津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■影と願

2021-09-30 17:08:54 | 書籍・読書

 最近購入した「文豪と俳句」を読んでいたら、誠に面白い話が紹介されていた。(p33)
高浜虚子が幸田露伴に手紙を送り「巡礼の笠にあるさくらかな」という句を添えたところ、露伴はこの句の一文字「影」を「願」と読み違えてしまったというのだ。
正岡子規が露伴を尋ねた折、露伴は虚子の手紙を取り出して「巡礼の笠にあるさくらかな」と紹介したらしい。
まわりまわって子規から虚子の元へ、伝えられたそうだ。

虚子は露伴を大いに尊敬していたので、露伴の読み違えを了とし、露伴の読みに依る句を自分の句にしたという。

さて「くずし字用例辞典」から二つの文字を取り出してみたのが、このようなものである。

                                                     

 さて、古文書の世界では何ともいただけない話でる。筆に慣れ親しんだ露伴先生もこのような結果になるとは?
虚子先生がどのような「」なる字を書かれていたのか、手紙に書かれている字だから小さい文字であったろうが、よく似た字体だとは言え、文脈を追って文字を特定するという古文書の世界では起りえない話ではある。
しかし露伴先生は即座に「」という文字をもって、句の世界における回答を得られたのだろう。
間違いは間違いで何とも不思議な話ではある。

一文字の読解に苦労している身からすると、「ありえない~」と叫びたいところだ。

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■川田順著「幽齋大居士」‐はしがき

2021-09-30 06:56:37 | 書籍・読書

 幽齋大居士
    はしがき

 戰國時代最高の教養人を描き出さうとする。文にして武、武にして文、兩者一如の
一偉人を寫し出さうとする。
 史傳かと訊かれたならば、無条件の肯定は致しかねる。何故とならば、古文獻を参
考とし、あらまし歴史に據りながらも、筆者の空想と相違とを往々挿入れるであろう
から。小説かと問はれたならば、むろん「否」と答へる。何故とならば、時々小説的
描寫を試みつゝも、全體として筋の發展といふ程のものを企てないから。随筆かと尋
ねられるか。大分それらしいふしもある。論文かと言はれるか。少々は歌論や史論も
試みるであらう。
かやうに、何とも定義しがたき悪文を以つて、敢へて幽齋大居士に近づかうとする。
 讀者の便宜のため、主人公の略歴を最初に掲げるがよかろう。如左。
 天文三年、三淵伊賀守晴員の子として生まれ、萬吉と穪した。七年、細川元常の養
嗣子となる。細川氏は清和源氏、代々足利將軍家の要職にゐた名門。萬吉も將軍に近
侍し、義藤(後に義輝と改む)の諱字を授けられて藤孝と改名した。永禄八年五月三好
松永のために義輝弑せられ、その弟義昭も亦危かつたが、藤孝奇計を以つて助け、共
に織田信長に投じた。十一年十月、信長、義昭を奉じて將軍とした。天正元年七月、
義昭は信長を伐たんとして却つて敗れ、室町將軍家滅亡。この時、藤孝は信長に属し
て淀城を攻略し、功により京都桂川以西の地を賜はり、長岡に館して長岡を族穪とし
た。四年三月、信長に從ひ一向衆徒を石山に攻め、翌年二月、紀州雑賀征伐に加はり
て力戰した。八年九月、丹後に封ぜられ、やがて一色氏を亡ぼして同國田邊城に移
る。九年、羽柴秀吉中國征伐の際、藤孝は因伯の境に出兵して、これを聲援した。十
年六月本能寺の變に遇ひ、剃髪して幽齋玄旨と號す。十三年三月、秀吉の根來征伐に
從ひ、十月從二位法印に敍せらる。十五年三月豊臣秀吉の九州を征するや、幽齋も行
きて九州道の記を著す。十八年、小田原に出陣し東國陣道の記を著す。 文禄元年三
月、豐太閤に随ひ名護屋の本營に赴く七月、島津歳久の罪を問ふべく薩摩に出張。三
年二月、豐太閤の吉野山觀櫻に随行した。慶長三年八月秀吉薨去。五年、石田三成が
徳川家康を伐たんとした時、幽齋父子を誘つたけれども、拒否した。七月、三成の軍
田邉城を攻めたが、幽齋奮戰して、容易に陥落しない。朝廷、幽齋の死によつて歌道
の廢れんことを憂へ給ひ、勅旨をもつて包圍を解かしめられた。九月、關ヶ原役の直
前、幽齋 田邊城を去つて、一時高野山に遁れた。十一月、嗣子忠興豊前小倉に封ぜ
られて田邊を去つたが、爾來幽齋は多く京都で暮したらしい。家は吉田山の麓に在つ
た。十五年八月廿日京都に薨、年七十七。幽齋、若くして三條西實枝に和歌を學び、
後、古今傳授を承け二條流歌學の権威となる。家集を衆妙衆といふ。明治三十五年十
一月十二日、正二位を追贈せらる。

