sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

ホンマタカシ×コンタクトゴンゾ

2014-02-28 | 芸術、とか
こういうパフォーマンスの感想はどう書けばいいんだろう。
現代アートもそうだけど、感想書くの難しいです。
というか、これ半年も前のことなんだけど、なんとなく、
あ、書いてなかった、と思って、思い出しながら書きます。笑
(記憶はかなり怪しいです、すみません)

これはもともと写真家ホンマタカシが関西で何かやるっていうので
伊丹でやってたのを見に行ったら、それは本公演の前段階の
プレイベント的なパフォーマンスで、
本公演はまだ作ってる途中で、少しあと、ということだったのです。
で、そのプレがとても面白かったので、本公演は友達を誘っていきました。
プレの時はね、面白いかどうか、どんなものなのか
さっぱりわからないものには、人を誘えないのでひとりで行ったけど。

ホンマタカシの写真の意味は少しわかります。
雑誌の特集だけでも美術手帳や芸術新潮、ブルータスなどずっと読んで来たし
それらを、かなりいい感じにまとめた本も読んで、
それはとても勉強になったし面白かった。
(ホンマタカシについてはこちら→「たのしい写真」2012/11/11のブログ)
でも、だから彼の写真の意味はわかるけど、実はよさはあんまりわかんない。
いや、わかってるんだけど、
写真の位置づけやその値打ちが理屈ではわかっていても、
なんだかまだ納得できないままなもので。
最近よく、ちょっと面白い本屋おしゃれな本の
カタログ的な物撮り写真をやってて、そういうの見ても
ああ、ホンマタカシだなぁとは思うけど。

さて、このパフォーマンスですが、
コンタクトゴンゾというのはパフォーマンス的なアート集団?で、
プレの時はですね、暗い舞台に男たちが数人、大体1対1で、
小突き合いぶつかり合い、時には殴り合うという
緊迫感のある動きをしている3、40分くらいのパフォーマンスの後
ホンマタカシさんとコンタクトゴンゾの人たちが
一列に並んで椅子に座ってのトークをするという形でした。
こう文字で書いても意味わからないですね。
動画を探してみたけど中々いいのがないなぁ。
まあこんな感じかな↓contact Gonzo / Museum of Modern Art

この動画にはないけど、特にプレの時のパフォーマンス後半の真っ暗闇の中で
使い捨てカメラを撮ったり投げたりフラッシュ光らせながらする部分が
すごくよかったのです。
音と、人の動きや息にゆれる空気、たまにピカッと一瞬光るフラッシュ。
なんかムンムンする緊迫感と生々しさと熱気のようなものに
体が少し熱くなる感じがしました。

本公演もよかったけど、
個人的にはこのプレの時のシンプルで凝縮された緊張感の方が好みかな。
でも本公演ではプレにはなかった仕掛けがいろいろありました。
会場内に小さな小屋があって、その中に熊の着ぐるみがいて何かしてたり、
前回同様なパフォーマーの体のぶつけ合いの中に、
巨大なパチンコみたいなので会場の隅から果物を飛ばしてぶつけるとか、
ホンマタカシの撮った動画や写真も、いくつかのやりかたで使われていました。
プレにはいなかった女性メンバーがいて、そこは微妙に違和感があったかな。
女性性はどこにも出してないつもりだろうけど、小柄な女性で、
男性たちは彼女には、やはり同じテンションと力では向かえないはずで
そこに緊迫感を歪める微妙なゆるさが出ちゃうような気がして。

さて、同行の人は、人の心拍数に自分が左右されるのは不快なところがある
と言ってたけど、その不快さが快感だったりする、とわたしは思いました。
その不快さって、他人に支配される不快さですよね。
自分でコントロールできないことへの不快さ。
でも、それはつまり、負けている、と思うからなのかなと。
わたしは元々、支配ということには過敏なくらいなんだけど
こういう場所で(現実とは違う世界で)、外側のものに巻き込まれて
自分の意志の及ばないところに連れて行かれるのは楽しめる。
映画を見てる間、別の世界に入り込んでるのと同じようなことかな。
夢、みたいなものだと思えるから、積極的に入り込みたいくらいです。
違う感覚に支配されるのは面白い。
また、それ以上に、こういうパフォーマンスが
どちらかと云えば嫌いだった自分がすっかりかわったことも面白かった。

