津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■四木社

2022-03-31 13:47:40 | 熊本

           

 広大な「花畑邸」の北西の片隅がわずかに現在「花畑公園」として残されている。
そこにかってはここに鎮座していたという「四木社(代継社)」の名の由来だとされる、四本の木の内の一本が元気にその姿をとどめて居る。
大クスノキである。一時枯れかかったがいろいろ手が加えられて、生き残り長寿を保っている。
脇には池の近くに在ったとされる「十三の塔」も残り、四木社の由緒を示す「代継神社跡地」の石碑が存在する。
現在は立田山に移り鎮座している代継神社の御由緒には「村上天皇の御代、応和元年(961年)に肥後の国司として紀師信公が当国赴任の際、茶臼山南麗(現花畑公園)に、肥後の国の守護神として祀り、宮城の四隅に木を植えて四木宮と称したのを創祀とします。」とある。
これが本当ならばこのクスノキは樹齢1,000年を有に超える木だということになる。

代継社と名前が変わったのは、光尚の死後わずか6歳の六丸(綱利)が無事にお世継ぎとなったことに由来しているとされる。

 ところが「茶臼山ト隈本之絵図」を見ると、茶臼山の下、坪井川の川むこうに「四木社」と記されている。
だとすると、築城のころから坪井川が合流する大蛇行の白川のこぶの部分にあるべき「花畑邸」についての説明はつじつまが合わないことになる。
この絵図の真実性は大いに怪しくなる。

この絵図が本当だと仮定すると、坪井川川向うの熊本城地は、上記の絵図のようななだらかな地ではなく、のちの熊本城内の桜馬場や竹之丸の後背部には崖が切り立っていたものと思われるから、その下あたりだと私は考えている。
しかし熊本城築城に当たり御城から見下ろすのはまずいからと言って、白川を越えた本庄の地に移された。
この説明も納得いかない。この場所は築城当時から花畑邸としての整備が始められている。

 都合の良い言いようで神様も為政者のご都合にはあがらえなかったようだ。
この「茶臼山ト隈本之絵図」に書かれている「四木神社」の位置、直進している白川について、ぼんくら頭の私を100%納得させるような解説を大先生方にお願いしたいものだ。
「隈本古城考」の中に、森下功先生の「茶臼山ト隈本之絵図」の絵図についてという論考が掲載されているが、なにせ発行が昭和59年(1984)のものであり、白川の大蛇行について富田先生により発表された大スクープは平成7年(1995)の事であるから、今一つ納得いかない。
皆様のお考えをご示教いただきたい。



         

 

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■再会?

2022-03-31 08:23:13 | オークション
                               

 長岡図書あての細川重賢の書状である。
内容を確かめていたら、読み下し文が紹介されていた。そしてなんと 以下説明文はネットで検索し「津々堂様のたわごと日録」を参考にさせて戴きました とある。
2019年6月18日にご紹介した■長岡圖書宛細川重賢書状であるらしい。これには驚いてしまった。
すっかり忘れていたお軸と奇跡の再会である。
それにしても、どうやら間違いなく読み下しをしていたようで、ほっとしている次第である。
 
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■災難、幾知さんか小也々さんか

2022-03-30 07:03:26 | 歴史

 忠興の短気ぶりは歴史学者も認める処だが、家臣ならずともとばっちりを受けてる事もある。
有名なのは箱根の関所での忠興の振舞である。側室を伴っての旅の途中の箱根関所で事件は起きた。
箱根関所における決まりごとは幕府の定める処だが、忠興のような人物が横車を押すと、決まり事を執行する役人が命を失うことになる。立孝(宇土家祖)と興孝(刑部家祖)の生母・幾知か、愛娘・萬姫(烏丸光賢廉中)の生母・小也々のどちらかだと思うが定かでないが、箱根の関所で検査を受けた。
女性は「髪改め」がご定方と定められているらしいが、大名夫人らは、御駕籠を関所の上段にあげ、「人見女」が駕籠を開けて中を覗ってそれですませたことが記されている。忠興はそのことさえ、許しがたいことと考えた訳であろう。
切りすてにするには及ばなかったのではないかとも考えるが、戦国乱世の気風が残る時代の荒々しさや大名の気概を感じさせるものがある。
                                   