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■「細川小倉藩年表稿」を・・・

2021-09-30 06:24:34 | 徒然

 細川家の小倉藩時代のある事件を調べているが、「福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩」を読んでもうかがい知れないことが多々ある。
忠興時代の史料が抜け落ちているのだが、これはこれ等の史料が忠利の熊本移封に伴い、八代に移されたことによるものと思われる。
三斎の死後、これらの史料は宇土支藩に移された。
その後、一部は戦後九州大学に収められているが、その他の史料は水害や戦災などで散逸したと聞く。
山本博文氏の名著「江戸城の宮廷政治」は、三斎忠興と忠利父子の間でやり取りされた多くの書簡をベースに、丁度この時代を舞台にして書かれている。
素晴らしい著作で座右して読んでいるが、これとて望むものがすべて網羅されているものではない。
同著や「綿考輯録」「永源師壇紀年録」「福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩」「大日本近世史料‐細川家史料」「松井家史料」「内膳家傳」「沼田家記」や、「先祖附」を含む諸家記録などを網羅して、何とかこれを作り上げたいと念願している。
慶長15年(1600)の豊前入国から、寛永9年(1632)の肥後入国までの32年間の年表である。
ノートを準備するのも面倒で、直接PCに打ち込み始めた。まだまだ情けないほどの量しかないが、10年もかければそれなりのものが出来るのではないかと考えている。春名徹氏の「細川三代」や、稲葉継陽氏の「細川忠利」、林千寿氏の「家老の忠義」その他各種論考なども読みヒントをもらいながら、ぬけがないようにしなければならないと思っている。

長生きせねばならん・・ということだ。

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■川田順著「細川幽齋」‐序

2021-09-29 06:42:58 | 書籍・読書

           

          序
 文星にして、その詩歌よりも、その人間の方に一しほ含蓄多分の者がある。古今東
西に例は不尠とおもふが、日本では、前の西行法師、後の細川幽齋なども此の種に属
する者であらう。今日の語を用ゐれば、幽齋は戰國時代最高の「文化人」であつた。
彼は學問と藝術とを生活化した、眞個の文化人であった。亂世の武門に生れ、治國平
天下を理念とした彼が、武を用ゐたのは當前だが、武を用ゐるにも必ずその所を考へ
た。おのれの利益のために私闘を試みた形蹟は見えない。信長に仕へ、秀吉に與み
し、家康を援けたのは、無節操にあらずして、斯くすることが即ち天下に和平をもた
らす所以と判斷した爲であつた。
 「幽齋大居士」は今年九月以降の週刊朝日に連載した物語やうの散文であり、「歌
仙幽齋」は、昭和十九年執筆の歌論的研究である。兩篇、性質は甚しく異なるけれど
も、併せて讀んでいただくならば、此の巨人の全貌が浮ぶであらうとい愚考する。
  昭和二十年十二月
                        川田 順

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■上田久兵衛忌

2021-09-29 06:37:29 | 自分史

                

 今日は高祖父(曾祖母の実父)上田久兵衛が刎首の刑に処せられた日である。144年になる。
獄中では筆も料紙も与えられず、「元結」の撚りをほどいて、箸の漆をかみ砕いて爪楊枝で認めたとされる遺書ともいうべき歌が残されている。
毎年の事だが仏壇に手を合わせて、無念の思いを共有するのみである。
私は辞世の句「秋風のたよりに聞けば古さとの萩か花妻今さかりなり」に秘めた妻(曾祖母の実母)への思いに彼の心のやさしさを学ぶのである。良い先祖をもったと思っている。

