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テレビとか見て、佐村河内は嘘つきだ!と決めつけていたような多くの人たちは、
この映画を見て、新垣は嘘つきだ!と、短絡に意見を変えるんじゃないかと思うと、
それは、あまりにリテラシーがないなぁと、ため息が出る。
森監督はここで佐村河内は嘘をついていない、とは言ってないし
映画も、ちゃんと見ると佐村河内さんを一方的に擁護してるわけでもない。
監督はトークでも自分は真実を暴くジャーナリストではないと言ってたし。
どこまでも騙し騙され、なんだなぁとわたしは思いました。
嘘か、嘘でなくても嘘に近いものって、どちらかだけにあるのではなく、
きっとどちらの側にもこまごまとまだらにあるのだと思う。
完璧に正直な人も、完璧な嘘つきもいない。
その、嘘でない嘘に近いものにしても、どちらかにとっては明らかな嘘で、
もう一方にとっては嘘とは言えないことだったりするから、ややこしいけど、
大まかに全体を見て、誰が嘘つきで誰がそうでないかと分けることは無理なのだろう。
まあ、この件に関わらず、世の中の大体のことは割り切れないからね。
元々わたしは、佐村河内さんの事件に全く関心がなく(名前も覚えてなかった)
メディアがどのようにどれくらい取り上げてたかも知らないくらいなんだけど、
映画を見たら、これはかなり面白かったです。
メディアの写真だけ見て、むさくるしいおっさんと思ってた佐村河内さんだけど、
映画で見る日常の彼は、なんと、予想外に好感が持てる。笑
なんかいびつだけど、どことなくチャーミングといえそうなところもある。
彼が嘘つきではないから、と言うのではないよ。それはまた別問題。
そこの判断は別として、写真だけ見てた時のぼんやりした嫌悪感は消えました。
もやもやは残るし、あまり何も解決した気もしないけど、
この不思議な人のいろんな偏りや怪しさを、面白く感じるのです。
映画のほとんどは佐村河内さんのマンションの中です。
明るいと耳鳴りがするということで常に薄暗くカーテンのしまったLDK。
そこのダイニングテーブルの上が、主な舞台です。
佐村河内さんは難聴ということで、監督や来客が何か話すと
奥さんの手話通訳が入り、それからゆっくり答えるので
映画のテンポはかなりゆっくりです。
ゆっくりなのに退屈させないのは、本当にうまいけど
ドキュメンタリー映画で2時間の長さは、ちょっと長いかなぁという気はした。
前半は、佐村河内さんの耳が本当に聞こえないんだという証明のような
会話や場面が繰り返されます。
これ、わたしには、かなりどうでもいい。
全聾と言ってたのは嘘だったので、難聴であっても嘘ついたことには変わりないのに、
なぜかマスコミがデマを垂れ流してきた印象に見せます。
いや、もちろんマスコミもデマを流していましたよ、
マスコミは、彼は聞こえてるのだと言い切って非難してたわけだから。
どっちにしても、どっちも、誰も彼も本人も、いい加減なことか、部分的な嘘か、
とにかく完全に本当のことは滅多に誰も言ってないってことは、よくわかった。
それより音楽家としての佐村河内さんのことの真実の方が知りたい。
本当に共作だったのかの?彼は、天才かどうかはともかく、作曲家と言えるのか?
元々ずっと新垣さんの存在を隠してたわけだから、
そこですでに十分嘘をついてたわけですが、その点は認めて謝った後でも、
共作だった、新垣は技術屋で、作曲の重要な部分は自分のものだと言い張りながら、
佐村河内さんは楽譜も読めない書けない、楽器を弾く様子も中々出てこないので
本当はどうなんだろう、この人また嘘ついてるんじゃないのか?と
思ってしまうのは自然で、監督はわざとそういうところをそう見せているんだろうな。
森監督に関してはね、上に貼った予告編の中にもありますが、
「佐村河内さんの怒りではなく悲しみを撮りたい」とか冒頭で言うんですけどね、
あー、そういうキメっぽいセリフは自分で言っちゃだめでしょ・・・。笑
フィクションでは状況や流れやモチーフやいろんなものを使ってわからせるけど、
ノンフィクションでも映像と編集でそう見せるか、
あるいは相手に言わせるかじゃないと、幼稚な映画になるんじゃないかな。
答えやキャッチフレーズ的や決め台詞を監督がを自分で言っちゃダメでしょ。
「信じなきゃ撮れないですよ」とか
「世の中の誰を騙すより奥さんを騙すのがつらいんじゃないんですか?」とか
自分からしゃべって、相手を誘導しちゃってるんですよね。
森監督は、淡々とした底意地の悪さはあるけど、ちょっと感傷に流されるのも
嫌いじゃない感じなんだな、と思った。
そんなだから、この映画が、リテラシーのない人には、
