寛永十七年、光尚に仕えていた御児小姓がどういう不都合があったのか、誅伐にあっている。
詳細はうかがい知れないが、その人物「浅井三郎四郎」なる人物に関するニ三の記録が残されている。
召し出しは寛永十三年八月であったようで、「六人扶持、切米廿四石」を頂戴している。
そして面白いのが「お仕着せ」に関する記述である。私はこのような記述に触れるのは初めてなのだが、若殿様側近の「役徳」が見て取れる。
浅井三郎四郎御志きせ之事
一、重陽歳暮ニ 御小袖四ッ 袴肩衣弐具 帯壱筋
一、端午七夕ニ 御帷子四ッ 袴肩衣壱具 帯壱筋
一、者奈紙もとい帋 壱ヶ月ニ壱束壱帖宛
右は 肥後様御小々性衆御志きせの奈ミ如此ニ御座候
御印之儀可被仰上候 以上
寛永拾三年九月十四日 御印
横山助進
朝山修理亮
「御仕着せ」とは、本来は「しきせ」なのだそうだが「主人から支給されるもの」だから「御」が付けられている。
又、「四季施」とも書くが、上記史料でもわかるように、端午・七夕・重陽・歳暮の四季にわたっていることからも伺うことができる。
しかし、これは一部側近のまさに「役徳」のように思える。
この人物は選ばれて児小姓になったとされるから、光尚の思い入れも深かったであろうから、その不都合はかえって光尚には怒りとなったのであろう。
これとて、熊本藩年表稿でには記載がなされていない。こんな記事に遭遇するから私の歴史狂いは段々深みにはまる。