津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■沢村大学憎しみの人三齋公

2019-04-30 13:14:26 | 歴史

 先年熊本大学付属図書館に寄託されている永青文庫所蔵の「沢村大学起請文」が公開された。
ここに記されている内容は驚くべきものが記されていた。それは三齋公に対する憎しみにも似た大学の心情を吐露し、その上で光尚に起請文として呈しているのである。光尚はどう思ったのであろうか。
逸見駿河守昌経の重臣として仕えた大学が、逸見家没落後忠興の臣・西川与助に足軽としてつかえ、度々の武功により立身した。
これはまさに三齋忠興によってである。
その三齋にたいする憎しみとも思える大学の心情が醸成された原因は何処にあるのだろうか。
資料から垣間見てみたいと思う。

 沢村大学・吉里(初・才八)  
        (1)三千石 頭衆 丹後 若州 (於豊前小倉御侍帳)
        (2)三千石 大学助  (肥後御入国宿割帳)
        (3)            (真源院様御代御侍名附)
        (4)五千石       (真源院様御代御侍免撫帳)
         
     生国若狭国高濱、逸見駿河守昌経()に仕、天正十年八月細川忠興臣西川与助足軽数度合戦に武功、豊前三千石、
     備頭 大阪陣後千石加増 寛永二年御暇寛永三年九月帰参三百人扶持 肥後入国後五千石 光尚傳 城代 慶安三年
     九月十七日歿・九十一歳(肥後藩・主要系図から作成)

     桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病死(中略)断絶丹後ニ越、御鉄砲之者ニ被召出
     (中略)追々武功ニよりて天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百石御加増、慶長六年七月千石、
     同十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、同十年当御国ニ而被改五千石被下、御城代被仰付候 (綿考輯録・巻九)
      

    ■寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたという。大学には係わり合いのない事の
     ようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。
                          沢村大学牢人被仰付置候内道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)

    ■寛永二年八月十八日 忠利書状
         沢村大学事松平宮内殿御詫言ニ付召返候、左候は松井宇右衛門ニ遣候家大学ニ可渡候(略)(綿考輯録・巻三十)
                                            
    ■寛永二年九月四日  沢村大学帰参被仰付被差下候ニ付而  忠利書状
         沢村大学其方へ差下候扶持方百人扶持、参着より可遣候          (綿考輯録・巻三十)
        
    ■寛永十年七月(年未詳とされる文書から)
         三齋、沢村大学の中路周防女から50石を借米(慶長20年・利息年四割)当時の残高は29,880石余の内の三年分
         137石2斗の返却を即す                   (大日本近世史料「細川家史料七」1813)
                     書状原文  同左釈文
       参考:複利計算してみると50石を年利4割で29,880石余になるには19年が経過していることが判る(29,882石)        
        
    ■寛永十二年六月廿三日 沢村大学へ被下候御書之内
         其方事毎日城廻、其上雨風之時も見廻候由聞届候、年寄候而ハ万事違物にて候間、左様之心遣仕間敷候、煩不申様
         ニ心得可申候、謹言
           尚々、其方いきて居候得ハ奉公にて候間、其心得可申候、以上    (綿孝輯録・巻三十六)

    ■寛永十五年・原城にて武功
         光利君に近侍して老功を示し益多き事を被感、片山自庵を以御褒詞有、其後忠利君より御指料名誉国俊の御刀を被下、
         倅宇右衛門儀も今度手筈ニ合申候、自然の時手ニ合候ハゝ一廉御取立御先手をも可被仰付と内々被思召候処、今度御
         意を不受御先ニ参候ハ不届之仕形ニ被思召候、乍去先ッ一倍の御加増三千石被下候、後々ハ今の分にてハ被召置まし
         き由御意被成候、光利君よりハ朝倉ぎんだりと云脇差を被下候、是ハ越前国朝倉義景の重物にて、茶臼を斬破しより
         ぎんたりと名付候となり                           (綿考集録・巻五十)

    ■寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。
     亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御
     目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。


    ■寛永二十年正月十一日
         光尚公に対し「起請文」を呈す (読み下し文は後日取り上げます)