そしてこれ、プレ行っといてよかった。
プレでホンマタカシさんの話聞いといてよかった。
本公演は説明的なものはあまりなかったので、
現代アートと写真の文脈を知らずに見るよりは
ある程度知ってみる方が楽しめたのではと思います。

さらに、おまけのびっくり、がっくりがあって、
帰宅後Twitterで知ったんだけど
あの、着ぐるみの熊、終わった後に、頭の部分を脱いでて、
その後ろ姿だけちょっろっと見た記憶があるんですけど
なんとあの熊の中身はホンマタカシその人だったと!やられた!
ホンマタカシは本公演では表に出てこないのかなぁと思ってたのに
そういう可能性に気づきもしなかった自分が悔しいです。笑

ヤヌコビッチと若旦那

2014-02-27 | Weblog
ウクライナのヤヌコビッチ元大統領の豪邸が
東京ドーム30個分の広さの敷地とか聞くと、不思議で仕方ない。

落語聴いてる時に、江戸時代の若旦那は、なんで
勘当されたり蔵に閉じ込められたりするほど際限なく遊ぶんやろ?と
不思議なのに似てる。(←ちょっとスケールダウンだけど。笑)
若旦那は、番頭も大旦那もいるし、少~し働くフリだけでもして、
ほどほどに遊んでたら、そのままずっと遊んでられるのに。
かといって勘当なんぼのもんじゃい!と死んでも遊ぶほどの気概もなくて、
勘当されて、おろおろと、人んちに世話になりながら、
何日も経ってから困ったなぁと途方に暮れるような若旦那は、
やっぱりただの甘やかされたオバカなの?
なんで限度というものがわからないの?
ちょっと考えたらわかりそうなもんでしょうよ?
ヤヌコビッチもそうなの?
(いや贅沢だけが問題じゃないでしょうが)
・・・お金持ちの気持ちはわかんないなぁ。

贅沢は素敵だと思うし、好きだけど
あまりに度をすぎた必要以上の贅沢をするというのは
何かが足りないのを埋めたいってことなのかなぁと思ってたけど、
むしろ、権力と富が手に入れば入るほどもっとほしくなる
単なる中毒や依存なのかな?

わたしが何かの間違いで使っても使ってもなくならない富を手に入れても
(宝くじレベルじゃなくて、家のお風呂から
 大量の石油が無限に湧き出るくらい?笑)
大きな家はいらないし高級外車もいらないなぁ。
今の築30年の公団マンションをリフォームしてずっと住むかな。
わたしに限らず、まわりの友達を見ても
いきなりすごい豪邸建てそうな人はいない気がする。
少しずつ贅沢が身に付いても、無駄遣いは中々身に付かないと思うけどな。
お金持ちの気持ちは、ホントわかんないなぁ。

(あ、でも東南アジアとヨーロッパに小さな芸術家の村を作って、
 パトロンとかはやってみたいなぁ~。(笑)

観光名所化してるヤヌコビッチのおうち。↓
Ukraine president:' this is a fascist coup'

映画:ダラス・バイヤーズクラブ

2014-02-26 | 映画


非常に個人的に、やばかった。
この役のために20キロ痩せたマシュー・マコノヒーが、
昔知ってた人に何もかも似すぎていて重なりました。
猫背でうつむきがちの顔で下から見る強い強い視線。
顎から首への、しっかりしてるけど筋っぽいライン・・・。

減量前のマッチョな感じの時は何とも思わなかった、というか
全然好みじゃなくて、むしろ苦手な俳優だったんですけど、
色気と、ぼんやりした狂気、投げやりですさんだ感じなど、渾然一体で、
みっともないくらいのガリガリのマシューから、目が離せなくなりました。
キョトンとしたようなからっぽで邪気のない目、
普通でない思い詰めるような上目遣いの強い凝視の目、
いたわりの溢れる優しい目、怒りできらきら光る熱い目。
細く長い手足での大きな身振りにも、骨と皮だけの体にも、
何かねっとりした色気があって、
いやぁ、いい俳優だなぁ。


