臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(5月23日掲載・其のⅡ・三訂版)

2011年05月30日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]


○  新緑は曇硝子を青くせり西方浄土の木なる栗の木  (東京都) 豊 英二

 「西方浄土の木なる栗の木」という下句について述べましょう。
 松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』の“須賀川”の項に、「須賀川の駅に等窮といふものを訪ねて四五日とどめらる。先づ白河の関いかに越えつるやと問ふ。長途の苦しみ身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。≪風流のはじめやおくの田植うた≫無下に越えんもさすがにと語れば、脇第三とつづけて三巻となしぬ。此の宿の傍らに、大きなる栗の木蔭をたのみて世をいとふ僧あり。橡ひろふ太山もかくやとそぞろに覚えられて、物にかきつけ侍る。その詞、栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。≪世の人の見つけぬ花や軒の栗≫」とある。
 本作中の「西方浄土の木なる栗の木」という下句は、前掲の『奥の細道』の中の「栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便りあり」という記述を典拠としたものと思われ、「新緑は曇硝子を青くせり」という上句も亦、「世の人の見つけぬ花や軒の栗」という芭蕉の発句と趣きの通うところがある。
 「新緑」の頃になると、それまでは淡淡としていた「栗の木」の葉の緑が急に濃さを増し、室内と庭とを隔てる「曇硝子」に被さるようにして旺盛に成長し、「曇硝子を青く」感じさせるようにもなるのである。
 本作の作者・豊英二さんは、その「青く」なった「曇硝子」を目にするにつけても、元禄の昔の松尾芭蕉の風流を求めての旅や、「栗の木」を杖にしての行基菩薩の「西方浄土」を求めての苦難の行脚の日々のことを思ったのでありましょう。
 〔返〕  梅雨ぞらに気疎く咲ける栗のはな西方浄土の便り空しき   鳥羽省三
   

○  移住者の募金・チャリティの続きおり羅府新報の隅々にまで  (アメリカ) 西岡徳江

 作中の「羅府新報」とは、米国カリフォルニア州ロサンゼルス市に本拠を置く日本語新聞である。
 察するに、彼の地の、日本からの「移住者」たちの間にも、東日本大震災に見舞われた祖国を救う為の「募金」活動や「チャリテイ」バザーなどが盛んに開かれ、今に至るまで続いていて、その詳細が「羅府新報の隅々にまで」掲載され、報道されているのでありましょう。
 彼の地への「移住者」たちの中には、“石をもて追わるる如く故郷を出でし悲しみ”を抱いた方々も居られましょう。
 そうした方々からの心の込もった贈り物が今では貰い手もが無く、被災地のある県では、「倉庫賃借料、毎月一千万円余りに悲鳴を上げている」との報道が、昨日の朝日新聞の朝刊で為されていた。
 〔返〕  旧かなで詠んだ短歌も載っていて風情解する羅府新報か   鳥羽省三  

○  ふるさとは無音無人の町になり地の果てのごと遠くなりたり  (福島県) 半杭螢子

 かくの如き状態になるにつけても、かつての福島県民の一部の者が、原発誘致派の辣腕政治家を県知事や国会議員に担ぎ上げ、利権漁りに狂奔し、原発誘致反対運動の足を引っ張ったことが悔しく思われてなりません。
 昨日の朝日新聞朝刊の報道に拠ると、民主党政府は、農作物や漁獲品の販売不可能になった分の損害に対する賠償は勿論のこと、その風評被害に拠る損害まで賠償する方針を固めたと言う。
 その膨大な賠償経費は、東電の社長などの役員・社員や原発誘致に狂奔した人々だけが負担するのでありましょうか?
 〔返〕  「フクシマ」は後は野となれ山となれ原発誘致の遺恨骨髄   鳥羽省三