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■平成の大晦日に想うこと

2019-04-30 07:34:29 | 徒然

 今日で平成も終わりという思いがあるからかもしれないが、朝の散歩に出てみると町は静かで車も少なく人通りも見受けられず、まさに年の瀬の雰囲気そのままである。
日章旗を掲げておられるお宅もあった。
松飾りこそないがまさに平成の大晦日といった町の風情である。小ぬか雨が降っていて、空気さえ浄化されているように感じられる。
両陛下のご退位を感謝をもってお送りし、明日は新天皇の誕生に歓びにあふれたはじけるような祝意が全国津々浦々に満ち溢れる事であろう。
今日の散歩は早足をやめてゆっくり歩こうと考え、静かに歩を進めながら平成の御代最後の日の感慨に浸った。
これで昭和・平成・令和三代を生きることになるが、「昭和も遠くなりにけり」の感を深くする。
最近「自分史」をしたためていると、その思いが心を揺さぶり、しばしタイピングの手を止めてしまうことさえある。
「老いた」ことを実感させられる昨今だが、「令和」がどのような時代に生まれ変わるのかを一日も長く見てやろうという欲も出てくる。
私の晩年は、このサイトを運営することで大いに勇気つけられた。沢山の皆様にサイトを訪問いただけたことは、望外の幸せであり生きる力になっている。
平成の大晦日、まさに感謝の思いを深くしている。

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■熊本城・埋門

2019-04-29 14:04:00 | 熊本

                                                                       

ある方から熊本城の「うずみ門」というのは、「監物台の裏門ですか」と質問を受けた。
京町方面から監物台植物園の脇を通り熊本城に入る車が通れる坂道があるが、進行方向左側の入り口部分にひっそりと存在しているから、いかにもそう見える。
実はこの道は藩政時代には存在しなかった。「うずみ門」は現在は冠木門になっているが、もともとは櫓門であったらしい。
詳しい資料が残されていないため、現在の形がとられている。
この「うずみ門」に入ると(現在は入れないが)すぐ右折する一本道があり、北大手門方面へと導かれる。
つまり現在の監物台植物園の中に道が通っていたという事になる。左に曲がると棒庵坂である。
左奥が刑部家屋敷、現在の道路をまたぐような形で刑部家の分家(右門家)があり、その西に三卿家老・長岡監物家(米田)が並んでいた。

                         グーグルアース表示 

現在は地震の影響もあって通ることは出来ないが、京町台から北大手門跡、頬当御門前を通って御幸橋から熊本市民会館前に抜ける幹線道路になっている。監物台植物園脇のこの道が唯一、築城当時から変更された通路といってもよいであろう。

                                                       


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■御侍帳・家紋から考える(1)

2019-04-29 12:48:38 | 家紋

 細川藩政史研究会が発刊した「熊本藩侍帳集成」には、家臣諸家の家紋を記したものが二件紹介されている。
一つは「肥陽諸士鑑」、これは成立期は末尾の書き込みから「宝永五年頃」とされる。一人一人について役職・屋敷・略系・知行高・知行所村高などと共に家紋が紹介されている。
今一つはそのものずばり「御侍帳(家紋いり)」というものである。1,140人分が紹介されいている。
65頁に及ぶ膨大なものだが、ここから1頁ずつ取り上げてご紹介したいと考えている。
実は家紋の正式な名称がほとんどわからず、ご存知の方のご教示を得たいという思い付きからである。

                  

                                                   

  ■岩間怡・弥左衛門・岩間次左衛門の三家は武田信玄の孫(六兵衛)を祖とするとされる。綿考輯録は次の様に記している。
     「武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、
      今度(忠利室・小笠原秀政女千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公(千代姫は姪・養女)より一通り六
      兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也」 
                                               (綿考輯録・巻二十八)
   家紋については武田家由緒の家として「肥陽諸士鑑」では武田菱が表示されているが、ここでは違う二つの紋が紹介されている。
   上は「隅切り平角に武田菱」、今一つは六個の武田菱が星型を作っているが名称はわからない。ご存知の方はご教示たまわりたい。

  ■岩間清次は「丹後以来」の家であり、岩間六兵衛系とは別系である。
   ここでは家紋が表示されていないが、「肥陽諸士鑑」では「三つ矢」(三ツ矢サイダーのマークのような・・)「三つ唐団扇」が紹介されている。

  ■岩越椿十郎・文左衛門・佐十郎は家紋が同じであり同族であろう。「隅切り角に二の字紋」である。
   椿十郎の祖・初代惣右衛門は島原の役で討ち死にしている(1,500石・番頭)

  ■岩佐土之允は7代目、祖父に竹内流弓術に長けた岩佐直軒(善助)が有名である。
   二代目源五が、原城にて武功御褒美被下候、後改善左衛門 新知弐百石(綿考輯録・巻四十九)
   家紋は釘らしいものが丸の中に横向き違いに入っている。「肥陽諸士鑑」ではこれが起きたものが記されているがどちらが本当か?

