蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

ケイコ目を澄ませて

2023年10月31日 | 映画の感想

ケイコ目を澄ませて

聴覚障害がある小河ケイコ(岸井ゆきの)は、荒川近くの古くさいボクシングジムに通う。熱心な練習の甲斐がありプロになり2勝している。ジムの会長(三浦友和)は持病が深刻化してジムをたたもうとしていた。それを知ったケイコはボクシングを続けるべきかを悩む・・・という話。

 

というだけの話だし、結末も予想される通りなのだけど、不思議な魅力を感じるのはなぜだろう。

世評が高いことを知った上で見たから?

フィルム撮影したような?画質がなつかしさを感じさせるから?

主役をはじめとしてキャストの演技が、演技と思えないほどだから?(ミット打ちは相当稽古したんだろうなあ・・・)

聴覚障害者のボクサーが書いた本が原作で、聴覚障害がある人の生活ぶりがリアルだから?

 

本作は荒川の近くが舞台でジムの名前もそのまま荒川ジム。冒頭から最後までさかんに挿入される首都高の立体交差、ケイコが練習する河川敷のシーンも多くて、東京の郊外とまでは言えない、でも大都会のイメージからも遠い荒川近辺をうまく描写していたことも大きかったかな。

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水車小屋のネネ

2023年10月29日 | 本の感想

水車小屋のネネ(津村記久子 毎日新聞出版)

18歳の山下理佐は、ひとり親の母親が短大への入学金を使い込んでしまい進学を断念する。妹の律が母親の恋人に虐待されているのを知り、律を連れて地方のそば屋に就職する。そば屋は裏の水車小屋でそば粉をひいていたが、その小屋には挽き臼の監視役?のヨウムのネネがいた。ネネは人間の幼児並みによくしゃべった。理佐と律は、最初は冷蔵庫がなくて困るくらいだったが、やがて生活を軌道に乗せていく。理佐と律とネネの様子を1981年から2021年まで10年ごとの節目で描いた作品。

 

子どもの進学資金を使い込み、恋人が子どもをいじめていても、娘二人が出ていってしまっても知らんぷり、娘を探しに来たと思ったらそれは娘たちの相続遺産狙いだった・・・というトンデモな母親とその恋人が、序盤で登場する。

典型的な「かわいそうな子どもの話」としてスタートするのだが、そういうお涙頂戴の筋立てをひっぱらずに、からっとした、でも人情味とそこはかとないユーモアを漂わせる展開がとてもよかった。

そば屋の夫婦、律の担任の先生、律の同級生とその父親、誰もがちょっとそっけないようで、実は(なんの縁がないともいえる)理佐たちを見守り、そっと手助けしてくれる。

そしてクールに見える理佐も、理知的な律も、わかっていないようで、ちゃんと他人の善意を感じ取っている。ちょっと長目だが、読み終えるのが惜しくなった小説。

人でなしの母と和解しちゃうような安易な結末がないのもいいな。

 

ちょっと前に読んだ別の小説にもヨウムが登場して、その長寿である(飼育下なら40年くらい生きることもある)ことと、記憶力のよさに驚いたことがあった。ネネも、幼児というより下手すると小学生高学年並みの応答をするのだが、さすがにこれは創作なのだろう。しかし、ネネのような鳥がいるのなら、ともに暮らしてみたい、と誰もが考えそうだ。

 

そば屋の守さんと浪子さんが作るそばがとてもうまそう。やっぱり挽きたての粉だとうまいものだろうか?

 

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種痘伝来

2023年10月29日 | 本の感想

種痘伝来(アン・ジャネッタ 岩波書店)

1798年イギリス人ジェンナーによって開発された牛痘(牛の感染症の病原体を人に接種して天然痘の免疫を得る予防法)はナポレオン戦争のさなか、世界中に瞬く間に広がる。しかし鎖国中の日本には効力がある牛痘の病原体(かさぶたが用いられた)がなかなか輸入されなかった。しかし、1849年、オランダにより長崎にそれがもたらされ、佐賀藩主の鍋島直正が息子に接種させたのを皮切りに蘭方医のネットワークを通じて1年もたたないうちに日本全国に伝えれれた・・・という経過を描いた作品。

 

ヨーロッパの国々が主に支配者側の政策として種痘を拡大させたのに対し、日本では(幕府は当初公認せず)民間?のネットワークで伝搬された、というのが特徴だとする。

ヨーロッパでは学説が論文として発表され、学会や協会といった組織を通じて新技術が広まるネットワークがあった。

これに対して日本では、師弟関係(〜流みたいな学術グループ)、(成人後の)養子縁組、婚姻(見込みのある弟子を娘の婿にするとか)といった封建社会の身分制をすり抜けるような方法でネットワークが形成された、という見方が興味ふかい。

 

牛痘って、なかなか理解されず、すぐには広がらなかったというイメージがあったのだが、実際には驚くようなスピードで、しかも世界中(南米や東南アジアにも宗主国が持ち込んだ)に伝えられたようだ。

日本でも有効な病原体(今風にいうとワクチンの原料)が持ち込まれた後の伝搬スピードは驚異的だったようだ。人間関係に頼ったネットワークであっても、情報技術が発展した現代の伝達速度顔負けだ。それくらい天然痘が当時の人類にとっては脅威の病気だったとも言えるのか。

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サピエンス減少

2023年10月21日 | 本の感想

サピエンス減少(原俊彦 岩波新書)