 加藤利之著「箱根関所物語」では、この事件については取り上げていないが、その後、特に細川家の夫人の取り扱いには気を使っていた様子がうかがえる。

 元和7年には忠利が遺領相続したが、元和9年10月には室・千代姫が江戸に下る事になる。奥方の江戸定府が始まったからだ。
千代姫は徳川秀忠の養女だから、特別の扱いがなされたことは容易に想像できる。

 三斎忠興が死去すると、八代領は解体され立孝の嫡子・行孝は本藩から3,000石を内分され宇土支藩が立藩される。
これに伴い、三斎の養女のお三(お佐舞とも)も江戸へ下る事になるが、これは承応3年に行孝室になるためである。
お三付の三崎与右衛門・同弥左衛門・矢野忠左衛門が妻子と共に付き添うが、一方では女中18人が供をした。
そこで本藩の米田・沢村・長岡(松井)の三家老は特に、坂梨(肥後出口)や鶴崎河口(豊後領出口)の出切手を出すとともに、此処での上記の女性についての取り扱いを特に通知している。
国内に於いても出入りが厳しく応対していたことを伺わせている。
ただ、箱根関所での扱いは記録が見当たらず、よく判らない。支藩とは言え細川家関係者の通行で随分気を使ったであろうことが伺える。

 随分時代が下っているが、寛政4年4月、細川治年の没後、その夫人・瑤台院が湯治と称して熊本へ帰国する際に当たってのことが委敷く紹介されている。細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。嫡男・年和が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。斎茲である。
そんな中瑤台院は寛政四年(1792)四月、国元へ湯治の名目で帰国している。
 実は先にご紹介した「箱根関所物語」に、四月十四日「細川越中守養母瑤台院」が帰国、箱根の関所を通過されたことが記されている。
3月下旬にはこの帰国については関所へも知らされていたらしく、27日関所から小田原藩に対し、その取扱いに対し判りかねることを尋ねる伺い書をだしている。
「入り鉄炮と出女」は大変うるさく、大名家とて同様である。処が瑤台院が先代の藩主夫人であり、あまり例がなかったとみえての伺いだったようだ。

  1、役人は上の間の下座に下がること。
  2、上の間における人見女の改めは大名夫人同様の扱いとすること。
  3、通行にあたっては先番の女中衆が少し前に来るが、(そのまま通さず留め置き)瑤台院改めの付き添いをさせること。
  4、瑤台院の駕籠は番所縁側までは陸尺(かごかき)、上の間へは細川家付き添いの者が行い、その者は縁側で控えること。
  5、瑤台院の駕籠には御側用人二人、付き添い女中一人が上の間に上がってよいこと。
  6、駕籠が上の間に上がったら役人は次の間へ下がり、人見女を差出して改め、終了したら細川家付き添いの者が駕籠を縁側まで運び、
  その後陸尺に渡すこと。改めの際駕籠の戸を引くのは付き添いの者であること。    (以上津々堂要約)

以上が伺いによって決められたことであり、このことは通行の日の早朝細川藩士が先行して関所に出向いた際に通告された。
瑤台院は駕籠に乗ったまま関所の上の間へ通され、女性専門の改め役「人見女」によって形式的な「改め」を受けている。
 
 