  ■岩田助之允は岩男助之允の誤植である。6代目か?
   家紋は銭紋か、簡単な形で良く見受けるが名称は知らない。
   今一つは五大家紋の一の酢漿草(片喰)紋の変形、石持ち酢漿草紋とでもいうのか。

  ■岩尾家は有名な剣豪・雲林院弥四郎を輩出した家系である。弥四郎の子(嫡家ではない)又五郎を祖として岩尾に改姓した。幾平太は5代目。
   家紋は「丸に三つ扇」

  ■岩下宇左衛門は3代目、
       岩下君恭 名は通靖、字は通恭、宇左衛門と称す。頗る文武の諸芸に通ず。食禄百石。
                時習館句讀師となり後訓導となる、文政四年十二月十日歿す。
                享年七十五。墓は廣町善正寺。
   家紋についてはよくわからない。植物系か?ご存知の方はご教示いただきたい。

  ■岩崎甚右衛門は「岩崎直衛(南東1-6)家」の7代目。
   家紋の名称についてはまったく承知しない。こうご教示・・・

  ■岩崎武兵衛は「岩崎橘次(南東1-7)家」の7代目。
       御鉄炮弐拾挺頭同列・御近習御次組脇 御中老支配御目付 三百石
   ここには二つの家紋が紹介されている。上方の家紋名称は不詳、下は「丸に中菱」とでもいうのだろうか。
   いずれも確たる名称を知らない。こうご教示・・・

  ■岩崎平四郎は「岩崎物部(南東1-5)家」は3代目か?肥後人名辞典には次の様にある。(初代の召し出しが遅いため・・・?)
       岩崎平四郎 名は元澄、藩に仕へて水前寺ろう締所御用掛を勤む。天保九年十一月四日没す。
   家紋は「五瓜輪(ごかわ)に丸」か?

  ■岩瀬栄蔵は5代目、定府であったらしい。
   家紋は「丸に三つ蔓付柏」これは間違いないと思うが如何・・・

  ■岩田満八は4代目か?
   家紋は「右一つ丁子巴」これも間違いないか

  ■稲垣寛助は「稲垣嘉内(東南3-14)家」の4代目、龍口白金御座敷支配役、御目付兼帯を勤めた。
   「肥陽諸士鑑」にもここにも家紋は紹介されていない。

 

  

 

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■一年前の記事から・・・

2019-04-28 21:29:41 | 徒然
 
■志水才助の無礼討ち
 昨年ヤフオクで落とした数々の品を遅ればせながら内容の確認を始めた。この書状等は差出人と宛名を確認したままで、其の後箱の底にさびしく取置かれていた。詳しい読み下しは完了していな......
 

 一年前こんなことを書いていましたが、まだ読み下しをしていないようです。
「昨年は・・・」と書き出していますから一年数か月経過していることになりますが、入れている箱をひっくり返して調べていますがこの文書が見つかりません。
今日は一休みして明日は家探しと相成ります。

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■熊本藩年表稿

2019-04-28 18:19:22 | 年表

 以前ある人が「熊本藩年表稿」を手に入れられた。随分高かったみたいだが、書き込みやマーカー線入などがあるようだし、本自体も相当くたびていたようだ。
現在、熊本藩年表稿を日本の古本屋で検索すると10件が出品されている。安いものは5,000円、高いものでは25,000円といったところだが、なにせ昭和49年発行の年代物だから、状態がまあまあと思われるものは20,000円といったところのようだ。
当時はなかったが、現在大変ありがたいことにこれは、WEBで次の様に公開されている。

          熊本大学学術リポジトリ―・熊本藩年表稿

私はこれをA4叛でプリントアウトして、パイプファイルにとじ込んで使っている。最近その方とお話しする機会がありまたその話に及び、A5版で読みづらいので拡大コピーをして楽しんでいるとのお話であった。
そこで上記の事をお話したらご存じなかったらしく、ぜひコピーをしますとの事であった。
厚さ3センチほどを和綴じしたという話、どうやら両面コピーされたらしく見事な出来栄えになっていた。
私のものは片面コピーだから枚数が多くて、持つには少々重くて難儀するが、又これだけの枚数をコピーする気にはならない。
皆さんが知恵を働かせて、いろいろな形で活用されれば、公開された意儀は深いものになる。深謝・・・

                                  


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■忠利→光尚代の家禄の変遷

2019-04-27 10:13:58 | 自分史

         肥後御入国宿割帖          真源院様御代御侍免撫帳           寛文四年六月・御侍帳          
   寛永9年12月・忠利代          慶安元年・光尚代               光尚代

