津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■只今猛烈タイピング中

2023-09-30 21:45:26 | 花押

 ひょんなことで、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」についてお話をすることになった。
在る方の古文書を読んで差上げたら、大先生呼ばわりをされて迷惑この上もないが、
男女取交っての7人ばかりの小さな集まりだそうだがが、準備はちゃんとしておかなければならない。
世話人の方のお話によると、「阿部一族は知っとるばってん、興津弥五右衛門てなしらんばい」と言う人が多いその話をしてほしいとのことである。
郷土の歴史には興味がお有りという事だから、「史実との矛盾‐鴎外にミスリードされた小説 興津弥五右衛門の遺書」と題してレジュメを作ろうかと思ったが、小難しい話はやめることにした。
小説の内容について簡単に解説しようかと考え、小説の全文をお渡ししようと思い至った。

青空文庫に小説が紹介されているから、これをコピーしようかと思ったが、著作権があることだからそれはまずい。
ならば暇に任せて、全文タイピングしようと思い立った。私の手元に在るその小説は全部で22頁、今日は5頁タイピングしたから、あと4日もあれば済むだろう。
皆さんにこの小説のコピーA4判数頁をお渡しして、会が終了した後にでも目を通していただけるようにとの思いである。
ただし、中身は史実ではなく「小説」ですよと、強調する処は強調して・・・

「酒はでまっせん、みんなが持ち寄った甘かもんば食いながら拝聴します・・謝礼金もありまっせんバッテン、宜しくお願いします」という、面白そうな会である。

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■小倉戦争と熊本藩(4)横井小楠と竹崎律次郎

2023-09-30 08:07:26 | 歴史

 私が今迄読んできた横井小楠・竹崎律次郎に関する書物では知られなかった、小倉戦争に関りを持っていたことを今回確認できたことは大いなる収穫であった。
何せ熊本藩では士卒に加え兵站に関わる人間を加えると5,800人が出陣している。
赤坂の戦いで熊本勢は長州勢に完勝した。言うならば高杉晋作に苦杯を飲ませたのである。
40数名の長州軍の死者は荼毘に付されたまま放置されていたという。これの埋葬を指示したのが横井小楠だとされる。現在も長州戦没者の慰霊碑が立ち並んでいる。
明治政府の樹立後、長州の木戸孝允が遺骨を長州に持ち帰りたいと申し出たら、それでは熊本の面目が立たないとこれを拒否したと伝聞されている。
しかし乍ら将軍家茂の死報を受けて、幕府の総監の小笠原壱岐守が戦場を離脱すると、助勢の九州各藩は帰国することになる。一人小笠原一族が長州と闘わざるを得なくなった。
押され気味の戦況の中、小笠原家は幼い世子・豊千代丸と一族を熊本に向かって非難を開始させる中、小倉城を自焼させている。
これは自ら火を放ち、敵に城を乗っ取られるよりも面目が立とうという、熊本藩の竹崎律次郎の進言を受けたものだという。
律次郎は「肥後の維新」にあたり、熊本城の廃棄を進言しこれが採用されている。
権威の象徴であった御城のありようをよく理解していたことになる。

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■明けの明星

2023-09-30 06:38:59 | 徒然

                                怪しからぬ 明星寝間を覗き込み  津々

 今朝ほどは4時半に目が覚めたが、東の空の高い処から、明けの明星にすっかり覗き込まれていた。
陽が上がるまでは時間があるからまたベッドにごろりとしたら、すっかり眠り込んでしまった。
数日前から「そろそろ涼しくなるかな」と奥方と話していたら、「運動会の頃まではまだまだ暑いからね」といわれたが、明日から10月と言う今日はさすがに涼しく秋の虫も賑やかな朝となった。
そして昨晩の月と同様、明けの明星もまた雲の中である。

                                 
           証拠写真は手振れ状態ですが、右上の点が明けの明星です。   

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■月齢15日になった瞬間

2023-09-29 19:18:42 | 花押

                             
          

