津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■鳩野宗巴の西南の役観察‐出町炊焔

2023-03-31 07:35:11 | 熊本

                                                                                  

                             

          出町炊焔
       炊焔鐘響絶     炊焔鐘の響き絶え      食糧を煮炊きする煙も、兵が鳴らす鐘の響きも絶えて
       進撃夜如何     進撃夜は如何        今夜の進撃はどうなるのか
       筭計今夜飯     筭計す今夜の飯       今夜の飯はどの位用意すべきか算段に心をくだく
       明日幾箇餘     明日は幾箇か餘る      明日はこれ等の握り飯の幾つ余ることだろうか
          壷渓
                                 福田小波氏編「八世鳩野宗巴色紙」より

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■鳩野宗巴の西南の役観察‐熊城兵燹

2023-03-31 06:49:42 | 史料

                             

           熊城兵燹                      戦火の熊本城          

       寒風吹積雪    寒風積雪を吹き                           寒風が積雪を散らす中
       兵火照西東    兵火西東を照らす        戦火は辺り一面を照らし
       世向楚人擧    世は楚人の挙に向かい      人々は薩軍に心を傾けていた
       熊城三月紅    熊城は三月紅なり        戦火は三ヶ月熊本城下を紅に染めた

          壷渓
          (鳩野宗巴の号)                                                                      福田小波氏編「八世鳩野宗巴色紙」より

                                                         

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■甥の仕官について、細川家を頼った平野長泰

2023-03-30 07:08:29 | 人物

 一昨日の「和田備中に宛てた平野源太左衛門書状」に関連し、源太左衛門の細川家仕官について取り上げる。

前回の説明文の中の、源太左衛門の細川家召し出しについての息・光あての忠利書状を意訳してみた。
     平野長泰から、肥後加藤家に居る甥の源太左衛門について細川家に召し出してほしいと言ってきている、加藤忠廣が了解するのであれば、
     召し出しても良いと約束した、この件について伝える。

     しかし忠廣は了解しないだろう、だから源太左衛門の召し出しは難しいだろう、それ故子が二人いるからこれを召出したく、父三斎に話
     をまとめいただくように申し上げている。それを聞いて忠廣は、源太左衛門ではなくその子供たちの細川家召し出しであれば文句はない
     だろう、三斎になにとぞその旨で平野長泰に了解いただけるようへ仰せ遣わされるよう申し上げた。

「牛方・馬方騒動」後の加藤家についても、細川家記に度々忠廣についての風聞が噂されている。
そんな中で、なぜ長泰は加藤家にいる甥っ子をわざわざ細川家への仕官替えを考えているのだろうか。
長泰は共に「賤ケ岳七本槍」の清正亡き後は、親族である細川家を頼ろうと思ったのではなかろうか。

忠利が忠廣の手前難しいと考えた源太左衛門の仕官は、案に相違して、いつの頃か判らないが細川家に仕官している。
その経緯は現況よく判らないでいる。

細川藤孝・生母の父・清原宣賢に遡る両家の関係を略系図で確認した。
                          
                                  萩原家創家                      
 吉田兼倶---+---兼政---兼満 ==兼右---+--兼見---兼治(室・藤孝女‐伊也---+--萩原兼従
      |               |               |
      |               +--梵舜            +---兼英
      |
      +---平野兼永・・・・・・・・・・・万久==長治---● 長泰
      |                ⇧
      |             +--長治(枝兼・弟)
      |             |              
      +---清原宣賢---+---業賢---+--枝賢---国賢---秀賢
              |
              +---兼右(吉田兼満養子)
              |        
              +---智慶院       
                 ‖-----細川藤孝---+---忠興---● 忠利
               三渕晴員       | 
                          +---伊也(吉田兼治室)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■三月廿九日・齊護公御家督