・ 25,000石 長岡佐渡(松井興長)     → ・30,000石 長岡佐渡興長         → ・30,000石 長岡佐渡      
・        長岡式部少輔(松井寄之)→      未・家督(寛文元年家督)      → ・現米3,300石 長岡帯刀(未・家督)
・ 15,000石 有吉頼母助       → ・ 18,500石 有吉平吉英貴       → ・18,500石 有吉内膳
 (10,000石 長岡河内  八代・三齋付家老                 離国     )
・   6,500石 長岡大監物(米田)   → ・ 10,000石 長岡監物是季         → ・10,000石 長岡監物
・ 5,000石 長岡勘解由(沼田)   → ・ 5,000石 長岡勘解由延之      → ・ 5,000石 沼田小兵衛
・ 5,000石 志水伯耆        → ・ 6,000石 志水新之丞恵重      → ・ 6,000石 志水伯耆
・ 5,000石 小笠原備前       → ・ 6,000石 小笠原備前長元      → ・ 6,000石 小笠原民部少
・ 3,200石 長岡右馬頭       → ・ 3,000石 長岡右馬助之直(三渕家ニ代)→・ 4,000石 山名弥三右衛門(三代之政)
・ 3,000石 清田石見        → ・ 3,035石 清田石見乗栄       → ・ 3,000石 清田石見
・ 3,000石 氏家志摩        → ・ 3,000石 氏家志摩元高       → ・ 3,000石 氏家志摩
・ 3,000石 南条左衛門       → ・ 1,500石 南条大善元信       → ・ 4,000石 南条左近(光尚実弟)
・ 3,000石 沢村大学助       → ・ 5,000石 沢村大学吉重 
・ 1,500石 松井宇右衛門      → ・ 6,000石 沢村右衛門友好(吉重養子)→ ・10,000石 沢村宇右衛門
                     ・ 5,000石 上月文右衛門景信
                     ・ 5,000石 平野弥次右衛門長知    → ・ 3,900石 平野茂左衛門 寛文五年御暇
                     ・ 3,435石 大木織部兼憲       → ・ 3,435石余 大木織部
                     ・ 3,008石 奥田権左衛門正慶     → ・ 3,008石 奥田権左衛門
・ 3,000石 三渕(朽木家ニ代)内匠助                         
                     ・ 3,000石 佐久間半丞
                     ・ 3,000石 尾藤金左衛門知成     → ・ 3,000石 尾藤金左衛門
                     ・ 2,822石 朝山斉助         → ・ 2,822石余浅山次郎左衛門 寛文九年御暇
                     ・ 2,500石 伊丹次左衛門景重     
                     ・ 2,500石 伊丹半弥                       万治二年知行差上
・ 2,500石 谷 主膳正
・ 2,500石 後藤市十郎
・ 2,500石 中津海三右衛門
                     ・ 2,150石 田中左兵衛氏久      → ・ 4,150石 田中左兵衛
・ 2,150石 道家帯刀
                     ・ 2,000石 浅山修理安末       → ・ 2,000石 浅山清右門                     
                     ・ 2,000石 出田左兵衛
                     ・ 2,000石 坂崎清左衛門成方     → ・ 3,066石 坂崎清左衛門
                     ・ 2,000石 西郡要人
                     ・ 2,000石 早川弥五右衛門
                     ・ 2,000石 平山三郎左衛門
(於豊前忠興代12,000石 藪内匠)
・ 2,000石 藪 図書        → ・ 2,000石 藪 図書正成       → ・ 2,000石 藪 図書
・ 2,000石 藪 市正        → ・ 2,000石 藪 市正正直       → ・ 2,000石 藪 小吉
・ 1,500石 寺尾左助          ・ 1,050石 寺尾九郎左衛門      → ・ 1,500石 寺尾九郎右衛門
                     ・ 1,500石 長岡道伯(初代三渕重政) →     同左    
                     ・ 1,500石 松野右京正照       →     同左    
                     ・ 1,500石 有吉内膳正貞之      →     同左    
                     ・ 1,500石 三宅藤右衛門重元     →     同左     
                     ・ 1,500石 長尾伊織         → ・ 1,500石 長岡伊織
                     ・ 1,500石 立石市兵衛        → ・ 1,500石 立石助兵衛     
                     ・ 1,500石 岩越惣右衛門       →     同左     
                     ・ 1,500石 田中兵庫氏次       →     同左
                     ・ 1,500石 林 外記         →     同左         後殺害さる
                     ・ 1,500石 加賀山権四郎幸白     → ・ 1,500石 加々山権三郎
                     ・ 1,500石 谷 内蔵丞        →     同左
                     ・ 1,500石 奥田源左衛門

 

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■木下韡村日記を読む

2019-04-26 10:31:25 | 書籍・読書

                                   

 先にもご紹介したが5月5日(日曜日)「木下韡村‐その人と学問‐」と題した講演会が催される。

講師を勤められるのが「木下韡村日記」を翻刻されている早稲田大学の島 善高教授である。
「木下韡村日記」はまだ刊本がない。
有難いことに「学術機関リポジトリ―データベース」で既刊14件を見ることが出来る。
「木下韡村日記」の、それぞれのタイトルから選択し、そのファイルを開いてお読みいただきたい。

