複数の夫とひとりの赤ん坊がいる。
第一の夫は父親。これを、そうかそうかと見てしまうと自分の倫理が崩壊するけど
それはとにかく置いといて続きを見るしかない。
第二の夫は年老いた漁師で、この二人はムイに客を取らせて生活している。
(この搾取に激怒してしまうと先が見れないのでそこも流してさらに倫理崩壊…)
そこへムイに惚れ込んだ若い男が、ムイを救おうと結婚して第三の夫に。
ムイを連れて陸に上がり生活するけど、ムイの性欲がとどまるところを知らず
自分一人では満足させられず、満足しないとムイは病気になってしまう体質で
結局第三の夫と共に船の生活に戻り、また客を取る日々に。ところが・・・という話。

ムイ本人が喜んでやっている、あるいは必要でやっている売春ではあるんだけfど
ムイは知的障害者に描かれているので、その辺で自分はこれをどういう風に考えるべきか
かなり混乱した映画です。搾取は搾取だし。寓話的な映画ではあっても。難しい。
そしてラストは、かなりつらかった、わたしは。
人間でないもの、淫靡な海の精、人魚的なものだと考えればいいのかなぁ。
わからなさの魔力は好きだけど、この映画自体が好きかどうかと言われると、やっぱり困る。
でも、好みや好き嫌いを離れて考えることは大事だし、
それができる人の話じゃないとあまり聞く意味がない、くらいに思っています。

上昇

2020-02-28 | Weblog
油断するとついうっかりと進歩とか上達とか上昇とかの方を向いて
新しい自分になろうとしてあがいてしまうんだけど、
とにかく、いたい場所にいたいだけ飽きるまでじっといるのだ。
さらに、それで堂々としていられたらもっと良い。

とはいえ、やっぱり生まれ変わりますけど、わたし。
重石ももうないし。
重石がなくなったらどうなるだろうというのは、
重石のある時にはワクワク想像できることではなかった。
不安もあったしよくわからなかった。
今もよくわからないけど、やっと落ち着いて少しずつ考えられるようになってきた。
重石のない人生について。どんな風になるのか、想像できるようになってきた。
どこにでも行ってなんでもすればいいのよね。罪悪感もいらない。
誰にも怒られないし怒らせない。
いたい場所がどこなのかよく考えて、そこに向かって、
じっとしていたいだけじっとしてるか、
すぐに飽きてまたうっかり上昇の方を目指してしまうか、わかりませんが。

甘えだとしても

2020-02-27 | Weblog
人に羨まれるような、客観的に見てうまくやってるような人が、
弱音を吐いたりグダグタなことを言うたりするのを見てると、
人と比べて恵まれてても、人から甘えにしか見えなくても
自分のしんどさは自分だけのものだから、辛い人は辛いのだ、仕方ないよな、と思う。
でもやっぱり自分は謙虚にありがたく生きていこうとも思う。
わたしも今はかなり恵まれて生きてると思うけど、
大体の人よりメソメソするしグダグタだし、人がみんなえらく賢くきれいに見えて、
もうダメ死ぬみたいな気分になることあるので、
何甘えてるんだ、と思う人もいるだろう。
歯が1本痛いだけでつらいのに、もっとつらい人から見たら何甘えてる!?だよね。
と、そういういうことも忘れずに謙虚にグダグダしていましょう。
やはり、人がみな賢く美しく立派に見えることに変わりはないので
基本はグダグダなのです。恵まれているように見えても。

映画:聖なる酔っ払いの伝説

2020-02-26 | 映画


びっくりした。3回目くらいにみた映画だけど自分の印象と全く違って。
年をとるというのは、本当に面白いものだなぁ。
容姿や体力の老化など困った問題も多いけど、年取るのはおもしろいこともある。
ずっと「ぽっくり」至上主義だったけど、それだとなんも準備できない!と気づいて
最近は、半年ほど猶予がほしいと思うようになりました。
派手なパーティーもやりたい。シャンパンで埋め尽くしたい。
それはさておき、
映画ですが、これ、しみじみした、やや暗く切ない映画と思ってたのに、全然違った。
光と色も構図も素晴らしい。そういうの最初の時はわかってなかった気がする。
2回目に見たときは橋の下で寝て、酔っ払って約束を忘れてしまう
だらしない男のどうしようもなさがつらくて、それが美しい映画と思った。
それが今回は全然つらくない!むしろ微笑ましい。全然暗くないぞ!?
昔見たとき、ずるずると飲んでしまって、流されてしまって、
聖テレーズとの大事な約束を果たせないダメな男のダメさを受け入れてしまったせいで
今の自分みたいな自分になってしまったのかもしれないなぁ、などと思ったりはしました。
つまり、人は悪くないけど目先のものに流されて、自分の大事なことは守れない
ダメ人間ということです、はい。
今はわたしも少し違う人間になったと思うけど…