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■陣の橋、放生池、御旅所

2022-03-29 09:17:03 | 熊本

 細川藩政時代、熊本城内から本妙寺方面へ行くには、井芹川を渡るために「陣の橋」が架けられていた。
元々は板橋であったらしいが、下馬橋のかけるにあたって橋の材料が使われたらしく、陣橋は土橋になったという。
ところがここにある陣の橋は見事な石橋である。熊本城顕彰会会誌「熊本城」復刻第31号に掲載ある写真を引用させていただいた。右手に見える石垣は森本櫓あたりだろうか。
この陣の橋に至る200mほど手前に放生池があった。その位置について「肥後国誌」は「槙島坂ノ下西ニアル池ナリ」として「曾テヨリ要害ノ爲ノ堀ニアラス藤崎宮神事八月十五日ニ往日ハ放生會ヲ行フ魚ハ此池ニ放チ鳥ハ此池邊ニテ放セリシヨリ名トス」と記す。
先に期した如く槙島坂そのものが、熊本市電通行の爲段山台地が開平されたため消失している。放生池も同様である。
その例年の神事について同じく「肥後国誌」は次のように記す。
「随兵百人鑓五十本神馬數匹笠鉾等美ヲ盡シ段山へ神輿行幸神官祓神樂音樂ヲ奏シ社僧經ヲ詠ム 國君ノ御名代御家老御備頭組共ニ御桟敷ニ伺候シ能見物御料理御菓子ヲ賜ル(略)」そして「八月十五日祭禮段山ノ旅所ニ御幸一ノ神輿ハ山鹿郡石村 ニノ神輿ハ飽田郡池田村 三ノ神輿ハ段山村ノ氏人等駕籠丁二参ル」とある。
この御旅所については、段山の酒造研究所があったあたりだとされるが、此処で示す地図では「八旛御旅所」の書き込みがあり百姓地に囲まれ「段山」とある。
こうして史料をひも解いていると、現在の藤崎八幡宮秋の例大祭とは違う往時の姿が垣間見られて興味深い。
ふと熊本史談会のK氏が所蔵される、当時の桟敷設置に関する古文書を一度拝見したことを思い出した。

       

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■花畑邸はいつできたのか

2022-03-28 06:32:17 | 熊本

                             

 新熊本市史・通史編 第二巻‐中世を読むと、「慶長11年頃から小天守や御花畑館の工事が始まり、三年後(14年)に完成した模様である」とある(p539)
どういう状態で花畑館が完成したのだろうかと妄想している。
14~5年当時は未だ白川の大蛇行は流路の変更には至っていなかったと思われる。
花畑館は大蛇行のこぶの先端部分に、このような形で在ったのだろう。
矢部の愛藤寺城が破却されたのは慶長17年だとされるが、ここにあった大広間が花畑館に移築されたというから、大掛かりな殿舎の建設はある程度進みこれを増築したというのであろうか。

橋はどこにあったのか?舟で渡ったのか?
そういえば、竹之丸から花畑邸に屋根のかかった橋がかけられていたという話を聞いたことがある。

     大阪城・極楽橋  110】 大坂城図屏風 秀吉が生きていた頃の最古の大坂城で注目は ...  豊臣大坂城極楽橋の唐門 | 竹生島 - お城めぐりFAN 竹生島に残る遺構

 大阪城の「極楽橋」のようなものであったのかもしれない。しかしこれとて竹之丸が整備され、長塀が整備された後の事だと考えると、清正の時代と云うよりも忠廣の時代かもしれない。
そして、白川の大蛇行と坪井川の完全整備が終了したのは、細川の時代に入っての正保年間(光尚代)だと上記熊本市史には記してある。
私は、熊本城築城時に生じた切土で、一気呵成に旧河道は埋め立てらたと考えていたが、随分長い時間がかかっていたようだ。
ただし、その詳細は知り得ない。熊本城や熊本の町の成り立ちを知るには、まだまだ勉強が必要である。

 

 

               

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■それぞれの悲喜劇(6・了)-寄之(松井興長養嗣子)

