津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■季節外れの桜の話

2020-05-31 17:56:04 | 熊本

          

 季節外れの桜の話・・・
自衛隊正門前の左へ四本目の桜は、1キロほど続く桜並木の中で、この樹だけ一月ほど前に開花する。(去年も今年も)
普通のピンク色の花と違って、白っぽい色の花が特徴である。

 今朝、散歩の途中この樹の下に、数粒のサクランボが落ちているのに気付いた。鳥がつついたものだろう。
染井吉野にはサクランボはならないと思い込んでいたから、驚いて見上げると、6~7㎜ほどの小さな実が幾つかなっていた。
この一本だけ花が白く、開花もひと月も早いところからすると染井吉野ではないのかもしれない。
他の木に実がなっているのは見たことがない。どういう品種の木だろうかと気になって仕方がない。

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■「乃美・小篠人の出入」の顛末

2020-05-31 17:18:45 | ご挨拶

 寛永五年の正月廿日、二月九日の記事に乃美主水と小篠次太夫との人の「出入」についての記述がある。
この場合の「出入」とは「でいり」であり争いごとをさす。
このことは忠利の耳にも達していたらしく、殊の顛末を知らせるようにとの御意である。
事は、乃美主水の下人が小篠次太夫の許へ奉公替えをすることに端を発している。乃美は快く了解をしたらしい。
しかし小篠の方からはこのことに付、特別の挨拶がない。この出入について扱いを一任されたのは、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門などである。
奉行からであろうか、坂崎道雲に尋ねたところ、三人の衆が小篠を同道して、乃美主水の許へ出かけてようとしたが、いろいろの理由で延引した。
しばらくして小篠小は乃美たくへ出かけてはいるが、この件に対する「礼」としての発言はしていない。「無言」という表現が面白い。
小篠はこれをもって、事は済んだと理解している。一方乃美方では「礼」としての発言があってないと理解している。
双方に食い違いが生じている。

その後2月9日の記事は、事が意外な方向に進展したことを記している。
小篠次太夫は奉公替えで受け入れた下人に「暇=いとま」をだし、宿(次太夫家の長屋か)を出るように促している。
ところがこの下人・小左衛門が切腹してしまったのである。
かっての主人と新しい主人の間で、自分のことで「出入」があり、それが原因と思われる「雇止め」が行われたのである。
小左衛門の心中は計り知れないが、死を選んだ。

事は役所に届けられ、忠利にも伝えられ「御構なき旨仰出され候」とあるから、当事者たちには何のお構いもなかったということである。
小篠次太夫は当時の奉行の一人である。一言の「礼の言葉}があって居れば、小左衛門も死を選ばずに済んだのかもしれない。
事は三年に及んでいるという。以下関係記事再掲する。

   ■寛永五年正月廿日・日帳

         |         脱)                  (成定)  (元五)
忠利乃美景嘉ト小 |一、乃美主水小篠次夫と人ノ出入あつかい被申候衆、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門、此三人
篠次大夫トノ人ノ |                    (成政)      清左衛門の養父
出入ヲ聞カシム  |  にて御座候由ニ付、落着之様子を、坂崎清左衛門を以、道雲ニたつね可申 御意ニ御座候間、則
         |  清左衛門にたつね申候処ニ、道雲被申候ハ、あつかい調申候後、主水かたへ、あつかいノ衆次
         |  大夫を同道仕候て、礼ニ参候筈ニ御座候処ニ、いろ/\と候て延引仕不参候、此儀ニ付而主水・
無言       |  次大夫無言にて御座候つれ共、あつかいノ後、久敷間御座候而、主水方へ次大夫礼とハ不申参
         |  候へ共、主水ハ見廻と相心得、人出入済たる故ニ、次大夫礼ノ心得にて被参たるとハ、主水不存
         |  様子ノ由、道雲被申候由、清左衛門被申也、

乃美小篠人ノ出入 |一、乃美主水・小篠次大夫人ノ出入之儀を、坂崎道雲あつかい人ノ内にて御座候ニ付而、其節之様子
ニツキ扱人坂崎道 |  を道雲ニたつね可申旨 御意ニ付、道雲を御城へよひ候て、相たつね申候処ニ、道雲申様之
雲ノ口上     |  事、

 

   ■寛永五年二月九日・日帳

小篠ト乃美トノ人 |一、小谷忠二郎・熊谷九郎兵衛被申候ハ、小篠次太夫と乃美主水人之出入ニ付而、次太夫いとまを遣
ノ出入一件    |     (小左衛門)
小左衛門暇ヲ出サ |  被申候もの、此中やとをもかへ候へと、申付候処ニ、日からあしき由申、今日、やとをかへ可申と
レ切腹      |  内々申候、然処ニ、今朝ほの/\あけニ切腹仕候、かの女房見付候て、こへをたて申ニ付、見付、
         |                       (息)  
         |  忠二郎・九郎兵衛両人も参見申候、それ迄ハ少いき御座候へ共、そのまゝおち入申候、則式ア殿
         |                                       (友好)
ソノ後ノ処置   |  へ参、此段申候へとも、御奉行衆へ可申通妃仰ニ付、如此之由被申候間、当番松井宇右衛門尉ニ
         |  申、与之衆両人被仰付、かの切腹仕候者書置なとも可有之候間、左様之儀、其外妃相改候ハヽ、
         |  其上を以、立 御耳可申候間、御与之衆被仰付候ヘと、申渡し候事、
         |一、稲葉民ア殿へ之御返書出申候間、御与之衆被仰付候へと、申渡候事、