○  まばらなる閖上の松にかかりたる二十日月ゆく浄土の上を  (多賀城市) 須田富士子

 その昔、「閖上」海岸の人々は、「閖上のあんどん松」と呼ばれた巨大な黒松に毎晩“あんどん”を吊るして、海上交通の道標となる灯台代わりにしたのだと言う。
 今は、その「閖上の松」に、“あんどん”代わりに「二十日月」がかかっているのである。 
 宮城県名取市の、松で知られた名勝の地「閖上」海岸の「松」が「まばら」になったのは、その大部分が津波に攫われたからでありましょう。
 その「まばらなる閖上の松にかかりたる二十日月」が「浄土の上を」「ゆく」とありますが、私は本作に接した当初、作中の「浄土」とは、三陸海岸のもう一つの名勝の地「浄土ヶ浜」を指しているものと思いましたが、「浄土ヶ浜」は、同じ三陸でも岩手県宮古市に在るので、私のそうした推測は間違って居りました。
 思うに、本作の作者・須田富士子さんは、大勢の人々が津波に呑まれてお亡くなりになった「閖上」海岸を、死者たちが旅立って行かれた彼の岸、即ち極楽「浄土」にお見立てになられ、本作をお詠みになったのでありましょう。
 行き所を失った死者たちの魂が、未だに、いや、永遠に彷徨っているに違いない海岸を、極楽「浄土」に見立てたのは、極めて悲しく切なく哀れな“見立て”と思われます。
 「まばらなる閖上の松にかかり」、「浄土の上を」を行く月が、すこし欠けた「二十日月」であることが泣かせましょう。
 「まばらなる閖上の松にかかりたる」と言い、「二十日月ゆく浄土の上を」とも言う本作は、材料だけが取り得の凡百の東日本大震災関係の作品とは、一味も二味も違った佳作と思われます。
 〔返〕  そのかみの灯台代はりの閖上のあんどん松にかかる二十日月   鳥羽省三


○  災害に生きて残りし年寄の重き言葉よ「つなみてんでんこ」  (宇都宮市) 河西弘正

 「つなみてんでんこ」という言葉は、「津波が寄せるのは一回こっきりでは無くて、次々に寄せて来るから注意しなければならない」という意味でありましょうか?
 それはともかくとして、「災害に生きて残りし年寄」という表現は、しつこいと言うか、持って回ったと言うか、あまり要領の良くない表現と思われます。
 〔返〕  震災に幾たび遭ひし翁かも重き言葉よ「つなみてんでんこ」   鳥羽省三 

 「つなみてんでんこ」という、おそらくは三陸地方の方言と思われる言葉の意味について、私は当て推量で、「『つなみてんでんこ』という言葉は、『津波が寄せるのは一回こっきりでは無くて、次々に寄せて来るから注意しなければならない』という意味でありましょうか?」と書いたのであった。
 ところが、私がテレビドラマの『相棒』の再放送を見ている間に、私に隠れてこっそりと「臆病なビーズ刺繍」の当該記事を見ていた妻から、「『つなみてんでんこ』という言葉の意味は、『津波が押し寄せて来たら、親も子も、夫も妻も、兄弟姉妹も、嫁も姑も、親戚も隣近所も、従兄弟ハトコも一切関係無く、それぞれ“てんでんばらばら”に、気がついた者から先に逃げなければならない』ということである」という指摘があった。
 妻は重ねて、「あなたは生まれつきの東京衆みたいだから知らないのかも知れませんが、私たち東北生まれの者には、“てんでんばらばらに行動”するという意味の『てんでんこ』という言葉が在って、例えば、『我が家の夕飯は、それぞれ帰宅する時間がまちまちだから“てんでんこ”だ』と言ったりするのである」とも、私に言う。
 妻の言葉の中の「あなたは生まれつきの東京衆みたいだから」云々は、無学な私に対しての“皮肉”もいいところでありましょうが、この度の妻の指摘には全く“一言も無し”という心境なので、此処に、こうして恥を忍んで、敢えて<追伸>という形で、訂正記事を書かせていただきました。
 とすると、河西弘正さんの作品中の「重き言葉よ『つなみてんでんこ』」という表現の意味は、益々重みを増して来るかとも思われるのである。
 更に言えば、私が先に記した、「『災害に生きて残りし年寄』という表現は、しつこいと言うか、持って回ったと言うか、あまり要領の良くない表現と思われます」についても、訂正をしなければならないかも知れません。
 何故ならば、「つなみてんでんこ」などという、非情とも思われる程にも重い言葉を子孫たちに言い残せる者は、単なる「年寄」では無くて、度々の「災害」に死にもしないで「生き」て「残りし」「年寄」でなければならないからである。