映画自体も、疲れてる時にそっとしてくれる暖かいハグみたいな、
優しいところがあって、よかったです。
(というのを読んで見に行かれたらびっくりするかも、
 最初、いきなりはげしい男女のシーンからはじまるので(笑)

また、田舎、アメリカの西部みたいなところで性的マイノリティの人たちが
ひどい差別と偏見にあってきたことも描かれています。そして、
最初はマッチョな態度でゲイを忌み嫌い差別していた主人公が、
だんだん一人の人間として気持ちの柔らかい人になっていくのです。
スーパーで、トランスジェンダーの友達の尊厳を守ろうとするシーンは、
よくある脚本・演出かもしれないけど、マシューがやるとじんときたな。


真面目で無垢で泣き虫って感じの女医さんとの関係もいい。
主人公がエイズだというのもあるかもしれないけど、
安易な恋愛関係やセックスに流れず、優しいハグともたれる肩までの、
いたわりあうような大事な関係になるところが、とても好きです。

どちらのシーンもアメリカ版のトレーラーには載ってたので
今日はそれも貼付けときます。↓


テキサスで電気工をするカウボーイのロン。
酒とドラッグ、女とギャンブルの無軌道でいい加減な毎日の中
突然倒れて病院で目を覚ますと、あなたはHIVに感染してて
余命30日くらいと告げられます。
ばりばりマッチョなメンタルのカウボーイですから、
エイズなんかホモのなるもんに俺がなるワケねえっ!と最初は認めないけど
やがて調べていくうちに、同性愛者でなくても感染することを知ります。
そして当時はエイズに対する無知や偏見も今よりもっと根強く
仕事も仲間も家もなくしてしまいます。
しかし当時のアメリカでは臨床実験に使われるHIV用の薬はあっても
それは製薬会社と病院との癒着などで非常に高価で手が出ない上に
副作用や危険性が高く、症状を却って悪化させたりする。
そして、アメリカ以外の国では他にもたくさんの薬が使われていることを知り
メキシコで薬を手に入れると、症状がずいぶん緩和される。
そこで、そういった、アメリカでは無認可の薬を仕入れては売るビジネスを
テキサスの病院で知り合ったトランスジェンダーのレイヨンと共に始めますが
製薬会社・病院、そして司法に目を付けられ・・・

物語も実話がもとになってるようでいいのだけど
マシュー・マコノヒーの良さにつきますね。
マシュー見るためだけにもう一度見たいです。
マシューは、このあとまた体重を戻して、
堂々とした体のハンサムさんに戻るのかなぁ。
ガリガリに痩せて渇いて筋張った今のマシューが、
わたしは好きなんだけどなぁ・・・。

あ、もうひとつ。
メキシコで蛾?蝶の乱れ飛ぶ部屋の中で、
マシューが踊るように佇むシーンも素晴らしく印象的。
ここももう一度見たいシーンです。

新しいパソコン

2014-02-25 | Weblog
去年からずっと悩みつつ、中々買えなかった新しいパソコンを買いました。
パソコンはノート派。ふたができてコンパクトになるのが好きです。
弟のお古をもらって2台目のMacBook Proがメインだったんだけど
弟が中々新しいのを買わないので、
わたしのはあれこれ不備が出てきて
一番の問題はふたがちゃんと閉まらないというもので
いつも重石に雑誌を数冊載せてました。
かっこ悪~い!笑

容量もいっぱいになってきたし、すごく遅くなってきたので
とうとう3台目のMacBook Proを買ってRetina液晶のきれいさに感動しつつ
一人でなんとか設定をしました。
いままでは弟にお任せだったんだけど
頑張ってみた。