乃美ト小篠人ノ出 |一、乃美主水・小篠次太夫人ノ出入在之小左衛門と申もの、今朝未明ニ切腹仕ニ付、其段書付を以申
入一件  小左衛 |  上候処、無御構旨被仰出候事、則書付ハ得 御諚相済との袋ニ入置候也、
門切腹構ナシ   |
得御諚相済トノ袋 |

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■御恵贈御礼「家系研究・第69号」

2020-05-31 11:56:19 | 書籍・読書

 家系研究協議会発行の「家系研究・第69号」をお送りいただいた。厚くお礼申し上げる。
あとがきを読むと新入会員3名の方の記事が掲載されているが、ご発展のご様子で羨ましい限りである。
会のますますのご発展をお祈り申し上げる。

          

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■細川小倉藩(247)寛永五年・日帳(二月九日)

2020-05-31 06:28:24 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)九日 

         |
         |    九日
         |
久留島へ太刀折紙 |一、久留嶋殿へ被遣御太刀折紙、幷式ア殿ゟ熊谷忠右衛門方へ被遣御文箱、内ニ 御書有之由也、右
         |  歩之御小姓松岡角太夫ニ相渡候事、
         |   (一通)室は細川忠興女・多羅
稲葉一通ヨリ音信 |一、稲葉民ア様ゟ、ゑひ壱籠・みるくひの貝壱籠、御文箱壱つ、御飛脚持参仕由にて、式ア殿ゟ御
持海老海松食ノ貝 |  せ、御上候事、

         |
小篠ト乃美トノ人 |一、小谷忠二郎・熊谷九郎兵衛被申候ハ、小篠次太夫と乃美主水人之出入ニ付而、次太夫いとまを遣
ノ出入一件    |     (小左衛門)
小左衛門暇ヲ出サ |  被申候もの、此中やとをもかへ候へと、申付候処ニ、日からあしき由申、今日、やとをかへ可申と
レ切腹      |  内々申候、然処ニ、今朝ほの/\あけニ切腹仕候、かの女房見付候て、こへをたて申ニ付、見付、
         |                       (息)  
         |  忠二郎・九郎兵衛両人も参見申候、それ迄ハ少いき御座候へ共、そのまゝおち入申候、則式ア殿
         |                                       (友好)
ソノ後ノ処置   |  へ参、此段申候へとも、御奉行衆へ可申通妃仰ニ付、如此之由被申候間、当番松井宇右衛門尉ニ
         |  申、与之衆両人被仰付、かの切腹仕候者書置なとも可有之候間、左様之儀、其外妃相改候ハヽ、
         |  其上を以、立 御耳可申候間、御与之衆被仰付候ヘと、申渡し候事、
         |一、稲葉民ア殿へ之御返書出申候間、御与之衆被仰付候へと、申渡候事、
         |      (舞阪、敷智郡)
舞阪ノ宿主九左衛 |一、遠江ノ、前坂之御宿九左衛門・同子九兵衛御見廻ニ罷下候事、
門父子見舞ニ来ル |
大坂城普請ノ鉄炮 |一、大坂御普請ニ罷上候御鉄炮衆御借銀之切手、彦進・甚丞ゟ上せ申候間、其切手次第可被相渡由、
足軽借銀ノ切手  |   (親英)     (氏久)  
         |  仁保太兵衛・田中猪兵衛所へ之状、寺尾左介与ノ小頭坂本七兵衛ニ渡、上せ申候事、
大工発狂スルニヨ |一、藤本勘介被申候ハ、大工ノ新兵衛狂気仕、以外ニ候間、御医師ヲ被遣、御見せ被成被候様ニと
リ診療ヲ乞ウ   |  被申候、心得申由、返事申候事、
         |                     (藤田宗利)
伏籠ノ用ニ矢竹ヲ |一、御ふせこの御用ニ、矢の竹をためさせニ、宗理所へ遣候、三宅勘三郎奉、
矯メシム     |
乃美ト小篠人ノ出 |一、乃美主水・小篠次太夫人ノ出入在之小左衛門と申もの、今朝未明ニ切腹仕ニ付、其段書付を以申
入一件  小左衛 |  上候処、無御構旨被 仰出候事、則書付ハ得 御諚相済との袋ニ入置候也、
門切腹構ナシ   |
得御諚相済トノ袋 |
薩摩へ枇榔子縄買 |一、さつまへ、つぐつなかいニ被遣御鉄炮衆、寺本八左衛門与福嶋少太夫也、御船頭ハ野間惣兵衛と
松井興長有吉英貴 |
ヨリ依頼ノ状ヲ持 |  申候也、式ア殿・頼母殿ゟ、彼地御奉行比志嶋宮内少・喜入摂津守方へ、つぐつなかいニ、小倉
タシム      |           (表示不能、異の異体字)
         |  ノ町人参候間、其元無儀かい出申候様ニ頼申との状、持せ遣候事、
         |            (通春)
久留島通春ヨリ人 |一、式ア殿ゟ被仰聞候ハ、久留嶋殿ゟ人戻之儀ニ付、鉄炮之ものさうなるもの弐人参候間、賄之儀、
返シノ請取    | (住江元明)
         |  甚兵衛へ可申付由、被仰越候、得其意存由、御返事申候事、