2022-03-27 06:55:03 | 先祖附

 前回書いたように刑部家初代の興孝より、やや早く誕生(元和2年‐1616)している。末子とするのは間違いである。
寄之の生母は真下氏、この人は後に沼田延元に再嫁している。延元は涙を流して断ろうとしているが、忠利が説得した。
「切腹するのなら、自らが介錯する」とまで言い出し、真下氏は延元に再嫁した。
いわゆる「お下げ渡し」というものであり、時代が時代であるとはいえ、あまりいただけないエピソードの極たるものである。
のちに、この延元の子・延之と寄之が思いがけないシーンで活躍し、細川家の危機を乗り越えることに尽力するがのちに述べる。

 寄之の幼名は巖(岩)千代、元和7年(1621)6歳の時松井興長の養嗣子となる。
寛永14年(1637)細川家一門の三渕重政女・古宇と結婚、翌15年(1638)原城総攻撃に参陣する。

寛永18年には兄・忠利が死去、正保2年(1645)には父・三斎が死去した。
そして5年後の慶安3年(1650)には藩主・光尚が死去し細川家の最大の危機を迎えた。

息子の六丸(綱利)が幼少であるため、知行の返上を申し出たからである。家臣団の驚きは一方ならぬものがあった。
そこで若年寄の寄之と沼田勘解由(延之)を急遽江戸へ下し、六丸の遺領相続に尽力した成功に導いた。
養父・興長をして八代城主と定めた亡き光尚の恩に報いる寄之の業績として特筆すべきものである。

寛文元年(1661)年養父・興長は、浪費家であった寄之を戒め、幼い藩主・綱利をよく補佐するように遺言して死去する。家老本職・八代城主に就任する。
そして4年後の寛文6年(1666)正月病にて八代城内にて死去した。50歳。
その生きた時代は、父・興長と重複する部分が多い。

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■地理院地図で遊ぶ

2022-03-26 13:46:48 | 徒然

 最近、国土地理院のサイトを大いに活用させていただいている。
例えば先日書いた、薬師坂・槙島坂など同サイトの「断面」を活用すると次のように現況が出てくる。(もっとも槙島坂は現在は存在しないが・・)
     

 かっての藤崎宮(藤崎台球場)側からみた、左が新町、右が段山町の砂薬師坂に至るダラダラ坂の上り口のあたりである。(X・Y比1:1)
縦方向の数字は標高で記されている。大体熊本城周辺は11mくらいで、此の断面でもそれが判る。
この巾約200mくらいの奥に、左・片山邸、西・島邸があった。島邸は以前槙島氏の屋敷でもあったから、右の急阪を槙島坂と呼ぶ。
段山の高まりが14~5mであり、井芹川方向に段丘で下がっていたと思われる。
今では段山は完全になくなり、新町方面からこの断面の中央部あたりに至る隧道が、路面電車の上を島崎方面へ抜けていることになる。

           

 こちらは縦方向と水平方向は1:5で記している。
左側の11m部分が路面電車が走る部分、標高24m部分が薬師坂頂上部、34m程の高まりが藤崎台球場、その右手が護国神社、V字になった切通が美術館裏から新町へ下る坂、40m程の高まりが美術館、その右に二の丸広場が広がる。
これらの史料は、数百年前のこの一帯の有りようを想像するのに誠に有効である。

 最近色々あって忙しいが、等高線を見ながら縄文海進などを調べてみるのも面白いだろうと思っている。
以前ご紹介した「熊本平野に於ける貝塚分布」では、標高5mラインの内側に貝塚が分布しているとある。
これをみると随分標高差に違いがある様に思えるからだ・・・

