津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■延寶八年正月仰渡之事

2022-11-30 13:53:50 | 史料

                                   

                                         一延寶八年正月七日御備頭衆御用ニ付御奉行所へ罷出
               候儀延寶六年六月佐渡殿奉ニ而右之衆へ被仰渡之
               趣御事付ニ而御奉行所へ御渡候 然處ニ組付衆願之書
               付相組之者を使ニ被仕又ハ手紙を添家来ニ為持被差
               上候衆有之候為様之御用迄を自身被出能可有御座哉
               達 御耳申御用之儀ハ被罷出候様御座候而ハ為可有
               御座哉
              一養子願之事      一役儀御断申上候事
              一在宅願之事      一縁組願之事
              一世忰 御目見願之事  一屋敷拝領願之事
              一名を改申度由願之事  一前髪取之願之事
              一他国ゟ使者飛脚差越候付届之事
               右之書付仕御家老中へ入御披見候處ニ書付之内達
               御耳候儀者不残自分罷出候様ニ可申候旨佐渡殿
               被仰儀候事

 延寶八年であるから藩主は綱利、佐渡殿とあるのは筆頭家老で松井家5代の松井直之のことである。
過ぎる六年六月藩主から御備頭衆に対し、仰せの趣を御奉行所で申し渡しをしようとした所、組の者や家来を代理で出す者があった。
今般の仰せ出については、備頭本人が出頭することを申し渡している。
当時の備頭を調べてみると、松井直之・沼田延将・志水伯耆・沢村友雅・有吉貞親・小笠原長英・木下三郎右衛門・尾藤知英である。
上記の諸届があった場合は、家老中へ備頭本人が届ける様に即している。

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■「朱三」とは何・・?

2022-11-30 06:13:29 | 家紋

 先に■下津家-有吉家-加々山家を書いたが、これに関連する加賀山家の史料「奥田権左衛門家由来記」を過日図書館でコピーしてきた。
下津家女が三卿家老・有吉家の養女となり、加賀山家流奥田家に嫁いだが、5代目当主が家来を殺害して絶家となった。そのことを知りたいと思ったが故だ。
その他「加賀山家由緒略記」「加賀山氏画傳」も併せてコピーしてきたが、その一族でキリシタン(初代の長兄)として誅伐され殉教した加賀山隼人正興長などにも触れられている。
その隼人正興長の家紋は「隅立平角に三つ星」であることがスケッチされている。
                                                               
その後、奥田姓を名乗る家もでたが、この加賀山家の史料や、細川家の切支丹関係を詳しく調べられ、膨大な記録を上妻文庫として残された上妻博之先生は、この奥田家の血を受け継がれていることによる。 

 加賀山家に嫁いだ有吉家養女はこれらの記録からすると。隼人正の三弟・権左衛門家の3代目に嫁いでいるようだ。
三代目夫婦に就いて若干の記述がある。
2代目権左衛門には男子がなかったとあるが、3代目がどこから来られたのかは記されていない。
「岩越惣右衛門宅にて魚毒にあたり即死」とあるから、フグにでも当たられたのだろうか。
奥方は元文2年に疱瘡で死去されている。62歳。高麗門外長國寺に葬られたとあり、墓石には「紋は朱三と四ッ目結の二ッ付有之」とある。
四ツ目結紋は有吉家の定紋だが、前者の「朱三」で考え込んでしまった。これは難問である。

 「重三」という言葉がある。三つ重なり、つまり三月三日とか、さいの目二つ振ったらぞろ目になったとか、縁起が良いことに例えられる。
加賀山家の家紋の三つ星もそのような縁起を担いだものと思われるが、上記家紋からするとこの家紋を指していると思われるが「朱」がよく判らない。
まさか「朱」を「じゅう=重」と読ませての事ではなかろう。いつか長國寺に出かけて確認しなければならない。