国連の推計によると世界人口は2086年の104億をピークに減少に転じるという。そして出生率などの傾向がそのまま続くと、300年もしないうちに世界人口はピークの1/100まで減少する、という推計もある。人類が戦争でも病気でも飢餓でもない原因で自然消滅的に絶滅してしまうという未来は案外すぐそこにあるということだ。

データを多く引用し、論理的に人口減少が生じる原因と対応をわかりやすく説明している。特に人口爆発が「爆縮」に転じていく過程の説明がよかった。

少し前までは人口の爆発的増加を懸念していたのに、今や人口「爆縮」を心配しなくならなくなった。そうしたトレンド転換の原因をさぐるのが、本書のテーマの一つ。

日本の場合は

「日本の「第一の人口転換」は、明治以降の近代化を契機に社会資本の蓄積が進み、女性の平均寿命が延伸し、再生産期間の生存率が50%から100%に近づいていったことにより、人口置換水準の子ども数が4人から2人まで低下した。このため多産多子のリスクが高まり、最終的に成人まで無事に生き残る子どもの数が平均で2子となる方向へと出生抑制が進んだと考えられる。つまり、女性の平均寿命が短い時代には、生まれた子どもの半数近くが成人するまでに死亡してしまうため、女性は、その分、多くの子どもを産まなければならなかったが、その一方、子どもの数を希望する範囲におさめるのに必要な出生抑制は女性の自由にはならず、その結果、実際の合計出生率は置換水準より常に高い水準になったと思われる。しかしながら、実際の合計出生率は置換水準の合計出生率を追うように低下し、両者の乖離は徐々に小さくなっていった。このことからも出生抑制に対する女性の自由が徐々に拡大していったと考えられる」(P70)

なのだが、やがて起きると思われる世界の人口減少のプロセスも似たようなものになるらしい。

「この人口減少は豊かさと自由を追求してきた人類社会が生産力の飛躍的発展を通じ長寿化する一方、自らの出生力をコントロールする自由を拡張してきた結果、個人の選択の自由が、社会全体としての人口学的不均衡をもたらすに至った」(P98)

そしてこの問題に

「早急な解決を求めれば、社会は全体主義的で優生学的な方向に進み、社会的連帯の基盤は失われ、社会の崩壊に繋がることも危惧される。我々は、すでに第二次世界大戦前後にそのような危機を経験している」(P98)

日本への処方箋としては

「少子高齢化に伴い生産年齢人口は減少してゆくので、1人あたりの生産性を高め、1人あたり所得を増加させる必要がある。一般に労働力の不足が懸念されているが、それ以上に問題となるのは、もっとも消費率の高い生産年齢人口が縮減することにより、国内市場の有効需要が縮減してゆく点にある。これらのことから、日本のような人口転換の先発地域においても持続的な経済成長が必要であり、そのためには、今後も生産年齢人口の爆発的な増加が期待できるサブサハラ・アフリカなどの人口転換の後発地域への経済支援、先行投資を積極的に進めるとともに、国際人口移動(移民)の受け入れを積極的に行ってゆく必要がある」(P94)

 

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子どもに学ぶ言葉の認知科学

2023年10月21日 | 本の感想

子どもに学ぶ言葉の認知科学(広瀬友紀 ちくま新書)

言語学者の著者が、自分の子供の小学生時代の漢字ドリルなどの宿題でやらかした(というくらい、間違い方が面白い)失敗を例に、人間はどのようにして言葉を認識して習得していくのかを考察している。

子どもの言い間違いの典型として挙げられているのが、「死ぬ」を「死む」と言ってしまうこと。これは「読む」とか「飲む」のようにマ行で活用する動詞はたくさんあるのにナ行で活用する動詞はほとんどないため、子どもは大人が話すのを聞いていて、死◯もマ行で活用するに違いない、と推測するためだという。日本語に限らず、英語でもあることで、典型として、goの過去形をgoedと言い間違えるそうだ。

言われてみるまで気づかなかったが、「日本人の子供でも例えば中国語環境で育てられれば中国語を話すように、またその逆も成り立つように、人間の脳はどの言語でも獲得可能な機能を持っています。同様に、獲得した言語知識を運用するための人間の脳内の文処理装置だって、その人の身につける言語が何語であろうと、性能や初期状態の性質的には同じものが備わっている」というのは、すごいなあ、と思えた。

これは恐らく、言語に限ったことではなくて、人間(というか生物)の環境順応能力は素晴らしく良くできているのだろう。

日本人が英語を習う上でやっかいなものの一つに関係代名詞があるが、本書によると、関係代名詞があることで、そこから先が関係節であることが明示されることは文意を読み取る上でとても優れた働きであるそうだ。日本語ではどこからが関係節なのかがとてもわかりにくく、日本語習得の障害の一つなのらしい。

著者の長男の珍回答?の一つに、「筆者の説明のしかたで、いいな、分かりやすいな、と思ったところはありましたか」という問題に「ありました」と回答した、というのがあった。そういう箇所を上げなさい、というのが設問の趣旨なのだが、そう言われなくても大人はそう解釈できる。

「話し手と聞き手の間には、つねに一定の了解事項があり(中略)必ずしも言葉どおりに表現されない内容のやりとりが可能なのです」

似たような話で、

熱湯風呂にまたがって「絶対押すなよ」と叫んでいる人の真意は(多くの日本人には)明白だが、現時点でのAIに正しく判断させるのはとても難しいそうで、暗黙の了解みたいな機微は、今のところ人間だけの領域みたいだ。

著者の長男の回答のうち、最も面白かったのは・・・

「太」と使って文を作る、という問題に対して「ビールをのめば太るけど芋じょうちゅうなら太らない」と回答したもの(母がよく言うセリフなのだろう)。

 

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