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■西南戦争水攻め作戦

2022-03-26 08:20:23 | 熊本

      
                                  紫色が水没地域。熊本城右下の舌状部分は追い回し田畑、
                                  かっての白川の大蛇行の痕跡である。 

 ちょうど今の時期、明治十年熊本はまさに戦時であった。
薩軍が熊本城攻撃を決断し熊本城下に入ったのは、2月21日未明である。
午前6時過ぎ薩軍の進軍を確認した官軍は、下馬橋の砲台から砲撃を始めここに西南の役の火ぶたが開かれた。
激戦を究めた段山に於ける攻防戦もこの時期に開始された。官軍の与倉中佐が戦死したのはまさにこの場所である。
3月に入って一月が経過しても薩軍の攻撃を持ちこたえて、官軍は籠城戦で対抗し膠着状態になる。
一方戦域が広がり、死傷者も増えるに及んで攻城兵員の援助を受けなければならない戦況となった。
戦況を打開すべく、3月25日薩軍は水攻めに打って出る。熊本城を孤立させ官軍城兵を足止めさせようという作戦である。
細工町5丁目裏に築堤がはじまり、月末には高さ5.5mに達した。そして水位は徐々に上がり熊本城北側の井芹川水系では、水位が2mほど上り「西北湖となる」とある。
坪井川上流部の低地寺原周辺でも出水したことが記録されている。
このように広範な地域が、このように早く湖になるとは想像できない。
記録写真では段山周辺が湖に飛び出した半島のようなありさまで写されている。

今日は全国的に大雨の情報が出ている。熊本はまだ大雨の気配はないが、そろそろ雨域に入りそうな気配である。
100㎜を越える雨が降った地域もあるようで、災害の恐れも出ている。地震災害の地などに、何事もないことを祈るばかりである。

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■それぞれの悲喜劇(5)-興孝(刑部家初代)

2022-03-25 08:25:49 | 歴史

 今回は誕生順ではなく、前回の宇土支藩の租・立孝と生母(清田氏幾知)が同じということで興孝を取り上げる。
兄・立孝は父・忠興から溺愛されたが、弟・興孝は疎んじられた。興孝の悲劇は長い江戸證人の生活がもたらしたのであったのかもしれない。
豊前生まれだが、元和5年(1619)わずか3歳にて父・忠興の為に證人として江戸へ送られた。
兄忠利も江戸證人を務めたが、これは将軍家の好遇を得て父三斎の継嗣とせられた。
一方興孝の江戸生活は長期に及び、望んだ天草島原の乱に於ける初陣も認められず鬱憤をため込んでいく。
どうやらこの辺りで三斎との関係が悪くなったと思われる。それを伺わせる忠利の書状がある。

■寛永15年12月5日光利(光尚)江之御書之内
 同名刑部事身上成不申候、迷惑仕付而金子かされ候由、我等分別に相不申候、子之事ニて候へは三齋様御こらし候ハんと思召、迷惑仕様ニ被仰付候ニ、肥後取持候事、却而刑部為如何と存よし、其上其方より銀なと参候由、八代へ聞候ハヽ、弥跡を御詰候事可有之候、又御失念ニ而候事も為には落ちにて候ヘハ、明く父子ものにて無之候に着き、弥刑部為如何と有ん入候落ちにて候ヘハ、明く父子ものにて無之候に着き、弥刑部為如何と有ん入候

■寛永16年正月6日光利君江被仰進候御書(抜粋)  (正月四日忠利は八代に三齋を見舞っている)
 同名刑部事中を御たかい候而御誓文にて御直り候ましきとの儀ニ付而、左候へハ人しちニ進上被成候、刑部三齋様と中たかいニ落付候へハ、 公儀へ人しちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間、立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ、尤との被仰様ニ候(以下略)

■寛永16年9月2日光利(光尚)君御自筆之御口上書之控
  八月卅日ニ酒讃岐殿へ私参申候、口上之覚
 立允事越中弟ニ而御座候へども、越中肥後へ罷下候刻、又越中江戸へ罷越候刻計ニ八代より参候まで、ふだんハ八代ニ計居申候故、立允心をも越中ハ不存候故、兄弟之儀ニ御座候得共、大国をも拝領仕、立允かくごをもミとヾけ不申候而、むさと知行なと遣ハけニ而も無御座候、然共為能力三万石遣置申候事

 扶持をまったく与えられず、光利(光尚)に借金の申し入れをした刑部の経済状況や、三齋との修復不可能な仲違い状況、そして立允が刑部に替わり証人として江戸へ下されるであろう前段の話として、大変興味深い。
「仲違い状態の人間を(江戸に)人質として置くのは公儀に対して役に立たない」という認識が大変面白い。 