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■ドッグ・イアとワイ談

2022-11-29 06:53:31 | 書籍・読書

 私はいたって本は大事にする方で、書き込みをしたり、ページの端を折るいわゆるドッグ・イア(犬の耳折)をする事はない。
書き込みをしたいページがある時は付箋をつけて是に書き込む。読みかけの時は、栞を挟み込むことにするがこれはひっきれ紙が多い。
時折、新聞や折り込み広告のひっきれが挟まっていることがある。
師匠のDr・高田先生は、古本を随分購入されたらしいが、書き込みなどには頓着されず、かえって貴重な書き込みに教えられることがあると仰っていた。

 オークションなどで手に入れた本になると、しっかりドッグ・イアがされていることがある。
前の所蔵者が特別に挟み込んだのか、また後日読むための者なのかは判じかねるが、時折なるほどこの記事を読みたかったのかと合点することがある。
そんな中、古本で手に入れた半藤一利氏の「続・漱石先生ぞな、もし」という本、これにドッグ・イアがあった。
手に入れた時は、折りたたまれてはいなかったが、くっきりと折り目が残っていた。
このページを読んで私は思わず笑いだしそうになったことを思い出す。
p81に「●ワイ談にあらずや」という項が立てられているが、この中に英国のジョージ五世とメリー皇后の、くすりと笑わせる挿話がある。
ワイ談というよりも落語の艶笑小噺といった処だ。興味がお有りの方はご覧いただきたい。
また、吾輩は猫である中の六章に、苦沙弥先生と奥方の会話があるのを、半藤氏は目ざとく見付て紹介している。
この話もワイ談というのかどうかはよく判らないがだが、これにドッグ・イアをされているこの本の前の所蔵者のきもちをくすぐらせたらしい。
こういう時はドッグ・イアよりも付箋にしておかれるのが良かろうと、御忠告申しあげる。

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■厄落しには銭十二文

2022-11-28 09:00:38 | 徒然

               

 ヤフオクを眺めていたら達筆な一文を見つけた。特に右の「厄落の事銭十一文」とあるのが気に成った。
ググってみると、下松市の郷土資料・文化遺産アーカイブスに「下松市の風俗と生活・年中行事」について詳しい記述があった。
下松市は私の先祖の出自の地で偶然に驚いてしまった。
その史料にある「厄落シト云テ京大阪ニ専ラ至ス事 節分ノ豆ヲ年ノ数ニ銭十二文紙ニ包、男ハ左ノ肩ヨリ身ヲ擦、女ハ右ノ肩ヨリナデ懐ノ内ヨリ身ヲナデテ下ニ落シ居ル内ニ、厄払トテ非人ノ者参リ其豆ヲ申受テ祝言ヲ申、沖ノ海ヘ払捨ルナド イロイロノ詞ヲ申事ニテ面白キ事ナリ」という風習の事だろう。

 いろいろ調べてみると、歌舞伎の「三人吉三」の例の「こいつは春から縁起がいいわえ」の科白の中にもでてきているし、落語の世界でも語られている。
どうやらよく知られた言葉らしい。歌舞伎の模様をYoutubeで見られないかと思ったが、これは叶わなかった。(残念)

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■御侍帳・家紋から考える(62)

2022-11-28 06:54:57 | 家紋

                                  
                                              新・肥後細川藩侍帳【し】の部

■白石又助は、(南東51-23)白石 忠家の4代目、家紋は「隅切り平角に三つ引き紋」

■白杉庄助は、(南東50-10)白杉(杦)少一家の、3代目少助、家紋は「丸に剣付片喰紋」「子持ち隅入り立角紋」

■白井紋右衛門は、「細川家家臣略系譜」に名前が確認できない。

■白井喜三右衛門
は、(南東51-17)白井喜三家、同名の人が二代続き人物特定できず、家紋は「毬挟みに右一つ巴紋」

■白木平右衛門は、白木五三家、同名人が多く人物特定できず、家紋は「隅立角に木の字紋」「揚羽蝶紋」
■白木貞七は、(南東51-13)白木弾次家の人物と考えられるが貞七の名前が見えない。家紋は同上