10連休をどう過ごそうかとお考えの方には、改元という歴史的な時期の一両日を有意義にお過ごしになる格好の史料だと推薦申し上げる。

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■細川家の雇止め

2019-04-26 08:23:54 | 歴史

 昨日のご紹介に続き・・・
三齋の八代隠居領において家老職を勤めた長岡河内(村上縫殿介・10,000石)は、三齋の死去後は離国することになるが、これはまさしく藩主・光尚の意を呈しての「雇止め」によるものであろう。

         御請
一妙解院御代私参上申間敷と申上候儀、 公儀
 御奉行衆も御存候、今更熊本被 召出候儀も
 不被為成被 思召候、又私参上仕儀も不成儀
 座候由 御諚御尤奉存候事
一妙解院様御代私参上不仕わけ色々御座候得共、
 事永ク御座候間、有増申上候、 三齋様私御懇
 座候故、小倉ゟ中津江御隠居之刻、せめての御奉公
 御隠居之御供仕、御一世御奉公仕度奉存候、御
 手せば被為成候間、縦御そうり取御一人之御仕合
 座候共、其御さうり取を仕可申覚悟御座候由申上、御
 供不仕申候間、 妙解院様江不参不仕候事
一御合力可被 仰付候条、御國之内何方も罷居、宮松殿
 御見舞申候様と 御諚之通忝奉存候、如何様共
 御諚次第可仕儀御座候得共、御奉公も不仕候御恩を
 いたゝき申候儀、如何奉存候間、御暇被下候者忝可奉
 存候、此等之旨宜被仰上可被下候、以上

        七月廿日 長岡河内守 花押・印

    長岡勘解由殿
    丹羽亀丞殿

この書状は長岡河内が、「妙解院(忠利)に仕えた者ではないから再任用はしない」という「雇止め」の理由に対し了解の意を表している。
「御請」とあるからこの「雇止め」の処分を受け入れるとの意か。
何故妙解院に仕えず三齋公に仕えたかを説明するとともに、合力米をもって肥後国内にとどまり宮松(宇土細川藩初代藩主)を「御見舞」するようにとの意向もやんわり断っている。

大坂の役での「高名」があったとはいえ、10,000石のいう禄を得たことは三齋の意向とはいえ、忠利の意には添わなかったのであろう。
「妙解院(忠利)に仕えなかった」とはそのような機会があり、河内が拒否をしたとでもいうのだろうか、資料を知りえない。
のちに松井興長をして八代城主とする光尚の考えは、事前に興長に打診がないまま実行された。
そのようにこの河内の処分なども光尚の深謀であったことが伺える。

三齋の没後、丹羽亀丞をして八代御附衆の動向を隠密裏に調べさせている。河内にかかわる史料も多く散見されるが、この「雇止め」の決定がどの段階で行われたのか非常に興味深い。

かってご紹介した、「丹羽亀之允言上之覚」「松江城秘録」などに詳しい。

   

「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・一号

「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・二号

「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・三号(1)

「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・三号(2)

「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・三号(3)

「謹而言上仕候」 丹羽亀之允言上之覚・四号

丹羽亀之允言上之覚・・五

丹羽亀之允言上之覚・・六

  (七・八欠)

丹羽亀之允言上之覚・・九

丹羽亀之允言上之覚・・十 「謹而致言上候」

丹羽亀之允言上之覚 ・・ 十一 「謹而言上仕候」

丹羽亀之允言上之覚 ・・ 十二 「八代侍衆様子申上覚」

丹羽亀之允言上之覚 ・・ 十三

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■村上景広と景則

2019-04-25 11:45:14 | 歴史

 今治市の村上水軍博物館は、村上海賊最大の合戦とも呼ばれる天正四年(1576)の第1次木津川口合戦を描いた「難波船軍図」を新たに収蔵したことを発表するとともに、4月27日~6月23日、同博物館常設展示室で公開するとしている。
能島村上氏の村上景広も名を連ねているそうだが、図録など出ないかと期待している。

細川家では、豊前に入国後知行が増えたことによる家臣不足により多くの侍が招聘された。
詳細については当サイト内の「肥後細川藩 戦国武将の裔」でご紹介しているのでこちらをご覧いただきたいが、著名な人物および関係者が綺羅星のごとく名を連ねている。
そんな中、毛利家家臣で小早川隆景の船大将を務めた浦宗勝の子浦主水をご紹介したにもかかわらず、この村上景広を忘れていたという大チョンボを犯していた。

