津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

11■ 仇討④ 江戸八丁堀神田白銀町代地細川様御中屋敷前 親の仇 嘉永3年1月18日 打手:兄定吉、弟政吉 敵:鶴吉事完治

2024-01-31 08:12:54 | オークション

11■ 仇討④ 江戸八丁堀神田白銀町代地細川様御中屋敷前 親の仇 嘉永3年1月18日 打手:兄定吉、弟政吉 敵:鶴吉事完治 

 事件の内容もさることながら「江戸八丁堀神田白銀町代地細川様御中屋敷前」という場所がどこだろうと、「江戸切絵図」を眺めていたら、「八町堀霊岸島日本橋南之絵図」に該当する場所を見つけ出した。
神田白銀町ではなく新銀町(しんしろがねちょう)が本当らしい。
新場橋の位置からすると現在の日本橋兜町17番地あたりか?
さすがにこのような事件は、熊本藩年表稿には書いてはないが、わが「津々堂年表」?にはしっかり記録にとどめておこう。

         □□嘉永三年戌十月十六日
    朝七ツ半頃八丁堀神田代地に
          かたき
    おいて親の敵を討たる次第
    十一ヶ年前上総の国の百姓
    某ふとわづらいしにいつの比よりか
                                         やこ
    近村の僧来りて野狐をつけ
    てゐにその為に
    命をうし
    ない此僧を敵と思ふにその村をのがれて
    行来志甚□なりぬ 今親子ハ御當地に□□□
        つきこめ
    下□□丁に衝米渡世をなして諸所を
            きぞく
    尋るに此敵の僧は帰俗して北□町に
                 すみ日雇を
          なして暮したるを
          見とどけ今日こそ父の命日なれバ
          □□□をはらしくれんとまち□□て
          本意をとげ既に孝子の一念
          神佛の加護勧懲のあきらか
          なる□おそるべし/\

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■ガラシャ夫人の書簡と松本小侍従

2024-01-30 13:04:02 | ご挨拶

 「肥後墳墓録」をまとめる作業の中で、本妙寺の塔頭・吉祥院東光院をまとめるにあたり、師匠・高田泰史Dr編著の「平成肥後国誌」を眺めていたら、「松本弥々」「松本小侍従」という項目が出てきた。
これを読んでみると大いに違和感がある。(先生ごめんなさい・・・)
例えば小侍従については松本因幡の「妻小侍従」として項が立てられ「公卿清原頼賢の娘で、清原の養女とも、ガラシャ夫人の妹とも言われる。細川忠興に仕え、忠利を生んですぐに松本因幡にめあわされた」とある。
これは侍女頭と言われた清原国賢女・イトと混同されておられる。又、忠利の生母はまさしくガラシャであり、この説明で正解なのは「松本因幡にめあらわせた」という部分のみとなる。
一方「松本弥々」という項目も大いに怪しい。
明智光秀の五女でガラシャ夫人の妹である。松本因幡守豊前夫人で、ガラシャ夫人の自害までガラシャ夫人第一の側近としてそばで暮らした。」とあり、ガラシャ入信の手伝いをしたことなどが記されているが、これは先に帰した清原イヤのことであろう。秀吉面談のことはこれは小侍従であることが綿考輯録に記されている(後述)
ガラシャ夫人の死後、弥々が嫁いだ細川家臣松本家に弥々が書き残した「ガラシャ夫人消息」が残っているが、現在国会図書館に寄贈保存されている。」とあるが、これは、まさに小侍従のことであり、それらの文書は以下の如く貴重な資料として残されている。

 永青文庫展示室開設10周年記念の展覧会図録「細川ガラシャ」によると、ガラシャの書簡は国立国会図書館に13点の他、永青文庫に4点、三宅文書に1点あることが紹介されている。
「国立国会図書館デジタルコレクション」には「細川忠興同夫人等書状」5件があり、その中にガラシャ夫人の書簡13通がすべて網羅されている。
そして国立国会図書館分では8点、永青文庫の3点が松本小侍従もしくは松本御内儀宛となっている。