2023-03-29 08:59:43 | 先祖附

 細川家の代替わりに於いて唯一血筋が消えようとしたことがあった。
それは細川齊樹が疱瘡にかかり危篤に陥るという状況に際し、正室・蓮政院の実家一橋家からの養子の話が持ち上がり、急遽国許へ使者が遣わされた。江戸から馳に馳せてわずか9日間で熊本へ到着した。
熊本では細川家の血筋が絶える事に議論が沸騰して、幸いにも熊本に在していた齊樹の父・齊茲の決断を仰ぎ、齊茲の甥(弟・立之の子)宇土藩主細川立政(齊護)の相続を決定し、すぐさま江戸へ報告を挙げるべく使者が向けられた。
江戸からの使者はすでに熊本を発していたが、箱根に至りこれを追い抜いて藩邸の到着してこの大事が報告された。
その結果、一橋家からの養子の話は立ち消えて細川齊護の誕生を見たのである。
文化九年二月廿九日幕府に願い出、三月廿九日御用番水野出羽守役宅に於いて本家相続を命ぜられた。
ちなみに齊護の生母(立之・正室)はこれも時の老中土井大炊頭利厚女・福であったことも、一橋家の養子話の撤退に影響していたであろうと考えている。
この生母・福(栄昌院)は、立政の本家相続に関し「訓戒の書」を呈している。この事は長く細川家に伝えられ語られている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 齊護公御家督一件之事  