追記 11:30・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10時前に散歩に出た。5キロコースを歩く中いつもは15mの車道の左側歩道を通るのだが、今日は右側の歩道を歩いてみた。
奇跡ともいうべきか、植え込みに萩の一叢を見つけた。しばし眺め、少々の時間手を合わせた。
ちなみに私は、今日の命日を辞世の句から「萩花忌」と勝手によんでいる。

                                                                    

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■次の展開として

2021-09-28 19:32:00 | 徒然

 昨日、一昨日とシリーズでご紹介してきた「有吉家文書解説」と「丹後史料」の二つが終了して、さて跡をどうしようかという思いが頭の中に充満している。
10月に成れば図書館も自由に使用できるかと思うが、コロナ禍の中では資料の収集が出来ずに誠に難儀した。
手持ちの資料でしのいできたが、限界の感が強い。しばらくは昭和21年に発刊された川田順氏の著作「細川幽齋」をご紹介しようと考えている。
戦後の大変な時期に発刊されたこの著作は、小泉八雲に師事したという作家・実業家・歌人としての著者の高邁な理想に燃えた作品だと理解している。物資不足の中で質の悪い紙の使用や、活字の不足なのかまたは活字を拾う植字工の不足なのか、誤字脱字などが見受けられるが、わかる範囲で修正を加えながらご紹介していこうと考えている。
ご覧いただければ幸いである。

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■綱吉、甲府中納言を養子とす

2021-09-28 07:19:11 | オークション

                 細川綱利「泰勝寺侍者宛 十二月五日書状」

                                   

 ヤフーオークションに出品されている細川綱利の書状である。
ちょっと興味ある内容である。つまり将軍綱吉が甲府中納言(綱豊)を養子に迎えたことが記されている。

綱吉の兄・綱重の子だが、生母が身分の低い女中であったため一時期外に出されている。
しかしまさにここに記されている日付(宝永元年)に西の丸に入ったとされる。その日を以て正式に継嗣となされたのであろう。のちに6代将軍となる家宣その人である。
この日付からすると江戸から泰勝寺に宛てたことがうかがえる。家老に宛てれば済むことだと思うが、泰勝寺に宛てたというのはなぜだろうかと首をかしげざるを得ない。

家宣の人生は波乱万丈ともいえるが、将軍職にあったのはわずか三年、家宣の死去に伴い嫡子・家継が6歳で7代将軍となったが在任は三年である。家宣と家継の治世の時期を特に「正徳の治」というが、これに伴い8代将軍として吉宗が登場することになる。
綱吉が死に吉宗が登場するまでわずか6年余であることに驚かされる。


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■笑ってしまったこと

2021-09-27 09:33:26 | 歴史

 先日から「三斎(忠興)公」の書簡についていろいろふれたが、改めて私のコピーコレクションを眺め返している。
またWEB上で新しい情報はないかとググっていたら、九州国立博物館で収蔵の「書」の展観が始まるようだ。
         https://collection.kyuhaku.jp/gallery/12654.html
同館にはhttps://collection.kyuhaku.jp/gallery/13342.htmlといった寛永11年の書状、また天草島原の乱に関する書状https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/YP7?locale=jaもある。
これらは拝見できるのだろうか?
刀剣ワールドというサイトには、牧左馬允に宛てた書状がある。
又昨年に中津市で転換された書状が現在PDFで紹介されているが、これは寛永8年に「伽羅」の購入に関する書状であり興味深い。釈文もついていて勉強におおいに助かる。

他にもいろいろあるだろうと思い「三斎書簡」と検索をかけて、「画像」をクリックしたら結構あるではないか。
しかしよくよく見れば、なんと私のサイトからいくつかここに流れていた。思わず笑ってしまった。

それでも太陽コレクション所蔵の書状が数点見出せたし、その他にもいろいろ散見できた。
これらを大いに睨みつけながら、ご依頼のあった文書の解読に精を出したいと思っている。
9割方は解読できているのだが、あと一息の数文字に大いに難儀している。

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■丹後舊事記・巻之五から(15-了)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(四)