関某飯銅坂井ノ取 |一、関與三右衛門と申仁、飯銅上右衛門めしつれ■被参、被申候ハ、坂井七郎右衛門・私両人にて申
次ニテ歩ノ小姓ニ |  上、歩之御小性二被 召抱候、今晩御礼相済申候、両人申上ニ付被 召置候、いつれも望申もの
召抱ヘラル    |  数多御座候へ共、不被 召置候旨 御意にて、殊外 御懇にて御座候つる由、被申候事、
生源寺甚斎預リシ |一、生源寺市兵衛被申候ハ、甚斎儀、下をおり候て養生仕候へと、被 仰出候付、只今御礼申上候へ
北ノ丸櫓ヲ下リ養 |  は、被 仰出候ハ、甚斎儀、御番を被成 御免候間、ゆる/\と養生仕候へと、御意にて、忝仕
生スルヲ免サル  |  合難申上候由、被申候事、
了三孫を誅伐サル |一、中津之松満了三孫、夜前被成御誅伐候、了三儀ハ孫を被成御誅伐、かんにんも成間敷と存候ハヽ、
喧嘩相手ヲ惨殺ス |                                  (表記不可、口篇に花)
喧嘩ハ理非ニ構ナ |  他国仕候へ、左もなく候ハヽ、其儘居可申旨被 仰出旨候、孫之儀ハ喧を仕、合手をきりころ
ク成敗      |  し申たる事候間、理非ニ御かまひなく御成敗之旨 御意之由、永良長兵衛物語被申候事<
         |一、金子喜左衛門、中津ゟ被罷帰候事、
舞阪宿主ヲ謁見ス |一、前坂之御宿九左衛門・九兵衛、親子共ニ今晩御礼相済申候事、
         |  (国遠)         
あんめんとの種子 |一、道倫被申候ハ、あんめんとゝ申ものゝたねにて候、廿御座候、上林ニ被仰付、畠ニうへさせ可
ヲ植へシム    |  申由ニ、持被出候事、
         |        (武居ヵ)                       (藍島、規矩郡)                         (白井)
船頭藍島ノ隼巣ヲ |一、南次兵衛・高家勘介両人を、あい嶋へ、隼ノすをかけ申所、見せニ遣候由ニて、兵介めしつれ参

見分スルニ鳶ノ様 |  候、寛元・弐年ゟ、とびノ様成たか、すをかけ申鐘楼由、所ノもの申弐付、古キすを見申由申候、
         |                        ( 腰 白 )                     (横山)
ナル鷹  役ニモ |  此たかノこハ、前かと御城ニ上ヶ申由申候、併、こししろノやくニたち申ものニ而ハ無之由、修理
立ツモノニテナシ |  申候事 
明寰長崎ノ妻子ニ |一、明寰、米拾石ほと長崎妻子所へ下申度候、今度さつまへつなかいニ被遣御船参由候、此御舟ニ積
         |                (鏡)
米ヲ運ハントシテ |  下申度由、此方へ申候、兵介・善右衛門両人ニ申候て、つミ候へと申候、然所ニ、兵介登城被仕
便船ヲ願フ    |  ニ付、談合申候処、つミ下可申由申候事、
大坂へ鶴ノ箱ヲ上 |一、大坂へ、杉山藤兵衛持上り被申靏ハコ三つ、重田吉左衛門ニ今晩渡候事、
ス        |

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■韶邦、一条家を通じての相聟

2020-05-30 09:49:24 | 歴史

 先にも触れたように思うが、細川韶邦は夫人(一条氏)を通して明治天皇とは相聟の関係になる。
昭憲皇太后(一条美子)と韶邦夫人(峯)が姉妹である。(もっとも峯は一条家の養女ではあるが・・・) 
韶邦は、幽齋の二位法印・贈正二位、忠興の従三位に次ぐ正四位に叙任されていることはあまり知られてはいないのではないか。
公武合体が彼の意とする処であったようだが、彼を藩主としてとどめるのには時代の流れは無常であり、明治の新政の時代を迎えた。
肥後国事史料によると、実学党の面々が韶邦(当時・護順)を藩主の座から降ろそうと新政府に働きかけている。
明治天皇と相聟という立場も影響しているのかもしれない。