諦観院齊樹公
文政八年十二月中旬より少将様龍ノ口御屋敷ニ而御疱瘡被為煩次第ニ御容體重リ同九年正月二日ニ至御危篤之御容躰ニ被為及候ニ付上下一統大切之御儀と奉気遣候處一橋様より兼々御出入之御醫師橋本一甫老を以長々為御親公邊より御連枝之内御養子ニ被進度被思召上候段御留守居中川唯之允江被仰聞候唯之允詰合之御家老有吉織部殿併御奉行永田内蔵次江其段相達此儀一刻も御國元へ罷下可相達迚長尾権五郎と同道致し正月六日ニ江戸発足夜を日ニ継て道を急同月十五日ニ熊府ニ到着致し先御用人有吉清九郎殿方へ罷越其段相届候ニ付御家老衆御奉行松井直記殿宅へ惣打寄ニ而唯之允へ其旨趣を被問候處公邊より御養子被進候其儀一橋様より被仰聞候段申出公邊より御入ニ相成候へは天草并對之御道具金紋御先箱等御土産ニ相手傳等も御遁ニ相成候段及演舌尚引取書をも差出候ニ付僉儀之上追手是より及指図可申候間先旅宿へ引取候様と申聞候而御先祖様御已来御血脉筋御続之儀ニ付公邊より如何ニ被仰聞候共決而御受申上間敷段■■議定ニ被及候然處唯之允旅宿ヘハ引取不申候直ニ二ノ丸御屋形ニ罷出候而召出を願ひ如何申上候哉濱町様より御袷羽織を拝領仕引取然由勿論國家之大機密聊脱之然儀ハ無之候得共難有儀ハ御代々様御積善之御餘慶神明擁護之力ニ而誰申となく此儀早御家中へ相聞候間人氣忽動揺致し悪き唯之允目安々(ママ)と江戸江ハ返し申さしと可打果及覺悟候御家老衆御奉行衆ニは二ノ丸御屋形爾々の御様子と被聞付十六日に又又被致惣打寄此儀連々に及候而は甚以大事也一刻も濱町様思召を可奉伺と山城殿を始宇右衛門殿沢村于時御勝手大御家老 九郎太郎殿郡于時大御目附 服部多門御奉行帳口杉浦仁一郎御奉行副役 等忠心義謄之重役之諸衆専■ニ致儀定御用人津田三十郎を以て御家中人氣動揺を■■御血脉決而御絶し有之間敷段身命を不顧被申上候得共一先奥へ被為入候而亦々御出座有之三十郎を被為召皆共之心得奇特之儀ニ被思召上公邊より御養子之儀御差はまり被成御断候間心丈夫ニ此儀取斗候様可申聞段被仰聞尚御墨付を被成下此旨又家中之者共へも為安心頭々より内々申聞置候様御意有之候ニ付山城殿初皆々安堵之思を被致候然處御家老衆再打寄り濱町様思召を被奉伺候迄刻移て十七日之晩景ニ及候間此隙を時として唯之允早■■奉伺候御意を奉して此日之夕方ニ打立江戸を指して馳上り申候是取延してハ以之外大事也一刻も追■可懸止と被申候得共大事之御使ニ付我罷上ランと申人一人も無之處杉浦仁一郎進出事遅々ニ及候而ハ唯之允目に國を被誤可申間人々之内向ひ玉ふ御方無之候ハゝ某御墨附を給りて是より馳向可申と望出候此仁一郎と申は竹田菊池之騒動を始とし八代宇土の御用ニ至迄度々之大事を相勤人々被許ハ器量の侍ニ而有し候間一刻も打立可然と宇右衛門殿一番ニ被申出衆儀是ニ一決して則此御使を被申付候于時年四十六 時は十八日辰ノ中刻唯之允ニ後るゝ事一晝夜御墨附を給りて早速早駕ニ打乗り揉々内裏ニ至り第一ニ飛舩を雇ひ乗込と直様数百両之小判を取出て舩板ニ張付ケ刀を把て舩頭ニ膝詰懸此小判悉ク為取候間皆々力を可出と懸命乃使ニ罷上れは若乗形を失ふて約束之日数を過ハ己等一々ニ薙切て死んと誓言を立て申渡候ニ付舩頭共大ニ怖し死力を出して漕立候間未タ約束の日数ニ不至して大阪へ着岸致し則中川尋候得は先刻澱舟に乗込然と申し候是天之與なり早中川目ニ追付たりと平瀉通りを馳上る平瀉通と申ハ澱之塘地ニ而則伏見へ出る捷路也唯之允も舩頭を励して急候得共仁一郎此捷路を取て馳走候に付終に此處ニ而追越し東海道を馳通り箱根の関所ニ馳付候然處追々之早打ニ不審を立居候関所の士如何なる大事之出来候歟子細を承りて通し申さんと駕を制して不為通御用ハ急ニ中川ハ近付進退究せる難所なり時ニ仁一郎一ノ策を思案し是ハ窟竟の中川を括り場なりと頷き御尤の御儀ニ存候然し某ハ下役の者ニ而一切様子を不存候間御返答出来兼申候追付跡より参候中川唯之允と申者留守居役を相勤専ら此節之儀を取斗候間委敷此者へ御尋可被下と申候得は事故なく通し申候然處唯之允引続て馳着候ニ付待設之事ニ而是非とも承り申さんと申懸左右より取懸候間ニ仁一郎ハ思ひの侭ニ馳脱て御國を出て僅八昼八夜同月廿六日の早天ニ龍之口御屋敷へ到着致し御小屋を打廻り詰舎之人々江其旨を致披露候處唯之允馳付候ニ付濱町様其許へ仰聞候御旨趣(ママ)被思召直公邊より御養子之儀御断被仰上御血脉筋被遊御立候と御墨付之趣厳重ニ申渡候間唯之允大ニ力を落し即日直ニ引入候斯所ニ舩路自然之用心として中國路を馳上り候西浦九兵衛 時ニ御目附 當君公御養子と可奉成との濱町様御墨附を奉して龍ノ口へ致参着候ニ付仁一郎則織部殿内蔵次と談合して先ツ公邊より之御養子之儀一橋様へ御断申上 當君公を上永田町御屋敷より奉迎而御養子と奉成候間二月十二日 少将様被遊御逝去御跡式無相違被仰出候 御先祖様御以来之御血脉被遊御継続々(ママ)ニ付上下一統初而安堵之思ひをなし申候去ハ此度之大事を被致儀定候重役之老人達皆身命を投て共ニ國家を被守然ニ忠義之優劣ハ無之候得共其功勲ハ仁一郎第一ニ而有之候
                               天保九年 萩角兵衛  閑餘漫録より 

  