Macのタイムマシーンからデータ移行するには、
結局移行アシスタントを使わないと行けなくて、
アプリ/フォルダやファイル/ライブラリ、という分け方で選択はあるけど、
その中で個別に選別はできないみたいなんです。
めんどくさいけど、個別に外付けHDD経由で移すしかないみたい。
一年前に友達に譲ってもらった仕事とネット用(速いので)のMacBook Airと
フタに重石がいるけど、データ類はほぼこっちのMacBook Proから
選んで整理しながらデータや設定を移行した。
あとはいくつかの疑問点を解決すると大体終わります。ぜいぜい。

でも、眠れず泣きそうな日がしょっちゅうあります。
いえ別に誰かがつれないせいではなく、パソコンがつれないだけです。
しょっちゅう何かおかしくなる。笑
なんとなくやってるけど、うまくいっても、なんだか納得できないし、
うまくいかないと、泣く。でも、なしじゃ暮らせない。それがパソコン。
ずっと片思いかも。やれやれ。

昨日はお風呂に入ってる間に、知らない形式のファイルが突然
デスクトップに出現してて、一体なんだろう、捨てていいかな?と焦った。
今日は午後にiPhoneのアップデートをした途端
メールとLINEがおかしくなって使えなくなりました。
あれこれやって、なんとか、なぜか?直りそうだけど、
しょっちゅう何か起こるので、IT音痴のわたしは本当に泣きそうです。


そういえば
買ったパソコンは最後まで悩んで安い方にしたのに、
帰り道でジーパンを買ってしまって、
結局お金を使ってしまったんだった。
でもパソコンは10年もたないけど、
10年前の服は着てるわたしなので、まあいっか。

写真は一年くらい前からつかってるMacBookAirのほう。

こだわりがない

2014-02-24 | Weblog
20代の頃とは別人くらいに、
こだわりのないなげやりな人間になってしまったけど、
それはそれでいいかなとも思う。
これはイヤだ、と思うものはあるけど、
これでなきゃ、と思う事は少ない、
食べ物でも飲み物でも落語聴くのでさえも。

お酒を飲む時に、自分はお酒が好きな人ではないなぁとも、この頃よく思う。
タバコやお酒に依存する事はないようで、
なきゃないでなんともないし、
呑む時はいい加減で、わりとどんな店でも気持ちよく呑む。
安いお酒も安いなりに美味しく呑む。
これが飲みたい!って思う事はあんまりない。

あんまり味わってないのかもしれない。食事もそうです。
ファストフードでもランチ6000円+税サなんて店でも、気持ちよく食べる。
お酒も食事も、あんまり半端でいい加減な感じの店は好きじゃないけど、
そうでなければこだわりないなぁ。

落語聴いててもそうです。
昔は全集を順番に聴いたりしてたし本もよく読んだけど、
今はなんとなくニコ動やyoutubeでふらっと続けてきくだけで、
この人のこれが今聴きたい!みたいなのは、あんまりない。
たまには例外もあるけどね。たまには。

つまり、何につけても、何かを学ぶような
蓄積して行くようなインプットの仕方を、しなくなったという事だと思う。
勝ち負けは捨てたし、賢くなる事も捨てたんだと思う。
諦めたのかもしれないけど。その場その場で生きています。

ただ、賢くなる事は捨てたので、せめて優しくはなりたいとは思う。
それ以外の、もっとよくなりたい気持ちとかって、もうないなぁ。

喬太郎・市馬二人会

2014-02-23 | 芸術、とか
落語は、ものすごくいい加減にしか聴いてないので
あの噺のあれが、と言われてもわからないことが多い。
3日くらいして、あ、あれって、あの噺か、と思い出したり。(笑)
噺家さんのことでも、誰だっけ?と思いつつ
数日後に、あー、あの時あの噺しゃべってた人やん!と気づいたり。
しかも覚えてるのはいい方で、
何度も聴いた噺でさえ、サゲ、どうなるんだっけ?とか思いだせないくらい
本当にいつも、ぼんやり聴いています。
PodcastやYouTubeやCDやDVDでもだけど
寄席に行ってもぼんやり聴いてて、ところどころ、うとうとしたりしてる。
だから、落語に関して何か書けるようなことはないんだけど
そんな風にぼんやり聴いてる中で、
もう別格に好きなのが柳家喬太郎で、
好きすぎて結婚してもいい!とか叫んでしまうくらい。
いえ、彼が好きなわけじゃなく、彼の落語が好きなだけなので
結婚してもうまくいかないだろうけど。
(というか、できませんってば。笑)