韶邦が正四位に叙任されたのは、明治三年の隠居後の十二月だとされる。
御礼の為に上京すると、「華族東京居住の命」によりそのまま東京にとどまり今戸に新邸を築いた。
韶邦の名乗りは彼が隠居後のことであることもご存知の方は多くはあるまい。

そして明治五年六月五日、この新邸に明治天皇(19歳)と同妃・美子(23歳)が訪れたのである。
そのために正四位を得たのではないかと思えるほどのタイミングである。
天皇皇后の行幸は異例ともいうべきではないのか? いろいろ拝領物があったと記録されている。

付足し:
殿上人という言葉があるが、これは五位以上の人、清涼殿南庇に昇殿出来るのは四位以上の人ということになる。
細川宗家は代々四位下以上の位階をもつ。宇土支藩・新田藩、茂木細川家等は五位である。
五位の位があたえられた「五位鷺」の名が有るのは有名な話だが、吉宗の時代、天皇に像を御見せする為にこの像には四位が与えられたという。
極めつけは、天皇が病の床に就かれた時、看護婦たちは殿上の資格がないため、その仕事は男性医師によって行われたという話が残る。なかなか難儀な世界ではある。

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■最近参考にした三つの論考

2020-05-30 05:51:26 | 論考

 過去にすでにご紹介しているかもしれない。ある文言で検索してヒットした三つの論考、改めて読みなおして認識を新たにしている。

1、宇土細川家で編纂・制作された『細川家譜』

1、参勤交代の制度化についての一考察 ー寛永武家諸法度と細川氏ー

1、華族資本としての侯爵細川家の成立・展開 

 

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■細川小倉藩(246)寛永五年・日帳(二月七・八日)

2020-05-30 05:40:55 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)七・八日 

         |
         |    七日
         |
三斎ヨリノ飛脚ニ |一、三斎様ゟ御飛脚参候、 御書則上申候、御飛脚ニハ、太鼓の御矢倉にて、めしをたへさせ申候
太鼓ノ櫓ニテ食セ |  事、
シム       |
         |一、下毛御郡奉行衆ゟノ御飛脚、 御返書則相渡、差返申候事、
         |一、右 三斎様ゟ之御飛脚、 御返書則相渡、差返申候事、
薩摩へ枇榔子網ノ |一、薩摩へつくつなかいニ御舟被遣儀、得 御諚候処ニ、御家老衆ゟ、御国之商人之由被仰遣候へ、
買入   小倉領 |  商売人御国へかい参候ヘハ、御国のためニも能候、御国のもの無紛とのしるしニ、御状被遣様
ノ証人ナル証明  |              (有吉英貴)
         |  ニと被 仰出ニ付而、則頼母殿へ、右之段申渡候事、
         |一、長舟十右衛門へ被成 御書候を、次飛脚にて持せ可遣旨、被 仰出ニ付而、則そへ状を調、次飛
         |  脚ニ持せ遣候事、
         

         |
         |    八日
         |
         |  (久留島通春)
久留島通春へ返礼 |一、来嶋越後殿へ為御返礼、御樽五つ・御小袖参つ・馬代銀弐枚被遣候、御使者ニハ、熊谷忠右衛門を       |
ニ樽小袖馬代銀ヲ |        (豊後玖珠郡)                 下
遣ス       |  知行所ゟ直ニくすへ被遣候、忠右衛門所迄ハ、真木喜左衛門与松岡角太夫、右之御音信物持せ被参
         |                        〃
         |  候、但、明日被参候事、
忠利土筆採ノ遊山 |一、殿様、つくづくし被成御取せ旨ニて、被成り御出候事、
         |                     (不破)
         |一、右之御使忠右衛門、煩其外さし相候ハヽ、ふわ角丞可被参由、申遣候事、
中間走ル     |一、坂井忠三郎申候ハ、與九郎と申御中間今晩走申候、又八右衛門と申御中間、此中中川内膳殿御内
中川加賀へ馬ヲ牽 |  衆へ被遣御馬引参候、于今不罷成帰候処ニ、かの女房も居不申候、定而與九郎ぬすミ候て、つれ
キシ中間ノ女房ヲ |  走申候哉と、存候由申候事、 〃
盗ムカ      |
         |                     ( 地 謡 )
市野某地謡ノ催促 |一、市野次兵衛被申候ハ、来十五日之御能ニ、ぢうたいニ可罷出通、御触状ニ付而罷出申候、しかし
ニ断リ      |  なから、私儀ハ、今度江戸にて一両度地謡ニ罷出候へ共、其後御理申、罷出不申候、又今程は江
         |  戸御算用事ニかゝり候て居申候、其上万事不自由ニ御座候ニ付、一度罷出候而、又不罷出候ヘハ
         |  いかゝニ御座候間、各御心得にて不罷出様ニ頼申由被申候、とかく重而御談合可申由申候事、
         |