■志賀源右衛門は、(南東51-26)志賀平十郎家、同名人が多く人物特定できず、家紋は「杏葉紋」

■首藤才喜は、首藤十次郎家の6代目、家紋は「丸に■■紋」「梅鉢紋」

■重見仙右衛門
は、(南東51-27)茂見(木原)治三郎家、同名の人物が多く人物の特定が出来ない。家紋は「丸に桔梗紋」「子持ち隅切り立角に三文字紋」

■神西金右衛門は、(南東11-3 ち)神西敬三郎家の6代目、家紋は「鶴紋」「隅入り立垣に丸紋」

■城 権兵衛は、(南東51-14)城 市郎家の5代目か、家紋は「丸に高文字紋」「丸に大文字紋」

■城 茂一郎は、(南東51-15)城 安太家の6代目の茂三郎(誤植か)家紋は「丸に鷹の羽紋」

■嶋 又左衛門は、【丹後以来】(南東52-14)嶋 伸士家、殆どの人が又左衛門を名乗り人物特定できず。家紋は「五つ木瓜紋」  
■嶋 小右衛門
は、同上分家(南東52-15)嶋 庄作家。殆どの人が小右衛門を名乗り人物特定できず。家紋は同上

■嶋田正進は、(南東51-8)嶋田徳十郎家の5代目・八郎兵衛(嘉津次・正進)、家紋は「蛇の目紋」

■嶋田伝之允は、(南東51-3)嶋田九郎次家の3代目か。家紋は「丸に左巴紋」「丸に違い山形紋」

■樹下団之允は、【青龍寺以来】(南東51-6)樹下一平家の10代目、家紋は「桔梗紋」 

■下田才兵衛は、(南東51-24)下田源五右衛門家、5・6代目が同名で人物特定できず。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」

 

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■今朝の「目がテン」

2022-11-27 08:35:59 | 徒然

 所ジョージの「目がテン」熊本では日曜朝の7時から放映されるが、大好きな番組である。
今朝は「能登の里山‐白米千枚田」でのコメの植え付けから収穫までが取り上げられていた。
その中での田圃のガス抜きや草抜きの大変な作業の中で、画面に「沢潟」が見えかくれして雑草として引き抜かれているシーンがあった。
私はこの「沢潟」の形がすてきで、是非栽培したいと願ったが、手に入れるのが難しかった。
農家にとってはこのように厄介者の植物なのだ。
「欲しい/\」とブログに書いたら、お読みいただいた東京のY様から球根4個を送っていただいた。ご披露
それから13年になるが、毎年あの不思議な形の葉と、誠に可愛い白い花が咲くのを待ちわびている。
田圃の厄介者を一方では愛でようというのは、考えてみれば人間は勝手なものだ。
あの素晴らしい、沢潟の家紋のデザインに意味は、その形なのか、それとも相手を凌駕するような強さを愛でたのか・・・
我が家の水盤の中の沢潟は、いかにもは儚げで、とても稲作の大敵とは思えないのだが。
今は葉を枯らして、水盤の中に朽ち果てていく最中である。

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■下津家の幕紋「錠紋」

2022-11-27 06:57:20 | 家紋

                                                           
    先に■御侍帳・家紋から考える(61)を書いた。ここに下津家が登場している。
そして「竜胆紋」と共に紹介されているのがこの家紋である。私は四冊の家紋関係の本を持っているが、いずれにも紹介はない。
これをみて即座に正解される方は相当の家紋通と言えそうだ。
正解は以前に書いた、■下津久馬殿・政之助殿で幕紋として紹介されており「錠紋」とあった。
偶然の事だが、一昨日は■細川家家臣「下津氏」「津田氏」「松山氏」「八木氏」系図をご紹介した。
そして11月15日には■下津家-有吉家-加々山家を書いている。
                                                                            
 下津家の祖としての棒庵という人物は、鹿苑寺金閣の僧侶であったがのちに還俗、加藤清正の熱心な乞いに応じて家臣となった。
その時期についてははっきりしないが、天正年間清正の書状として棒庵を「鹿苑寺殿」と呼ぶ書状が有り、深い交流があったことが伺える。
熊本城築城や城下町の形成に多大な尽力をしている処を見ると、慶長の初め辺りには熊本にも来ていると思われる。
先にご紹介した「御大工棟梁善蔵ゟ聞覚控」にもその名前が挙がっている。
その尽力に対して熊本城には「棒庵坂」の名が残った。一方清正亡き後の内紛の引き金となった「牛馬騒動」の発端を作ったのがこの棒庵であり、皮肉な事ではある。
慶長8年に死去しているが、加藤家没落の前年であり肥後国は細川氏が治めることとなった。
息・下津将監が細川忠利に仕えた。