2021-09-27 07:09:56 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又同國龜山の城主前田
玄以法印内主膳正も終に領地を召放されしかば兼て仰を蒙りたる北條左衛門父子龜山の城番を勤めける、
然れども去年忠志を勵し内應せし故に本領五萬石を其子主膳正に授られけるが慶長十三年六月利宗亂心し
て家潰れける也其故又家康公龜井武藏守滋矩を召玉ひ足下は因州鳥取へ馳向宮部兵部が居城を受取べしと
有に依而武州彼地へはせ趣く。爰に播州小鹽の城主赤松則祐十代の孫に赤松左衛門廣範 (但馬竹田城主軍記
の違なり)と云者兼て内府公へ志有けれ共催促に随ひ丹後國へ陣を出し其後領地へ歸りけるが龜井武藏守鳥
取へ發向するを聞てもし宮部が郎党ども城を守に於ては軍功を顯はし田邊の城を攻し罪を輔くべしとて鳥
取へ出馬せしが家人城を渡すに依て赤松本意なく思ひけるとなり、家康公曰く赤松は浮田が妹聟なれば其
科重しと評定有て彼を誅すべき由を龜井武藏守へ御下知有に依て十一月廿九日廣範鳥取に於て切腹す。遺
言によつて其家臣野村彌市郎主人の首を龜井に渡しける彼野村は赤松家にて人の知りたる者なるにより滋
矩食禄を授くべしと有けれども一向承引せざりけり。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回を以て「丹後舊事記」は終了いたしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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■三斎の書簡を読む

2021-09-26 08:37:42 | 史料

 最近ある方がヤフオクで三斎の書簡を手に入れれられた。大変高額の「極」がついた正真正銘の三斎公の書簡である。
     「極付」これぞ三斎公筆
それを読んでほしいとの申し出を受けた。少々時間を頂戴して何とかチャレンジしてみたいと思っている。
三斎の筆跡は自由奔放なところがあり中々読みずらい。
私は、M家所蔵文書のコピーや、展覧会の図録・ヤフーオークションの古文書等をコピーして収集しているが、すべてが網羅できるわけではないから、まさに手探り状態である。
それでも上記書簡をできる限りを読んだ後、コレクションともいうべき三斎忠興の書簡のコピーを改めて眺めていると、そこに二三のヒントを見出し、読解の手助けをしてくれる。
それに加えて文章の流れや、その時代独特の熟語や省略可されている人名の知識なども必要になってくる。
 
    原文           元和四年の茶会の道具附に於ける「信及」の文字
                                                                                            図録「細川家の至宝‐珠玉の永青文庫コレクション」p164

上記の原文を見た当初、悪戦苦闘し挙句「言上請一木□」と読んで、全く意味が通じずしばらく置いたが、「上請」が「」であることが資料で判明(上記写真・右)、そこで一気に「言(云)庵・一木工」であることが判った。
「言(云)庵」は槙島昭光のことである。我が家の先祖附には「雲庵」と書かれいるから「うんあん」と読むのであろうか。
「庵」の字については「崩し字用例辞典」をみてもこのような崩しは紹介されていないから、三斎独特のものなのだろう。
これが判明したら、下の三文字は一気に読めたのだが、これは「言庵」の弟・一色杢之助のことだと判る。
一色の「色」を省略、杢を「木工」としている。言庵・杢之助兄弟は三斎に近侍した。

古文書を読むのは謎解きの世界だ。たった五文字を読むのに一日を過ごしてしまったが、悪戦苦闘もまた楽しではある。

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有吉家文書解説「年中行事抜粋」(四十七・了)四日政府出初、同日時習館出初、東榭御入之事

2021-09-26 07:32:56 | 有吉家文書

○ 四日政府出初

一、麻上下着四時出仕之事 但上張有無勝手次第
  麻裃を着け四つ時(10時)出仕の事 但上張りの有無は勝手次第
一、御熨斗坊主持出候間座順之通頂戴仕候事
        御奉行
        御目附
        御郡御目附
        御勘定頭
  右之通一切ニて詰間江罷出候事
     右之外御勘定所御目附御郡代根役等有之候節ハ本行一同ニ罷出候事
  御熨斗は坊主が持出すので、座順の通り頂戴する事
        御奉行・御目附・御郡御目附・御勘定頭
  右の通り一切にて詰間へ罷り出る事
     右の外、御勘定所御目附・御郡代根役等之ある節は本行一同に罷り出る事
一、正福寺定例御祈祷之神酒供物等出候間坐順之通頂戴欠席之人江者供物等少完包分出席之坊主より差出候事
     但追々御祈祷之品々出候節右之通ニ候事
  付紙
     文化十三年正月四日神酒供物出不申候付寺社方江承候処戌年より御省略中ハ御礼計出候由