そんなに好きなのに、相変わらずぼーっとしか聴かないし
関西にはあんまり来ないので、生で聴いたことがなかったのですが
今回お友達に誘っていただいて、
トリイホールでやってる二人会、聴いてきました。

市馬さんは生で聴いたことがあります。
巧いなぁ、いいなぁと思うし好きです。それで、
市馬さんは名人だと思うけど、喬太郎は何なんだろといつも思う。
市馬を聴いてると、名人と呼ばれた過去の落語家を思い出すことがあるけど
喬太郎は誰も何も思い出さないんですよね。
聴いてると、本当にはっと目が覚めるように世界がくっきりすることがあって
完全に引き込まれるって、こういうことか、と気づいて、びっくりする。
最初ぼんやり聴いてても、いつのまにか、
ぼろぼろ泣いてたりするわけです、電車の中で、iPod聴きながら。
疲れきってる時に、ふと流れて来たバッハの無伴奏が
こわいくらい染み込むのと同じくらいの力がある。
そんな風に世界がはっと変わるほど引き込まれ夢中になる噺家は
わたしには今、他にいないのです。
この人の前にはレールがないように感じる。後ろにもできないんじゃないか。
どこまで行くんだろうか。どきどきしながら、楽しくみまもります。

桂 二乗 ≪癪の合薬≫
柳亭 市馬 ≪道灌≫
柳家喬太郎≪名人長二・仏壇叩き≫
    仲入り
柳家喬太郎≪草食系駅伝≫
柳亭 市馬 ≪猫の災難≫

是枝監督インタビューより

2014-02-22 | Weblog
是枝監督が新聞のインタビューで答えてた記事がよかった。
(インタビュー 今こそ政治を話そう)是枝裕和さん -
→朝日新聞デジタル
政治のことだけでなく、映画監督としてドキュメンタリー映画を語る言葉も
共感できました。一部抜粋。

政治的な色がつく懸念は?の問いに
「国家や国家主義者たちが私たちの多様性を抑圧しようと
 せり出して来た時には反対の声を上げる。当然です。
 これはイデオロギーではありません。」

ならば、政治や社会を告発するようなドキュメンタリーを撮ろうとは?
「たとえばマイケル・ムーアの告発型の映画での怒りの切実さは
 多くの人の心を揺さぶるし、社会の風向きを変えられるかもしれないが
 本来豊かなドキュメンタリーというのは、
 見た人間の思考を成熟させて行くものです。」

「撮る前から結論があるものはドキュメンタリーではなくプロパガンダ。
「水俣病を撮り続けた土本典昭さんは作品中、
 補償金で品のない家を建てて金ぴかの調度品で
 部屋を飾っている漁師の様子も撮っています。
 そのような告発プロパガンダからはみ出した部分こそが
 ドキュメンタリーの神髄です。」
「人間の豊かさや複雑さに届いている表現だからこそ、
 人の思考を深め、結果的に社会を変えられるのだと思います」

「安倍政権を直接的に批判するドキュメンタリーもあっていい。
 だけどもっと根本的に、安倍政権を支持する私たちの根っこにある、
 この浅はかさとはいったい何なのか、長い目で見て、
 この日本社会や日本人を成熟させていくには何が必要なのかを
 考えなくてはいけません」

「世の中には意味のない価値もあれば、意味のある負けもある。
 この二つしかないのなら、僕は意味のある負けを選びます。
 ...そういう人間もいることを示すのが僕の役割です。
 ....世の中には祭りを楽しめない人間もいる」

「今の日本の問題は、みんなが被害者意識から出発しているということ...
 戦争は...外からやってくるのか?違うだろうと。
 自分たちの内側から起こると言う自覚を喚起するためにも、
 被害者感情に寄りかからない日本の歴史の中にある加害性を撮りたい。
 みんな忘れていくから。」