今回は、ホームレス役の主人公ルトガー・ハウザーの目の青さに見惚れました。
今見ると全然薄汚れてなんかなくて清潔感もある。
いつの間にか歳をとって、このルトガー・ハウザーが今の自分より若くなってたからかな。
映画撮影当時は多分43、4歳。若いな〜。
初めて見たときのわたしは20代で、すっかりおじいさんと思って見てたんだけど
今見ると今の私より若い男ざかりよねぇ。そりゃ見方もかわるか。。。

本筋に関係ないいいシーンもたくさんありました。
年取った夫婦がスープ飲むだけのシーンもカフェの外の雨の音ですごいシーンになってる。
雨が小降りになって雨の音が小さくなって、この夫婦がそっと手を重ねるシーンの
なんと宗教的なこと(わざとらしさも含めて)。
ベッドの中の女が、足だけ出すシーンも、すごくいいなー!
そこから続いて誘うシーンのカット、なんとも粋で滑らかで最高でした。
でもこの映画いつも女が寝てる間に男が出ていくのな。
それは嫌いかな。わたしの方が寝てる男を見ながら出ていきたい。笑

お話は、とあるホームレスの酔っ払いが、謎の紳士にお金をもらい
返したいなら日曜に教会の聖テレーズに返せばいいと言われます。
返す気満々の主人公だけど、お金をなくしたり、また手に入れたり、
昔愛した女性と再会したり、かわいい踊り子と出会ったりして中々返せなくて・・・

あと、この映画をわたしにとって美しくしているものに、聖人的なものへの憧れにあるかな。
宗教も宗教への憧れもわたしにはないのに、なんだろうこの、聖人というものへの憧れは?
聖テレーザではなく、この酔っ払い主人公の聖性に対してなのでしょうね。

ラストシーンは「神よ 全ての酔っ払いに美しい死を与え給え」で終わる映画でした。
酔っ払いのわたしには美しい詩を!死は、もう少し後でいいです。

「画家たちの戦争責任」

2020-02-25 | 本とか
少し前に、94歳の女性の講演を聞いて来たところ、という人と飲んでて、
その女性の書かれた本を、お先にどうぞと貸してくれたので読みました。
北村小夜さんという方の書かれた戦争絵画と画家たちについての本で、
藤田嗣治の「アッツ島玉砕」を通して考えると副題がついてる。
戦意高揚的絵画を描いた藤田嗣治にずっともやもやした気持ちがあったのが、
これ読んだら整理されてすっきりするかなと読み始めた。

2006年くらいの多分京都の展示で藤田の「アッツ島玉砕」の絵は見たと思う。
その後藤田をモデルにした映画も見たし、映画の後の監督トークも聞いた。
さらに一昨年くらいにもまた京都で藤田嗣治展を見た。
そして藤田に対してもやもやを募らせていたのですが、結果的にこの本は
わたしの気持ちを鮮やかに代弁してくれていました。
本の文章は淡々と描かれていますが、
わたしは全くほんまやで!と一緒に怒りたい気持ちになりました。

著者は1925年生まれ、戦時中は大変な軍国少女でだったということで、
子どもたちは大人以上に増長し熱心に戦争に向かった、というところから始まる。

わたしは子どもは被害者、と深く考えもせず信じてきたし、それはやはりそうだろうけど、
でもそれだけで、被害者として済ませるべきではないのかもしれないなと初めて思った。
無垢で純粋で無知で無自覚な被害者でも、被害者としてだけとらえるべきではないのかも・・・
この著者のように、その時代を身にしみて知っている人が
数十年かけてその時代を俯瞰しつつ、当時の自分を振り返り
反省と贖罪の気持ちに突き動かされて研究し本を書き講演するようなことは、
戦後いまだにあの戦争の総括も反省も終わってない日本ではもうほとんどないでしょう。
戦争の最中に大人よりずっぽりと軍国主義に染まり、
大人たちの愛国や戦意を足りない、手ぬるいと糾弾する子供だった著者が
それを個人の後悔や反省で終わらせず、なぜそうなったのか考え総括して書かれた本です。