 
○  岡山の給水車より水もらう二時間並び二リットルだけ  (仙台市) 大西日出子

 はるばると岡山県から駆け付けた「給水車」の係員の方のご苦労を斟酌すると、「二時間並び二リットルだけ」だけは余計でありましょう。
 大変無情なことを申し上げるようですが、あれだけの大災害に遭いながら、岡山県の人々の善意に拠って、飲料水の配給を受けられることだけでも、本作の作者は、望外の幸せと思わなければなりません。
 本作とは直接関係ないとは思いますが、仮設住宅には、最新式の電化製品や風呂や給水設備まで整っていて羨ましいくらいです。
 〔返〕  望外の幸せならむ岡山の給水車の水なみなみと注ぐ   鳥羽省三


○  買手なき小女子身を打ち身を反らす漁港に直射日光受けて  (埼玉県) 小林淳子

 小魚の名称とは知って居りますが、「買手なき小女子」が「身を打ち身を反らす」という表現について、何と無く“何気あり気な表現”と思ってしまいました。
 しかも、下句には「漁港に直射日光受けて」とあるので、想像力の逞しい評者は、その昔、運命に弄ばれて、遠くジャカルタや安南の地にまで彷徨って行った“からゆきさん”と呼ばれる女性たちの悲しい宿命までも思い遣ったのである。

 〔返〕  かく読めば言われましょうか“深読み”と「小女子」が悪い漢字の罪だ   鳥羽省三
 私の連れ合いの鳥羽翔子は、「カルシュームをたっぷり含んでいるから」と言った理由で、「小女子」などの小魚を買うことが多いのですが、その大好きな「小女子」を目にする度に、「『小女子』とは名前が宜しくない。身長の低い女性を差別し、馬鹿にしているような名前だ」などと呟いて居ります。
 と言っても、翔子自身は格別に身長が低い女性では無く、還暦を過ぎて少しは縮まった今でも、優に165センチメートルはある大きな女性である。 


○  自粛してどこにも行かぬ連休に倒産したる旅館のニュース  (島田市) 小田部雄次

 評者も亦、「自粛」のし通しで、「連休」の間は旅行は勿論のこと、買い物にすら出掛けないで、自粛ならぬ緊縮の生活をして居りました。
 しかし、そんな評者の耳に入って来る「ニュース」と言えば、「姉の連れ合いの葬式に、東京から誰それが駆け付けて来て感激した」とか、「従弟のよっちゃんが、東北応援ツアーの参加者集めに狂奔している」といったような無粋なものばかりで、「倒産したる旅館のニュース」といったような、短歌の題材となるような「ニュース」は入って来ませんでした。
 詰まる所は、本作の作者・小田部雄次さんは、「自粛」生活を強いられたお陰で、“短歌ネタ”に恵まれたのでありましょう。
 〔返〕  「よっちゃんが参加費出すから松島に私は行かぬ」と言ってる翔子   鳥羽省三


○  木漏れ日は癒しのひかり 月光は恋する心育むひかり  (大和市) 栗林智子

 「木漏れ日は癒しのひかり」であり、また「月光は恋する心」を「育むひかり」である、という、本作の作者・栗林智子さんのご認識には少しの間違いもありません。
 と言うことは、本作は、いわゆる“気付きの歌”、即ち“認識の歌”と申せましょう。
 しかしながら、「木漏れ日は癒しのひかり」であり、「月光は恋する心」を「育むひかり」である、といった認識は、古来から我が国の風流人の心に兆した認識であり、本作で作者の栗林智子さんが、本作を通じてお示しになられたご認識は、格別に新味のある認識でもありません。
 彼の『小倉百人一首』中の大江千里の作「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」の存在が、その証しの一つでありましょうか?
 〔返〕  月見れば地図の三陸思はるれ閖上の月浄土ヶ浜の月   鳥羽省三


○  ゴーヤ植えて緑のカーテン作ろうよゴーヤチャンプルと一石二鳥  (横浜市) 高橋理沙子

 この非常時に際して、これは又、極めて御気楽な女性であり、御気楽な御作である。
 私たちも亦、今年の三月の初め頃までは、本作の作者・高橋理沙子さんと全く同じようなことを考えていたのですが、自粛という訳でもありませんが、止めてしまいました。
 その主な理由は、田舎暮らしをしていた頃、私たちは、毎年、畑に「ゴーヤ」を二株ほど「植えて」いたのですが、自分たちも食べ飽き、かと言って「ゴーヤ」を喜んで貰ってくれるような知人も無かったからである。
 〔返〕  小女子をゴーヤと和えても美味しいよ苦味が旨み栄養満点   鳥羽省三