 先生ご存命の中でこのことを申し上げるべきかどうか、大いに悩んだのだがとうとうお話ししないままお別れしてしまった。
ちなみに松本小侍従について、綿考輯録は次のように記す。

   小侍従 明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方
       伏見御城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ
       御立退被成候、然共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐
       私儀常に奉似御面候体候由承候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次
       にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よく御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も
       右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申候而も後家へ御合力米被下候
                                 (綿考輯録・巻九)
 

 

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■冬の春

2024-01-30 06:22:19 | 徒然

 年寄りは時間の流れがとくに速く感じられるというが・・本当に早い。一月も終わろうとしている。数日で立春だ。
頂戴した年賀状を改めて見直して、そろそろ年賀状終いをしようかしらなどと考えたりもする。

 年賀状には新春とか初春とかとかいう語句が慣用されているが、これは旧暦の名残だから仕方がないとしても、何とも不思議な
「冬の春」という言葉がある。
旧暦では「新年=春」であるが、あの有名な古今和歌集にある不思議な歌を思い出す。

   年のうちに春は来にけり ひととせを
      去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ

  (年のうちに春が来てしまった 
      この一年を去年と呼んだらいいのか 今年と呼んだらいいのだろうか)

これは、旧暦に於いては12月中にに於いて立春を迎えるということがあることを歌った歌として知られる。
今年はオリンピックが開催されるので閏年である。
旧暦に於いては19年に7回の閏月を入れて暦を調整した。閏月が入る年を閏年という。二年から三年ごとに閏月が入る。
「西暦・和暦対照表」とにらめっこしているが、「冬の春」を見つけることは不可能である。
明治に入ってからは明治元年の4月、3年の10月に閏月があり閏年である。

明治新政府は財政的負担を何とかしようと、閏月がある明治5年に12月3日をもって太陽暦を用いて改元したが、これは閏月一ヶ月
分の人件費をなくそうという妙案として大隈重信が考え出したと言われている。

太陽暦の施行は誠に現実的なもので、優雅なそして不可思議な「冬の春」という言葉を過去のものとしてしまった。

付け足し:
小野田部村(現・宇城市小川町)では、「盆会も新暦で行く」と云はれ、「村長が新(死)でしまへと云ふけれど 灸(旧)でもすへて生きたがよかろふ」という狂歌(?)が残されていたという。

新は「新暦」灸は「旧暦」である。熊本のお盆は新暦で行われているが、お盆休みは旧暦のところが多いように思える。    

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■数奇屋 茶室 間取り 図 古書 古文書 和本 古本

2024-01-29 07:29:54 | オークション

                               

 ヤフオクには数か月ご無沙汰していましたが、昨晩茶室の建築に関わる古図を落札しました。
肥後古流のお茶に10年ほど情熱を燃やし、又、建築設計を生業にしてきた者としては大いに興味をそそられました。
建築に関わる古図もいろいろヤフオクで手に入れましたが、ゆくゆくはどこかに寄贈しようと思っています。