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■走者

2020-05-29 17:54:54 | 書籍・読書

 当ブログの検索欄に「走者」「走」等と打ち込み「当ブログ内で」を選んで検索していただくと、相当数がヒットする。
走者とは「走り者」であり、主人の所からであったり、又百姓が土地を捨てて逃亡することを指す。
相当数ヒットするということは、頻繁に「逃亡」事件が発生していることが判る。
いろんなケースがあるが百姓の走り者は、年貢が収められなかったり、自然災害で収穫が無かったりということが多い。
一家をあげての逃散ということもある。しかしながらほとんどは国境を越えることはなく、人留の役人に捕まることになる。侍の奉公人や町人なども結構見受けられるが、犯罪が絡んでいることが多くこちらはそれに応じ処罰されている。

一方百姓は大切な米や小物成の生産者であるため、犯罪が絡んでいなければ、元の生活に戻されることが多い。
年貢が絡んでいると、子や兄弟が質奉公に出されたりして金を工面して、納める事にはなる。

又、時折他藩からの走り者が国境を越えてくることが有る。筑前黒田藩などからの場合百姓については戻すことはないようだが、それ以外は話し合いがもたれることなく国境から黒田領に追い払つている。
黒田家と細川家は慶長五年以来関係が非常に悪いためである。
処が、その他周辺の大名家とは好ましい関係が構築されているから、話し合いで解決しているようだ。
しかし、百姓は国境を越えれば逃げ勝ちというような感じがある。なかなかそういう具合にはいかないのだろうが、「走者」の記事が多いのには驚かされる。

「走者」の研究の第一人者は九州大学の宮崎克典氏、著書「大名権力と走り者の研究」に詳しいが、手ごろな所では中公新書に「逃げる百姓、追う大名 ‐江戸の農民獲得合戦‐」がある。
こ難しい話のようだが、読んでみると中々面白い。
内容のほとんどが、豊前時代の細川家領内での出来事であり、時代的には現在ご紹介している「細川小倉藩日帳」あたりが舞台となっているようだ。
肥後入国以前の細川藩の政の一端が伺える。後者は「お安く読める」新書版であり、ご一読をお勧めする。

                    

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■高脂血症?

2020-05-29 16:15:42 | 徒然

 毎日1時間ほど散歩をしているが、腹囲も体重も減らない。
今日は薬をもらうために定期の病院行、一ㇳ月前の検査の報告を受けた。
血圧は薬のお陰ですっかり平常値だが、血糖・脂質の関係数値が高く、食事を注意するようにとのご託宣である。
このコロナ禍の中、でついつい御菓子類をつまみ食いしたのが良くなかったのかもしれない。
もっとも、前回の検査は食事後2時間ほどたっていたから、少しは割引があるだろうと密かに考えているのだが・・・
帰宅してから、しょうじきに奥方に報告、昼食時にはヨーグルトにたっぷり乗せていた奥方手作りのジャムが食卓から撤退、「何が食べられるの」といささかお冠である。
朝はほとんどベジタリアン状態、昼は麺類かパン類だが量的には多いとは思わない。
夕食は普通の茶碗一杯のごはんと、その時々に煮魚・焼き魚、又は肉料理、また揚げ物といった感じでこれらが重複はしていない。
筑前煮みたいな煮物も大好きだが、みそ汁はほとんど採らない。もっとも奥方が瓜などを一夜漬けしたりするから、こちらは少々とりすぎかもしれない。
焼肉にしろ、揚げ物にしろ、大概盛り付けから一つ減らしている。
自分では脂質をとりすぎているとは思わないのだが、チョコレートやチーズを食間に取ったりすることもあり、これは控えずばなるまいと思っている。

色々考えると、昭和の頃の食卓のありようが一番最適なのだろうと思い至った。
しばらく頑張ってみましょう。

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■細川小倉藩(245)寛永五年・日帳(二月五・六日)

2020-05-29 06:33:19 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正二月)五・六日 