 今日は中秋の名月、今年は18:59分月齢15日となりましたが、その時間をベランダで待ち構えました。
雲もなく見事なお月様を撮影、TVで札幌の満月が放映されていましたが、札幌は1分早かったようですね。
兔の餅つきは熊本も札幌も変りはありません。明日も良い天気でしょう。
どこでやっているのか、北の方向に花火が遠望できます。

                遠花火 月も高見と登りけり 津々

その後は雲が出てきて月は出たり入ったりです。

                名月や 群雲払う術もなく  津々

                     

             

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■やっぱり紙資料

2023-09-29 11:23:38 | 徒然

                
   

 いろんな論考はやはり紙資料にしてしっかり読み込もうと思うから、勢いこのような有様となり、紙資料は増えるばかりである。
中には、勝手コピーしたものが見つからず、多分その内に数点は何処からか顔を出すのは間違いなさそうだ。
バラバラに積み上げて置いたが、そろそろファイルしなければと思いたった。
又、PCに保存しているPDF原本をUSBに移し替えも完了させて、少々重くなってお疲れ気味のPCの茶道環境を改善もしたい。
最近は本の購入は控えているが、図書館でのコピー等、紙資料は相変わらず増え続けている。

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■9月の末は・・それぞれの歳月

2023-09-29 06:52:04 | 徒然

 九月の末は何となく気持ちが揺れる。24日は30数年起居を共にしていた母方の祖母の命日である。
その翌々日26日葬式の日に長女が生まれた。祖母の名前の一文字をもらって命名した。51年がたった。
一昨日はその長女が、婚家で不幸があっての四十九日のお返しを持ってきてくれた。
「今日はお祖母ちゃんの命日だよね」という。母の命日が27日である。もう21年になる。
そして今日29日は高祖父・上田久兵衛が非業の死を遂げた日である。私は勝手に「萩花忌」と呼んでいるのだが・・・
   秋風の 便りにきけば古里の 萩が花妻今さかりなり

 牢の中で元結のこよりを解いて、箸の漆を嚙み砕いて墨代わりにしたという辞世の幾つかの句の中で私が一番好きな句である。
元結のこよりを解いたというから、月代も剃れず伸びた髪を束ねていたのだろう。
久兵衛の死は明治十年(1877)だから、179年の時が過ぎている。
それぞれの人たちの想い出にふけっている。
昨日は木下韡村が久兵衛に宛てた書簡三通のコピーが行方知れずになったので図書館に出かけ、写真撮影をしようと思って出かけた。
帰りがけ、八丁馬場に面した高級住宅地の一軒の御宅の植え込みに、白・紅の沢山の萩の花が植えられていたが、まさか花泥棒もなるまいとしばらく立ち止まって高祖父の為に合掌をささげた。(証拠写真なし?)

図書館では豊前小笠原藩の「落人記録」5件も併せて撮影、これは読み下しをして後日ご紹介したい。

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■今はもう秋・・

2023-09-28 10:25:07 | 徒然

 私が住む尾ノ上という町は、その一部が東西にのびる舌状の丘陵地の西端あたりに位置する。
その先端を水無川(健軍川)が流れて居り、ASO4と呼ばれる岩層の先端が川の中に見て取れる。