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■家紋「折墨紋」

2022-11-26 15:51:26 | 家紋

                      

 随分以前私が書いた加藤清正の「折墨紋」、ある方が発見されてメールを頂戴した。
良く探し出されましたねと御返事をしたが、熊本城を訪ねられてどこかにないかと随分探されたらしい。
以前、この「折墨紋」が裃に描かれた肖像画を発見した???と、ある方が興奮気味にブログに書いて居られたのを思い出す。どうもこれは怪しい。
探して見たらまだ存在していた。ついに「折墨紋」の画像を発見!

 これを家紋として紹介しているサイトがあるようだが、いわゆる紋服に使用するという事があったのかどうか定かではない。
什器などの絵柄として使用されている。
お尋ねを頂いたのでまた陽の目を見た感じである。約7年前の手遊びである。

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■ガラシャ夫人のモデル

2022-11-26 07:09:57 | 先祖附

「老松町の殿様」やその護立侯の次女・寺島雅子様の著「梅鉢草」に目を通している。
特に後者の著書には、三姉妹のお写真が度々出てくる。雅子さまは寺島家に嫁がれ、お嬢様が徳川宗家・恒孝様に嫁がれた。
妹の泰子さまは1925年のお生まれで9歳年下、八代松井家の祥之(ながゆき)氏に嫁がれている。
年が離れているせいもあって、写真の泰子さまは小学校高学年くらいの写真が多い。

 その泰子さまの写真をみてふと思い出したことがある。
大阪玉造の大阪カテドラル聖マリア大聖堂にある堂本印象の「最後の日のガラシア夫人」のモデルがこの泰子様であったという事だ。
堂本印象は護立様と交流が有り、ガラシャ夫人を書くにあたりそのイメージが湧かないと話されると、護立様は、末娘の泰子様をモデルにしたらどうかと仰ったらしい。
その制作年について私は詳しく知らないが、泰子様の結婚後の事らしく印象は八代の松井家を訪ねてスケッチをした。
堂本印象のガラシャ夫人の面影は如何にも近代的美人と言った感じがある。そして確かに泰子様の面立ちと似ているように思える。
現在の松井家当主・葵之様の御母堂である。

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■細川家家臣「下津氏」「津田氏」「松山氏」「八木氏」系図

2022-11-25 13:44:03 | 人物

         

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■宇土細川家借銀に関する一札(3)

2022-11-25 06:45:44 | 史料

   

                       ニ而ニ應シ無相違毎歳廻米可致候 右之通相極
        置候 調達金之儀者勿論其外大坂表蔵屋敷
        役人共江對談取次差出候我(か)又者無引當候而
        差出候金子并其方自分出金共誠別段の
        以趣意何■久敷差出シ有之金子ニ而茂
        外借用一統之沙汰を相除年譜或者歩下ヶ
        等之儀決而不致■躰之儀有之候共最初ゟ
        約諾之通始終以実々之通元利無滞可致
        返濟筈ニ今般旦那始惣役人共一統許諚
        之上各江申遣至候處相違無之候 尤或後年ニ
        至候共双方代々以此一札可申立候条為
        後證依而一札如件

        安永五丙申年七月     松尾忠助
                     伊田久平
                     沼田左平太
                     中嶋弥太兵衛
                     諏訪源七
                     冨永嘉左衛門
                     太田才兵衛
                     吉見久右衛門
                     上田佐五右衛門
                     高濱安右衛門
                     南岐八助
                     林田郷八
                     佐方源右衛門
                     興津宇兵衛
                     芦田十右衛門
                     黒木順蔵
                     国崎恵一右衛門
                     山川伊兵衛
                     河島七右衛門
                     片山藤左衛門
                     芦田瀬兵衛