そういえば、このインタビューに直接関係ないけど、この前、
反抗期4年生が、無邪気に生意気な1年生にいちいち苛つき突っかかって
ひどいことをいうので、人の嫌がることをしない!と云うと、
やられたらやりかえせばいいじゃん、って答えられたのを思い出しました。
「やられたらやり返す「倍返し」っていうのがネタなだけではなく、
実際それしかないじゃん、みたいなことになってる。

おれなら、やられたら絶対やり返す、何倍も返す。
なんでダメなの?絶対我慢なんかしないよ、
やり返さないやつって馬鹿じゃないの、と言う。
そういう強がったことを言いたい年頃なのはわかるけど、
こういうマッチョ性は、子どもでも、やっぱり持ってほしくないなぁ。
なんか、そういうのを肯定しちゃう空気が、
ネタでなくシャレでなく、ある気もする。
そういう時に、是枝監督の言うようなことをよく考えたい。
外へのむやみな攻撃性ではなく、もっとよく考える
内省がもっとあってもいいんじゃないか。

好きな店嫌いな店

2014-02-21 | Weblog
店に入った瞬間に、あーダメだー、と思ったので、
熱燗とおでん2つを10分で流し込んで出た。
何がダメだったのかというと、まず匂いとか雰囲気。
蛍光灯の光を反射する壁の妙な白さとか。

いえ、もっとずっと古くて汚い立ち飲みでも好きな店はあるので
古いとか汚いとか、そういう問題じゃないんです。
どことなく寒々として大事にされてない店のような感じがしたせいかなぁ。
小さな店で横の店とは、ついたてのような薄い壁で仕切ってある。
壁には白いクロス。小さい店なので蛍光灯の光の幅がなくて、
どこも同じ明るさ、白々と。古いものもなく、何も光を和らげない。

雑然とした店も好きだけど、
好きな雑然と好きでない雑然があるなぁと思った。
なんか何もかも薄っぺらで嘘っぽい。
店の中はむっとしてるのに、光は寒々。
むっとした店内に、モワッとにおうおっさん臭。
この匂いが一番ダメだった。こもって澱んだ、やな匂い。
そんな風に空気が澱んでムッとしてるのに、全体に寒々しくて、
早く逃げ出したかった。

でも、そういうことも全部わたしの主観でしかなく、
ここが居心地いい人もいるんだろうから
この店が悪い店ということではないです。
逆に、わたしの好みの店が他の人に必ず居心地いいわけでもない。
自分で、好きな場所を見つけて増やしていくしかないですね。

映画:三姉妹~雲南の子

2014-02-20 | 映画


世界一貧しいといわれる地区のドキュメンタリーって、何かに書いてあって
世界一貧しいって言うのがわかんない。
それってどういう算定基準なの?
たとえば貨幣経済にほとんど乗っかってない集落などは、
どう計算してランキングしてるの?
インフラと教育?
それも結局は先進国の仕組みの中で貨幣換算されてつく順位でしょ。
いえ、わたし、貧しくても心豊かな国、とか、
そういうの信じてるんじゃないですよ。
わりと文明バンザイ派ですからね。
ただ単に、違うシステムの国や集団を、同じ基準で算定して
世界一貧しいとかいうことが、よくわかんないだけで。

まあ、そういう風に書かれたりする映画です。
公式サイトでは、中国で最も貧しいと言われる雲南省の山の中に暮らす
3姉妹のドキュメンタリーと書かれています。こういう書き方ならいい。
前にうっかり見逃したんだけど、2日間だけのリバイバルがあって見てきました。
地味にも程があるやろう、というくらい地味な映画でしたが
あとからじわじわと来て、強い印象を残します。

モンゴルを舞台にした映画やドキュメンタリーに好きなものがいくつかあって、
(思い出せないけど、ひとつは大好きなミハルコフ監督の「ウルガ」

 ロシアの大地を撮らせたら一番と思ってたけどモンゴルでもだった!)
フィンランドの少数民族?の映画でも好きなものがあって、
(「ククーシュカ・ラップランドの妖精」って

甘ったるいスイートなタイトルだけど映画はとてもいいのよー。笑)
このククーシュカみないな感じかなぁと楽しみに見たんだけど、ちょっと違った。
もっとずっと地味で、でもドキュメンタリーとしては、素晴らしいと思います。
途中結構うとうとしたんだけど、記憶に残る映画です。

3姉妹の母親は家を出て音沙汰がなく
父親は出稼ぎ中。
10歳の長女が妹たちの面倒を見ている。
村には伯母や祖父も住んでいて、時々訪ねたりしてるようだけど
普段は粗末な家の中で3人で暮らしています。

こういうの見てね、過酷な環境や村の貧困にショックを受けて、
それに比べて我々はなんと恵まれてることか、とか、
そういう感想になる思考回路はないですわたし。
この子らも生まれた場所でそれぞれなりに生きてるだけで、
同情とか感動とか意味わかんないだろうし、関係ない。
知らないところで、知らない生活の人生を、
それぞれなりに生きている人がいる、ということを、
じっくり見せてくれた3時間ではあったけど。
かわいそうとか、そういうことは思いませんでしたよ。

確かにここの貧しさは、この前見たロマの人たちのドキュメンタリー
(「→鉄くず拾いの物語」)とは、もう次元が違う貧困ではある。
車で数時間走れば文明がすぐ地続きにあるその映画のロマの人たちと違って、
車も電気もほとんどないし、家も家と呼べるようなものではないんだから。
服も着たきり雀、しらみだらけで体を洗う習慣はないような子ども達。
湿って汚れてぼろぼろの布団にくるまって眠り、
どろどろの靴を、時々渇かしながらもずっと履き続ける。

ドキュメンタリーとして優れているのは雲南の子の方かな。
完全に物語もシナリオもなしで、予めの結論もなしで、
わかりやすい問題提起もなしで、
何かを訴えるでもない、たんたんとしたドキュメンタリーです。
だから、ここで自分の生活の尺度での同情や共感を持つのではなく
この小さな女の子の孤独な魂とその毎日に、
静かに感嘆していればいいのだと思います。

劣悪な環境ということなら去年見たインドの3歳児のドキュメンタリー
「ビラルの世界」にも言えることで
この映画では、物語はないけどドキュメンタリーの強い視線で見せつけられる
インドの混沌に疲労困憊したんだった。
「雲南の子」は、そこまで疲れはしません。
不毛な土地かもしれないけど、大きな空があって草が生えてて
胸いっぱいすいこめる空気があるように見えるから。
もちろん、だからラクだとか、自然があるから心が豊かとかでは全くないです。
都市の貧しさと山の貧しさは、どちらがどうというのではなく、
ただ、すごく違うものだなぁとは、思いました。

うっかり死なない

2014-02-19 | Weblog
遅く帰って夜中にお風呂入るのと、早く帰って早めにお風呂入るのでは、
気持ちが違いますよねぇ。
3時間でも入ってていいと思うと、本当に幸せ。
3時間も入らないけど。笑

同じ年の友達と話してて、一人暮らしだとお風呂こわくない?って聞かれた。
何かあっても誰も気がつかないやんって。
(彼女は子ども二人と単身の旦那様がいるけど)
心臓発作とか、すべって転んで頭ぶつけてとか、のぼせて倒れておぼれるとか。
まだこわくはないけど、実は最近少しそういうこと考えてた。

今年から一人暮らしの息子も。月に一度も連絡ないし、
近所に住む親とも月に一度も会わないし、
仕事の生徒さんはすっぽかされてメールなどしても連絡取れないと
おかしく思うだろうけどそれ以上はしないだろうし、
何かで倒れても発見は1、2週間はかかるのでは。孤独死やなー。
映画祭のミーティグすっぽかして、
連絡が全く取れないと誰かが調べてくれるかな。
でもミーティングも普段は月イチだし。
友だちとの約束が一番近いかな。
すっぽかして、TwitterにもFBにもLINEにもメールにも応答しなければ
調べてくれそう・・・よろしく。w

うーん、とりあえxず
死なないように気をつけて、お風呂に入ってきます。