戦時中の事だと思われるが、健軍飛行場(現・日赤病院あたり)から、三菱の飛行機工場(現・自衛隊健軍駐屯地)をつなぐために広い道路が通され10m程の丘の高まりは堀切となった。
私がお世話になっている病院は、その堀切りに面してある。
その病院に行くのに、今迄はその舌状のすそ野を大きく迂回して通っていたが、今回ふとショートカットで丘を越えてみようと思い、丘陵地の住宅街を抜けていくことにした。
道路を挟むと南は自衛隊となる丘陵地の南端部には、今24時間営業の4,000㎡をこえる面積を持つスーパーが年末創業を目指して突貫工事中である。
そんな現場を横目にしながら歩いていたら、奥行き14~5mもありそうな駐車場があった。
その14~5mにずらりとザクロの木が植えられており、夫々がたわわに実を付けていた。下には1・2個実が落ちている。
西東三鬼の有名な句が浮かんだ。
        露人ワシコフ叫びて柘榴を打ち落す  三鬼
隣人だというロシア人が、棒か何かで声を上げてザクロを落とそうとしたのだろうが、そんな何でもない状景が名句となった。
私はハガキ絵にでもしたいなとふと思った。
        ハガキ絵に一枝ほしき柘榴かな  津々
「今はもう秋」という歌の文句が口をついた。

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■歴史は悲しい・長州奇兵隊の末路

2023-09-28 07:29:26 | 歴史

 非業の死を遂げた安倍晋太郎氏の「晋」の字は、高杉晋作の一字をもらったと公言しておられる。
父・晋三氏は如何だったのだろう。
菅直人氏も晋作の大フアンで、自らの内閣を作った時には「奇兵隊内閣」とか言っていた。
2011年8月のWEB「菅首相は高杉晋作の神髄を本当に理解しているのか」で、田中秀征氏は菅氏の事を「高杉に敵対した赤根武人」だと評されている。
菅氏にしろ安倍氏にしろ、悲惨な「奇兵隊」の末路を当然ご存知であろうが、どう見て居られたのだろうか。
暴力的殺戮を、歴史の必然ととらえて居られたのかお聞きしてみたいものだ。

高杉は小倉戦争後、維新の風を浴びることなく死去したが、自らが創設した奇兵隊の末路の悲惨さを知らずに済んだことは幸運だったかもしれない。
多くの戦地で活躍した晋作の申し子たちは、維新の時代になると多くの人たちが見捨てられた。
そして、農地を捨てて参加した人々は還る土地もなく、結果徒党を組み反乱を起こすが、いつの時代にも末端の見捨てられた人々が泥沼に突き進んでいく。
そして、明治の元勲となった木戸孝允が派遣した藩兵などにより多くの人が倒れ、又捉えられて処刑された。
奇兵隊のかっての仲間、伊藤博文・山形狂介(有朋)・井上馨などは人身位を極めた。
自らの出自を隠すために卒族の身分を廃して士族となしたが、華族様になった。
歴史は悲惨で悲しい。

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■小倉戦争と熊本藩(2)7月23日戦

2023-09-27 06:55:44 | 歴史

 7月23日長州軍は陸路から小倉城を目指した。戦いは13時間に及んだというが、城下へ向かうためには細川軍が陣取る赤坂の地を避けることは出来ない。延命寺山から長州軍を眼下にして細川軍は優勢に戦いを進め、長州軍は死者43、手負約100名に達して引き下がった。(長州側記録)
細川軍も使者7、負傷者12~3を出している。(鹿子木太郎記録)
当日の状況を知る手掛かりが、熊本藩士荘村助右衛門坂本龍馬から聞いたという話が残されている。

