津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■意味深な歌

2023-11-30 09:22:57 | 歴史

 「木下韡村日記」(八)ー3に時習館教授・高本紫溟の歌が記されている。

(弘化二年)十一月廿一日
  高本教授、人々学校を嘆せしに
         冬枯の野邊を見つつ思ふかや  かくても春ハもゆる若草

 人々が学校・時習館のことについて嘆いているというのだが、どうやらこれは時習館内に於いて実学連の結成がみられることによるものではないかと推察される。
時習館訓導・中村恕斎の「恕斎日録」11月9日の記録を見ると、「訓導中、実学連の動きについて談合」という頭注の記事には「実学連と唱、坪井・京町諸生党を催、色々御教化之筋ニ障り可申哉之模様ニ付、教授内意いたし、惣教衆申出ニ相成可申との談合也、(以下略)」とある。
実学派の家老・米田監物の動きに対して、11月24日に至り訓導中より教授の近藤英助をたのみ、「監物殿存念を伏(ママ)蔵なく被申聞度」申し入れ、近藤はその月の晦日に談合するとしているが、晦日周辺にこれに応じる記事はない。

 高本(元)教授のこの歌は、そんな状況を意味深に歌っている。
時習館における米田監物や横井小楠らの実学派勢力の伸長を「冬枯の野邊」として、その状況を憂いながら、「それでもまた若い新しい塾生が勉学に励むことだろう」との期待が見て取れる。
なにげなく記されたような韡村の日記の記述だが、新たな時代の息吹が見て取れる。


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■田螺の不平

2023-11-30 07:08:20 | 俳句

 現在のMに引っ越した後、メダカが7~8匹死んでしまい、水槽の中は3匹ほどの誠にさみしい状態になったが、購入するにも季節的にはあまりよくないと思って来春を待っている。
二個入っていた田螺も死んでしまい、近頃その水槽がコケに覆われ始めた。
田螺をペットショップで求めようとすると、6~7mmくらいの小さなものでこれでは掃除もままならない。
以前は15mmほどのものを入れていたが、掃除能力は大変なもので壁はいつもピカピカ状態にコケを食い尽くしてくれた。
田螺くらい近所の水路で見かけないものかと思うが、これがなかなか見つからない。
以前はピンク色のジャンボ田螺の卵があちらこちらで見られたが、相当丹念な駆逐作業が行われたと見えてあまり見かけなくなった。
ジャンボ田螺ならばメダカの水槽など朝飯前で掃除してくれそうに思えるが。

 ぶつぶつと大なる田螺の不平かな という漱石先生の句があるが、これは熊本滞在中のものらしい。
どこで田螺に遭遇されたのか、先生がおいでだった時期は、本当にあちこちの水路で生息していたろう。
私が若いころには、飲み屋のおつまみに醤油で煮込んだ田螺がよく顔を出したものだ。
コリコリしてなかなか美味いものだったが、もうずいぶんお目にかからない。
田螺の不平とは何だったのか、まだ解説を承ったことがない。

 わがMの下を流れる健軍川は、100メートルほど上流に堰があり天気が続くと下流部は水無川になる。
つまり田螺など住める環境にない。少し上流部で探せばいるのではないかと散歩のコースを変えて発見にこれ努めようと思っている。

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■一日三文の寄付による四天王寺修復

2023-11-29 14:20:58 | 歴史

                  中心伽藍ウイキペディアより引用

「木下韡村日記(八)-3」を読んでいたら、「寛政十二(1800)庚申年摂州天王寺御修復ニ付、日本国之諸宗江被仰付候」という文章が目に入った。
これは「四天王寺」の事だと思われるが、日本中の諸宗派を網羅して寄付を申し付け修復が行われたことを示している。「一寺、一日銭三文宛十七年之間」とあり、対象のお寺は463,750ヶ寺に上るとされるから、17年後の総額は 567,630両余となっている。3~400億円くらいの金額になるのではないか。
資料を読むと文化10年(1815)の再興とされるから、資金集めが申し渡されてから15年経過するころ完成している。
一日銭三文でもこれだけのお寺の数と17年という長期にわたると、こういうとんでもない金額になる。
全国のお寺の総抱えによって再建された四天王寺、どういうお寺??と勉強不足の私はあわてて四天王寺のサイトを開いている。


                 