さて、藤田嗣治の戦争絵画に関してですが、その中でも代表作のアッツ島の絵は
戦意高揚絵画に見えない、むしろ反戦画に見えると今の人が見て言うのを、違うと言います。
1943年国民総力決戦美術展でこの絵を見て、その悲惨さに、くじけずに一層頑張るのだ!
覚悟し敵愾心を燃やし仇を打たねば!と心に誓ったと、
戦時中の軍国少女だった作者自ら書いています。
当時はみんなそうだったのだと、そこにいたひとりとして真実を書いてる。
その後、加藤周一が藤田は戦争の悲惨さを描いたのだ、
戦意高揚の気配もないと評しましたが
確かに今見ると反戦絵画にも見ることができる絵であっても、それは歴史歪曲の嘘だと。

そもそも藤田自身が「戦意高揚に役立つ幸せ」というようなことを戦時中に書いてて、
軍に守られながら安全な場所でのうのうと悲惨な絵を軍からの依頼ではなく自主的に
想像画として描き、兵士の死を正義に、人々のバンザイクリフでの自決を美化し、
それによって感動を与えたいと思っていたのですよ。

藤田は、戦後すぐに手のひら返してアメリカ占領軍の戦争画収集に協力してるし、
その後の世間からの戦犯画家扱いに怒って1949年3月に出国、フランスへ行ってる。
そして自分への反省もなく、自分を責めた世間に怒って
「絵描きは絵だけ描いてて下さい」という芸術至上主義的なノンポリぶりで
「画家は本来自由愛好者で軍国主義者であろうはずもない」と見苦しい言い訳してます。
戦後すぐの9月に藤田の疎開先で書類や本を焼く炎が1日あがっていたという証言があり
証拠隠しに様々のものを燃やしたのではという疑いもあります。
この気楽な傍観者、自分と芸術のことしか頭になくて、
それが当然の権利だと思っていた卑怯なエゴイストめ・・・。

さらに彼の日本出国のせいで戦争画議論を停滞させたという罪もある。
戦時中1941ー45年は日本の画壇では空白の時期のようにされているけど、
実は帯びただしい数の戦争画が描かれていて、
催される戦争画店は大盛況だったのが、戦後に隠蔽されてた時期があったことや、
他の画家についても少し言及されてました。
たとえば横山大観。国民的大家だと思いますが、
朝日や富士の絵で国民を扇動する間接的戦争画の代表と言える国粋主義者で
絵の売り上げを寄付し戦闘機を買って献納したりしてます。(名前は「愛國445(大観)」号)
藤田の写実以上に国民に訴えたにも関わらず、藤田と違って糾弾されず
戦後も地位を保ち栄光の中描きつづけ、勲章などももらってますね。
そこで著者は「戦前は続いている」と言います。
戦争の反省なく、戦犯容疑者に名誉を与え続けたわけですから、
何もきちんと終わってないじゃないかと。

ただ、少数派でしょうが戦時中戦争に協力しなかった画家や作品もあります。
シベリア帰りの香月泰男のシベリアシリーズは有名だと思います。
弾丸の来ないところで豊かな資料と庇護のもと絵を描いた藤田のような戦争画とは別物です。
あと、この本を読んだ数日後にわたしが伊丹市立美術館で見た浅野竹二展で、
彼が特高に捕まった話なども読んで感心しました。
こういう立派な人たちより藤田の方がずっと有名ですけどね・・・。

本の後半には、日本がまた近年愛国教育などを取り戻してきている過程も描かれてます。
教育における道徳や音楽の扱いの変化について、たとえば「われは海の子」の歌。
これ、わたしも小学校で教わったし、大らかな童謡と思ってたけど
最後の段は「いで、軍艦に乗り組みて、我は護らん、海の国」ですよ。
教科書にはそこまで載りませんが、元々イケイケ戦えお国のためにという歌だったとは…
さらに最近は、君が代の強制指導というのもありますね。憲法違反じゃないのそれ?
山田耕筰は「音楽は軍需品なり」と言ったそうです。まさに。まさに。
それを戦後何十年かそろそろと進めてきている、とても嫌な気配がします。