  長岡監物家臣右田右傳氏所蔵
     丙寅七月廿七日豊前ニ而肥後勢長州勢戦之末長人ゟ之話傳聞之趣
 坂下良馬(坂本龍馬)此節於馬関昨年長州之物主共肥後勢に向ひ戦争に及ひ候輩江面会致し其場之始精々承届候次第坂下ゟ話聞候 大意左に認め入
 貴覧候
   一、此日之戦は早朝六ツ半過比ゟ肥後勢に向ひ放發を始め四半時比迄は長州手物主を初め戦争の輩いずれも気分合格別平生に相替候儀も覺不
     申大小銃之越し後れ弾着之模様等物主共子細に是を見届矢倉之高低照準之模様等無油断指揮致し長州手之死傷も各別無之候處四ッ半過比
     山田鵬助烈戦死を遂候以後長州手死亡等次第に多く成行 八ッ半前後に及候時分は将士之気分合はいづれも大に相変神心忙忽として恰も
     雲霧之中に立候心地仕 物主初め兵卒に至迄耳は砲声為に聾し言語指令も一切相聞不申唯銃卒照準之越し後れ手様を以指令致し候に至候
     其後は弾着之模様も見定め不申遂には銃卒唯々自儘に任せ候と云
   一、藝石之ニ道小倉追々之取合も候得共戦士之気分合肥後手に向ひ候様成儀は是迄一度も相覺不申候と云
   一、武蔵山に向ひ候長州勢野戦大砲四門先鋒之小銃隊四十二挺ニの目三十六挺計に而肥後に向ひ打合候處 炮隊の兵士手負或は討死致し追々に
     兵士相缼終には大砲一門を以相戦候と之事
   一、先鋒に相戦進候四拾二挺之先士同断手負或は死亡等多く全軍引揚候以後点検致し候 僅八人相残候との事
   一、大谷之戦は是亦一時之急戦長州手多く此処も遂に志を不達引取申候 惣躰肥後士は殊外堪忍性之強き國堅気にして中々難侮候と云 併平野
     之戦に候はゞは我輩缼而如此敗衂には至申間敷存候也 今一度肥後手に対し平場之一戦相試申度候事なりと云
   一、藝石二州之戦争小倉追々之間合を惣括致候而も猶肥後士と戦候死亡之数は比較不致と云
   一、良馬云 貴藩於馬関之御風聞は甚だ以御規模之事なりと云
   一、藝石之戦争は殆兒戯に等敷濱田瓦解之士国難に殉候者は僅に八九人に不過候 戦中紀州勢は敵を不見候に遁走致し候 紀州之手は勿論一人
               の死亡も無之候と承り候と云 石州には安藤飛騨守罷出居候由藝州口之戦は東軍案外に死傷多く有之趣に候得共長州に於格別苦戦と申程之
     戦は一度も無之候 東軍は敵に向候は甚以壯勇に似たりと雖僅に砲声空に飛候時に及候得ば毎も能走り候 陋習有之候是亦東軍之病也と承
     り候と云
   一、坂下云、貴國小倉之御一戦は第一御隣境格別に存候也と云、僕云、小倉之役は全軍引揚之節退口之一條国内に而も侍若輩之者共紛紜之議
     論も承り候得共長州之批判貴兄御聞込之次第も如何想像仕居候處 我敞甲凋兵僅に相拒候事長防之風聞も不悪との御内咄候には其場に罷
     出候得共貴論之通に候はゞ邦家之為雀躍之至りに存候段及返答候事
   一、坂下此節會藩参政神保修理出崎僕高崎良太郎と名乗神保に面會神保云此節肥後通行彼是之風聞熊本之形勢話聞候中に云 會津固陋にして不
     開なりと雖未だ肥後之甚敷には至り不申 熊本之因循退縮且諸事之鄭重尤甚しと云 此事今日貴君之為に忠告致候と云 右新聞入御内覧申候
     小倉之戦は僕其場え不罷出且長州人ゟ坂下承り其後野生え話聞候事に候得ば事實相違之件々も可有之は勿論之事に候得共出張之将士抜群
     之功勲と奉存候 御一覧之上御火投可被下候 以上
       慶應三丁夘年二月八日               莊 村 助 右 衛 門
                                (當時長崎詰肥後藩士)

 坂本龍馬年表によると、「七日頃、肥後熊本藩士荘村助右衛門と面談」とあり、又、井上智重氏著の「異風者伝」にこの莊村が登場しているが、ここには洋装の莊村が拳銃をもって立つ写真が掲載されておりこれが慶應三年の事だという。

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■小倉戦争と熊本藩(1)