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■加藤清正家臣和田備中に宛てた平野源太左衛門書状

2023-03-28 07:10:23 | オークション

 送料無料 平野長九(源太左衛門)書状 和田備中守宛 加藤清正朝鮮出兵に関する記述有 古田織部について等 古文書 書状

 加藤清正家臣和田備中に宛てた平野源太左衛門の書状である。和田備中は加藤清正死後のいわゆる「牛方・馬方騒動」で負け組に加担し、元和四年八月八日(ママ)、公事落着之時、方々江御預之覚」によると「一、美濃岩村松平和泉守(乗忠)様江 和田備中」にお預けの処分を受けた人物である。
つまりこの書状はそれ以前の者であることが判る。
一方平野源太左衛門はその時の処分対象者ではなかったのか、時期がはっきりしないが豊前で細川家に仕えたものと思われる。
文中に古田織部のことが出てきている。織部は慶長20年に死去しているからそれより以前という事になるのか。
その侍帳を見ると以下の様にある
     初代・源太左衛門   三百石 (肥後御入国宿割帳)
                 人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
                 千石  (真源院様御代御侍免撫帳)

一方以下の書状案によると父・平野長泰の助けを受けて細川家へ仕官しようとしていることが判る。平野長泰は細川幽齋の母方の清原家の一族である。
               参考:元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
      平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束候、此儀にて言上仕候キ、
      肥後殿構ふかく御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱させ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、
      申上候間、成不申由申候へハ、又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ
      御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                              加藤家時代の源太左衛門を知る上で、非常に興味ある書状である。 

   

       

              

       

       

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川月翁公宛・老中阿部正允書状

2023-03-27 20:42:00 | 先祖附

          【真筆】【蘇山】[阿部正允 細川月翁] 7924 手紙 書簡 紙本 熊本 肥後 宇土藩主 在銘

              御状令披見候
              公方様大納言様益
              御機嫌能被成御座
              恐悦旨尤候 猶又今度
              種姫君様御養女被
              仰出候段被承之目出度
              被存旨得其意候 紙面趣
              可及言上候 恐々謹言
                  安部豊後守
                     正允(花押)
                閏十二月九日

                 細川月翁

 この書状、月翁(細川興文)の隠居が明和九年のことであり、その後の閏十二月となると安永四年のものか。
 種姫君とは田安徳川家宗武の七女で、将軍家治の養女となり、紀州藩主・徳川治宝の正室となられた人物である。
 調べてみると、まさしく安永四年十一月のことである。
 宇土細川家の前藩主ながら、この慶事に対してお祝いの書を贈ったことにないする、老中阿部豊後守からの返書である。
 月翁として敬称が記されていないのは、隠居の号であることによる。

 この種姫の紀州家への豪華な御輿入れについては、その有様が文化遺産オンライン「徳川種姫婚礼行列図」として紹介されている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■忠興のボヤキと後悔

2023-03-27 06:48:49 | 先祖附

 忠興は豊前国を拝領して入国してまずは中津の城に入城している。
先にも触れたが、黒田家との確執は中津の城に住まう事さえ疎ましい事であったのかもしれない。

           ■確執の中の細川・黒田両家

その後小倉城を築城整備して移り、隠居するまで自らの居城とした。中津には嫡子・忠利を住まわせた。
忠興が隠居し三斎と名乗ったのは、元和7年9月のことで忠利が小倉城主となり、三斎は再び中津城に入った。
いわゆる、「三斎様御附中津ニ相詰候衆」(士数93人、綜総人数788人)を引き連れた。
そんな中、かっては自らに仕えた者たちが、代替りを期に自分を見捨てたかのように伺候しないと三斎がボヤいている。