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■餅を食う猫

2024-01-28 07:35:35 | 書籍・読書

 夏目漱石の「吾輩は猫である」は11章に分かれている。これは、1章づつホトトギスに掲載されたことによる。
そして刊本としてはホトトギス掲載の途中から、上中下三巻が発行されている。ホトトギス掲載中から評判であったことがうかがえる。
      吾輩は猫である - Wikipedia 漱石の思い出 (文春文庫) 吾輩は猫である (新潮文庫) | 漱石, 夏目 |本 | 通販 | Amazon
  (お手元に所蔵していない方は吾輩 猫 - 達人出版会青空文庫でご覧いただきたい)
第1章は明治38年1月のことだが、漱石が執筆を始めたのがいつのころかは定かではないが、鏡子夫人の「漱石の思い出」によると37年の12月ころかららしい。
さてこの主人公の「猫」のことだが、第1章ではその登場ぶりが紹介されているが、身元不明の野良猫である。
どうやらお手本になった猫がいる。鏡子夫人の述によると「(37年の)六・七月の夏の始めころ(中略)どこからともなく生まれていくらもたたない子猫が家の中に入ってきました」とある。
熊本でも猫と同居していた鏡子夫人だが「猫嫌いのわたくし」なのだそうで、何度つまみ出しても入り込んでくる猫に並口している。
泥足でやって来て御櫃の上にうずくまっていたり、おはちの中に納まっているのを見て根負けしている様子を見た漱石に、「そんなに入ってくるのならおいてやったらいいじゃないか」という一言で夏目家に居つくことになる。
黒猫だったらしいが、出入りの按摩さんが、「爪の先まで真っ黒で福猫だから御家が繁盛する」といわれ定住権を得たようだが、相変わらず御櫃の上に上がり、蚊帳をひっかき、子供を襲って怖がられたりしているが、漱石の肩に乗ったりやり放題である。駒込千駄木57番地の家でのことである。
第2章の中ほどに出てくる「吾輩」は正月三日、雑煮を食べてのどに詰まらせ踊り狂うシーンがあるが、是はまさしく実話で、鏡子夫人の述によると、子供の食べ残しの雑煮の餅を食べ、前足でもがきながら踊っている、女中たちは「いやしんぼう」をするからだ笑ったりしたというが、漱石がこれを見て第2章で取り上げたという。
この猫が「死亡通知」され「顕彰碑」たてられた、初代の猫である。熊本の猫はどうやら忘れ去られている。

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■細川家家臣に・・京都所司代村井氏の子孫

2024-01-27 09:52:21 | 人物

 細川家家臣団諸家を調べている私も、有名人のご子孫が多いのはよく承知している。
谷口克広著「信長の天下所司代‐筆頭吏僚 村井貞勝」をパラパラ読みしている中、細川家臣にご子孫が居られたなと思いいたった。
この村井真勝について、帯には「将軍義昭追放後、本能寺の変まで信長の京都支配を一手に担った男とは」とある。
この京都所司代5万石・村井貞勝のご子孫「村井虎之允家(南東41-18)」がその一である。
ただ初代の召し出しが真源院(光尚)の時代だから、貞勝親子が本能寺の変で卒してからは時代が随分下っている。
どうやら初代・左太郎(入道道似)は貞勝の孫にあたる人らしい。
「肥後墳墓録」をまとめている段階で、阿弥陀寺に村井家のお墓があり、これが村井家三家の内の貞勝流村井家であることを再確認した。

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■安政の大地震と、熊本の人形師・松本喜三郎の生き人形

2024-01-27 07:59:51 | 歴史

 嘉永という年号が安政と改元されたのは、嘉永の末年に起きた大地震(安政地震)によるものである。
安政元年(嘉永7年)11月4日、いわゆる安政東海地震が起きた。翌日には南海地震が発生している。
安政2年には江戸で大被害をもたらした。
嘉永7年の地震の折には、相州警備のために熊本藩士が旅のさなか、勢州(三重県)亀山で地震に遭遇しているが、そのさまはかってこのブログで安政の大地震(東海)として、荒木敬右衛門の道中日記をご紹介した。
道筋の甚大な被害の中を苦労をしながら11月21日相州陣屋に到着している。
嘉永7年は1月1日にさかのぼり「安政」と改元されたが、是は朝廷の意によるものである。

 約一年後の安政2年10月2日の江戸大地震では、その発生が夜の10時頃だったので、20,000人弱ともいう死人が出ており多くの家屋が潰れている。その数は15,000以上だとされる。
日本の地震の歴史上最大規模のものではないのか? 余震は一月ほど続いた。
炊き出しは222,000に及んだという記録がある。御救い米の支給は38万人に及んだ。
これが落ち着くと幕府おひざ元である江戸の復興の機運は復興景気をもたらしたとされる。