2023-09-26 06:14:30 | 花押

7月3日夜になり、長州兵が上荷船に砲を積んで、幕府軍の主力艦富士山丸に近づき砲撃するなどした。
翌朝、ひそかに門司に上陸していた長州兵が海岸と山麓にわかれて大里に進撃、海からも大里陣地を砲撃し小倉兵は赤松へ後退した。
長州兵は夕刻海峡を渡って引揚げた。小倉沖から幕府軍艦3艦が出動したが、長州の3艦が応戦した。 

 熊本藩の家老・米田監物が着陣した翌日の7月27日、長州軍は総攻撃を開始、これに対し熊本藩兵が赤坂の前方、延命寺山に砲兵陣地を築き、長崎街道を南下してくる長州軍を迎撃した。猛烈な撃ち合いになり、長州勢は死傷者を出すなど多大な被害を受けて敗走し長州へ逃げ帰った。
長州軍の死者については参陣していた横井小楠が手厚く葬った。明治に至り、木戸孝允から長州へ遺骨を引取たい旨の申し入れを受けたが、熊本藩のメンツを楯に小楠はこれを断った。
その墓所は今も赤坂の小高い丘の上に残る。奇兵隊戦死墓
熊本藩は幕府本営に援兵を要求するも、幕府兵も小倉藩兵も参戦しない為、肥後藩の主将・米田監物は撤退を決意して30日に至り帰国を始める。

まさにその日7月30日、将軍徳川家茂病没の知らせを受けると、8月1日幕府軍小倉口の総大将であった九州総督の小笠原長行(ながみち=唐津藩世子)は小倉から脱走し富士山丸で長崎へ向かった。

 熊本藩その他の諸藩勢は、国元に引き揚げ始めた。総督が脱走し、諸藩が撤退した後は、小倉藩小笠原勢だけで長州勢の侵攻を防ぐのは難しいと、小倉藩重役は小倉城を「開城」する以外の手段はないと判断し、幕府目付の二人に対し城を請取る様に懇請た。結果的には熊本藩の竹崎律次郎が提案したという「自燃」案を目付に認めさせた。
幕府の目付の「お墨付き」を得たことで、世子・小笠原豊千代丸(後の忠忱=ただのぶ)をはじめ、豊千代丸の亡父・忠幹(ただよし)の正室や息女らを、肥後国熊本藩領に避難させる準備がなされた。
五つ時過ぎ(午前8時頃)の豊千代丸ら一行の城内退去から始まった。篠崎口を出て木町を経て、秋月街道を南下した。同日夕刻、香春(かわら)岳のふもと採銅所(現田川郡香春町)に到着した。
豊千代丸らは逃避行を続け熊本藩領内牧にり、その後熊本藩の斡旋により熊本城下の宿屋に落ち着くことになる。
慶応4年3月、小倉城を失ったため藩領香春に戻った。尚、長州軍の指揮を執った高杉晋作は慶応3年4月13日に死去している。
                
その後、熊本藩が仲立ちとなり長州藩に対し止戦を申し入れるも難航し、終戦は年を越えることになる。

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■熊本弁「さるく」

2023-09-25 14:19:12 | 花押

 今朝ほど届いた熊本市の「市政だより」、そのトップ記事に「まちなかを」とある。
奥方が目ざとく見つけて「熊本弁て変ね」という。「さるく」とは「散策する」と言う意味だが、延岡出身の奥方からすると「変」なのだろう。
ウィキペディアなどを見ると、その起源について納得いく説明がある者は見受けられない。
某民放のアナウンサー氏は熊本弁を紹介しておられる中、「彷徨う(さまよう)」が変化して「さるく」が生まれたのではないでしょうか、と解説しておられるが説得力に欠けるような気がする。
私は「去る」と「来る」が合体した「去る来」だと考えているが如何だろう。
大意は変わらず、要するに「行ったり来たり」するさまで、丁寧語にすると「散策する」となるのだろう。
いきなり「」とくると、「何!!」と身構えてしまうが、まだまだ理解することが出来る熊本弁の内ではある。
「この間■■をさるいて来ました」などという会話は、まだ日常会話の中に生きている。