「今日のこのぶざまさは、戦後70年誰の戦争責任も問わずに来たせいだ」と
94歳の、戦争を知っていていまだに講演を続けている著者は言います。
そして終戦を満州で迎えたけど、その後の自分の引き揚げの苦労は語らないのです。
引き揚げは侵略者として赴いたから起こったことであるから、語るなら
先に侵略の実態をきちんと語ってからでなければならないと思っていると。
自国の侵略の歴史を認めない人が多い中で、なんと真っ当な人だろう。

そして、これだけ色々描いたけど、わたし
藤田の絵自体はやっぱり嫌いなわけじゃないんですよねぇ。うーん。うーん。
怒りながら藤田について何度書いてきたことか。過去のいくつかのブログです…
古いものから順に、リンク貼りました。
・映画「FOUJITA」と小栗監督トーク
・森山大道とFOUJITA
・戦後50年藤田嗣治展

「女子」「男子」

2020-02-23 | Weblog
わたしは自分や同世代の友達ことを「女子」と言いますが、
「女性」は硬い、「女」は荒い、「婦人」は古っぽい、「女の子」ではない、と言う時に
「女子」と言うかな。
女子、という言い方に躊躇する人や文句言う人も多いと思うけど、
他にピッタリくる言葉がなければ仕方ない。
日本語は言いやすくて感じの合ってる人称代名詞がないのも問題だけど。
「あなた」「君」「お前」以外の you が欲しいわ。
代名詞といえば英語の世界で he や she を、
性別に関係ない they で統一するという動きもあったような。
世の中が変わると言葉も変わるし、言葉が変わると世の中も変わるよね。

ワルツのクラス行くと大体みんな還暦以上なんだけど、先生は、女子、男子、と呼びます。
女子はこっち側、男子はこっち側ね〜と。
こういうダンスは男女の役割が非常に固定的で、
男がリードし、女はリードを読んで動くようになってるし、
形としても男らしさ女らしさみたいなものを強調するものなので、
それに対して好感を持てない人も今の時代は多いかもしれませんね。
わたしは、これはこれでひとつの形式美として、そのままあってもいいと思ってるけど、
スタンダードダンスも、そろそろ違う形式のものが出てきていいのかもしれない。
少し前に女性二人の、社交ダンスの動画を見たけど、違和感もなくとてもきれいだった。
女性同士、男性同士の結婚式の写真も、時々見かけるけどどれも素敵です。
これからそういうの増えてくるといいな。

月旅行

2020-02-21 | Weblog
お金ばらまくの好きな人。100万円を大勢にあげるとかの人がいましたが、
月旅行に同行するパートナー女性募集というのもやってて、炎上していました。
でも、これはわたし別にいいと思う。恋愛って本人以外にはわかんないことだし、
それで誰かと出会ってうまくいけばそれはそれでいいし外野がどうこういうことじゃない。
でも宇宙で喧嘩したら逃げ場がなさすぎるよねぇとは思う。
宇宙で大ゲンカして、「もうやだ!地球帰る!」って言うの、ちょっと面白いし見たい気が・・・。
逆に宇宙でますます仲良くなってロマンチックな月旅行になるのもいいと思います。
でも、わたしなら10年くらい連れ添ったパートナーでも月に行くのはちょっと考える。
夜中に飛び出して、メガネなしのよく見えない目で泣きながら、くそー!と運転して
知らないところで車止めて星を見る、ってのは宇宙ではどうしたらいいんだろう?

とにかく、月ってまだ誰でも行けるとこじゃないから、
せいぜい面白く行ってきて、いろいろきかせてほしいものです。
賢くて素敵な女性でも、面白くて考えなしの女性でも、誰か一緒に行って全部記録してきて!
成田離婚じゃなく、月離婚?
それもなんかかっこいい!?
なんにしろ、自分自身は行きているうちに宇宙へ行ける気がしないので
(地球でもまだ行ってないところだらけだし)、
是非行って、いろいろおもしろがらせていただきたいです。

と思ってたら、同行パートナー女性募集やめたみたいですね。あらつまんない。

友達とその夫

2020-02-20 | Weblog
関東からの古い友達に久しぶりに会った。
今、普段付き合いがあって周りにいる友達はみんな日本に帰国してからの友達だけど、
その前のマレーシアに住んでた時の友達です。もう知り合って25年近い。あっという間ね。