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■年末や首の回らぬことばかり

2023-11-29 07:00:04 | 徒然

 年末も近くなり、小遣いに不自由していることもありますが、首が回らなくなりました。シャツのそでを通すにも往生しています。
いわゆるストレート首だと思われ、首が持ち上がりません。これに肩痛が重なって大重症状態です。
ある資料の作成の依頼を受けて、連日タイピング三昧で過ごしていたせいでしょう。
今日は一日タイピングは控えて、首回し運動に努めなければなりません。
椅子に座りっぱなしで、エコノミークラス症候群にならないようにと、こちらも大いに気になります。
今日は図書館に出かける予定にしていましたが、こちらも日延べした方がよさそうだと思ったりしています。
80を過ぎてから、あちこちにガタが生じ、わびしさを感じる今日この頃です。


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■慶長五年十一月廿八日・忠興書状 

2023-11-28 07:29:59 | 花押

                 (大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)

    此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上

    為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
    令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
    猶五助可申候 恐々謹言
                           越
     (慶長五年)十一月廿八日           忠(花押)

             内記殿
                御返報

 新旧歴の違いはあれど423年前の今日、忠興が豊前国(一部豊後領)を拝領し、その旨を證人として江戸にいる内記(忠利)に伝える書状である。
来春は(豊前)へ呼上ると言っているが、この望みは暫くかなわなかった。
文書の文頭には「此文肥前殿御母儀へ可被届候」とあるが、肥前殿御母儀とは加賀の前田利長の母・芳春院(まつ)のことである。
芳春院は忠興の嫡男・忠隆にとっては義母(室千世姫の生母)に当たり、共に江戸證人の身(この年の6月江戸に入った)であり、加賀藩の記録によると城内の證人屋敷に留め置かれたとされるから、内記も同様の待遇であったのだろう。
親しい交流もあったのだろうか。
忠興が忠隆に対して勘当を言い渡すのがいつであったのか、詳しい日取りが判らないが、この書状からするとまだその時期には至っていないように思える。
発せられたのは伏見あたりだろうか。この後細川家一統は希望に燃えて山陰路を進み豊前入りすることになる。
西暦換算すると2月1日だというから深い雪であったと伝えられる。
                                                         

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■一年前のブログから

2023-11-27 10:04:38 | 史料

 ちょうど一年前に掲載した「下津家」「(織田一族)津田家」「松山家」「八木家」の系図である。
現在、「肥後墳墓録」をまとめにかかったが、写真や系図の行方が知れない中、Gooブログではこのように一年前の記事を振り返らせてくれるから大いに助かる。偶然に感謝・・・
先祖附と読み合わせながらまとめ上げていきたい。

 

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■円乗坊宗円というひと

2023-11-27 09:04:31 | 人物

                

 昨晩本の整理をしているさなか藤井学著「本能寺と信長」が目に留まり、表紙を開いたところ、一枚のコピーが挟まっていた。
2011年の5月21日ころのヤフーオークションに出品されたもののコピーである。
署名に宗旦とありあて名は■■法印様とある。書き出しには「円乗坊迄尊意・・・」とあり、なにやら拝領物に対する礼状らしい。
古文書の常で日時がはっきりしないが宗旦とは千家の三代目の宗旦であろうし、円乗坊とは利休の女婿の円乗坊であろう。
なぜこのコピーを大事にしていたのかというと(もっともこんなところにあるとは思いもよらなかったが)、円乗坊という人物は茶道肥後古流の遠祖だといわれるが故である。
そして、なぜこの本に挟まっていたかというと、この本の中に、「円乗坊宗円」「円乗坊宗円と天王寺屋宗及」「円乗坊宗円の懐具合」「円乗坊宗円と熊本古流」「円乗坊宗円と利休」など「円乗坊」について約32頁にわたり貴重な論考が記されているいることによる。
円乗坊という人物は茶道界においても、この人物の名前をご存じの方はあまりないのではないか、熊本の茶道肥後古流を学ぶ人はご承知であろうが・・・
「本能寺と信長」というタイトルのこの本の中に、なぜこんな32頁にもわたるスペースを使って円乗坊が語られるのか、改めて精読し始めたところである。

 利休のお点前は、三千家に於いては代々の宗匠の好みも加わり純粋な利休流の姿は、熊本の肥後古流にのみその形を変えずに継承されていると言われる。
他事ながら、肥後古流がまた見直されることを大いに願っている。