真実を探り佐村河内さんを擁護した映画と思われちゃうんだわ、と思ったけど、
まあラストの最後で、実は全部わかってて、そんなに信じていいのかみたいな、
終わり方が巧くて、いやいや、中々あざといなぁと。
それで、ほれ、どうだ、全然幼稚じゃないだろ、驚け、って監督のドヤ顔見えるなぁ、
と、やや意地悪に思ったのですが、
実物の監督見て話聞いたら、ちょっと印象変わりました。
この監督の、人や物事に対する元々の姿勢が、
そもそも黒白なんて決められるものじゃない、
世の中なんでもグラデーションというもので、
この人って案外誠実な人なんだなと、考えを変えたのでした。
いろいろと計算も脚色もできる人だけど、それは自分で認めてるし。
やっぱり生で見て話聞くのって面白いなぁ。
戦わないし、議論嫌いそうだし、強く主張することもない、どこか飄々とした
くえないおっさん、て感じでした。メディア批判や報道に挑む感じもさほどない。
次に、また映画撮るかもわからないらしい。
今回も10年以上撮ってなくて、もう映画監督の肩書き外そかなあと思ってたときに、
佐村河内氏にあって、この風景絵になるなぁと、映画を撮ることにしたそうです。
たしかに、この部屋の様子は、絵になってるんですよ。うまいです。
映画の中で気になったこと。猫。貫禄のあるグレーっぽい猫がいるんですけど
毛並みも良く、かわいいし、存在感あるんですよ。
ポスターに出るのも納得の存在感。
でもなんか佐村河内夫妻は、あんまりかわいがってる感じには見えない。
佐村河内さんは、たまに撫でたり抱き上げたりするんだけど
なんかその動作が、慣れてない感じというか、気のせいかな・・・。
あと、来客のたびに出されるケーキについてはいろんな人があれこれ書いてるけど
わたしは買ってきたのを出してるだけのケーキより、
この夫妻の食卓や家の中の雰囲気に目がいきました。
なんか、入居したままそのまま借りぐらし中みたいな、物が少ない家なんです。
リビングに置いてないだけかもしれないけど、収納もないし、
ちょっとしたメモやDMや、あちこちにちょっと置いてありそうなものが何もない。
机の上にはティッシュの箱や、ウェットティッシュの丸いケースが
雑に置いてあったりするのに、それ以外、日常生活してる感じがあんまりない。
かといって、ピシッと片付いてる家の雰囲気でもないんですよ、
おしゃれではなく、インテリアに全く何も手をかけてない感じで、物が本当にない。
食事も、奥さんがひき肉とかこねて、大きくておいしそうなハンバーグを作るんです。
でもソースは作らず、容器に入ったケチャップかソースをかける。
サラダはなんかその辺のコンビニの野菜をお皿に入れただけみたいだし、
煮物や野菜料理とか他のおかずはなく、栄養のバランスに気を使ってるようには見えない。
そして、夫婦どちらにも、ご飯がない。お茶碗が出てこない。
佐村河内さんはごくごく豆乳を飲んでるし、糖質ダイエットか?と一瞬思った。笑
この豆乳も不思議で、出来立ての美味しそうなハンバーグを前に、まず豆乳を
あふれそうなほどグラスに注いでゆっくり飲むんです。そしてもう一杯ついで、
「豆乳が大好きなんですよ、1パック飲むとお腹いっぱいになるんですよ」と。
なんかここ、奇妙なズレのある、ちょっとサスペンスかホラーな気配の、
アンバランスさのあるシーンなんです。
新興宗教にハマってる夫婦とか、殺人が趣味の夫婦、なんかの映画に出てきそうな
「普通の人の」「普通の日常」との、奇妙なズレっぷりなんです。
これが食事が全部、チンしたコンビニフードや、簡単なレトルト使ったものとかなら
なんともないんですよ、そういうのはどこにでもよくある。
でも、丁寧で美味しそうなハンバーグ作ってるのに、
その周りの、気の使わなさ、手のかけなさ、そういうアンバランスが
毎日繰り返されているだろう不思議さ。
このシーンに限らず、佐村河内さんの生活は全体的にそういう
不可思議でどこか不健康な、奇妙な感じがして、それも面白かったです。
リンク2つほど:
映画見た後で読んでも面白い。ただいくつかの記述に、
映画ちゃんと見たのか?と思う間違いはあるけど。(コメント欄にも指摘されてる)
→佐村河内守のウソの付き方が“まだら”なのがおもしろい
森達也監督『FAKE』をもっと楽しむ方法(飯田一史) - Y!ニュース
これは監督トークで聴いた内容に近いな。
→「FAKE」佐村河内守氏をなぜ映画に? 森達也監督が訴える「二分化への警告」
そして映画を見た後、友達と森監督の話をしてたときに、
「貧乏でモテて色気のある左翼の最高峰はチェ・ゲバラ」と言った
その友達の言葉がじわじわきてます。
この映画でも、トークでみた限りでも、森さんに左翼臭みたいなにはなかったかな。