  正福寺定例御祈祷の神酒・供物等出されるので、坐順の通り頂戴し欠席の人へは供物等少し完包分出席の坊主より差出す事
     但追々御祈祷の品々出される節は右の通り事
  付紙
     文化十三年正月四日神酒・供物出申さずに付、寺社方へ承れば戌年より御省略中は御礼計り出る由
一、五日頃まてハ御用番茂見計早引不苦加番も十五日まてハ早引勝手次第之事
  五日頃まては御用番も見計い早引苦しからず、加番も十五日まては早引勝手次第の事


 ○ 同日時習館出初

一、五半時揃ニ而麻上下着同刻例之通出席前別黙之事
  五つ半時(9時)揃にて麻裃を着し、同刻例の通り出席前別黙の事
一、詰間江者助教学校御目附罷出候
  詰間へは助教・学校御目附罷出る
一、講堂江師役繰付ニ相成候上学校御目附より案内有之御使番不罷出出席堂中東側北より二間半五畳目ニ座着不相替目出
  度段
会尺いたし直ニ詰間江退去之事
  講堂へ師役繰付に成れば、学校御目附より案内有り、御使番罷出づ出席堂中東側北より二間半五畳目に座着、相替らず目出度段会釈いたし直に
    詰間へ
退去の事
一、助教以下ハ堂中北頭ニ西側より南側ニ折廻しニ座着之事
     但今日之師役は助教初算学師等館中之師役待てニ而武芸藝之師役不罷出候事
  助教以下は堂中北頭に西側より南側に折廻しに座着の事
     但今日の師役は助教初め算学師等館中の師役待てにて武芸藝の師役は罷出ずの事
一、右相済又学校御目附詰間江罷出候間一ト通致会尺候退去之事右之通相済政府江出仕候事
  右相済み又学校御目附詰間へ罷出る間、一ト通り会釈いたして退去の事、右の通り相済み政府へ出仕の事


 ○ 東榭
  御入之事

一、講堂講尺相済直ニ御供廻被仰出候左候得者御供申上候前見計尊明閣之上まて罷出居御供申上ニ相成候之節御敷出ニ下
  落椽江出御敷出東
之方ニ罷出候大御目附ハ同席之横南之方ニ差出ニ相成候事
  講堂講尺相済め直に御供廻り仰出される、左あれば御供申上げる前を見計らい尊明閣の上まて罷り出居り御供申上に成りたる節、御敷出に下
  落椽へ出、御敷出東の方に罷り出て大御目附は同席(家老)の横南の方に差出し成る事

一、夫より東榭弓之榭入る口より被為入右之所茂落椽ニて御敷出出来ニ相成居候事
     但同席ハ御跡より直ニ御供申上刀ハ坊主ニ申付置候得ハ坊主尊明閣下まて持参候間直ニ御敷出横脇ニより見計
     直ニ刀を差坊主一人草履取
一人召連候事

  夫より東榭弓の榭入る口より入りなされ、右の所も落椽にて御敷出出来に成り居る事
     但同席は御跡より直に御供申し上げ、刀は坊主に申付け置けば、坊主尊明閣下まて持参するので直に御敷出横脇により見計い、直に刀を差
     し坊主一人草履取一人を召連る事

