蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

大東京ぐるぐる自転車

2015年08月31日 | 本の感想
大東京ぐるぐる自転車(伊藤礼 東海大学出版会)

まえがきによると、当時著者は74歳。自転車に乗り始めて(というかサイクリングを本格的に始めて)10年程度。本書は著者が(同じくらいの年代の)友達と東京各地をサイクリングで巡って各地の紀行風土?を、面白おかしく、しかし真面目な筆致で描く(のでかえって滑稽味が増すのだが)エッセイ。

転んで(医者もあきれるほど)何回も骨折したり、頭を切って血がだらだら流れたり、心臓ペースメーカーを埋め込んでも、気にせず?著者はサイクリングに出かける。
出かけると疲れ果て後悔するけど、また出かける。
それほどサイクリングというのは魅力的なものなんですよ、というテーマが十分に納得できるほど、著者の輪行経験が楽し気に綴られており、読んでいるうちサイクリングに出かけてたくなること請け合いである。

ただ、学者らしく、サイクリングにのめり込む自分の姿を(あきれたように)客観的に見る視点もあった。例えば・・・(P193)
***
文明の利器、京王電車はすごかった。一日を費やしてここ到着したというのに、南大沢駅で乗車した三十分の後、わたくしたちは出発地、千歳烏山駅に舞い戻っていたのであった。電車賃がたった三百三十円だったのも、憎いといえば憎かったのであった。
***

出色なのは(まえがきに当たる)第一章で、奥さんとのやりとりや、自転車で転ぶプロセス?、「わかば」のたいやき、走行記録のグラフなど、爆笑、ではなく、クスクスという笑いが止まらない話題の連続だった。
ただ、恐妻家のように見せかけておいて、高級自転車を七台も所有しているというのは納得できかねるものがあったが。
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東京骨灰紀行

2015年08月31日 | 本の感想
東京骨灰紀行(小沢信男 筑摩書房)

江戸時代の牢屋や処刑地、関東大震災の被災地、東京空襲で大きな被害を受けた地など、東京各地の「骨灰」が積み重なっている地所、墓場は慰霊碑を訪ね歩く紀行文。

両国、日本橋、千住、築地、谷中、多摩(霊園)、新宿などを訪ねる。

東京(江戸)は政治経済の中心地である時代が長いし、そもそも人口が多いから地下に埋まっている死体も当然多いはずなのだが、普段暮らしている分には全くそんな気はしない。
しかし、この紀行を読んでいるとそこかしこに墓や慰霊碑があることがわかる。特に東側はそんな感じだ。地下鉄を造るために地面を掘り進むと人骨がざくざく出てくる、なんて言われるとぞっとしない。

一番印象に残ったのは、(新宿編で)麹町近くの二葉幼稚園で活躍した徳永恕(ゆき)の話。
以下引用(P209)
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徳永恕が二葉幼稚園の園長を、野口幽香からうけ継いだのは昭和六年。昭和十年に財団法人にして、理事長となった。翌十一年には深川に母子寮と託児所を設けた。戦争激化の昭和二十年には、子供らは強制疎開、空襲により本園と深川が罹災焼失、旭町の分園だけが焼けのこった。
戦後の再建は、旭町分園を中心に、戦災孤児や母子家族の救済にあたり、戦災者や引き揚げ者の面倒もみた。(中略)代表の徳永恕は、昭和二十九年、東京都名誉都民に推され、同三十七年度の朝日賞(社会奉仕賞)を受けた。賞金はどんどんもらって事業へ注ぎこんだ。同四十八年一月十一日歿、享年八十五。十九歳で二葉へとびこんで六十六年間、生涯、家をもたず、園児らとともにいた。
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文系の壁

2015年08月23日 | 本の感想
文系の壁(養老孟司 PHP新書)

対談集。
本の題名は編集者が付けることが多いと聞く。養老さんというと何が何でも「~の壁」という題名を付けたくなる気持ちはよく理解できるが、本書は冒頭で養老さんが「電算機が発達して文系と理系の区分は難しくなった。むしろフィールド科学と実験科学とに分けるべきではないか」といった趣旨のことを述べているのに、この題名はないだろう、という気がする。

4人と対談しているが、私としてはお目当てだった森博嗣さん以外の方3人の分も面白かった。

これは養老さんの誘導があるせいなのかもしれないけど、皆さん大学を中心とした学問世界の近くに生きている人なのだけど、共通して述べられているが、大学の窮屈さ、自由に研究できる時間の少なさだ。ために副業に力を入れていたらいつの間にかそれが生業に・・・という人生を送られている方が多いような。
もう一つ共通した話題は、前提を考えることの大切さだろうか。

以下、印象に残った箇所を引用。
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防波堤にしても、高ければ高いに越したことはありませんけれど、予算の兼ね合いで「これくらいの高さにしておけばまず大丈夫だろう」と仕様を決めて作ります。もし仕様以上の高さの波が来れば、防げないのは当たり前です。関係者は「予想外でした」とコメントしますけど、設定が甘かっただけの話ですし、予想外というようりは「予算外」だったということです。(P39 森)