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■先祖附の解読作業(2)平野家一族と九郎右衛門二代

2023-11-26 06:52:43 | 人物

 細川家中に五家を占める平野家は、北条家の最期の得宗・次郎時行を祖とする一族である。
なぜこれだけの家が細川家に仕えたのか?、これは「大炊介長治」が清原家から養子に入ったことが大きい。
長治は清原家を通じて細川藤孝とは従兄弟の関係である。
又、長治の三男(?)賤ケ岳七本槍の平野長泰からの強い押しがあった。
今般少々故あって、九郎右衛門長之と長是の先祖附の解読を行った。系図を再度確かめながら、ご紹介する。

                                                        +--仙右衛門
                                |
                                +--弥五右衛門
                                |              細川家家臣・御擬作
                +---長時---源太左衛門---+--茂兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→五郎家
                |
                | 甚左衛門 九郎右衛門   九郎右衛門              細川家家臣・2,000石
                +---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→九郎太郎家
                |             | 庄大夫              細川家家臣・200石
                |             +--長直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→七角家
       万久入道  大炊頭(介)   | 賤ヶ岳七本槍
           賢長===長治---+---長泰------長勝・・・・・・・・・・・・・・・・・→交代寄合衆・明治に入り田原本藩
                |
                +---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本
                |
                | 弥次右衛門  茂左衛門   知行召上               細川家家臣・20人扶持
                +---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→弥平家
                      |
                      +--弥平太 島原の乱討死
                      | 元右衛門                      細川家家臣・300石
                      +--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家                                       
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
     |    |
     |    +--長治 平野家養子
     |
     +----女
         ‖-------細川藤孝-------忠興-------忠利
     三渕晴員

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                    
         一先祖鎌倉北条家相模次郎時行子

          平太郎時満尾張国海東郡螉江邑致
          居住候時満曽孫平野主水宗長永享
          年中海東郡津嶋ニ移住慶長年中迄
          六七代相模仕氏族十六家何連茂津嶋ニ居住
          仕候 津嶋ニ而平野十六家と申傳居住之地を平野
          黨と今以申習シ候 此所ニ先祖建立仕候神社并

          寺抔も于今有之候 天正年中ゟ平野大炊助と
          申者織田信長公太閤秀吉公江致勤仕慶長
          十一年四月大阪ニ而病死仕候 右大炊助者平野
          右京■入道万休と申者之養子二而実者船橋
          二位業賢次男ニ而御座候 右業賢妹者三渕
          伊賀守様之御内室ニ而御座候 此御由緒御座候故か
          平野大炊助子孫 御家ニ被 召出候者共多ク御座候
         一平野甚左衛門儀右大炊助次男ニ而御座候 親跡相続仕
          秀吉公秀頼公致勤仕候 先祖以来尾刕津嶋ニ

          居住仕候処所替ニ而摂州莬原郡筒井村知行仕候
          此所三千石余之由 大坂籠城仕元和元年五月七日
          天王寺表ニ而討死仕候
         一初代平野九郎右衛門儀父甚左衛門一所大阪籠城仕
          落城之後洛外ニ居住仕候 大坂古参之者ハ被成
          御免候間何方江成共届次第奉公可仕之旨元和三年
          六月廿一日松倉伊賀守様以御奉書被 仰渡候
          此御奉書所持仕候 元和五年十月
          三斎様豊前江被 召寄御知行五百石被為拝領候

          組外ニ而被差置候ニ付何之御奉公茂不仕由御相伴ニ
          折々罷出御鷹野之御供被 仰付候由申傳候
          妙解院様御代元和八年八月御加増三百
          五拾石被為拝領御小姓頭被仰付其後大御目附
          を茂被 仰付候 寛永元年八月御加増百五拾石
          被為拝領候 此節平野遠江守方ゟ御禮申上候ニ付
          御自筆之御返書被成下候 九郎右衛門儀末々悪敷
          被 仰付間敷と之御文面ニ御座候故右之 御書
          遠江守ゟ遣置候を今以所持申候 有馬御陳之節

          真源院様江御附被遊御供仕罷越御陳中始終
          御側ニ相詰候様被 仰付相詰申候 御帰陳已後
          於有馬武功御吟味奉行筑紫大膳平野九郎右衛門
          寺尾左助寺本八左衛門永良長兵衛奥田権左衛門
          右六人一同ニ被 仰付相勤申候
          真源院様 妙應院様御代迄御小姓頭并
          大御目附相勤申候処年罷寄候付御役御断申上候処
          慶安四年十一月廿七日願之通御役被遊
          御免候 万治三年三月病死仕候