村上景広も小早川家に仕え、小早川氏の没落後慶長六年豊前小倉に召し出され、10,000石を扶持された。
寛永四年十月朔日没。年七三。

景広の没後、その知行10,000石についての三齋と忠利の詳しいやり取りが史料として残されているからご紹介しよう。
三齋は景広の嫡男・河内に相続させようとしているが、その河内とは大阪の役で高名をあげた村上縫殿介・景則のことである。
綿孝輯録には「七月朔日、昨日御吟味の面々御饗応、御褒美品々被下候覚書」に一番高名の清田石見に続いて縫殿介の名がみえる。
「知行二千石御腰物三原  村上縫殿介景則後長岡河内 鑓ヲ合、高名ハ無之、疵三ヶ所(ィ二)、刀二鑓疵二ヶ所(ィ三)」

以下の忠利書状の「縫殿」、三齋書状の「河内」は同一人物、八左衛門息・長岡河内(村上縫殿介)である。

■三齋宛忠利書状 (大日本近世史料-細川家史料241、綿孝輯録巻二十一・p126)
村上八郎左衛門相果申候、左様ニ御座候へハ縫殿事御名字をも被下、大坂にても御用にも立、御取立之儀ニ御座候へ共、可被遣御知行も無御座儀ニ候條、八郎左衛門知行之儀御心まゝニ被遣候て、被召仕候様ニと奉存候間得御内儀申候、役儀之儀ハ、被仰付被下候様ニと存儀ニ御座候、来年御普請前にても御座候間、只今得御意候、以上
      霜月十二日
               貴田権内殿

  ■忠利宛三齋書状 (大日本近世史料-細川家史料515、綿孝輯録巻二十一・p126)
八郎左衛門果候ニ付、河内事親取候一万石之知行我々申次次第可被遣由、先以祝着申候、乍去、我々為にハ人足ニ遣候ても侍ニ遣候ても不苦者ニ候へとも、其方事ハ心替り候間、過分之知行はや遣候事もいかゝ候ハん哉、但我々果候後ニハ、只今我々取候三万七千石之内如約束二万五千石天二遣、残ル一万二千石之内一万石分、其方頼置、河内ニ可遣と在所付まて書遣置候条、乍次而申候、如此ニも可在之候哉、とかく中津へ参、ぬしニも此懇之通申きかせ、来年御普請ノ役儀ニさゝハらさる程ニ返事可申候事
  尚々、書付今朝杉伯江参、返事延引申候、已上
      十一月十二日             三齋(御判)
          越中殿
            返事

つまり大坂役に於いて高名を上げた縫殿介は2,000石を拝領し、寛永四年父景広(八郎左衛門)が亡くなると、三齋の意向により10,000石を継承したのである。終生三齋に近侍し八代に於いては家老職を勤め、三齋亡き後の処理に奔走し当時の当主・光尚や藩庁との軋轢を生じ、離国することになる。
しかしながら景広の血は景則の弟・吉之允正重によって細川家臣として孫四郎家と弁蔵家が明治に至っている。
平内正雄を宮本武蔵から寺尾求馬介信行→新免弁助をへてその技を継承して高名である。

       長岡河内
 村上景廣--+--縫殿介景則
                 |
      |
      +--吉之允正重--吉之允正之--平内正雄--+--平内正勝--+--平内正則・・・・・・・・・・・・・・・・→孫四郎家
                         |      | 
                         |      +--八郎右衛門正之--大右衛門正保--貞助・・・→弁蔵家
                         |
                         +--吉之允正房



 

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■光秀研究会が小冊子無料配布 人物像やゆかりの地掲載/京都・福知山市

2019-04-24 08:58:36 | 新聞

            丹波新聞から引用 4/23(火) 11:02配信

                              

 丹波福知山明智光秀公研究会が「明智光秀公と福知山AtoZ」という小冊子を作り、無料配布している。光秀の人物像を史実や伝説、伝承などを通じて写真と文章で紹介している。

光秀や「赤鬼」ゆかりの地でマップ

 明智のAからZまでの26文字の頭文字により、光秀関連の文言を見つけ出し、福知山市を中心に丹波市、宮津市などのゆかりの地に会員が足を運び、写真を撮影した。CDサイズなので、コンパクトで見やすい。

 ▽円通寺には、光秀自筆の「下馬札」や「禁制」が伝えられている▽光秀に腹心として仕えた斎藤利三は黒井城陥落後に入城し、光秀の命を受けてこの地を治めた。娘のお福が成長し、徳川三代将軍、家光の乳母になっている―ことなども紹介。本能寺の変の原因などにも迫っている。

 3000部印刷。JR福知山駅内の福知山観光案内所に置いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 又亀岡市役所のHPには亀岡愛に満ちた「麒麟のまち亀岡‐光秀が理想を描いたまち」が紹介されている。