 帰国を許され寛永17年(1640)正月4日帰国の途に就いた。
実に21年に及ぶ證人生活であった。途中発病し伏見で滞留、小康を得るもなぜか室津で剃髪、3月21日に熊本に着いた。
興孝と三斎の仲違いは避けがたい現実のものとなった。
興孝は安國寺に入る。その後療養のためとして隈府(菊池市)の茶屋に移った。3年間の在郷を許され11,500石を拝領。
翌18年には忠利が死去。正保2年12月に父・三斎が死去すると、翌3年9月には光尚により25,000石が給され城内・古京町に転居する。
寛文4年閏5月隠居(隠居料1,000石)して立白と称するが、その前年の7月生母・幾知が熊本で死去している。穏やかな母子の交流があったものと思われる。
そして延宝7年12月死去、63歳。泰勝寺塔頭・慈眼庵の墓地に眠っているが、生母・幾知のお墓もここに存在する。

 三斎の晩年八代在住の折、一度だけ相まみえたと言われている。(現況詳細を知り得ない)
 

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■タンポポとてふてふ

2022-03-24 16:09:54 | 徒然

  

 昨日は10日ぶりほどで暖房を入れましたが、今日は一転ポカポカ天気、散歩の途中でタンポポやてふてふの姿を見つけました。
いろいろ片付けものをしていて、傘寿爺様はやや疲れ気味で、ふらふらしながら3.5㌔を歩きました。

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■藤崎宮周辺

2022-03-24 13:08:07 | 歴史

  

 西南戦争で焼け落ちる前の藤崎宮である。(史料「御警固」から)
華麗な姿を見せている。絵図による前の道路が薬師坂、坂下(右手)の手前側に薬師堂があった。

御社の右手が「豆腐谷」、がけ下が新町一丁目である。
御社の真裏はは神宮寺、左手の道はまっすぐ住之江門前に進み二の丸へと至る。
御社の前に階段があり鳥居が見えているが、右の写真・西南の役後の写真に見えている。
左へ下る坂がありこれが「槙島坂」、つまり手前側に右・片山邸、左槙島邸と言うことになる。
現在では古城から写したパノラマ写真5枚からこの一帯の状況が見て取れる。(熊本城顕彰会会誌・熊本城-復刻12号 p8)

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■槙島氏・島氏・片山氏

2022-03-24 08:08:05 | 先祖附

 昨日記した「段山」、西南戦争に於いては井芹川の方から攻めあがってくる薩摩軍に対して、官軍は片山邸跡・藤崎宮西の豆腐谷周辺を防御線として大激戦が行われた。
江戸期の絵図と後の地図を比較すると、少々食い違いがあり詳細な比較は困難に思えるが、片山邸跡はJRの線路を背中にして南側は市電が敷設されている路面から更に崖地にやや入り込むという位置関係のようだ。
片山邸とする資料もあれば、島邸+片山邸とする資料もある。古い絵図を見ると槙島邸+片山邸である。
新町から藤崎宮に登る坂が薬師坂、上り口左側に薬師堂が見える。槙坂邸の前を北に下る坂が槙島坂、下り終った所の左手に「堀」の書き込みがある所が「放生池」である。
いづれにしろ、下記のような勇猛の士がこの一角を守っていた。

                                     

時代を通じて存在していたと思われるのが片山氏、多門や典膳を名乗る。3代目が出頭番頭や旅家老を勤め、以降代々そういう家格の意得である。2,000石。
      1、加左衛門  
       原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚(綿考輯録・巻四十九)
              御詰衆・七番有吉清助組・与脇二百石 
                 貞享五年五月七日ニ而被仰渡候也、
                 預地ニ而候間廿壱石手取ニ沙汰可仕事
         片山嘉左衛門 遠祖は赤松則村にして其数世の孫なり嘉左衛門加藤清正に仕へ、
                 細川氏の時数十町の地を賜る。尚嘉左衛門は水利土工の術に長じ、
                 阿蘇郡久木野村に潅漑用の井手を掘搾し、水利の便を計る。
                 享保二年八月没す、享年八十。