 その効き目は十分にあったらしく、多くの者が10数里離れた中津へ伺候して三斎はその対応に音を挙げている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                               小倉  中津
 態申候、其方ニ家督相渡我々隠居之事、代か一度とハか様之事たるへき處ニ、于今其地ゟ此方へ見廻ニ不参者共在之事ニ候、                                                                                                                                                   小笠原長元・松井興長
 惣庄屋共ニも如此之類御入候、其方被申付用所も候て如此候哉、不審ニ候、面ニも申候、民部・式部を以も申候、又先度、
  加賀山可政
 加々山主馬ニも如申候、家中上下侍小者ニ至迄、如何様ニも其方次第たるへく候、我々構一切無之儀二候、然共右之様子ハ
 我々身ニ懸事ニ候間申候、既此祝儀ニは従歴々使者も来候、又目をかけ候上方之者共いつれも見舞ニ参、又移徏之祝儀をも
 申候て可上と申、于今逗留仕ものも在之事ニ候、扶持人にて無之ものさへ如此儀處ニ、國中ニ有なから今迄不参は存外之儀
 かと存候、萬不構とハ申なから、外聞わるきやうニ可仕子細毛頭無之候間、いかやうニも世上之聞え、我々ため可然様ニ被
 申付可給候哉、但分別次第ニ候、其内矢野利斎こときの者、又ハそはの小々性、其外も用所被申付候者ハ各別之事ニ候、
 此方ゟも比類之者ハ我々申付候て不遣候、此外不参之者其方にてせんさく被仕候はしれ可申候、以上
                                三斎
      九月五日                       (花押)
        内 記 殿
            進之候

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさとしたる儀を申、後悔ニ候、就其江戸へ不被越以前可申儀共在之ニ付而、
 其時可申と一書ニ仕置候、則主馬ニ見せ申候、志水宗加を初、其方可然と被存者可然様ニ何事も可被申付候、われ/\へ之
 届一切構不申候事
             (後略)
         以上
      十月十三日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   20日ほど三斎は呼びつけておきながら、したり顔で多くの小倉の家臣たちに対応したのだろう。  
   さて世間への聞こえは如何であったろうか。後悔後を絶たず・・
   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■八世鳩野宗巴の西南の役観察‐1(プロローグ)

2023-03-26 15:14:23 | 史料

 先にご紹介した「八世鳩野宗巴色紙」という冊子には、宗巴の西南の役を観察しての漢詩が数編紹介されている。
勇壮な姿を見せていた熊本城が焼失し、また城下町が灰燼の廃墟と変り、戦いに勇んで参加した人々の悲惨な有様をみてその治療にあたりながら、勝敗の移り行く様を感じながらも人々は生きていくために平常の日日に苦労していくさまを、気持ちの赴くままに詩を作って残している。その一編/\を読んでいると、新たな感慨を呼び起こす。
数回にわたりご紹介申し上げる。

 表紙には裏山に「芝刈り」に出かけた人の籠に一本の花を挿して帰る様が描かれていて「篠原歸樵」とある。
熊本電鉄バスに「篠原」というバス停がのこっているという。

                                                     

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■坊主憎けりゃ・・城までも・・

2023-03-26 07:44:12 | 先祖附

 元和五年正月五日の江戸の忠興から、中津にいる息・内記(忠利)に宛てた書状である。
かっては自らが身を置いていた中津の城の天守を解体して、小笠原忠真に寄贈する旨を告げたものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     (前略)
一小笠原右近殿江、いつそや御約束申候中津城之殿主儀、右近殿次第ニ可被渡候、幸舟所ニ御入候間、殿主うけ取奉行
 御乗候て、舟御下候へと被申遣、請取奉行下次第ニ念入色め可被渡候、立御用満足申之由可被申越候、恐惶謹言
                       越
       正月五日            ❍(ローマ字印)
         内 記 殿
             御返事


 中津城は黒田如水が築城したものだが、江戸期の中津城絵図には確かに天守は存在しない。
又、明石城にも天守はないとされ、この小倉城の天守は天守ではなく櫓などに転用されたと考えられている。
翌元和六年には内記の義兄・小笠原忠真が新築なったこの城に入城するが、寛永九年の細川家の肥後転封に伴い、小笠原家が小倉藩主として移封、中津城には忠真の亡兄の嫡子・長次が中津藩主として入城し明治に至った。

 細川家は中津から筑前藩主となった黒田家とは大いなる仲たがいをした。徳川将軍家が仲介してこの関係が解消したのは、遠く宝暦の時代になってからである。
忠興は豊前入りした後は、中津に入城している。そして慶長7年に入り7年の時間を費やして小倉城を築城して入城した。
「坊主憎けりゃ・・」という言葉がある。黒田如水が作った城に等住まえるか?と考えたに違いなかろう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「室園村皆殺」という事件?