         |
         |    五日
         |                                  (政直)
少峯長崎へ帰ル  |一、唐人少峯、長崎へ被成御戻、今日罷立候ニ、御長柄衆弐人付被遣候、末次平蔵かたへ被成 御書
末次政直へ書状  |                                                         (田川郡)
         |  御文箱御長柄衆ニ持せ遣候事、猪膝迄ハ御馬被 仰付候、猪膝まてハ御賄をも被 仰付候事、御
         |  長柄衆ハ小谷忠二郎与角兵衛・神戸喜平次与吉右衛門ニ、右ノ 御書箱相渡候事、
         |       (延俊)
         |一、京都へ、木下右衛門様へ為御飛脚、国友半右衛門与西村六兵衛ニ 御書箱相渡、今日出船之御舟
         |  ニのせ、上せ申候事、
         |             (  衍  )
江戸へ上ル品々ノ |一、小篠次太夫ニ、御鉄炮衆御鉄炮衆六人付、被成御上せ候ニ、相渡申御物覚
覚        |             〃〃〃〃
 光尚ノ能衣装  |  一、御六様御能衣装    壱包
 宇佐宮旧記   |  一、宇佐宮旧記ノ入たる箱 三つ
         |    老中(利勝)
 土井利勝へから |  一、土井大炊様へ被進之からの竹子箱 壱つ
 ノ竹子     |
         |    老中(正勝)春日局嫡男
 稲葉正勝へ台子 |  一、稲葉丹後様へたいす  壱つ
         |  右之分相渡遣申候、其外方々御音信物、永良長兵衛奉弐て、上せ被申候事、
         |一、江戸ゟ御飛脚弐人参候、壱人ハ小谷忠二郎与忠右衛門、壱人ハ御小人喜介与加介、只今下着申
江戸ヨリノ飛脚日 |  候、江戸を正月廿日ニ出、大坂ニ廿七日到着、同日ノ晩ニ大坂出船仕由申上候
数        |
忠利松井興長邸ニ |一、殿様今日ハ式ア殿へ被成 御成候事、
臨ム       |
         |                 (小篠次太夫)
江戸大坂ヘノ書状 |一、江戸へ之状・大阪へ之状共二ゆい、小次太へ、御使番大塚少左衛門二持せ遣候事、右状次太へ持
出船後二小早ニテ |  せ遣候ヘハ、早出船被仕二付、持せ小早二而追かけ、渡させ可被申由申候而、兵介・善右衛門
追カク      |  所へ持せ遣候事、
野瀬甚介落馬シテ |一、野瀬喜兵衛登城ニて被申候ハ、せかれ甚介儀、落馬仕、眼を殊外打申候ニ付、真嶋ニ見せ申候へ
眼ヲ強打ス    |  ハ、そこひニも可成様ニ被申候、何共気遣存候、此儀無紛との申わけのため、誓紙を上ヶ申候
眼科真嶋二診察セ |  由、被申候ニ付、何とていつわりを可被仰候、それニおよひ不申由申候而、返し申候事、
シム  紛レナキ |
証明ニ誓紙ヲ上グ |

         |
         |    六日
         |
奉書ノ状     |一、御小人ノ喜左衛門ニ、式ア殿・頼母殿ゟ乃美主水所へ被遣 奉書ノ御状持せ遣候事、
岩崎五郎介初見  |一、岩崎太郎兵衛せかれ、岩崎五郎介と申由被申候事、則御礼相済申候事、
村上景広遺物ノ刀 |一、皆川治ア・林隠岐両人被申候ハ、村上八郎左衛門遺物之刀、懸 御目申候処、竹屋ニとかせ可申
竹屋ニ研ガシム  |  旨被 仰出由被申候、又矢野利斎遺物之わきさしも被成 御覧候、是ハ中わきさしニかしらへ可
矢野利斎遺物ノ脇 |                           (幅)  
差    永勝院 |  申旨、被 仰出由被申候、宇佐永勝院遺物之絵も、三服共ニ被成 御覧由、被申候事、
遺物ノ絵     |
         |        (加々山可政)(松野親英)                          (町)
由布院蔵入ノ勘定 |一、伊丹播磨様ゟ、主馬・織ア所へ由布院御勘定ノ儀被仰遣之御状、此儀ニ付、三右衛門・織ア・主
         |                                       (飯田)(田中氏次)
         |  馬殿ゟ言上ノ状二通、式ア少輔所ゟニ而御披見被成候而、我等共ニ被成御渡候を、才兵衛ニ兵庫
         |  渡被申候事、
釜屋長兵衛事ノ外 |一、式ア少輔殿被仰候ハ、かまや長兵衛儀、今日 御前にて殊外上手にて御座候由、何も申候、しか
上手ノ評ナレドモ |  れ共、手前不罷成、何共かんにんも成かたき躰と申上候ハヽ、左様ニ候ハヽ、御扶持を可被成
手前ナラズ    |  旨、御意候つる、定而何とそ被 仰出儀可有之候、無左候ハヽ、御次手の折節、式ア少輔か様ニ
扶持方      |  申候通、立 御耳候様ニと被仰候事                
拍子ノ催     |一、今晩御拍子御座候事、
田中荒木岩崎初見 |一、田中忠介・荒木平四郎御礼相済申候事、岩崎五郎介も同前、
下毛郡奉行    |一、下毛郡御奉行衆ゟ次飛脚にて書状被差越候事、
         |  

 

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■御恵贈御礼「漱石とハーンが愛した熊本」

2020-05-28 14:37:07 | 書籍・読書

                   

