津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■この事件は真実か・そのニ

2024-05-13 06:41:14 | 史料

 先日ご紹介した、宇土支藩初代の行孝が牢人を使って、国元から江戸へ下ってきた家老の福知平右衛門を殺害したという話は
まさに秘事である。
この事は、宇土支藩は兎も角、本藩でも人口に膾炙することはなかったであろう。重賢代の総奉行・堀平太左衛門が書き記した
「堀家秘書」に書き残されたという。上妻文庫「梅原丹七・福知平右衛門一件畧記」より該当項をご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一此砌宇土丹後守様御手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣出来寄候由
 早打飛脚を以宇土到来彼御家老を初御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦至極歓候處 福地平右衛門ハ扨々是ハ大切至
 極之出来ニ而御家之滅亡此節ニ極り候 程次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万拙者直ニ奉諫候由
 然レ共曽て御承引無之小屋ニ引取居候様ニ被仰付候ニ付不得止引退キ翌日尚又出勤押而御目見奉願如前日強て御諫申上候処御立
 腹ニ而御手打被仰付候由
     但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候人は剣術者 名を失念 兼々御意ニ叶御座之御側ニ罷在シ由其説も御
     差図ニ而右之浪人切候由初太刀ハ切損シニ刀ニ切留候由也

 右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成様ニと 被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様従 公儀被為召候ニ付而
 御出仕之御支度ニ而御式臺迄御出被成候處平右衛門が亡霊切害を仰付候節之通ニ而屹ト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成
 御覧候而忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ如何して式部殿
 被成御聞候歟其節段々御手前之御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も有之由咄
申候 左相当而其以後御末家ゟ御代替
 ニは奉對御本家隔意を企申間敷段八代江誓紙を被有御取之由承り傳候 勿論此儀者古老咄傳ニ而虚実之儀は存不申候
     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて二十年迄者圍をチンチク竹垣にして明屋敷ニなり居申候
一近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日ニは町在之者参詣被成御免由農証人も多参詣仕よし此相殿ニ福地を御祝被成由宇土
 町邊之下説之由ニ而是以虚実は存不申候事
 月翁様之御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名被仰付福永平太夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名被仰付両人共百五
 拾石完ニ而(江戸・宇土ト分ヶ)新規ニ被召出候 福地名字をニッニ分其跡を成御立候思召之由ニ候事
 丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸日本榎下屋敷内ニ小社を建立霊神宮(社)と祟申候 宇土ニは無之候 祭日六月三日也
一福地之名跡壱人ハ柴崎勘右衛門二男ニ而地本常右衛門と申候 江戸・宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ家老役也 以上

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■この事件は真実か・・? | トップ | ■綱利周辺に対する種々の諫言 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史料」カテゴリの最新記事