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■細川藩士・入江太門太家と傳十郎家の関係

2023-09-25 09:45:00 | 花押

 細川家家臣に入江姓の御宅が太門太家・傳十郎家・謙吾家・清八郎家・次郎太郎家・林九郎家・太郎八家と七家を数える。
家紋帳をみると、太門太家と傳十郎家が、同族であろうことが推察されてきた。
今般 T 氏が取得された資料をお送りいただいたが、ここの清和天皇に遡る入江家の系図があり、両家の関係が判明した。「武家家伝ー入江氏」とほぼ内容は同じである。
これによると、多門太家の初代・三之允の父は入江景秀であり、傳十郎家の初代・淡路守平内はその弟であることが判明した。傳十郎家の祖とする左近将監元秀は景秀・平内(景光)の父である。
当方の侍帳の書き込みについては、この新たな史料により錯誤が生じているが、今一度精査をして加筆及び修正を図りたいと思っている。
元秀の母親が和田惟政の姉であり、元秀の弟・秀升はその女婿であり、和田家と深く繋がる御宅であることが判る。

       

 入江太門太 (東南4-21) 百五十石
   ・入江左近将監元秀

   ・入江晋門景秀
    1、三之允・正勝   
    2、嘉左衛門
    3、権之允

■ 入江傳十郎 【丹後以来】 (東南4-20)  三百石
     左近将監元秀
    1、淡路守(初・平内 ) 
    2、徳左衛門(初・平内・左近・勘三郎)

    3、徳左衛門
         

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■祖父の足跡

2023-09-24 13:15:26 | memo

 我が家の史料を入れている(と言うより、放り込んでいる)箱を久しぶりに明けてみた。
この中に上記「津田楳渓先生門下生同窓會」の史料と思われるコピーが二枚出てきて、祖父・義雄の記事が顔を出した。
「会員現況」という頁があり、二番目に祖父の名前があった。どうやら昭和11年のものらしい。祖父は66歳と有る。

  拝呈仕候時下御清康奉賀候今回の御計画至極結構と存し會費金一圓と別紙御送附候間御受領成度此段
  貴意を得候也敬具
     六月二十六日                   ■■■■

          現在調
  一、年齢 六十六歳
  一、原籍 熊本縣飽託郡城山村下代六五四
    現在 東京小石川區高田老松町七六
  一、家族 老母八十四歳あり、夫婦健在、外に豊島師範三年の甥と、日本女子商業二年の姪あり、家族は
       五人なり、末弟夫婦千年病没し、遺子四人を引受け姉二人は他に嫁せしめたるも、今尚ほ二人
       を世話しつゝあり。
       長男は早大理工科を卒業し、目下臺湾總督府營務課に勤務一女あり、
       長女は東京人早大工學士に嫁し、大阪にあり、三人の女兒あり、
       次女は同県人水産學校教諭に嫁し、岩手縣宮古に在り。二男一女あり、
       末女は本年二月同縣人名古屋高商出の會社員に嫁し、兵庫縣芦屋に在り、以上にして孫は七人
       なり、
       去る大正四年細川家に奉職して現在に及ぶ、碁も打てば将棋も指す、されど下手なり、スキー
       は十年以上も随行の光榮に浴し、大に勉強したるも、是も極めて拙なり、夏は毎年葉山の海水
       に随行し、老骨ながら今も泳ぎつゝあり、詩はやめた歌もやらぬ、高潮の誌友として時々俳句
       をやる、此れ下手の横好きの方なり、投網は大好きなれど暇なくして行けぬ、希望感想なきに
       非ざせど、他日に譲る、