一、御居間者弓之榭場之下り口之脇ニ御屏風運ニ而出来ニ相成居候事
  御居間は弓之榭場之下り口の脇に御屏風運びて出来に成り居る事
一、同席之休憩所ハ見分之節休息所出来ニ相成居候所より少東ニより出来ニ相成居候事
     但坊主ハ跡より付参居煙草盆差出候事
  同席(家老)の休憩所は見分の節休息所出来に成り居る所より少し東により出来に成り居る事
     但坊主は跡より付参り居り、煙草盆差出の事
一、御覧所ハ東榭中程より少南ニ寄小御屏風ニ而出来ニ同席之致坐着居候所ハ北之方江二枚屏風立居其脇ニ坐着いたし候
  事
  御覧所は東榭中程より少南に寄り小御屏風にて出来に、同席(家老)の坐着いたし居る所は北の方へ二枚屏風立ち居り其脇に坐着いたす事
一、上江者名付差上ニ相成候事
     但同席者無之候事
  上(殿様)へは名付差上げに相成る事
     但同席(家老)は之なき事
一、御立前江為入候上一度被召出候其節ハ御用人より案内有之候事
  御立(帰館)前へお入なされたる上、一度召出さる、其節は御用人より案内有る事
一、御立之筋見計御敷出南之方に罷出候尤至而之狭所ニ付壁ニ引付罷出候見計御辞儀申上候事
  御立の筋を見計い御敷出南の方に罷り出る、尤至って狭い所に付壁に引付罷り出て見計い御辞儀申上る事
一、御立跡より直ニ供は坊主申付引取候事
  御立跡より直に供は坊主に申付け引取る事
一、御跡より直ニ出勤奉窺御機嫌候併刻限次第ニ直ニ引取候事
  御跡より直に出勤、御機嫌伺い奉り併て刻限次第に直に引取る事

 

  ・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・今回を以て有吉家文書解説「年中行事抜粋」は終了いたしました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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■細川家大火忠死誉

2021-09-25 09:33:46 | オークション

       

 明治22年に制作されたという三枚摺りの浮世絵「細川家大火忠死誉」がヤフオクに登場している。
三枚が状態よく一緒に出品されるのは珍しいのではないか。
この主題は「細川の血達磨」とか「肥後の血達磨」とかよばれ、歌舞伎や講談で知られている。
歌舞伎役者絵として「蔦模様血染御書」があるが、初代左団次の役者絵である。

この話はいくつかの事件をつなぎ合わせて、面白おかしく作り上げられた創作ものであろう。
つまり主人公大川友右衛門印南数馬の衆道の関係と、それらを御咎めを受けることがないことに恩義に感じた友右衛門が、細川邸の火事の際に床の間にある大事な達磨の御軸を守ろうと、自らの腹をきり是に収めて守り切ったという話である。
現在ではこのように芸術文化の世界でその一角に確実な地歩を占めている。

 過去にも何度かこのことに触れている。
    覚え-岡倉天心「茶の本」より  「肥後の血達磨」異説

ここにこの話の出典とする二冊の本をご紹介しておくが、この記事を書くにあたり岡倉天心の「茶の本」を読み返しているが該当記事が出てこない。まさか嘘は書いてはいまいから、よくよく過去の記事を読んでみたら訳者が異なる浅野晃訳の「茶の本」であった。天心の「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」とともに、日本の文化や道徳といったものを西欧に紹介した高邁な思想史だと私は思っているが、あまりにも下世話な細川家の「血達磨」の話が登場しているとはいまだに信じられないが、目を通したのであろうその訳本は現在私の本棚には見当たらない。
ともあれ自分の書いたものを信じておきたい。

                 

 ちなみに山田美妙の「新体詩」に「大川友右衛門」があることをご紹介しておきたい。(第九)をクリックされたし。

 

   

コメント (2)
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■丹後舊事記・巻之五から(14)羽柴越中守忠興濃州歸陣之事(三)