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■細川内膳家と西園寺家

2019-04-24 07:21:38 | memo

■慶長十年(1605)茲年忠隆主息女ヲ生ム、徳媛ト名ク。(永源師壇紀年録)    (1605-1663)
          男子:西園寺公満(1622-1651)
          男子:西園寺公宣(1625-1670)---女(也須姫もしくは安姫)
               ↑            鷹司家から聟を迎えた。西園寺実輔(25歳で死去)---致季
                |
               ↓
             菊陽町文化財西園寺左大臣実晴男随宜之墓 (熊本県菊池郡菊陽町HP) 

■寛永十六年(1639)
 5155 正月七日西園寺實晴室宛書状 (大日本近世史料・細川家史料25) 
                     忠利が兄・休無(忠隆)の書状に添えて足袋などを送られたことに対して、姪・とく姫に対しての礼状
 (細川忠隆)
 きうむ殿ゟ人を御下シ被成候ニ付、御文、殊たひ三足うねさし、ひほまて御念入送くたされ、
 一入満足申候、先々、此はるの御祝、めてたく申おさめ候、そこもと御ふしのよし、めてた
 く候、われ/\もそくさいに罷有候、八代へもとしあけ御みまひ申候、三さい殿も一段御そ
 くさいに御さ候まゝ、御心安かるへく候、なをかさねて申承候へく候、かしく
     正月七日

     おとく殿(西園寺實晴室、細川忠隆女)
        御返事

■年月不詳
   内膳家二代忠恒(とく弟)             左大臣
 長岡友山老より檜垣の老女の繪に西園寺左府讃の歌御書寄付 (堀内傳右衛門の旦夕覺書・花 所載)



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■竜田会のお茶会が催されます

2019-04-23 09:34:04 | 熊本

 東京でお茶道の「御掛物・御道具」を取り扱っておられるF様から、毎月お取り扱いのお品書きをお送りいただいている。
ひょんなことでお知り合いとなって以来ご厚誼をいただいている。
今月のお便りの冒頭には、6月1日に泰勝寺跡の細川家で「竜田会」のお茶会が催されるについてご出席されるとあった。

「竜田会」については、肥後古流「白水会」のお家元のブログにその設立の事が触れられている。
細川護光さまを代表とする「熊本で茶道を嗜む男性の流派を超えた集まり」ということらしい。
その三回目のお茶会が催され、ここに京都の「北村美術館」の館長がお茶席を設けられて、亭主をお努めになるというここらしい。
北村美術館のサイトを見るとその旨が記されている。         

    第三回 竜田会 茶会                                                 神護寺茶会 神護寺茶会                        

日時 6月1日(土)9時30分~
会場 泰勝寺跡 細川邸(熊本市 立田自然公園内)
席主 北村美術館(濃茶・薄茶)
 

 どうもこれでは詳細がわからないから、いろいろググっていたら「オフィスエム」のサイトに行きついた。
代表の松村篤史氏は「価値伝承の環」をコンセプトに地元熊本でユニークな活動をしておられる。
このお茶会も松村氏のプロヂュースによるものではないかと推測している。
 
       

竜田会 茶会

細川護光氏(細川家19代当主)別邸の泰勝寺跡にて京都の北村美術館館長による茶会が開催されます。

オフィスエムでは12時30分の席のチケットをお取り扱いいたします。

茶道経験者も同席いたしますので、初心者だけどこの様な茶会に興味のある方・お道具がお好きな方も安心して一緒に参加しませんか。

        席主 北村美術館館長(京都) 木下收 氏

       会場 泰勝寺跡 細川邸

       熊本市中央区黒髪4丁目610

       時間 12時30分席入り

       所要時間 約3時間

       会費 15,000円(濃茶席・薄茶席・点心)


大変興味深いのだが、ひざを悪くしてから私はお茶会への出席はままならない。さてどうしたものかと思案中である。

 

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■裏松従二位宛細川護久書状

2019-04-22 09:40:50 | オークション

 昨日迄ヤフオクに出品されていた裏松従二位宛の細川護久の書状である。
裏松従二位からの書翰にたいする返信の書翰だが、こういうものを眺めるといろいろ詮索をしたくなる。 

                                   

 細川護久の署名には新従四位とあるが、従四位下に叙されたのは慶応三年六月十一日である。同時に右京大夫喜廷と称している。
処が翌二年二月七日には元の護久に復している。この書状は慶応三年三月十五日のものではなかろうか。
宛先の裏松従二位とは裏松恭光であろう。文久元年に従二位となり、慶応三年には権大納言となっているがその直前か?
明治五年が没年だから間違いなかろう。

裏松家は細川忠興女・万姫が嫁いだ烏丸光賢との間に生まれた次男・資清を初代としており、細川家とのかかわりは深い。
その子・意光には長岡寄之女が嫁いでいる。(世界帝王辞典・裏松家項では長岡康之とあるが間違いである。)
寄之は忠興の子で松井興長の養嗣子となった。末子(七男)と紹介されることが多いが、実は六男であり、刑部家祖の興孝が七男である。

