津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■御仕着せのこと

2024-05-14 14:23:13 | 歴史

 寛永十七年、光尚に仕えていた御児小姓がどういう不都合があったのか、誅伐にあっている。
詳細はうかがい知れないが、その人物「浅井三郎四郎」なる人物に関するニ三の記録が残されている。
召し出しは寛永十三年八月であったようで、「六人扶持、切米廿四石」を頂戴している。
そして面白いのが「お仕着せ」に関する記述である。私はこのような記述に触れるのは初めてなのだが、若殿様側近の「役徳」が見て取れる。

       浅井三郎四郎御志きせ之事
一、重陽歳暮ニ    御小袖四ッ 袴肩衣弐具 帯壱筋
一、端午七夕ニ    御帷子四ッ 袴肩衣壱具 帯壱筋
一、者奈紙もとい帋  壱ヶ月ニ壱束壱帖宛
    右は 肥後様御小々性衆御志きせの奈ミ如此ニ御座候
    御印之儀可被仰上候 以上
       寛永拾三年九月十四日 御印 
                     横山助進
                     朝山修理亮

「御仕着せ」とは、本来は「しきせ」なのだそうだが「主人から支給されるもの」だから「御」が付けられている。
又、「四季施」とも書くが、上記史料でもわかるように、端午・七夕・重陽・歳暮の四季にわたっていることからも伺うことができる。
しかし、これは一部側近のまさに「役徳」のように思える。
この人物は選ばれて児小姓になったとされるから、光尚の思い入れも深かったであろうから、その不都合はかえって光尚には怒りとなったのであろう。
これとて、熊本藩年表稿でには記載がなされていない。こんな記事に遭遇するから私の歴史狂いは段々深みにはまる。

  

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■綱利周辺に対する種々の諫言

2024-05-14 06:51:00 | 史料

 「この事件は真実か」を二度にわたってご紹介したが、私は「真実だろう」と理解している。
光尚公の死去後の大国・肥後藩を誰にゆだねるのかという幕府内の思惑は、幼い六丸をもって継承せしめようとする細川本家家臣団との思いとはその考えにいささかのずれがあったことが伺える。
しかし、必死の交渉は「幼い六丸による継承」を勝ちとった。そんな中で起きた不幸な事件であった。

 54万石という大藩をわずか8歳で襲封した六丸が、初めて御暇をいただき帰国するのは寛文元年(1661)のことであり、12年間を国許から離れ江戸詰めの家臣に取り巻かれて成長した。
生母・清高院とともにその派手な生活ぶりは国許の重臣たちの眉をひそめさせた。
その結果として、松井興長の綱利や清高院に対する諫言や、田中左兵衛の諫言、また清高院御付の女性に対する服装に対する規定など枚挙にいとまがない。
松井興長の諫言については過去に御紹介した。

松井興長・諫言 1-1  

松井興長・諫言 1-2  

松井興長・諫言 2

田中左兵衛封事-1

田中左兵衛封事-2

田中左兵衛封事-3

田中左兵衛封事-4

田中左兵衛封事-5

 生母・清高院に対する諫言については、刊本で紹介されたことはないように思うが、これに対する返書は紹介されたものがある。
また清高院御付の女性たちの服装についての申し付けなどの書(こちらは古文書写)などが残されている。
こちらもご紹介しようと思っている。

 

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