蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

となり町戦争

2006年08月29日 | 本の感想
となり町戦争(三崎亜記 集英社)

①ある日、久しぶりに新聞を見ると外国で戦争が起こっていた。しかし外国のことなので日常生活には何の影響もない。
日本は戦争をしている片方の国A国に肩入れしているので、もう一方のB国を支援している国際的なテロ組織が、もしかしたら日本でテロを起こすかもしれない。通勤で使っている電車が爆破されることも可能性としては否定できない。
やがて戦争は終わって日本が味方していたA国は勝利した。戦後もテロ組織の暗躍は続き、A国の同盟国であるC国で地下鉄テロが発生、多くの人が亡くなった。そしてその犠牲者の中に自分の友人の名を発見した。

②自分が住んでいる町ととなり町が戦争を始めるらしいことを、主人公は町の広報紙で知る。しかし、日常生活の中では戦争が行われているという兆候は全く見られない。
ただ広報紙は戦争の犠牲者数を公表し続けるので、戦争は本当に行われているらしい。主人公も町から「召集」され偵察任務に就く。偵察といっても何のへんてつもない周囲の風景を報告するだけだ。しかし、ある日、町の戦争業務担当者から、となり町の査察が入るので逃げるように指示を受ける。
やがていつの間にか戦争は終わる。主人公は、戦争業務担当者から、かつて主人公が査察から逃れることを手助けした人がとなり町で捕まって銃殺されてことを告げられる。


①は現実の世界で発生していること。この本ではそれを②のように戯画化して描く。確かに遠い中東の地で起こっていることが、我々の日々の暮らしに影響を与えているとは、実感しにくい。テレビや新聞で断片的な報道を見たり読んだりするだけだ。「もしかして、毎日乗っている通勤電車がテロに遭うかも」という考えが一瞬よぎることがあっても、少なくとも日本ではあまり真剣に対策を考え始める人は少ない。

しかし、アメリカやイギリスでテロが発生し、そこで自分の知り合いがなくなったりすれば戦争やテロは一気にリアルな現実として姿をあらわす。

私といっしょに仕事をしたことがある人が9.11.のテロで亡くなられる、ということを実際に経験した。ニューヨークに出かける前のその人を撮った写真が、私のデジカメに残っていたことに気づいた時は切なかった。
この経験のため、私はテロが自分にふりかかってこないかと心配になることがある。昨年の9月11日に総選挙をすることが決まった時には、その前週は外出するのを止めた方がいいんじゃないか、と考えたりした。

太平洋戦争の体験記を読むと、日常生活が本当に苦しくなってきたのは昭和19年の後半くらいからだという人が多い。戦争の影響が一般人の生活にまで深刻に表れてきてしまえば、それはその国の敗北を意味しているのだろう。逆にあれだけの大きな戦争であっても、ある時期までは前線で戦っている兵士以外には戦争は実感しにくいものだったとも言える。

あたりまえのことだが、悲惨な状況を多くの国民が記憶し経験している間は戦争は起きにくい。国民がそうした経験や実感をなくしてしまった時、戦争は他人事として開始されることになるのだろう。

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