 過日肥後金春流の中村様から電話をいただいた折、ちょうど中村様を尋ねておられたのが井上智重先生、電話をかわられしばらくお話をした。
「いろいろ手紙で書きますから」と仰られて電話を切られたが、昨日お手紙と共にご恵贈いただいたのが新刊の「漱石とハーンが愛した熊本」である。
まだ直接は御目にかかっていないので、お手紙で拝受の御礼を申し上げたが厚く御礼申し上げる。
熊本日々新聞社に在籍されていたころから、文化関係の紙面では出色の活躍をしておられた。
退社後は熊本近代文学館の館長を勤められた。御著も次々と出版されそれぞれ手元に於いて愛読している。
どうやら、当方サイトが御目に留まったようだが、御目にかかったときどのような評価がいただけるのか些か心が騒ぐ。
図書館へ出かけると必ずといってよいほどお見掛けしていた。あの勉強ぶりがいろいろな著書に反映されている。
とても真似ができるものではないが、大きな目標ではある。

どうぞ皆様にもお読みいただければとご推薦申し上げる。

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■細川小倉藩(244)寛永五年・日帳(二月四日)

2020-05-28 07:16:47 | ご挨拶

                      (寛永五年正二月)四日 

         | 〇三日ノ分記事ナシ、
         |
         |    四日
         |
忠利叱リシ馬標持 |一、上野角左衛門・貫角右衛門、両人をよひ、先度御しかりなされ候御馬印持ノ儀、請人等ノ吟味被
ヲ赦ス      |  仕、御ふちかた、又御借米等をも渡り申様ニ可有御吟味候、左候て、今ほと与頭無之候間、御鷹
鷹野ノ供ヲセシム |  ノへ御供をさせ可被申由、申渡候事、
         |                         (小篠)
坊主丹斎ト改名出 |一、與兵衛坊主儀、丹斎と名を被成御替、明日江戸へ、次太夫ニ被付遣候事、
府セシム     |
吹気屋      |一、大坂之吹気屋新左衛門、御礼ニ罷下由ニて、登城仕候事、
大坂ヨリ鼓打ヲ雇 |一、大坂ゟ罷下候鼓打、今日御礼申候事、但、小倉屋仁兵衛所ゟ差下候也、
ウ        |
加藤忠広使者   |一、加藤肥後守様ゟ、御使者被参由、吉田少右衛門被申候、上下廿六人、乗馬壱疋、乗かけ壱疋参候
         |               (直景)覚兵衛の名で知られる。
         |  由、被申候也、御使者ノ名は飯田孫左衛門と申由也、
         |  (呼野、規矩郡)                               (春木)
鉄ノ試吹     |一、金山にて、鉄之ためしふきを仕候ヘハ、緑青一鉢見出し候由にて、金太夫持参被申、則 御前へ
緑青       |                                 (金辺峠)
         |  上ヶ被申候処、何ニ成共、金太夫望之所ニ、建立可仕由御意ニ付、則木部とうけニ建立可仕
         |  由、申候ヘハ、一段よさそうニ被 思召候間、建立させ可申由、 御意ニ候と、金太夫被申候
         |  事、
         |    (延俊)                 (豊後速見郡)          御
         |一、木下右衛門尉様ゟ、御飛脚参候、京都ゟ日出へ御状参ニ付、日出ゟ又飛脚にて、御状被持越候
         |  事、
谷衛友使者へ給与 |一、御小袖弐つ、谷右兵衛様ゟノ御使者弐被遣、 御返事も出申候、道家左近右衛門持せ被参候事、
         |                          (立成)
加藤忠広使者   |一、加藤肥後様ゟノ御使者弐、御小袖三つ被遣候事、平野九郎右衛門持せ被参候事、
         |           御小袖
朴西堂使者    |一、朴西堂ノ御使僧ニ、〇壱つ被遣候事、
京都買物奉行へ台 |一、京都御かい物奉行衆へ、御台所より遣被申御物請取切手壱枚、竹内吉兵衛与樋高八左衛門ニ持せ、
所用品ノ請取切手 |   (敦行)  
ヲ渡ス      |  続平右衛門ニ相渡候、此切手ハ江戸ゟ京へ被申上せ、江戸へ下り申たる御物請取切手にて候付、
         |  平右衛門方へ渡申候也、
         |一、日出ゟ参候御飛脚ニ、則 御返事出申候を、歩之御小姓藤井宇左衛門ニ持せ、御飛脚ニ渡させ申
         |  候事、
         |  (松井興長)
大坂ノ塩屋藤左衛 |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫・井上弥二右衛門を以被仰聞候ハ、大坂塩屋藤左衛門女房、此中爰元
門女房貸銀ノ取立 |  へ罷下、御家中ニ有之借銭をこい申候へ共、調不申候、左候処ニ、松屋道二米を弐拾石かい候
ナラズ      |              
松屋道二ノ米ヲ買 |  て、出船仕候処ニ、銀子をなし不申、出船仕ニ付、道二方ゟ吉田少右衛門ニ、米■田與右衛門殿
ウモ代銀ヲ済サズ |  へ■申、舟を留申候処ニ、かの女房式ア殿へ参、弥二右衛門・源太夫をよひ出し申候ハ、道二米
小倉町奉行出船ヲ |  をかひ出船仕候処ニ、道二御町奉行衆へ申、舟を留申故、出船不罷成候、道二所へ米代銀渡可申
拘留ス      |  候へ共、御家中ニ御用ニ立置候銀子、少も調不申ニ付而、なし可申様無御座候、 殿様へ書仙石
忠利宛仙石忠政書 |  (忠政)
状ヲ持参ス    |  兵ア殿ゟ御状参候間、是を御上候而被下候様ニと申、持参仕候、式ア殿御留守之儀ニ候間、右両人
         |  ノ衆迄申候ヘハ、式ア殿へ申たる同前候由申ニ付、源太夫・弥二右衛門申候ハ、左様之御状請取
         |  置候儀もいかゝ、其上式アも留守にて候間、先やとへかへられ候へと申、もとし申候、かの女房申
忠利へ取次ガズバ |  候ハ、式ア殿御取次なく候ハヽ、御ひろまへ詰申、上可申由申候、又 中津へも御状参候間、上
広間ニ詰メム   |  申儀不成候ハヽ、中津ゟも上可申由申候間、先状をうけとり可申候、定而御家来借米之儀にて御
三斎ヘノ状モアリ |                               (作法)
家中借米ノ件ナラ |  座候ハんと存候間、又目安にても候ハんや、左候ハヽ、めやすのさはうニ可仕候、為御談合、右
ム  目安ノ作法 |  両人被差越由、今日此方ゟ申候ハ、先被成御請取、式ア少輔殿被成御覧可然由、御返事申候事、
         |  (定芳)
菅沼定芳へ野雁ノ |一、菅沼織ア様へ被参御鷹師礒部三右衛門ニ、 御書箱壱つ、幷野鷹ノ羽箱ニ入しふかミ包壱つ合渡
羽ヲ贈ル     |  候事、
         |一、右三右衛門ニ、京衆へ之状相渡候事、
唐人少峯へ銀子ヲ |一、唐人少峯ニ銀子拾枚被遣候事、
渡ス       |
     