2023-03-25 13:06:33 | 先祖附

 2018年発行の、福田小波氏編の「八世鳩野宗巴色紙」という56枚に及ぶ鳩野家所蔵の色紙を収録解説を付した冊子を読んでいる。
鳩野家ご当主のものも含まれているようだが、西南の役で妙体寺の医院・屋敷を焼け出され立田山山麓に仮寓していた折に三々五々訪れた縁戚の人や友人の
筆によるもののようだ。

残念ながら画かれた人物の特定は難しいように思われる。そんな中「室園村皆殺」という驚くべきワードで紹介されている色紙が三枚ある。
室園村とは現在の熊本市北区清水町室園地区であり、立田山の西の斜面の裾野に近い場所である。宗巴は聖拝庵(聖拝院)という寺院跡に住まいしていた。
この地が宗巴やその仲間の医師七人が西南の役の際、官軍・薩軍の分け隔てなく治療を行った。
「日本赤十字社」の前身「博愛社」が設立される以前の話である。


そんな宗巴の許を訪れた人が、室園村に於ける年貢米未納で皆殺された村人を想い歌を遺した。
幕末藩政時代の事件であろうか?

                           

 45、室園の人皆殺に遭、村の名も絶果む事を嘆て、小川の民ども移りける。元の里て敬ひ祭る観世音飛来り給ひし図

     □□□□□ □□□□□□□ □□□□□           □□□□□ □□□□□□□ □□□□□ 
       与能人を救府や法乃                よの人を救ふや法の
           ちかひ那るらん                  ちかひなるらん)

 46、室園皆殺の折伊勢大神宮へ参詣のもの一人命をながらへたる處

    神の賜ひし幸にこそあれ
       ふりかかる身のまがつみを遁れしは  正頼

 47、
     大方の人にうめきを                正頼
       みせぬためさとり
         へだてて結ぶかり いお
                  庵 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は残念ながら、このような事件が勃発していたことは全く知らなかったので、大変驚いている。
編者は地元の古老を訪ね聞き取りをされているが、「皆殺」ではなく主たる人たちが数名殺されたのではないかという、言い伝えがあるらしい。
いずれにしても、悲惨な事件である。藩庁の正式な記録には残されなくても、このような形で悪政が白日の下にさらしだされる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■頭痛6日目

2023-03-25 07:25:40 | 歴史

 一昨日・昨日と昼間は何とか通常に過ごしていたが、夕方になると熱が出てくる。
室内気温は24度ほどの中、背中が寒くて厚手のカーディガンを羽織る。夕食後しばらくして市販薬を飲み、8時過ぎにはベッドのもぐりこんだ。
ここ数日口呼吸をしているらしく、のどが渇いて仕方がないから、一時間ごと位に水を飲む。
勢いトイレ起きも仕なければならない。11時間ほどの睡眠でもうそろそろ終わりにしたいと思っているが、今日で6日目となってしまった。
喉が痛いわけでもなく、鼻水が凄いわけでもなく、ただただ頭痛に苦しんでいる。
2年とか3年毎に春先になると寝込んでいる。以前のような辛い症状ではないが、左の眼球が痛いというオマケがついていてこれが何とも不思議である。
来週は所用で出かけねばならないこともあるので、それまでには完治に頑張ろう。

            春風邪や 視界に桜の見えぬ部屋    津々

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「はやとく」という言葉

2023-03-24 10:35:34 | 徒然

 例えば「■■ニ申上せ候道具、はやとく下候」という文章があるが、この「はやとく」がどういう意味なのか正解が得られないでいる。
この言葉、時折散見されており、なんとなく「早や とっくに」といったニュアンスで捕らえているが、WEBで検索しても駄目だし、古語辞典を眺めても登場しない。
まさか細川家の「方言漢字」ならぬ「方言言葉」なのだろうか。ご存知の方がおられればご教示賜りたい。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■最近の新発見、日出藩主木下家の傍流・肥後木下家の事