             永瀬七郎右衛門殿
             木屋夘兵衛殿


        右之通之證文を以三百貫目借用相濟候上
         且得棗印を取差出可申候以上

 

 

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■御侍帳・家紋から考える(61)

2022-11-24 13:10:03 | 家紋

                                 

                                                  新・肥後細川藩侍帳【し】の部

志水孫七郎は、(南東52-5)志水源八家の7代目、父は才助清冬、後治兵衛。藩に仕へ家老職となり、禄千五百石。宝暦の改革に力を致して
       其功著大なり。家紋は「林文字紋」

志水藤七は、同上分家、(南東52-6)志水三弥家の5代目。名は清穆。藩に仕へ食禄四百石、小姓役、郡代、用人、八代番頭、奉行職などを勤む。
       又学を好み大義に通じ武技に長ず。斎藤境野等の犬射を起すや與りて力あり。家紋同上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
志水新之允は、蒲生氏郷流
【青龍寺以来】志水伯耆清久(入道宗加)を祖とする志水一族5家の本家である。     
      (南東52-3)志水新九郎家の10代目・夘納(新丞)か。家紋は「   」「浜洲紋」 
■志水権之助は、同上分家、(南東52-7)志水隼太家の5代目・兵次(権之助)、郡代・用人・小姓頭など歴任。家紋は「   」「四つ浜洲紋」
志水流助は、同上分家、【青龍寺以来】(南東52-8)志水源九郎家の6代目、御歩頭などを勤めた。家紋は権之助家に同じ。 
志水九左衛門は、同上分家【青龍寺以来】(南東52-2)志水 凍家の5代目・九兵衛(九左衛門・武膳)、鶴崎・八代などの番頭を勤めた。家紋は「七宝紋」  
志水一学は、 (南東52-4)志水一太家の7代目・仙助(嘉兵衛・小左衛・一学)、家紋は「三つ七宝紋」「四つ浜洲紋」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
志方半右衛門は、
【丹後以来】(南東52-9)志方逸次家の10代目・蘭八(半右衛門)か。家紋は「矢筈」「三つ矢筈」
志方半兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-11)志方仙太家の5代目・左内(半兵衛)。家紋同上
志方十兵衛は、同上分家【丹後以来】(南東52-10)志方軸人家の6代・又勝(十兵衛)。家紋は「四つ矢筈紋」
志方玄常は、同上分家 御医師 【丹後以来】(南東57-33 医)志方柳臺家の5代目。家紋は「三つ矢筈紋」  
志方小左衛門は、同上分家
【丹後以来】 (南東52-12)志方 半家の7代目。家紋は「四つ矢筈紋」
志方は、       名前の記載なく不明
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
志賀太郎助は、祖は大友一族豊後岡城主の志賀氏、(南東51-19)志賀太郎家の7代目・太郎助親信。家紋は大友一族の「杏葉紋」「三つ引き紋」

下津久馬は、公家・久我右大臣道堅の三男・下津棒庵を祖とする(南東51-1)下津縫殿家、代々求馬を名乗り人物の特定は不可能である。
     家紋は「錠紋」「笹竜胆紋」

下河部熊之助は、(南東51-2)下河邊次郎太郎家の8代目。家紋は「丸に抱え柊紋」か?。

■下田万五郎は、(南東51-25)下田平三家の6代目。初代は忠利公に殉死した与左衛門正定。家紋は「井桁に一文字紋」

塩山孫大夫は、(南東52-18)塩山成海家の6代目・孫大夫(十内)。家紋は「六曜紋」
塩山仁左衛門は、同上分家(南東52-19)塩山騏三郎家、同名人が多く人物の特定が出来ない。家紋は同上

白石清兵衛は、(南東51-18)白石傳太家の6代目・右源(清兵衛・傳太)か。家紋は「亀甲に鷹の羽紋」

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■林真理子さんの述懐と私

2022-11-24 08:29:33 | 徒然

 あるTV番組での作家・エッセイスト林真理子氏の発言がインターネットでも紹介されている。
曰く「毎回毎回おもしろいもの書けなんて無理-エッセー連載の苦悩&本音」とある。
比較するにはおこがましい話だが、私も最近ネタ不足に陥り、書くことがなくなってきた。
書くことよりもネタ探しに一日過ごしているように思える。
何かしらネタはないかしらと、起きて椅子に座ったら本棚を眺めまわして、随分読んでいない本を引っ張り出して目を通す。
だからといって見つかる訳でもなく、三冊も四冊も目を通して「駄目だった」ことの方が多い。