          二代
         一高祖父平野九郎右衛門右九郎右衛門三男ニ而御座候
          真源院様御代寛永十八年七月十四歳ニ而
          御児小姓ニ被 召出 同二十年三月三日勤方形儀能
          有之人之手本ニ茂相成候と被 思召上候 依之為
          御褒美新知弐百石被為拝領之旨被 仰渡候
          右之御書出今以所持仕候
          妙應院様御代迄御近習御奉公相勤申候処
          病気ニ付御断申上候処 慶安四年十月御近習
          被遊 御免御番方ニ被 召加候 万治二年十二月

          御小姓組被 召加候 兄両人有之候処親相勤候内
          両人共病死仕候故相続奉願置候処万治三年五月
          十四日親跡目被為拝領御番方ニ被 仰付候 同年
          六月十九日靏崎江切支丹宗門之者召連ニ被差越
          同廿三日召連罷帰候 同七月十日江戸江可被召寄之旨
          被 仰付罷越江戸ニ而御供等相勤申候 翌寛文元年
          四月廿八日 御入国之御供仕罷帰候 同六月御番方
          組脇被 仰付候 此御役相勤候訳之考ニ而者無之候得共
          當分可相勤旨頭津田次左衛門申聞候由ニ御座候 同八月

          御中小姓頭被 仰付 同三年十月御小姓頭被
          仰付候 江戸御供等度々相勤申候 延寶七年
          十月御奉行役被 仰付御番頭之上座被 仰付候
          天和三年七月御番頭被 仰付相勤候処腕を痛
          申候故御役御断申上候処 貞享四年十一月被遊
          御免候 腕之痛聢無御座候付元禄二年七月奉願
          隠居被 仰付候 此節江戸平野九左衛門江
          妙應院様御自筆之御書被遣九郎左衛門儀腕を
          痛候付隠居被 仰付忰江家督被下置候御知せ被
          仰聞候 右之 御書九左衛門方ゟ遣置候を所持申候

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■先祖附の解読作業(1)槙嶋昭光

2023-11-25 07:03:16 | 人物

 槙嶋昭光

一先祖真木嶋信濃主輝元儀本名一色二而
 御座候 光源院義輝公江被召仕城州宇治
 真木嶋之城主二而罷在候

一高祖父槙嶋孫六儀後二玄蕃頭昭光与申候
 右信濃守嫡子二而義輝公御側被召仕罷在候
 其節忠節之儀有之為御褒美寝乱髪与
 申御太刀被為拝領候 至後年玄蕃頭聟
 志摩方江遣之候 右玄蕃頭儀義輝公御生害
 以後者義昭公江被召仕昭之字并桐之御紋
 被下之執権職相勤三好御退治之上信長公江
 為上使罷越候處従信長公来太郎国行之
 御刀御馬被下之候 右国行之刀于今所持
 仕居申候 義昭公真木嶋御落城之節茂
 玄蕃頭為城主罷在候 真木嶋落城以■
 義昭公御供仕中国江罷下始終御奉公仕
 届申候 秀吉公御代義昭公中国路ゟ御帰洛之節
 玄蕃頭儀御供仕罷登候処従秀吉公玄蕃頭江者
 各別為御合力現米貮千石被為拝領候 其以後
 義昭公ゟ依御願右之御合力米御知行直被下
 地方二而被為拝領之其節ゟ秀吉公江被召仕
 御奏者役被仰付秀頼公御代迄相勤申候 右
 玄蕃頭儀嫡子無御座候付一色民部大輔三男与
 養子仕真木嶋勝太後二監物与申候 秀頼公
 御側被召仕大坂御陳之節者父子之備各別
 被仰付相勤申候 大坂落城以後玄蕃頭儀
 御勘気有之候付
 三斎様并加藤左馬之助殿御両所様二而御断被仰上
 被成御赦免候 左候而玄蕃頭儀剃髪仕名与云庵与
 改右御両所様ゟ御合力米拝領京都東福寺
 寺中正覚院
江罷出候 其以後左馬之助殿正覚院江
 御出被成御国江可被召寄旨被仰聞候得共御断
 申上罷越不申候 然處
 三斎様正覚院被遊 御入豊前江可被
 召寄之旨被達 上聞候真罷下可申旨
 御直二被仰付候付罷下候処知行千石無役
 被下置候 右真木嶋監物儀者大坂落城以後
 妙解院様御肝煎与以藤堂和泉守様江被
 召出候 其節
 妙解院様和泉守様ゟ被進候御自筆之
 御状于今所持仕居申候 云庵儀義昭公江
 被召仕候時分従
 幽齋様御懇思召被下訳御座候二付
 三斎様御懇二而右之通御座候由承傳候 云庵
 儀者
 三斎様 妙解院様御代段々結構被仰付
 御両所様ゟ被為頂戴候御自筆之御書等今
 所持仕居申候

