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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「一 古代の歌うた」(その5):万葉歌において「大化の改新」の少し前、舒明期に、中皇命(ナカツスメラミコト)の歌がある!「個人の抒情」の誕生!

2021-07-25 16:51:33 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(1)-8 万葉歌において「大化の改新」の少し前、舒明期に、中皇命(ナカツスメラミコト)の歌がある!「個人の抒情」の誕生!(29-32頁)
A-11  推古女帝が628年、73歳で崩じると、蘇我蝦夷の助力で舒明天皇(位628-641)が即位した。舒明天皇は蝦夷(エミシ)の専横すなわち「大臣従(マツロ)はず」のもと、晴れがましい政治の舞台からは遠い存在だった。(29-30頁)
A-11-2 舒明の死後は、その皇后が即位する。皇極天皇(位641-645)だ。蘇我蝦夷は642年大臣の地位を子の入鹿(イルカ)にあたえる。643年、入鹿が太子の子・山背大兄(ヤマシロノオオエ)を斑鳩に攻め、上宮家の人々(聖徳太子の一族)をことごとく殺してしまった。(30-31頁)

A-12 万葉歌における大化の改新の少し前、舒明期の歌として、中皇命(ナカツスメラミコト)の次の歌がある。(32頁)
「たまきはる 宇智の大野に 馬並(ナ)めて 朝踏ますらむ その草深野」(巻1、4)
(※「たまきはる」は宇智にかかる枕詞。天皇が狩をするときに、中皇命がこの歌を奉じた。「天皇は宇智の大野に馬をたくさん並べ朝の草深い野を馬に踏ませておいででしょう。」)
A-12-2  ここには「個人的な新鮮さ」がある。「個人」の「新鮮な抒情」が芽生えようとしている。(32頁)
A-12-3「それを真の個人詩として開眼せしめるものは、大化以後の文明開化だ」。「ちょうど政治の上に、蘇我氏の滅亡によって古代氏族制の崩壊が訪れ、新しい律令国家の夜明けが大化の改新によってもたらされるのとひとしい。」(32頁)

A-12-4  それまでの万葉の歌は「記紀に散見する古代儀礼にともなう」歌、例えば「国見の歌」である。舒明天皇の「国見の歌」は次の通りだ。(30頁)
「大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天(アマ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(ケブリ)立つ立つ 海原は鷗(カマメ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(アキヅシマ) 大和の国は」(巻1、2)
(大和の数多い山の中でもすぐれた香具山に登って国見をすると、国原は豊かに炊煙をあげ海原にはしきりに鷗が、飛び立っている、りっぱな豊饒の国、大和よ)
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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「一 古代の歌うた」(その4):聖徳太子は万葉において、きわめて人間的な姿をみせ、ほかの文献と異質だ!

2021-07-25 12:55:42 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(1)-7 聖徳太子は万葉において、きわめて人間的な姿をみせ、ほかの文献と異質だ!万葉の歌の流れの上で、太子は一つの人間誕生をつげる存在となっていった!(25-29頁)
A-9 『万葉集』において、「雄略を優美ないろどりに染めあげていったものは、ひとつの抒情精神であった」。「7世紀初頭の聖者、聖徳太子もまた万葉においては、きわめて人間的な姿をみせて、ほかの文献と異質である。」(25頁)
A-9-2  推古天皇(位593-628)の皇太子・摂政となったのが聖徳太子(574-622)だ。(東宮としての太子の政治は、蘇我馬子と並んで行われた。)太子の政治には、従前にみられなかった新しさがあった。603年「冠位十二階」が定められた。これは、蘇我の勢力に象徴される「氏族制」の社会から、官僚制あるいは「律令制」への第一歩だった。(26頁)
A-9-3  604年「十七条の憲法」は、後の白鳳期(大化改新~平城京遷都)に太子に仮託して作られた可能性が高いが、ここに盛られた「官僚制の整備」、「人倫への理想」は太子のものでありうる。(27頁)
A-9-4  太子のこのような「あらたなる時代」への「夢想」は、「ふかく内攻する魂」に裏付けられていた。「仏教への深い悟入」が太子を支えた。(こうして622年、太子は49歳で亡くなった。)(28頁)
A-9-5 太子信仰が、はやくも白鳳期に現れてきた。(28頁)

A-10 『万葉集』(巻3、415)に、「上宮聖徳皇子(カミツミヤシヤウトコノミコ)」(聖徳太子)の歌がある。
「家にあらば 妹(イモ)が手まかむ 草枕 旅に臥(コヤ)せる この旅人(タビト)あはれ」
(家にいたら愛の手を交わしているだろうに、旅路で死んでいる旅人よ!)(28頁)
A-10-2 この歌は家の妹(妻)の悲しみを「想いやる歌」だ。(※夫は旅先で、行き倒れてしまった。)(28頁)
A-10-3  これは「聖者像」というより、「人間としての慈愛」を太子に感じ取ったものだ。それは「太子の仏教帰依」の中から出てきた「人間への愛(イト)しみ」だ。「万葉の歌の流れの上で、太子は一つの人間誕生をつげる存在となっていった。」(29頁)
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