2023-03-24 06:38:37 | 先祖附

 豊臣秀吉室・高台院の実方木下家は、高台院の兄・家定の家系で長兄は歌人としても名を知られる勝俊である。
二男・利房の家系が備中足守藩主となって明治に至っている。
一方その弟・木下延俊は豊後日出藩主となり、細川忠興の妹・加賀を正室としたため、細川家とは大変親しい間柄である。加賀の娘・御豊が木下利當に嫁いでいる。
末弟は小早川秀秋という関係である。

 その木下延俊の嫡男・俊治が二代目日出藩主となり、弟・延次が5,000石という破格の分知を受けているが、この人物は豊臣秀頼の隠し子だという伝聞がある。
 一方三男・三郎左衛門は細川忠利と木下延俊の約束事として、日出藩が無事嫡男が継承したのを受け、正徳元年に肥後入りし千葉城に居を構え、以降明治に至った。
其の後、現在の蔚山町に屋敷替えとなり、明治に至るまで長くこの地に留まりこの周辺は「木下町」と呼ばれている。
最近その子孫「嘉納」の先祖附を見ていたら、三郎左衛門ーーー平馬==三郎左衛門(伊学)と続いているが、この三代目・伊学なる人物について「實平山才蔵弟伊学」と小さな書き込みがあった。
さて何方だろうと平山才蔵で検索してみたら、細川家家臣に平山家があった。
木下家の宗家足守藩主家の4代公定の弟・藤栄の二男筋である。この才蔵の弟が伊学で、この人物が肥後木下家の3代目を継承していた。

こういう細やかな発見は、地道に「先祖附」に目を通さなければ得られない喜びである。

   豊臣家系木下氏と細川家略系図

  +------木下家定---+---勝俊(長嘯子)
  |          |
  |                     +---利房-------+---利當----利定----+---公定=====利潔・・・・・・・→(備中足守藩主)
  |             |            |         |                        ↑
  |         |            |         +---藤栄---+----利潔
  |         |            |                                        | 
  |    豊臣秀吉   |            |                                          +----才蔵---長助・・・→(細川家臣・平山氏)
  |           ‖     |          |              |
  +------高台院============+---利次(旗本3,000石)   +----伊学        

          |
    細川藤孝----------+---忠興-----忠利
            |  |             
          |  |      +----於岩 松平忠重室(上総佐貫→駿河田中→遠江掛川藩主)    
            |  |      | 
            |  |      +----於豊 木下利當室(備中足守藩主)
            |  +---加賀    |
            |    ‖ ----+----於栗 (梅松院室)
            +----木下延俊
            |    ‖-----+---俊治・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(豊後日出藩主)
            |    ●       |
            |        +---延次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(寄合交代衆)
            |        |
            |        +---三郎左衛門---平馬==三郎左衛門(伊学)・・・・・・→(細川家臣・木下家)  
            |        
            +---小早川秀秋