実は安政3年1月になると、浅草寺の境内で「松本喜三郎の生き人形」の見世物小屋ができ評判をよんだという。
その宣伝に歌川国芳の「風流生人形」という3枚続揃の浮世絵がうりだされて評判となり相乗効果をもたらした。
        風流生人形 3枚続揃 【安政3年 歌川国芳 浮世絵】
 もろ肌を脱いだ花魁の化粧風景が描かれているが、そのことも評判を呼んだらしい。
松本喜三郎はこの絵を「遊女や内証の体」となずけて生き人形をならべた。ほかにも多く並んだが、奉行所の見聞に引っかかった。正月15日に始まり3月16日までつづき、一日75両の売り上げがあった。
熊本の生き人形師・松本喜三郎のもっとも活躍した時代であったのだろう。

 地震で大被害を受けてわずか三ヶ月後、このような見世物小屋が評判となり多くの見物人が訪れたというのだから、江戸のバイタリティーを感じざるを得ない。

 能登の皆様にも災害の過酷な状況を乗り越える底力を見せていただきたい。

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■こむら返り

2024-01-26 09:48:56 | 徒然

                                こむら返り 闇の明けまつ寒夜かな  津々

 今朝4時過ぎ、左足に強烈なこむらがえりに襲われた。あわてて跳ね起きたが足が毛布にからまって時が過ぎる。
強烈な痛みで床に足をつけて体重をかけようと思うが、伸びきった足首はなかなか元に戻らない。
苦痛に耐えてなんとか足首をまげて、電気もつけずベッドに腰を掛けてしばらくを過ごした。
寒さにも気が付かないほどであったが我に返り、足を引きずって漢方の薬を探し出して服用する。
再びベッドにもぐりこんだが、痛くて再発するのではないかと目がさえてしまう。
患部の痛みを中心に、同心円の水の輪が広がるような感覚に陥って、6時すぎの起床まで眠れなかった。
起き出してみると歩行ができず、無理をして歩くたびにふくらはぎが悲鳴を上げる感じ、歩くのも壁伝いというありさまである。
老いの体はあちこちで悲鳴を上げている。

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■上林三入宛木下延俊書状

2024-01-26 06:59:37 | オークション

北政所の甥 木下延俊書状一通 上林三入宛豊後国日出藩祖小早川秀秋実兄細川忠興娘婿消息和本古文書古筆短冊書簡大名戦国武将手紙花押豊臣

     

      上林三入とは御物茶師八人の内の一人、旧姓藤村だがゆるされて上林を名乗った。
      参考:江戸時代の宇治茶師 

      書状を書いた木下右衛門大夫は、細川忠興女・加賀の聟である。日出藩主。
      細川家には、右衛門大夫の五男・俊之を初代とする熊本木下家がある。

      この書状については拡大プリントアウトして、読み下しの作業をしてみようと思う。

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■細川宗家と宇土細川家の相関関係

2024-01-25 13:35:11 | 細川家譜

        8代         9代
+---細川重賢------細川治年----+---年和20歳没、應五郎6歳没
|         ‖    |
+------清源院  +---埴   +---就(ナル)姫・久我前内大臣通明簾中
  (5)‖     |     |   10代    11代      12代       13代
+---細川興里  |      +==齊茲----齊樹==== 齊護 ----+---韶邦   
|   (6)  |                         ⇧                        ⇧        | 14代     
+------   興文----+----------------- 立禮----立之---+---立政      +---護久・・・・・・・・・・・・・・・・・宗家
                                                  (7)   (8)   | (9)

                                +---行芬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇土・細川家
                           (10)

 1、立禮(齊茲)の宗家相続については、立禮が消極的であったようだが、5代興里公夫人で重賢公の妹・清源院(治年にとっては叔母)が、
  「是非ともお受けするように」と協力に助言をされたという話が伝わる。
 2、立禮にとって宗家の治年は姉聟という関係であり、その息應五郎が幼少であったためのリリーフ役であった。
 3、立之は立禮が宇土藩主時代の子(兄)であり、齊樹は立之が宗家相続後(齊茲)の子(弟)である。
 4、立政が宇土藩主時代、齊樹女・篤姫と結婚するも14歳で死去している。
    齊樹の病が重篤となり、齊樹夫人(一橋大納言治斎女=紀姫)の実方から養嗣子を迎える話が進捗していたが、国元に於いては
    血統が絶えることに反対の声が沸騰し、決定が覆されて宇土市藩藩主立政に決定した。
    宇土藩主は弟・行芬が若くして(17歳)跡式継承した。
                     