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実は「同じ」にもいろいろあって、たとえば、生まれてこのかた「私」は「私」だとみんな思っている。こんなの嘘っぱちですけど、「同じ私」だとみなすでしょう?それで思ったのは、「意識」に同一化を促す働きが作り付けになっているんじゃないかということです。だって、意識は年中なくなっているのに、戻ってくるたびに、記憶を含めて「同じ私」だとおもうでしょう?(P78 養老)

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見えてるもの、聞こえてるものが人によって全然違うのに同じだって思っているのは不幸ですね。「『同じ』という前提で社会ができているんだけれども、実は違うんだよ」と教えると、豊かな世界観が生まれると思うんだけど、「これはコップだから、どこから見てもコップだろう?」という世界は辛いなあ。(藤井直敬)
それが「グローバル」ということですね。だから、生物多様性もどんどん減ってしまう。生き物はいろいろいたほうが面白いんだけど、「かわいい猫のほうがいい」とか、「ゴキブリはいないほうがいい」とか言っているうちに、全体として見ると、だんだん、多様性が減ってくる。やせ細る一方です。(P83 養老)

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古代から都市への集中対策をやってきたのが、中国でしょう。紀元前から都市を築いていた中国は、都市化の大先輩です。二十世紀に入ってから中国では農村戸籍を作り、農村から都市へ自由に移動できないようにしました。都市には人が集まるけれど、集まった若い人は都市型の生活になって子供を作らなくなる。日本がきれいに証明してしまいましたが、国全体の人口を減らすなら都市を造るのが一番手っ取り早い。(P117 養老)

***
ヨーロッパでは革命によって王様を倒すことに正当性が必要で、そこで持ち出されたのが、ルソーらが唱えた「社会契約論」という概念です。そういう概念でもない限り、みんなが一体化して一つの国として振る舞う正当性を説明できなかったんですね。
だけど、社会契約論なんて嘘に決まっているじゃないですか。契約したことのある人なんていないでしょう?(中略)考え方自体は嘘なんだけれど、大勢の人が思考停止して信じることで、本当の社会制度が出来上がっていく。そのおかげで、ある種平等な社会が作られたわけですから、実利的な意味ではすごくよかったと思います。(P129 鈴木健)

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のはなし にぶんのいち

2015年08月23日 | 本の感想
のはなし にぶんのいち(イヌの巻、キジの巻)(伊集院光 宝島社文庫)

伊集院光さんのエッセイシリーズ「のはなし」の最初に出たものを文庫化にあたって分冊にして著者の写真コレクション?を加えたもの。

多少絵心があるせいか、美術展に行って気に入った作品があり、見つめているうちに自分でも絵を描きたくなり、帰宅して早速模写を始める、なんてことがたびたびある。
伊集院(光)さんのエッセイも、話題が身近で「あるある」的なトピックを意識して取り上げており、しかも大抵とても面白いので、読んでいると自分でも(こんな面白いエッセイを私もかけるんじゃないか、と錯覚して)エッセイを書いてみたくなる。
実際書いてみたこともあるのだが、もちろん、あんまり面白いものにはならない。そこであらためて、著者の才能に感心することになる。
(絵の場合、模写をしているうちにその絵の良さがさらによく理解できるような気になるのも似たような現象だと思う)

本書では「「苦しい言い訳」の話」が一番よかった。円楽師匠から世話を頼まれた珍鳥の話なのだが、とにかく笑えた。
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しんがり

2015年08月22日 | 本の感想
しんがり(清武英利 講談社)

1997年11月22日の朝、まだ寝ていた私を家人が起こした。「ねえ、山一証券が潰れるみたいよ」と。

NHKのニュースで、山一証券自主廃業へ、というニュースを見て呆然としたことをよく覚えている。なぜかというと、当時私は株価が大きく値下がりした名門企業の株を買い漁っていたからだ(といっても、最低売買単位でたくさんの銘柄を買っていたので金額的にはたいしたことない)。

結局、当時買ったそれらの株はその後10倍以上になったものもあれば、今でも買いコストを上回れないものもある。しかし、株券が無価値になったのは山一証券だけだった。このあたりからも、長期間の不況を経ても日本企業の新陳代謝はあまり進んでいないともいえそうだ。

本書はそんな山一証券で、自主廃業を決めた後、破たんの真の原因を探ろうとし、充実した内容の報告書を作成した社員たちを描いたノンフィクション。

「飛ばし」といわれた財務上の操作(含み損を抱えた運用資産を決算前だけ他の会社に引き取ってもらって損失を表面化させないようにすること)がやがて巨大な簿外債務となっていき、創立100年に達しようという名門企業は追いつめられていくのだが、そうした「飛ばし」が山一で特に巨額になったのは、事業法人担当だった役員が社長になろうとして無理をしたためだという。

(それってすでに周知なのでは?という意味で)若干拍子抜けする結論なのだが、本書はそうした破たんの原因追及をテーマとしているわけでない。
会社では日蔭の部署に追いやられていたコンプライアンス部門(業務管理本部)のメンバーが、会社を破たんに追いやった花形部署の幹部たちを追いつめていくという一種の復讐譚の様式を備えていることが人気がでた原因だと思う。ただ、少々表現がオーバーというか、あざとい感じがしないでもなかったが。
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