槙島坂の名前が残る槙島氏、初代は足利氏家臣・槙島昭光、細川忠興に仕えて「云庵(雲庵)」弟一色杢と共に八代に入り三斎に仕えた。この地を拝領したのは2代目ということになるか。  
      1、孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵雲庵) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主
        天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う  
        玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
        有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
        剃髪の名言庵と云                            (綿考輯録・巻二)

        慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
        玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)              (綿孝輯録・巻五)


        「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
        云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
        儀にて候間、被仰出御尤奉存候事          (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)

            千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)

       2、半之允・宣重(掃部)
        原城にて武功被賞
           寛永十五年三月朔日、於川尻嶋又左衛門跡御番頭被仰付 (綿考輯録・巻五十)
            (1)人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附) 
            (2)有吉内膳組・御番頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
            (3)御番頭 大九郎組 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)


島氏が時折槙島氏の地に入っている。

    *庄右衛門  天正十年一色義有を御饗応の席にて被討果候節、一色之者と見誤、小腹を
            鑓にて突候故、一時はかりして果候、米田・有吉にも劣るましき者にて有しに
            惜しき事をしたりと後ニも被仰候と也、此節家断絶、

    1、又左衛門・信由(甥)  
            (庄右衛門)甥又左衛門信由、金森法印()之頼にて慶長七年豊前にて千石拝領、
            有馬討死                 (綿考輯録・巻九より)

            千石内三百石二男庄右衛門へ分知(綿考輯録)
              (1)馬廻組三番組 「丹後」 千石 (於豊前小倉御侍帳) 
              (2)御馬廻衆・頭 千石 (肥後御入国宿割帳)

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■無くなった段山の姿は・・?

2022-03-23 08:04:47 | 熊本

 先の史談会の跡、U様が「槙島坂の位置は何処か?」とお尋ねがあった。
「槙島さんの屋敷前の坂」であるのは承知しているが、現在はどうかと言うとなかなかその場所ははっきりしない。
その槙島さんの屋敷が記載されている絵図は少なく、熊本市史の地図篇の「二ノ丸之絵図」に登場する。
八旛宮(藤崎宮)の目の前である。そこに片山邸と槙島邸がある。のちにはこの二つの敷地が「片山邸」になった。
いわゆる段山(だにやま)と熊本城域がくびれたあたりに薬師坂があり、その先にこの槙島坂が北の本妙寺田畑へ至る陣橋へ下りていた。
熊本城域から舌状に伸びるこの「段山」と言うところは、一段下がった小高い丘陵地だったと思われる。
7~8mくらいの高さでスロープ状で島崎地区に下っていたのだろうと考えているが如何だろう。
このくびれ部分が後に開削されて、現在路面電車が走り、片岡・槙島邸の西側にはJRが通っている。
故に薬師坂は藤崎台童園に上る道で右手に藤崎台球場がみえる。その先に駐車場が広がりつながっているはずの槙島坂は現在は存在しない。

 その片山邸は西南戦争の際には、この場所に官軍の砲台が置かれ、攻めあがってくる薩摩軍と大激戦の地となった。
桐野利明は鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官として熊本に明治5年に赴任し熊本城には詳しかった。
薬師坂も槙島坂もここを破られると二の丸方面へ薩摩軍の侵入を許すことになる。
かっては薩摩藩の人々が、参勤で利用した脇街道であり、かって知ったる場所であったろうが、「簡単に破る」と豪語した桐野のも方策が付き、清正が作った名城は破られることはなかった。
改めてこの坂道や、大激戦が行われた段山をよく理解しなければと、古地図や大正初期の都市計画図、ゼンリン地図、WEBの国土地理院地図で断面図で眺めたり、グーグルアースで眺めたり、大掛かりな地図散歩であった。