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■なつかぬ犬

2023-03-23 17:05:33 | 史料

 寛永二年十二月中津の三斎から小倉の忠利に宛てた書状である。
中津の三斎の許へ、後水尾天皇の御意として、娘(三斎女・万)婿から、鷹狩用の犬を一匹頂戴したいと言ってきている。面白いのは三斎は鷹狩に犬を使わないと言っている。それゆえに息・忠利に献上する犬の調達を依頼している。
これは「婿殿」のためにも人肌脱がねばなるまいから、宜しく頼むという事である。
ちょうどこの時期、細川家は後水尾天皇のご所望により香木・初音をご披露するという栄誉な事があったが、天皇は「たぐいありと 誰かはいはん 末匂う 秋よりのちの 白菊の花」と歌にちなんで「白菊」と勅命された。
この様なことも、娘婿の辨殿(烏丸光賢)辺りの仲介によるものではないのか?少々うがった考えだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  尚々、なつかぬ犬にて候條、自然綱計にてハくいきる事も可在之間、犬くさり在之候は、御付候て可給候、以上
態令申候、不被存寄儀ニ而候へ共、従 禁中以辨殿被 仰出候は、豊後・豊前之内ニ能鷹犬在之由、達 叡聞候、可然犬一ッ上候へと 勅諚ニ候間、御返事ニ、我等は野山かけて、犬一切つかひ不申ニ付不致所持候、定而越中持可申候間、上させ可申旨 勅答申候、此間忘氣故失念候、明後十五二、万所へ人を上次ニ、此犬上申度候條、其地ニ而之上々之犬一匹明十四日御ひかせ候而可給候、右之分ニ候間、能を御撰候而給候は満足可申候、爲其申候、恐々謹言
                               三 齋
   十二月十三日                        宗(花押)
       越 中 殿
           進之候

 意訳
存知よらざることではあるが、禁中より辨殿(弁官‐烏丸光賢)をもって仰せだされたことは、豊後・豊前の内から良き鷹狩の犬がいるようだとの叡聞が達せられた。しかるべき犬を一匹上げる様にとの勅諚であるから、ご返事に申し上げたことは、私どもの鷹狩は野山を駆けまわり犬は一切使わないので所持して居りません、定めて越中守忠利が所持していると思いますので、こちらから差上げる旨をお答え申上げた。しばらくの間忘れていたが、明日十五日に万(三齋女・烏丸光賢室)に人を遣わし、その次にこの犬を差し上げたいので、小倉において上々の犬一匹を選び、明日十四日これを引いてお届けいただきたい、良い犬を戴ければ満足この上ない、
 尚々なつかぬ犬であろうから、綱ばかりでは食切ることもあるだろうから、鎖縄を付けて頂戴したい、以上

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■奉公構・谷 権右衛門

2023-03-23 08:53:30 | 先祖附

 細川家家臣・谷家(1,500石)の初代・内藏之允(衛長)は丹波山家藩16,000石・谷出羽守衛友の末子(五男)である。
衛友は死に当たって、この内藏之允に相続させることを遺言している。処が二男が徳川家に仕えていたこともあり、幕府は二男をして10,000石で相続せしめた。6,000石については兄弟や甥等に分知された。
この山家藩の相続問題には、細川三斎・忠利が遺言の履行を言い立てて援助したが、幕府の受け入れる所とはならなかった。
三斎の砂をかむような思いが残されたた文書に伺える。     『細川家史料』にみる山家藩谷家御家騒動記
色々な解説を読むと、衛長の生母が豊臣一族‐木下左近将監の娘であることによるとする指摘がある。

 細川家はこの内藏之允を、「元和八年豊前小倉ニ罷下り則御知行千石被為拝領候 爲妻三渕伊賀守様御息女(幾久)被下候」として豊前に迎えた。
三渕家は細川幽齋の実方であり、息女は三斎の従兄妹に当たる事からも気の使いようが伺える。

 二代権右衛門は養子だが、その父に荒木権右衛門なる人物がいるが、この人物も細川家に召し出されているが、先主・板倉伊賀守から「御構御座候而其後御暇被下候」という処分を受けている。これはいわゆる「奉公構」だと考えられ、権右衛門は世忰の世話になっていたのだろう。
細川家家臣の中で「奉公構」の処分を受けたのは、この人物の他には見受けられない。

そして先祖附はこの権右衛門を荒木摂津守曽孫と紹介している。「此者妻浄勝院様御養女ニ而御座候 右之通之様子ニ而荒木権右衛門世忰権右衛門儀則浪人ニ而御国居申幼少ゟ姉聟細田栖隠方育置細田氏を名乗せ子分ニ仕置候 」とあり、この世忰が谷家の二代目・谷権右衛門である。下の「細田家系・本姓荒木氏」系図の上段の克之がその「御構」に遭った父権右衛門、下段・中央に「三郎」とあるがこれが、谷家二代目の権右衛門のことである。

                                                                                                                              

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする