これはニューヨークのとある小柄なカップルが
現代美術をこつこつと収集してきた様子を描いたドキュメンタリーです。
郵便局員と図書館司書という、富豪でも資産家でもないごく普通のカップルですが
そのコレクションにかける情熱は普通じゃないものがあって
熱心に勉強し、ニューヨーク中のギャラリーを巡り、作家たちと会い、
ソファもない小さなアパートメントは収集したアートでいっぱいになります。
二人のお兄さんというのが途中出てきて、
二人にもこういう自分のような暮らしをしてほしかったんだけどね、と言うシーン、
お兄さんの家は落ちついたインテリアで趣味よく飾られて居心地よさそうで、
そういうものに一切興味がなく、現代美術収集に邁進した二人の
ごちゃごちゃの足の踏み場もなさそうなアパートと、いい対比になっていました。
そして二人はいつのまにか、誰もが知ってて一目置く存在になります。
投機には関心がないので、買ったアートは絶対売らず
最後には美術館に寄付することにするのですが、量が多すぎて、
ひとつの美術館ではうけいれられないほどの大コレクションになっていました。
上映中に何度も見る機会があったのに
何となく見なかった映画ですが、劇場で見れば良かったと思いました。笑
そして
この映画を見ながら→「ビル・カニンガム&ニューヨーク」を思い出しました。
不思議に思ったのは、コレクターの二人の方が一見、自我が強く欲張りで、
カメラマンの(自分で自分をアーティストとは思ってないだろう)ビルの方が、
シンプルでからっぽな感じがしたことでした。(もちろんいい意味で)
ビル・カニンガムの場合、イメージが目と彼の中を通るだけで、
自分の写真を作品とも思ってなくて、
それを通して自分を表現・主張したいという所がひとつもない。
自我よりも、目の前の何か、自分にとって面白い何かしか見ていないのですね。
彼には「自分」なんかどうでもいいのです。
自分を表現したいばかりのアーティストの自我にうんざりするわたしには
なんてすがすがしく美しいあり方だろうと憧れます。
ハーブとドロシーは、モノを創る人ではないわけだけど
彼らの場合、コレクション自体が彼らのアート作品だと映画の中でも言われてて、
そういう意味でやっぱり彼らはアーティスト的な人たちなのかもしれない。
それであの貪欲さなんだなぁ。
でも、そこには、やはり、ビル・カニンガムと同様に
自己表現の罠とは無縁な、純粋さのようなものがあるように思います。
どちらも対象に真っすぐ向かい、他者の評価も自己主張も入り込まない。
そういう点で似ている気がしました。
ビルのように、モノを作っている人には他者が必要でない人もいるけど、
コレクターはひとりでは孤独かもなぁなどとも思いました。。
ハーブはひとりでもコレクションをしていた気がするけど、
ドロシーはわかんないなぁ。
彼と出会ってこうなったんだろうなと思うけど
最高の組み合わせだったのでしょう。
ドロシーなしにはここまでできなかったとハーブは言いますし。
でも二人とも、確実に最高にしあわせそうだ。
ふたりが出会ってよかったです、アメリカの現代美術界のためにも。
ハーブ&ドロシーもビル・カニンガムも、素晴らしい人生に見えます。
そしてそれはニューヨークの街なしには考えられなくて、
ちょっとニューヨークについてもう一度考えてみる気にもなりました。
20代で一度だけ少し行ったことがあるけど、
もっと年を取ってからが住み良いところなのかもと思いました。
とりあえず、もう一度「ビル・カニンガム」見たくなりました。
ビルは映画を見て以来わたしのスーパーアイドルですから。
こちらは日本版の予告編。
上に貼ってあるアメリカ版予告(日本語字幕ついてます)の方がいい。笑
アーティスト側が2人に作品を褒められたり、アトリエに見に行きたいといわれた事を光栄と思わせる程になったのは、彼らが買ったアートが有名になったり高くなったりしたからだけでなく、彼らがアートに対してたくさん勉強して、時間を費やし、足を運び、彼らなりの使えるお金を費やしてきたからなんでしょうね。2人の趣味が一致するなんて、本当に奇跡みたいなもんだなぁと予告編をこちらで見て思いました。
アーティストやアート好きな人は美意識が高く美に敏感な人も多いと思うんですけど、二人の住まいを見ると美意識とか全然関係なさそうで(笑)、多分食事も特においしいものを食べるために工夫するとかもしてないんじゃないかな、と思います。本当に好きなものだけに、全部のエネルギーを向けることができる人たちだったのね、と思う。
それも、自分にはできないなと思いました。ほどほどに心地いい空間で、質素でもおいしいものを食べ、着心地のいい服を着てゆったり眠りたい、と思ってしまう自分は凡人だなぁと思います。