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤堂高虎家臣 【槇島監物】
(真木嶋勝太、監物)。元、豊臣秀頼臣。一色民部大夫昭重の三男で真木嶋(槇島)玄蕃頭昭光入道云庵の養子。真木嶋氏は
清和源氏桃井流、本姓は一色。養父の昭光は足利義輝に仕え、その生害後は義昭に仕えた。天正元年七月の義昭挙兵の際は
真木嶋城主。義昭の降伏、追放に伴い中国にも随行。その後、義昭は豊臣秀吉より赦免され帰京。昭光も従って京都に戻り、
後、秀吉に仕えて二千石を給され奏者番を勤める。秀吉死後は秀頼に仕えて大坂両陣には速水甲斐守の麾下に属すという。
大坂落城後脱出し細川忠興、加藤嘉明らの嘆願により赦免された。監物は元和五年、細川忠利の肝煎により召し抱えられ
八百石を給される。

 

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■新設WEBサイトおよびリニューアルサイトのご案内

2023-11-24 17:08:04 | 徒然

  ■熊本城顕彰会HP

  ■家系研究協議会

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■先祖附の解読作業三件(1)

2023-11-24 15:26:09 | 歴史

 過日図書館で取得した三軒のお宅の先祖附の解読作業に入った。

                  1、槙嶋真微家   1、平野九郎右衛門家   1、志方半兵衛家

まずは槙嶋家、全23頁を読了しタイピングも完了。養子の関係が多く侍帳に反映させる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■ 槙嶋真徴  (南東38-3)
     信濃守輝光(一色氏) 宇治槙嶋城主
    1、孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵
) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主
        
天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う  
        玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
        有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
        剃髪の名云庵と云                         (綿考輯録・巻二)


        慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
        玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)              (綿孝輯録・巻五)


       
 「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
        云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
        儀にて候間、被仰出御尤奉存候事      (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)


            千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)

    2、半之允・宣重(掃部) 実、昭光嫡男監物(藤堂和泉守臣)の二男
        
原城にて武功被賞
           寛永十五年三月朔日、於川尻嶋又左衛門跡御番頭被仰付 (綿考輯録・巻五十)

            (1)人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附) 
            (2)有吉内膳組・御番頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
            (3)御番頭 大九郎組 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、半之允・昭清 実・昭光嫡男監物(藤堂和泉守臣)の末子
    4、半之允(養子 実・田中又助次男 七九郎)着座 屋敷・宮内
    5、半之允(養子)
    6、権之允   在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p249)
             槙嶋権之允、在宅三ヶ年願之通当六月及達候処、所柄勝手不相成候付、
             引出之儀其年十月ニ至り内意有之勝手次第との返答 (明和四年十月)
    7、太次郎(権之允育の叔父)  (1)御側鉄炮頭 三百石  (2)千石
                
享和二年三月(三拾挺頭)~享和二年十一月 鉄炮五十挺頭
                享和二年十一月~文化十一年六月 用人

    8、冨次(養子・半兵衛) 御鉄炮三拾挺副頭 平野組 三百石
    9、五八郎
    10、賀太郎(五八郎弟)
    11、豊八郎(養子・半之允)  大組付三百石
    12、冨次(半兵衛・真徴)  三百石

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■中川寿林のお墓

2023-11-24 07:11:11 | 熊本

                 

 史談会の若い友人・中村祐樹君が昨日のお昼頃、いささか興奮した声で電話をしてきた。
「どこに居ると思いますか?中川寿林のお墓を見つけました」
もう10年ほど前、師匠・高田Drと中村君と三人で寿林のお墓を探し回ったことがある。
ただし、当方は一度も行ったことがない処だから、ただただ高田Drの記憶に頼るほかはない。
つまりその時は見つからず、Drもお亡くなりになり、どなたかのご教示にすがるほかなかった。
処がその時無念な思いをした中村君がついに発見をしてくれた。お連れの I 様のお陰かもしれない。
晩に至り写真を送ってくれた。それがこの写真、昨日は熊本は良い天気だったが、写真も小春日和といった感じである。感謝。