2021-09-25 06:27:53 | 史料

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・去程に福知山の城兵蛇ヶ鼻を引取て城に籠りければ
攻軍城を責圍む城主小野木縫殿介は先月丹後を引拂ひ其後大阪へ趣き輝元長盛の下知を受て濃州へ馳せ下
らんとする所に關ヶ原合戰を終て程無く細川越中守福知山へ押寄ると聞えしかば合戰終って兵我城攻と聞
え安からずと小野木は大阪を發足して領所へ歸りける敵はや城を圍み城内へ入べき様なかりしかば重勝才
覺有物にて從者をば民家に隠して其身は裂織という賤の衣服を身に着して篠包に魚の入れたるを被て敵陣
を通り終に城中へ入りしなり、翌日忠興老臣の面々集めて宣ひけるは城の形成を見計るに昨日に替る所有
若近國より援兵するか然らずは城主小野木が外より紛れ入たるならん何にもせよ審盡を以て効をたて然る
べしとて頓て城中へ使者を遣し我等此地へ馳せ向ひたるは國の方角に從ふ定法なり貴方先日諸將をかたら
ひ老父を攻められし遺恨をはらすべき爲にはあらず然らば我等が異見する所を不疑承引せらるべし關ヶ原
の合戰敗れて後は遠國は知らず上方に於ては財を張る者一人もなし足下たとひ武略に長じ堅固に守城せら
るゝ共功更に有るべからず急ぎ城を退出し罪科を陳謝せらるべし内府も情有人なれば必宥免有べしと兎角
御邊之事は我等に任せ玉ふべしと有により小野木則剃髪して城を渡し其邊の民家へ入ければ忠興檢使を遣
し其方罪科遁れがたし切腹すべしと有ければ重勝近習の輩に向つて曰く先年北條氏攻ておめ/\城を明
渡し忽首を刎られし時氏康ならば尋常に城を守て討死せらるべしに父に劣りたる弱將かなと爪はじきして
笑ひつるが前車の覆るを後車の戒ともなさで今又城を明渡し坊主首を忠興に気らるゝ事末代の嘲りならん
然れども始終衛城して寄手を防ぎ戰ふに於ては日頃情をかけたりし手の者其城を枕にせんこと疑なし是憐
むべき所なりさあらば誤を飾る様なれ共昨日城を出でたる時老臣を召よせ申聞ける趣もあれば我等切腹す
る共忠興に對して恨をなさず急ぎ退散すべきよし汝等に申聞よとて切腹せしとかや、

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■今日も飽きずに4.7㌔

2021-09-24 12:33:51 | 徒然

 秋分の日もすぎて熊本はいわゆる「随兵寒合」で、朝夕はずいぶん涼しくなった。
昨晩はクーラーも切って就寝したが、クーラーが入っていると思い込んで何度も蹴やった毛布を手繰りこんだことだ。
朝食事後熱くならないうちにと散歩に出かける。先に書いたように最近では向かったコースの角々の信号次第で歩むことにしている。
今日は自衛隊の西と東のブロックを一周+付け足しで4.7㌔ほどを一時間少々で歩いた。
風は何となくひんやりとしているが、汗はかく。タオルで体をふくくらいの事では済まないからシャワーを被ることになる。
最近では奥方が、夕方散歩にすればシャワーは一回で済むと抗議しきりである。
悪友が「膝が痛いとかいろいろ言う割にはよく歩くな」と言ってくるが、階段の登り下りや、方向転換の折には大いに注意しなければならない。
早いところ「血糖由来の水虫」から名誉回復しなければならない。一応市販の薬で治まってはいるが、根を退治するためにはまずは「血糖値」を下げるという大命題がある。
ついでに体重も落としウエストも2~3センチ減らてスマートになろうという下心もある。
スマートホンにデータが残るのでこれで励まされているという一面もある。ありがたいことかどうか判らん・・・

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■有吉家文書解説「年中行事抜粋」(四十六)講堂御賞美申渡、同席之子弟御用左之通

2021-09-24 11:57:17 | 先祖附

  ○講堂御賞美申渡

一、三八之内講役ニ申渡候事
  三八(不詳)の内講役に申渡す事

一、前々日呼出之事
  前々日呼出の事
一、申渡并繰出之書附等講役ニ於君子斎御奉行差出候事
     但佐弐役茂致出席候事一両人位之節ハ佐弐役不罷出候付申渡之書附ハ前日ニも詰間ニおゐて請取候尤御小姓頭
     御使番も右同断にて繰出ハ学校御目附より取計候併講目ニ者御使番罷出候付居懸ニ取計候儀も有之候事
  申渡し并繰出の書附等は講役に於て君子斎御奉行が差出しの事
     但佐弐役も出席いたす事、一両人位の節は佐弐役は罷り出ぬに付申渡しの書附は前日にも詰間において請取ること、尤御小姓頭・御使番も
     同様にて繰出せば、学校御目附より取計いのこと、併講目には御使番罷出らるに付居懸に取計うことも有る事