 人の上げ足を取る訳ではないが、熊本城おもてなし武将隊のブログに写真付きで槙島坂が紹介されているが、残念ながらこれは間違いではなかろうか。この立派な坂は何処だろう、そちらの方が気になっている。
また、あのGoogleさんの地図も間違いを犯していた。ほつともつと熊本店の裏手にある坂道に槙島坂の書き込みがあった。
いまはない段山の姿はどういうものであったろうか、今後の課題としたい。
写真など残っていないものかと思うのだが・・こんなことをしていたら、昨日はほとんど一日を過ごしてしまった。

                         

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■「確認作業中」2-いよいよ処分を決意

2022-03-22 07:09:26 | 史料

                                   
 史料の置き場所がないから、ある史料の箱は地震後の引っ越し以来、私の洋服ダンスの上に乗っかっているものがある。 
箱の中身は「有禄士族基本帳」の原本のコピー等の筈(?)である。
この度傘寿爺様は力をふりしぼって、1.75mの高さからこの重い箱を下すことにした。

あまりの重さに案の定持ちこたえることが出来ず、なんとか胸で受けてしまった。

 入っていたのは「1、有禄士族基本帳」「2、譜代家来名附」「3、陽春集」「4、細川家家譜」「5、小山田次郎兵衛日記記録」等々である。
そしてここにある「1、有禄士族基本帳」「2、譜代家来名附」は、その名簿をすべてタイピングしてデータベース化した。
今皆さんが御覧になっている「有禄士族基本帳」である。

これを御覧になった方が、先祖探しに使っていただき多くの方が「先祖附」取得に結び付き喜こんで頂けた。
頑張ってつくった甲斐があったというものだ。

「3、陽春集」は細川齊護の道中記である。これもすべてブログでご紹介した。
「4、細川家家譜」は誠に膨大で、これは卒寿の爺様にとっては、タイピングは無理だろうと思うが、何とかスキャンニングしてみようかと思うが、1,000頁以上はある大物である。
「5、小山田次郎兵衛日記記録」は懐かしい。ここに隠れていた。地震後の引っ越しの際この箱に押し込んだものだろう。
もうお止めになったが、かっての史談会会員のF様から頂戴した貴重な記録のコピーである。

3、4、5 は改めて保存を考えている。
1、2 については幾たびも処分を考えたが、何となく処分しずらいものがあった中、そろそろその時期が来たかと観念している。
欲しいと思われる奇特な方が居られれば、お譲りするのにやぶさかではない。(乞ご連絡)

只気がかりが一つある。5・6年前図書館に出かけたところ、司書の方から、私の「有禄士族基本帳」に欠落している処があるとの指摘を受けた。
それと言うのも、図書館を訪れた方が指摘されたものらしい。その時はその方の名前が判らず修正はできずに今日に至っている。
今一度、処分前に照合をしようかと考えている。終った原稿は毎週のゴミ出し日にお世話になろうという魂胆である。
まさに終活である。

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■昨日、桜開花宣言

2022-03-21 14:20:09 | 熊本

 熊本では昨日、桜の開花宣言があった。
数日23~4℃という温かさのせいだろうが、宣言と同時に花冷えとなって、片付けようかと思っていた冬物を又取り出して着込んでいる。

「くまもと花とみどりの博覧会」が19日にオープン、その意味では良いタイミングだった。
例年の通り、私は毎日散歩の途中で花見を楽しんでいる。今年は自衛隊通りの桜はかなりの数切り倒された。
こちらはまことにタイミングが悪いことで、年度末の予算消化のような感じがする。

処で、東区健軍の自衛隊当たりの桜は、とても開花二日目とは思えない。もう四五日経過したという感じである。
一番右は、自衛隊の中の枝垂れ桜。高さは10m以上あるかもしれない大きなものです。

      

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