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■惨禍からの脱却

2020-05-28 06:55:21 | 歴史

 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授の最近の著「歴史にいまを読む」読んでいたら、つい先ごろお亡くなりになった明治大学の藤木久志名誉教授に15年間に及ぶ学恩を蒙られていたことが書かれている。
私は藤木教授の本を数冊読んで、中世期の百姓のしたたかな生きようを知った。数冊読ませる説得力がある。
稲葉教授の講演をお聞きしたことが有るが、今レジュメなどを読み返してみると、藤木教授の学説の一端が盛り込まれていることに気づかされる。
田や畑を戦いの場として蹂躙される百姓たちは自衛のために集団をつくり、時には他所へ出かけ物や人を略奪することも常であった。
秀吉の平和を希求する願いは、そんな「過酷な惨禍からの脱却」だとされる。信長・秀吉・家康らの覇権争いのつまるところに「平和」という旗印があるとすれば、不毛だと思ってきた長い戦の歴史も理解できそうである。

      好書好日「歴史学者・藤木久志さんを悼む 百姓の視点で新たな戦国史」

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(37)

2020-05-27 14:07:32 | 史料

                 

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■高野松山の小石川の家

2020-05-27 09:12:13 | 徒然

 熊本出身の大庭照子(昭和13年生まれ)という歌手がいる。この大庭さんは美空ひばりの大フアンとみえる。
先年AIで美空ひばりの「それから」という曲が製作されるその過程を紹介するNHKの番組の中に、未完の曲を視聴する何人かの選ばれたフアンとしての大庭さんの姿を見つけた。大庭さんらフアンの鋭い適切な意見が反映されて、あの曲や映像が出来て衆目を唸らせた。
世間ではシャンソン・童謡歌手と紹介するが、コンサートではひばりの歌を御披露される機会が多かったようだ。

 井上智重氏の著「異風者伝」を読むと、大庭さんは人間国宝第一号の蒔絵作家・高野松山の姪に当たられるとある。
祖父が細川家の家扶を勤めていた時代、松山も細川家に盛んに出入りをしていた。
私の両親が結婚した時、氏から祝に硯箱を頂戴しているが、長男が幼いころ踏み割ってしまった。
大きな伊勢海老を盛り上がった赤漆で描いている。
専門家に頼み修復を試みたが不可能だと言われ、今でも壊れたままの形で手元に残している。

 井上氏の同著によると、口の悪い松山は「ケチ殿さんが建てた」という家に住んでいたというが、私は母の話から小石川の侯爵邸の屋敷内の家だと思ってきた。
ところがここには「小石川植物園の裏」とある。ここに音楽学校を受験するために大庭照子が一時滞在したらしい。
細川護貞さまの著「想いでの人々」では、父・護立さまが松山の「不行跡をとがめ勘当」されたとある。
細川家から色々な援助を受けた松山であったが、酒のなせる処であったらしい。
まさに「異風者」の名にふさわしい人物で、私の中ではなんとも松山と大庭さんとはつながらないのである。

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