北野隆熊本大学名誉教授の論考から
中川寿林は清正の従兄弟で 、侍筆頭格であった人物であり、清正期には 、下川又左衛門元宣の政務を補佐し、元宣と共に熊本城留守居役であった 。忠 広が清正の遺領を相続した直後の慶長17年 6月 27 日、幕府から肥後藩に九ヶ条の条令が出された後に中川寿林は重臣的役職から外れている 。

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■拓本紀行・熊本の文学碑

2023-11-23 18:22:11 | 書籍・読書

                  

 図書館に出かけた折、目に飛び込んできたこの本を借りてきた。
熊本日日新聞社が平成20年に発行したものだが、今まで全く気付かなかった。
678頁に及ぶこの本は、編著者の尚絅大学文学部教授の能 陽石(本名・彰)教授が、奥様の協力を得て県下の538基の拓本を5年がかりで採られ、各人の歌や俳句また文学碑などの拓本・原文・状況写真や人物紹介などと至れり尽くせりで紹介されている。
能先生はこの本の出版を待たずにお亡くなりになっているが、心残りでおありだったろう。
一頁ずつページをめくりながら、大変な作業であったろうとただただ関心するのみである。
「あそこにこんな句碑がたっているのか」と、無知を恥じ入るのみである。
図書館の帰り道、江津湖の遊歩道から少し入ったところにある中村汀女の句碑「とどまれば あたりにふゆる蜻蛉かな」を、自転車を止めて眺めていたらまさしく蜻蛉が数匹舞っていた。
帰って確認するとp91にこの句が紹介してあり、その他数点の句碑が紹介されていた。
今度出かけた際に確認してみようと、いくつかの句碑の所在地をメモしたところである。

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■藤村紫郎と黒瀬一郎助

2023-11-23 07:43:52 | 人物

 先に禅定寺を訪れた際、藤村紫朗男爵や剣客雲林林(うじい)弥四郎のお墓が無くなっているのに気付いた。
禅定寺寺内には都市計画道路が走っていたが、いわゆる「歴史墓」が多く存在するため、歴史遺産保存を目的とし熊本県に計画の一部変更を訴え続けた結果、平成24年蒲島知事の大英断により、一部変更が認められメディアは「勝利の寺」と報じた。
その工事が現在行われており完成もまじかと思われるが、計画道路に上記二件のお墓がかかり姿を消している。
お墓は取り壊されたが、それぞれお骨上げをして別の場所に移されたという。

 私は建築設計を生業にしてきたから、この藤村紫朗という人物については「藤村式建築」という疑洋風建築を山梨県内に100件以上ともいわれる建物を建築した人物として認識していた。
幼いころから禅定寺の「藤村男爵の墓」と承知していたこのお墓が、「土木県令藤村紫朗」のお墓と知ったのは後年のことである。
そしてその実兄・黒瀬一郎助こそが、江戸留守居役吉田吉之助や横井小楠らが勤王党の暴漢におそわれ、吉田を殺害した人物だと知り、かたき討ちされ、その首級が「藤村男爵の墓」の隣に埋葬されていたことを知った。
いわゆる横井小楠の「士道忘却事件」の巻き添えである。

 熊本大地震で禅定寺寺内の歴史墓は甚大な被害を受け、倒壊したままの状態のものが数多くある。
ご子孫や関係者が判らないものが多くあり、これらの復旧は長い時間を要するものと思われる。


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■ひどい肩痛をはじめ

2023-11-22 08:39:16 | 徒然

 コロナワクチンの注射以来の上腕部から肩にかけての痛みがひどく、肩こりもでて誠に不愉快な数日を過ごしています。
内科の方は近々定期の診察日が訪れますが、整形外科に行くべきかと考え始めました。
手先にもしびれが来るなど、タイピングにも支障をきたさないかと気になります。
今日は天気も良く、自転車で図書館に出かけようと思いますが、左手に負担をかけないようにしなければなりません。
片道約3キロ、歩いて行こうかとも考え思案中です。
加えて最近、右目が少々かすんできて眼科に行くべきか、メガネやで検査すべきかと悩んでいます。
母方の祖母が最晩年白内障で失明しましたから、こちらも大いに気になります。
齢を重ねるにしたがって体にこんなに支障が出るとは思いもよらなかったことで、一層健康に注意しなければと思いを深くしています。

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