美味しい食事をいただきながら、存分に喋った後、その夫の人が合流。
家族で駐在していたので、この夫の人も20年以上前から知ってるわけですが、
こんな風に仲良く、リラックスして飲めるようになるとは昔は思わなかったなぁ。
20年前の専業主婦時代は、「夫」というのは別の生き物だったな、と思う。
特に駐在先の外国では、「夫」というのはもれなく専業主婦と子供を扶養し、
帰宅は遅くて、土日はゴルフで、女子供とはニコニコした上辺の挨拶しかしない生き物だった。
専業主婦の狭い世界にずっといる妻にとっても、「夫」たちは外側の人でした。
どちらもお互いを、自分とは違う別の世界の生き物と思ってた気がする。

でも20年経ってわたしはその「夫」と、ごく普通に個人対個人として
同じ高さの目線でリラックスして話ができるようになった。
気がつけば年代問わず、普通に楽しく飲んだり話したりできる友達は男女問わずいて
自分の世界が広がっていたからかもしれないけど、
本当は専業主婦の頃も中身は変わらない自分だったのに、
家庭の中にいる専業主婦と、それを守る夫という形にすっかりはまって
自覚のないままに自分を卑下してたのかもしれないな。
ずっとわたしを抑圧していた父や夫人が怖くて、世の中の同じ役割の人もみんな怖くて
狭いところでおどおどしていた自分は、今はもうほとんどいなくなったと思う。
20年のうちに、誰かのお母さんや奥さんではなく、誰かの旦那さんやお父さんではなく
誰と会っても固定された形式の役割ではなく、個人として話せるようになりました。

本当に、今の自分の方がずっといいなと、いろんなことで毎日のように思います。

数字を覚える

2020-02-19 | Weblog
震災の日に息子は0歳だったので、震災何年というのを聞くと息子の年がわかる。
息子の年も20歳くらいからわからなくなったし、自分の年も1、2歳間違えることよくあります。
数字を覚えるのは苦手だわ。
とはいえケータイのない20代の頃までは人の電話番号をいくつも覚えてたものだけど。
当時好きだった人の電話番号と誕生日は会わなくなった後も10年以上ずっと覚えてたので、
これって100年経っても覚えてるのかな?と思ったけど20年経つ頃にはちゃんと忘れてた。
そういえば20年ぶりくらいに、大学時代の友達の彼氏だった人にばったりあったら、
その人が、いまだに彼女の電話番号すぐ思い出せる、
078、ときたらするするっと勝手に彼女の番号が出てくるって言ってたなぁ。

「しらふで生きる」

2020-02-18 | 本とか
町田康好きだし、わたしも最近飲みすぎかしらんと思うことが増えたので読んでみた。

目次からキョーレツである。

しかし町田康って久しぶりに読むとやっぱおもしろー!と思うのに、
いつも30ページくらいで飽きてしまう。すみません。
でもこのグダグダくねくねした文体って面白いけどみんなずっと飽きずに読めるのかな。

この本は目次と最初の数ページと最後の10ページほどを読めばいい気がします。
最初の前提のところ、なぜお酒をやめるかはぼんやりしたまま
お酒をめるためにはどう考えどう変わればいいかを延々と考察してるだけなので
ダルくて終わりにくるまで随分時間がかかったけど、
最後の10ページほどででお酒をやめてよかったことを語り始めたら
なんだか急にわたしも改心?しそうになったので、実はよくできた本なのかも。

なんか今更だし多方面から怒られそうだけど、
わたしタバコもお酒も体質に合ってないと思うんですよ。
この本のほとんどがいくら読んでもお酒の素晴らしさが書いてあるだけに見えるんだけど
(町田康は長年泥酔生活の後これを書いた時点では1年以上1滴も飲んでないけど
 まあ町田康だし)
我が身を振り返り最近の二日酔いのつらさを思うと、これは考えた方がいいのかとふと。
そう思うと効果あるのかもこの本?笑

町田康の断酒は、1日欠かさずの泥酔が完全に習慣化してるところからの断酒なので
節酒という選択肢はもう無理で、極端な断酒になるしかないようだけど、
わたしは飲まない日も普通にあるのでそこまでしないでいいはずで、
でも節酒はした方がいいのかなと、ちょっと思ってしまった。
父も、母方の叔父も祖母もみんな心臓で亡くなってるので、わたしが心配すべきはそこで、
肝臓も糖尿もあんまり心配してないんだけどね。
(息子の髪に関しては父方見ても母方見てもあれなので、心配しているけど)

途中のごちゃごちゃの考察に関して丁寧に描かれている書評。