「この事件は真実か」を二度にわたってご紹介したが、私は「真実だろう」と理解している。
光尚公の死去後の大国・肥後藩を誰にゆだねるのかという幕府内の思惑は、幼い六丸をもって継承せしめようとする細川本家家臣団との思いとはその考えにいささかのずれがあったことが伺える。
しかし、必死の交渉は「幼い六丸による継承」を勝ちとった。そんな中で起きた不幸な事件であった。
54万石という大藩をわずか8歳で襲封した六丸が、初めて御暇をいただき帰国するのは寛文元年(1661)のことであり、12年間を国許から離れ江戸詰めの家臣に取り巻かれて成長した。
生母・清高院とともにその派手な生活ぶりは国許の重臣たちの眉をひそめさせた。
その結果として、松井興長の綱利や清高院に対する諫言や、田中左兵衛の諫言、また清高院御付の女性に対する服装に対する規定など枚挙にいとまがない。
松井興長の諫言については過去に御紹介した。
松井興長・諫言 1-1
生母・清高院に対する諫言については、刊本で紹介されたことはないように思うが、これに対する返書は紹介されたものがある。
また清高院御付の女性たちの服装についての申し付けなどの書(こちらは古文書写)などが残されている。
こちらもご紹介しようと思っている。