 正岡子規の病床日記「墨汁一滴」や「病狀六尺」などを読むと、子規は「病狀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と述懐する。
しかしながら、その世界は広大でその知識は限りなく、身を起こす事さえ激痛を伴う病床六尺の空間から、思想し評論しまた絵を書き、句作している。
親しい友人や編集者がが度々病床を訪れて、世にある著や古文書や、たまには絵であったりお軸などを持ち込む。
そんなものを見て、毎日激痛に耐えながら中身の濃い一文を新聞掲載の形で残した。驚嘆に値する。

 終活で相当量の本や資料を処分した。残りの者を焦りながら今日も知恵を絞り出さねばならない。
毎回毎回おもしろいもの書けなんて無理・・・・当たり前のことである。

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■錦嚢移文‐巻8‐p1

2022-11-23 08:38:28 | 史料

 一昨日図書館に出かけた折スマホ撮影したものです。このような貴重な資料が残されたことに感謝しながらページをめくりました。
巻8には系図が散見されこれが目的でしたが、その他の記事も当然の事興味深く読み、知見を深めました。

                     一肥後國天草郡於内千七百五十五石事今度以検地之上為新御
        恩地被宛行之訖全令領地小西摂津守ニ致合掌可抽忠節者也
           天正十六 後五月十五日 御朱印
               大矢野民部大輔とのへ

          天草一黨之事
                            太郎左衛門弟                  
       一百人扶持  天草太郎左衛門  一五百石  天草三郎左衛門
             同人弟                     同人弟
       一五百石   天草新介     一貮百石  天草喜右衛門
             太郎右衛門嫡子                 新介嫡子
       一千石    天草弥十郎    一百五十石 天草市十郎
             喜右衛門嫡子
       一百五十石  天草又三郎
       一百人扶持  栖本甚右衛門   一百人扶持 上津浦六右衛門
       一百人扶持  大矢野安松    一百人扶持 志岐藤右衛門
        家傳云藤原姓栖本八郎其子甚右衛門順天府ニ而討死其子又七郎天正
        十六年閏五月従秀吉公賜領地八百五十石其子又七郎清正公ゟ百人扶持
        後ニ賜禄二百五十石云々
        家傳云大矢野民部大輔二男安松後改喜兵衛仕後清正公母ニ賜百人扶持喜兵衛
        子五郎左衛門ニ賜禄二百五十石二男次郎八於有馬討死其子左助云々

   大木系略   (略)

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■徒歩6.7㌔のつけ

2022-11-23 06:13:03 | 徒然

 先日の図書館行き往復6.7㌔の付けが来てしまった。
肩痛は相変わらずで、昨日は一日中右足のあどが痛くて外出もせずにいた。
今朝がたの事、右足の膝裏あたりに違和感を感じ目が覚めた。いつものこむら返りとは違う。
じわり/\と痛みが襲ってきて足先がつってくるような感じがする。
このままではまずいと思い、からみつく毛布から足を出し、ベッドから出て暗闇の中に立つ。
足先がすこしつっているから、あどが付くように体重をかけて立つ。
今朝は室内は22~23℃ほどはあるから助かったが、3~4分ほど立ち尽くした。
さすがに体が冷えてきたので、足をかばいながらベッドに入る。しばらくすると寝入ってしまった。
6時前、目が覚め起床、足の状態は元に戻ったようが、椅子に座っていると曲げた膝裏の血管に血が通るような痛みを感じる。
6.7㌔歩いて疲れは残っていないが、まさか足に来るとは思わなかった。
昨日はあどが痛くて散歩も取りやめたが、今日もやめたが良さそうだ。
ようやく外は明るくなってきた。どんよりした勤労感謝の日の一日になりそうである。




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