 この一文に接して、判ったこともあり有難い記事であった。
ちなみに、津田楳渓(静一)先生の門に在ったという事は初めて知った。
一時は平壌の朝鮮語学校の校長などを勤め、ある資料などによると「国士」などと書かれているが、細川家に大正四年から昭和十九年に亡くなるまでは、穏やかな暮らしであったろうと思われる。

                    

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■まだまだ更新中「新・肥後細川藩侍帳」

2023-09-24 07:49:22 | 侍帳

 ・知人の友人F氏の御父上はご養子でM家のご次男、その友人の方は父方の家系については、あまり興味が
  なさそうだというが、商売をなさっていたらしい。
  先祖は某所に広い土地があってそこに住んでおられたという。
  その場所は侍町であり、「細川家家臣略歴」を見るとM家は三家ある。
  古い地図を見てみると該当する場所にM家が確かにある。500石取りのお宅だ。
  これだけの情報でM家が特定できた。先祖附を取得し、情報を「侍帳」に反映させようと思う。

 ・過日Y家の最期のご当主から三代のご子孫だと仰る女性からご連絡をいただいた。
  どなたもご存知の著名人の奥様であり、これには大変な驚きであった。
  Y家については、いろいろな史料を集めているが、どうやらご当人はY家の史料をお持ちではないのでは
  ないかと思われる。ご連絡の手段をお知らせいただき、先祖附その他の史料をお送りしようと思っている。

 ・ある人がM寺を通りかかって、気に成る I 家のお墓を見付け、ご住職にお尋ねした処、ご親族が届けられた
  コピー資料をお貸し頂いたそうだ。
それをコピーして、現在当方にも郵送していただいている。
  I 家も数家あり、この資料でお墓の主が特定
できそうである。そんな情報がもたらされたことが非常に有難い。

 ・仙台市の高橋様から提供を受けた、「明智系喜多村系図を補強する史料の発見」については、私なりにま
  とめて、熊本に於いて何らかの形で報告をする機会を持ちたいと思っている。
  三宅家のお墓が泰陽禅寺にあるという話も聞いたし、玉名市岱明の高道にある荒木家の定内にある三宅分
  家のことも、何とか後世に伝える資料が残せるようなことが出来ればと切に願っている。

  公には出来ない情報もあり、それを自分だけが知っているという優越感を今味わっている。
  出来る限り「侍帳」に反映させて、なるべく早く公開したいと思っているが、後から後から新たな情報が
  入り現在嬉しい悲鳴という処である。

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■細川 忠興 ( 三斎 )筆 消息

2023-09-23 10:55:55 | オークション

           細川 忠興 ( 三斎 )筆 消息 手紙 横物 桐箱

 ヤフオクに久々に大物が出品された。まごう事なき三斎自筆の書状である。三斎と署名があるから元和六年以降のものだが、四行目に永日向とあるのは永井直清と思われ、寛永九年に日向守に叙任されてい居り、又、下段四行目には「日光御社参前ニハ中/\御目見申事も罷成間敷」とあるから、八月廿一日の日付から将軍の日光社参とは寛永11年(1634)9月の将軍家光の社参だと考えられる。
故にこの書状は寛永11年のものと思われる。綿考輯録に於いてはこの書状を裏付けるものは見当たらないが、この時期三斎は光尚の任官の為に忠利と共に江戸へ下っており、少々体調も崩し家光の見舞い設けている。文中の上段中央よりやや左よりに「大坂ニハ上手之醫師・・」とある事から、帰国の途中京都にて大阪の医師を招き治療を受けたのであろう。綿考輯録には「九月七日江戸御発駕、十八日京都着、廿四日に大坂御出船、十月四日八代に御着被成候」とある。
この書状は寛永11年のものでほぼ間違いない。三斎公御年71歳、まだまだお元気である。

何方に宛てた書状なのか、読み下しにチャレンジしてみようと思う。
このような素晴らしい書状をヤフオクで拝見できることは、誠に有難い。感謝である。

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