 

 

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■栄昌院様御卒去

2024-01-25 07:16:35 | 歴史
 天保十二年正月廿五日、宇土細川家8代藩主立之夫人・栄昌院(冨姫、福姫とも)が江戸屋敷で亡くなられた。
享年55、 墓所・東海寺塔頭・清光院

時の老中土井利厚(下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代)の三(四?)女であり、細川宗家を継いだ立政の生母である。
 立政は文政九年三月二十九日本家相続を命ぜらる。同四月十八日越中守斎護と改む(23歳)
尚、栄昌院は立政の嫡男・雅之進
(のち慶前)が、天保五年正月本家に入るまで(当時10歳)、その養育に尽力した。宇土細川家は栄昌院の二男・行芬が襲封した。
そんな立政に対し栄昌院は一文を呈している。

    一筆申入候 此度そもじどの御事御大国を御拝領ニ付而は第一奢侈ヶ間敷事
    無之様御心得専要ニぞんじ参候 倹約いたされ候ハゞ家来ニ候倹約は不要に
    御座候 手元之倹約なされ可然候
    衣装諸道具決而物すき無之様只々先君之御垢付又は右之御道具御拝領御用事
    御心得候様存候 酒宴に長し不申候様 就而は婦人を数多抱継不被申様何事も
    先規之通たるべし 右之通此節は入部ゆへやもしなからさばかり御意見申入候 
    兎角先々君(齊茲)に御伺御教政筋専一ニそんし参候 千秋万歳
         文政九丙戌年
              八月
                             母より
                中務殿

 又、宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されているが、この文章により私達は夫人の人間性のすばらしさ
を思い知るのである。

細川齊樹が疱瘡でなくなったあと、齊樹夫人が一橋大納言家の出身であることから、一橋家より養子を迎えることが取りざたされた。
血脈の途絶えることを憂慮した細川家では、急きょ齊樹の甥(兄立之の子)宇土藩九代当主立政(齊護)を急養子として迎えるのである。
これは、齊樹にとっては、娘の篤姫が立政に嫁いで14歳という若さで死去した娘婿だということも関係しているだろう。
思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教訓文を与えている。

 柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられているが、細川佳代子夫人は、この栄昌院の教訓文を取り上げて
講演をもたれたことがあった。

栄昌院のDNAは現在の細川家にも脈々と流れており、佳代子夫人も敬愛されるところであろう。

    このたび存じがけなく龍之口ご相続の儀、まことに御身においてこの上もなき御誉、この身迄も
    面目これにまさり候こと無く候 ついては御心得の端にもと及ばずながら書き付け候 第一御身
    もち正しく人々に情深く公の御勤め怠りなく、御家ご大切にご家風みだれざるよう御政道能々お
    心かけられ、大小のこと共御家来中衆議をお聞置き得中、ご勘弁の上にて取り行われ万事ご一存
    にて無きようお心がけらるべく候 ご家来中多く候えば万事御心くばりのこと共に候わんか、い
    かようにお心を労され候でも御落度なきよう能々お心得ありたく候 御大国の御あるじとなり候
    ことは容易なきことにてはなく候あいだ、よくよくご思慮ありたく候
    まさに日々のおこないには毎朝ご神拝の後、ご先祖様のご拝礼一日も怠りなくご養父様は御存生
    の如く何ごとも置かせあそばされ候ことは当分そのままに御改めなく随分ご大切にあそばされ候
    と人々も存じ候様になされ、何ぞのかど目にはまづご吹聴仰せあげられ候ようにありたく候 
    自然ござ候はぬお方はついつい御礼儀も疎かになり候ようのこともありがちなるものゆえ、能々
    ご失念無くお仏参りなどは尚更御怠りなきようにと存じ候 御暇々にはご学問お心にかけられ弓
    馬諸芸ともにご出精なされ、ご家中の励みにもあいなり候ようにと思召しにてご自身ご出精第一
    に候 御前様へは能々朝夕になにくれとこまやかにお心をつけられますよう、このところはこれ
    までも私へ御仕え候もこまやかに候へば安心に候 お上にはことのほかご孝心に居られそうろう
    だん承り及び候へば、尚さらその心にて万事ご孝行を尽くさるべく候 奥方様おいでの後はこと
    さらに奥向最初よりよく取締り、乱りがわしきことども随分御慎みなされ、自然召遣いの人など
    でき候とも常々も申し候とおり我ままにならぬよう姑より能くお仕置き候よう、家風など乱れ候
    は兎角寵愛の過ぎ候より起り候 唐土にも大和にも昔より様々のためし有り候ことに候ゆえ、こ
    のところ能々わきまえ召遣われ候よう専一に存じ候 若きうちは随分と慎み深き人も年積りて却
    つて心緩み我儘募り身持悪しくなり候も間々あり候 なにごとも自然と御心にまかせ候節にいた
    り、御慎み肝要に候 無益の御驕りなど無く候ようなに事もこの方にて是まで種々心苦致され質
    素に暮しおり候を、かつてお忘れなく身に不足なときには昔のことはついつい忘れ候ままくれぐ
    れも元を忘れぬよう朝暮お心にかけられ、だいたいお家のためご大切にたることをしばしば思召
    し忘れず候よう、第一にお心かけらるべく候 このたび加様に御めかねにて御譲りなされ候御家
    ご大切たることは幾度も申し候如く起臥にもお忘れあるまじくと存じ候 泰崇院様遠行ののちは
    別して此方家来共々入に心を砕き、丹精をこらし勤めまいらせ候人々のことをも思召しだされて
    しかるべく候 これ迄も孝心深くかねがね家居をさへ一つに住居候ようにとまで思召され候お心
    差し恭くとも嬉くとも言葉なく、さばかりのお志を頼みにてかかることとも書記しるし候 
    必ず別れ候てもその志空しからず候は、このしるし候こととも能々御守りたまわり、万事御身を
    慎み永く人々の尊敬したてまつり候ように御取治め下され候は、いかばかりの喜び、且は此方御
    先祖様・泰崇院様・寛敬院様までも御誉たるべく候 まことにかい無き心にてただただ心りに候
    へば、存じ候方端をだにとしるしつけ候まま、対面と思召しこの書折々ご覧賜り候べく候 
    御身養生専一に候へばこれ迄のとおり灸治等をも役目にて御すえなさるべく候 すすめ候人無き
    ちきは怠り申すべく候 何くれを案しられ候あまりに、かかる事迄書き付け候も心のやみにて候
    お許し賜るべく候 あなかしこ

        中務少輔殿                     栄昌院

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■細川家今戸邸

2024-01-24 11:32:46 | 歴史

 細川韶邦は、明治三年五月八日隠居し弟・護久に後を託すと、十二日には正四位に叙せられた。
その御礼のために出京したところ、華族東京居住の命が出されため滞京するうちに、今戸に新第を築き、翌四年六月十五日移居した。
韶邦の隠居は、熊本藩の実学党派の新政府への干渉により行われたことは、「肥後国事史料」で明らかである。
私はかって「クーデター」と書いて叱られた。そんな中での、正四位への進席は夫人峯姫の実兄・三条実美などの働きがあったかもしれない。

明治天皇と皇后美子(韶邦室・峯の一條家における義妹)が明治五年六月十三日、今戸邸を訪問されている。
その場所がどこなのか判らずに来たが、最近「細川子爵家今戸屋敷跡を歩く」というサイトの存在を知った。
その場所は東京市浅草区今戸町11番地、現在の東京都台東区浅草7丁目だとする。
隅田川の言問橋の下流にちょっと変わったデザインの桜橋があるが、その橋の台東区側のスポーツ公園の真正面がその位置に当たる。

                                                       
細川子爵家とは茂木藩細川家(藩祖=細川忠興弟・興元)のことだが、このサイトによると、入居したのは明治24年だとされる。
このことからすると、細川韶邦の死(明治9年)後、峯姫が寡婦となられた後もここに住まわれ、その後子爵家が移居したと考えるのが妥当であろう。
峯姫はお子を為されていないから晩年はまさにお一人でお寂しい事であったろう。
                                                               

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■漢字は難しい

2024-01-24 06:57:00 | 徒然

 ある資料を見ていたら「伝育役」とある。細川慶前に仕えた野村伝右衛門が、慶前が死去した際殉死したというのである。
殉死はこの時代には認められていないから、この人物がどう処分されたのか知れない。
介錯をしたのは、幕末池田屋事件に巻き込まれて死去した甥にあたる宮部鼎蔵である。
「伝育役」は校正者がきづかなかったのだろう、これは「傳=伝」と思い込んで、これを現代字の「伝」に変換したことがそもそもの間違いである。
そして二つ目の間違いがあり「ふいく役」としたかったのだろうが、「ふ」に該当する漢字は「傳(でん)=伝」ではなく「傅」である。
それぞれの文字を拡大してみると(でん=現代では伝)、(ふ)はとしなければならず現代略字はない。
つまり傅育役が正解である。かって皇室には傅育官という役職があり、天皇や宮家の子女をお預かりしてお育てしたが、平成天皇に至り美智子妃が自ら三人のお子を育てられるようになり廃止となった。

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■夏目家に愛された「テルという名の女中」

2024-01-23 08:17:52 | 人物

「テルという名の女中」は、漱石夫人鏡子氏の著「漱石の思い出」に登場する夏目家の女中さんである。
            
 右端の猫を抱いた女性がその「テル」だが、鏡子夫人によると27・8歳だとされる。
この時期鏡子夫人は21歳、テルは「色の浅黒い人」だというが、鏡子夫人とは6・7歳しか違わないが写真でも色黒が見て取れる。

 長女の筆子さんは内坪井の家(5番目)で生まれているが、漱石は「色の黒い人に抱かれると赤ん坊も色が黒くなる」と言って、
テルに抱かせようとはしなかった。

鏡子夫人も買い物その他のことで、そうそう赤子に付きっ切りともいかず、漱石先生があやしたりしているが、泣き止んでくれない。
仕方なくテルに頼むとピタリと泣き止んで、「色が黒くても、私でなけりゃどうにもならんじゃないですか」と自慢したという。

そして赤子を大変かわいがったという。そんな女中に漱石は好感を以て接している。

 鏡子夫人は嫁いできて一年目に漱石と二人で上京したことは先に書いた。
合羽町の家を出発しているが、漱石が一人熊本へ帰り大江の家に引っ越していた。
「大変景色のいいところで、家の前は一面は畑、その先が見渡す限り桑畑が続いて、森の都と言われる熊本郊外の秋の景色はまた
格別でした」
と鏡子夫人は記す。かっての中央病院辺り、視界には私の母校白川中学も入っていたかもしれない。

「テル」がいつから夏目家に女中として入ったのかその時期は良くわからない。
「漱石の思い出」の中で、テルの名前が初めて登場するのはこの大江の家が初めてのようだ。

   よく忠実に働いてくれるのはいいが、これが私に負けないたいそうな朝寝坊です。で私の留守中(東京から帰る前)
  朝飯もたべさせずに学校へ出したことがしばしばあったそうですが、そうする
と旦那さんに申しわけがないとあって、
  帰って来て夏目が御飯をたべてしまうまで決して自分でも
箸をとらないのです。
  庭に小さい祠がありましたが、テルがその神様に線香を上げ蝋燭を上げてしきりに拝んでおります。
  一心に願かけでもしている様子ですから、いい旦那でも欲しいのかと夏目が冗談でたずねてみますと、どうぞ朝起き
  になれますようにと殊勝なお祈りしているのでした。