万姫が烏丸家に嫁いで以来の古い交流が見て取れる。


   忠興---+---忠利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 細川家
                  |
       +------万
       |   ‖-----------+----資慶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→烏丸家
       |  烏丸光賢   |
       |         +----資清・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→裏松家
       |            ‖
       +---寄之-------------------●・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家(細川家三卿家老・八代城主)

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■享保の火事(3‐了)

2019-04-22 07:02:52 | 史料

消失の屋敷火本共ニ 千三百八拾ヶ所
一消失の家数     二千五百八拾四軒
  内
 屋敷数三百三拾九ヶ所
   御知行取屋敷、御中小姓御用屋敷共ニ
  此家数千三百三拾七軒
   内 拾九軒蔵
     壱ヶ所御賄物所、同所之御音信所

     御賄物所家数八軒 御音信所共ニ
      内五軒御蔵 外ニ御蔵一軒残り申候
 同壱ヶ所 竹小屋 此家一軒
 同御掃除方会所  此家数三軒
 同百八拾四ヶ所 御切米取屋敷 此家数弐百六拾弐軒
 同四百拾五ヶ所 足軽屋敷 此家数四百拾五軒
 同弐拾五ヶ所  御路次之者・御掃除之者、諸手伝共
              此家数弐拾五軒
 同弐拾四ヶ所  地子屋敷 此家数弐拾四軒
 同三拾壱ヶ所  寺院山伏共ニ 此家数百拾八軒 内壱軒ハ蔵
 同三百四拾三ヶ所 御町屋敷  此家三百六拾七軒
   外ニ三拾六軒ハ
  京町一丁目軒数六拾七軒    但、間数弐百三拾七間余
  京町二丁目軒数四拾四軒    但、間数百六拾八間余
  今京町  軒数六拾壱軒    但、間数弐百八間余
  今京町ニ付居候地子屋敷    軒数弐拾三軒
  本坪井町 軒数三拾九軒    但、間数百三拾六間
  新坪井町 軒数百三拾三軒   但、間数五百拾四間余
  橋弐ヶ所 京町観音坂下橋 寺原糸橋
 新坪井八百屋町より西ハ御堀端 東西弐丁程迄
                      中通ニ而  
 藪之内橋際より北ハ真浄寺際迄 南北五丁迄

 本坪井町より西ハ糸橋際迄   東西一丁半程
                      中通ニ而  
 同所ニ而焼口より北ハ足軽小路 南北三丁半程迄

 内坪井兼松七右衛門屋敷より  東西三丁程
 西ハ大木隼人下屋敷迄           中通ニ而  
 津田次左衛門屋敷より北ハ流長 南北六丁程
 院迄

 寺原糸橋より西ハ寿昌寺迄   東西壱丁半程
                      中通ニ而  
 井上又十郎屋敷下より北ハ足軽 南北五丁程
 小屋迄

 京町松野主殿屋敷より西ハ足軽 東西六丁程
 小屋迄                  中通ニ而
 稲津角之允屋敷より北ハ出京町 南北七丁程
 入口構際迄

 一焼死之者九人 内七人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
          二人ハ女、家中之者
 一怪我人拾壱人 内九人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
          二人ハ女、家中之者
 一死牛馬・怪我牛馬共ニ無之候
   外ニ
 一屋敷数三ヶ所 飽田郡牧崎村之内沼田勘解由下屋敷飛
         火ニ而消失、此家数五軒
 一屋敷数七竈
      同郡京町村之内飛火ニ而焼失、此家数七軒
 右両所ニ而死人・怪我人幷死牛馬・怪我牛馬等無之候

 一岩立向臺寺下 奥田小左衛門組三拾弐人但、小頭共ニ
 一寺原庚申橋之西
       中村市郎右衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原大工町北 嶋又左衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立    熊谷忠右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    中川佐左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原田畑  安富孫左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原材木丁 松本助左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立    氏家平九郎組弐拾弐人  但、小頭共ニ
 一釈将寺下  志水兵大夫組弐拾弐人  但、小頭共ニ
 一寺原    飯銅上右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一西方寺下  坂牧瀬左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一岩立常水寺前 一宮源四郎組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    松岡久左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
 一寺原    芳賀助十郎組拾壱人   但、小頭共ニ
 一岩立    大村伊右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一岩立    成瀬次郎左衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
 一岩立    興津弥五右衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
 一岩立    兼松七右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一瀬戸口   吉田孫四郎組拾壱人   但、小頭共ニ
 一瀬戸口   田中小左衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
 一瀬戸口   浅香忠兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
 一瀬戸口   堀田勘兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
  人数四百拾五人 但、小頭共ニ
  三拾挺三組 弐拾挺十組 拾挺九組 合弐拾弐組

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