一、講堂御間取年始御挨拶之通ニ候事
  講堂御間取は年始御挨拶の通りの事
一、繰出名附講後ニ御小姓頭江相渡宜時分同人より案内有之候事
  繰出名附は講後に御小姓頭へ渡し、宜しい時分に同人より案内有る事
一、出席之時東中側を通り屏風北迦より出坐此時御奉行御目附助教学校御目附一人東之入側之末ニ控居同席之跡ニ付致座
  着候事
     但此式ハ諸事御小姓頭より取計候事学校御目附ハ無拘両人共列座ニ而有之候助教ハ一人列座之事
  出席の時、東中側を通り屏風北迦より出坐、此時御奉行・御目附・助教・学校御目附一人東の入側の末に控え居り、同席の跡に付座着の事
     但此式は諸事御小姓頭より取計いの事、学校御目附は拘いなく両人共列座にて之あること、助教は一人列座の事
一、右御奉行以下同席之左之方壱間程離レ列坐之事学監ハ障子之内御用之面々出口より少引退北向ニ年始之通坐着此所之
  脇ニ御奉行以下筋違ニ座着之事
  右御奉行以下同席の左の方、壱間程離れ列坐の事、学監は障子の内御用の面々出口より少し引退り北向に年始のときの通りに坐着、此所の脇に
    御奉行以下筋違いに座着の事

一、御小姓頭ハ繰出口外南入側同席之方向南之障子を後ニ〆座着其次ニ御使番一人座着繰出候事
     但一人之御使番ハ障子之陰ニ居ニ而取計之事
  御小姓頭は繰出口の外南入側同席の方向南の障子を後に〆め座着、其次に御使番一人座着繰出しの事
     但一人の御使番は障子の陰に居にて取計いの事
一、御用之面々繰出様軽輩迄年始之通候事
  御用の面々繰出様は軽輩迄年始の通りの事
一、着座已上出所者畳壱枚進ミ座着之事
  着座以上出所は畳壱枚進み座着の事
一、当代者組頭無足ハ父兄同伴之事
     但軽輩茂同道人士席之節者同道人際内ニ入候事
  当代は組頭、無足は父兄同伴の事
     但軽輩も同道人士席の節は同道人際内に入る事
一、陪丞者文ハ訓導武ハ師役より同道有之候事
  陪丞は、文は訓導、武は師役より同道る事
一、右相済申渡書付者壱通も不致其席ニて学校御目附江相渡候事
     右申渡之書付御奉行江相渡書留事茂有之候得共本行之通ニ付学監江渡候方宜候事
  右のことが済み申渡しの書付は壱通も其席にて致さず学校御目附へ渡す事
     右申渡しの書付、御奉行へ渡し書留める事も有れ共、本行の通りに付学監へ渡すことが宜しき事
家伝之書付
  学監ニ申渡之書付を申渡相済之上相渡候儀申渡前ニ卒度申述置候筈之事右申渡書付ハ学校御目附受取追而佐弐役江致
  返納候事
(有吉家)家伝の書付
  学監に申渡の書付を申渡しが済んだ上渡すことは、申渡し前に卒度申述べ置く筈の事、右申渡しの書付は学校御目附が受取り、追て佐弐役へ返納
  いたす事

一、申渡之書付并不参之面々江申渡之書付其外詰間ニて助教へ相渡候諸書付無之候之事
  申渡しの書付并不参の面々へ申渡しの書付其外詰間にて助教へ相渡すこと、諸書付之なき事
一、年始と違此御用者相済候上同席廻有之候事
  年始と違い、此御用は済んだ上同席廻りが之有る事

  ○同席之子弟御用左之通

一、御用有之候段前々日詰間父兄出懸りに御用番坐ニ呼書付相渡候事
  文化十一年二月廿八日美濃嫡子小笠原孫次郎御用有之節遂吟味控置候事
  御用之あること、前々日詰間父兄出懸りに御用番坐に呼び書付相渡す事
  文化十一年二月廿八日美濃(8代長次・家老職)嫡子小笠原孫次郎(9代長視)御用之ある節遂吟味控置きの事
一、御請は其席ニ而一ト通御用番江申達罷帰候上御用番江使者口上書持参之事
     但御用有子弟御請ニ相見候儀無之候事
  御請は其席にて一ト通御用番へ申達し罷帰る上、御用番へ使者口上書持参の事
     但御用有る子弟御請に相見えることは之なき事
一、当日者肩衣着罷出候事
  当日は肩衣を着して罷出る事
一、同道人無之候事
  同道人は之なき事
一、右之通ニ付三家衆二男末子弟御用有之候ハヽ右ニ准可申事
  右之通に付、三家衆・二男・末子弟御用有れば右に准じ申べき事

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