   夏目はずっと冷水浴をしておりましたが、寒くなると水をかぶる騒ぎったらありません。フウフウ言いながら、冷た
  いのでおどり上がり飛び上がって、あたりかまわず水をはねとばします。

  テルが側で見て笑いながら、「旦那さん、はねまわって、小鯛のごとある」と評したものです。
  夏目もこの朴直さが
  気に入ったとみえて、時々冗談口をきいては私たちを笑わせておりました。

 このテルさん、大いに熊本の印象を良くするために力を尽くしてくれたようだ。
先に触れた、「熊本の猫」はこのテルの姉が持ち込んだようだが、こちらはなかなかの自然児であって、人様の食事のおかずを持ち逃げ
するなど、したい放題の猫であったらしい。

案外そのイメージが漱石先生をして「吾輩は猫である」の執筆へと心を動かしたのではないか、と私は一人そう感じている。如何・・・

 

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■細川斎護世子・慶前、江戸参府(7-了)

2024-01-23 07:07:37 | 史料

■八月十五日
昨夜ゟ風騒敷有之、今朝弥以小止不致、海波撲岸、聲如雷霆、噴雪
四五丈、平生所未見也、小田原より大磯當り迄ハ同し、小陶綾ノ浦
二て波打渚一様に回りたるか波のよするするを見んとて、加々山、
橋谷等渚ニおり立て潮を避て四五町を避て東二行ぬ、近比の壮観と覚ゆ
る、今日早ク大磯御着、但シ来ル十八日可被為遊
御着府との御事ニ付、御道押御緩め也
一、今日強風ニ而海濤荒候故、馬乳川阻候由、其上 御風氣御痰氣
  被為起候由ニ而、明日之 御發駕御延引被仰出候

■八月十六日 強風如昨
〇入江傳右衛門江戸江早ノ御使ニ被参候二付、手前差駕用ニ立候事、
 今日當宿御滞座
一、少御不快ニ被為在候趣ニ付、橋谷・片岡同道、御本陣江罷出奉
 伺、當番辛川方江奉伺候處、今朝ハ御宜敷被為在候由被申聞候、
 尤右ハ十七日之事

■八月十七日
伺後、国友館江罷越、久保等圍碁 〇今日迄も強風ニ付海邊江出見
物仕候處、當驛左右相模沖一大湾白浪重々、榎嶋ノ浪ハ遥ニ白ク峙
チ見事ナル事也

■八月十八日
御發駕被 仰出、程ヶ谷御着
一、作や入江傳右衛門着、今日途中江尾藤健之助早ニ而参ル
〇田代雄次郎掛川縁家ゟもらい候とて慊堂景宋本爾雅ヲ見スル、立
 派ノ刻也、轎中本文一覧
〇我讀爾雅得三語、日篷篠口柔也、戚施面柔也、夸眦體柔也
此夜程谷御止宿、明日河崎御昼ニ而可被為遊 御着府旨ニ候

■八月十九日
御發駕ニ相成際、堀内弾右衛門早之御使者、今日

御着之儀公邊御届御手数不被為済候間、河崎御宿館ニ而明日
御着可被為遊との御事ニ候、依之河崎御留宿
一、江戸御出入之町人共参ル 
〇遠山換御使ニ而向家ニ館ス、来
 話、正月十四日之災委細承聞いたし候事 〇有室而後知事親之
 難、仕宦而後知朋友之交之難 〇米卿臨別日、直截之失解之亦
 易、迂回之失反之甚難、當服膚而不失

■八月廿日
御發駕五ツ半時被 仰出、橋谷御用残り候間見合、御跡ニ河崎ヲ
立、大森 御小立ニ扣へ、御跡ゟ罷越、鮫州ニ而支度、八ツ過参
邸、御小屋用聞ゟ畳諸道具、調へ有之、御殿江出謁有之
一、田代錣三郎肴重持参、夜隣家小川半次郎、船津三右衛門小飲

           (了)

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