臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(007:耕・其のⅡ・三訂版)

2011年05月28日 | 題詠blog短歌
(只野ハル)
○  施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままのNo業にこそ

 五句目の「No業にこそ」は、「施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままの」という連文節によって修飾される「農業」の「農」を「Yes」「No」の「No」と洒落込んだ表現であり、この洒落を解らない人はこの世には一人も存在しないでありましょう。
 だが、この句を正しく理解する為には、それとは別に“文語文法”上の法則としての「係り結びの結びの省略」という知識が必要であり、高校生でも知っているはずのそれについては案外多くの歌人が知らず、知っている歌人は当然の常識として知っているままに使うのであるが、知らない歌人も知っているふりをして使ってはいけない場面で使ったり、使いはしないまでも知っているふりをして済ましていたりするので、この際、この世話焼きの鳥羽省三が、じっくりとご説明申し上げます。
 私が、このブログで文法上の解説をすると、その度ごとに多くの非難や苦情めいたコメントやメールが寄せられる。
 その内容を要約すれば、「短歌は文法で作るものでは無く、ハートで作るものであるから、知ったかぶりをして難癖を付けるな」という脳天気なものである。
 そうしたご指摘が正しいものであるかどうかは別として、先ずは、所期の目的通り「係り結びの結びの省略」について解説すると致しましょう。
 『徒然草』の第八十九段は、「奥山に猫またといふものありて」から始まる著名な段であるが、その中に、登場人物たる“連歌しける法師”の心理描写として、「一人歩かん身は、心すべきことにこそと思ひける頃しも」という連文節が在る。
 この連文節の意として、三省堂から(元)筑波大学教授・桑原博史氏監修として刊行されている『新明解古典シリーズ・徒然草』の筆者は、「(自分のように)一人外を出歩くような身(の上の者)は、特に気をつけなければならないこと(だ)と思っていたちょうどそのころ」と、極めて神経が細かく念入りな口語訳をしている。
 この連文節中の「心すべきことにこそ」の部分が、ここで私が解説しようとしている「係り結びの結びの省略」の部分であり、この部分では、著者の吉田兼好が、「心すべきことにこそ」という“係り”の“結び”たる語「あれ」を、敢えて置く必要のない語として省略しているのである。
 そういう理由があるから、『新明解古典シリーズ・徒然草』の筆者は、この部分を「特に気をつれなければならないこと(だ)」と、手間隙かけた口語訳をしているのであり、口語訳中の「(だ)」に相当するのが、『徒然草』の著者・吉田兼好が置く必要の無い語として省略した“結び”の語「あれ」である。
 したがって、前掲・只野ハルさん作「施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままのNo業にこそ」も「にこそ(あれ)」と“結び”の語「あれ」を補って解釈するべきであり、こうした措置をした上で、本作を意訳すると、「(私の理想とする農業は、)肥料も施さず、農薬も撒かず、耕すこともせず、(収穫した作物が人体に有害な物になることを)一切拒否した農業、即ち『No業』(だ)」ということになりましょう。
 ここまで、馬鹿丁寧に解説されたら、本作の筆者・只野ハルさんとしては、一言、感謝の言葉があって然るべきでありましょう。
 〔返〕  押し売りの感謝の言葉の無理強ひに才女は如何に反応すらむ   鳥羽省三


(不動哲平)
○  部屋中にエビオス錠をばらまいて泥土のごとき愛を耕す

 作中の“指定医薬部外品”「エビオス錠」の“特徴”ならぬ“特長”として、製造元の“アサヒフード アンド ヘレスケア株式会社”様は、そのホームページに次のような広告記事をご掲載なさって居られます。

【特長】
 1、弱った胃腸の働きを活発にします。
 ビ-ル酵母には、乳酸菌などの腸の働きに役立つ菌を増やしたり、食欲を増進させる作用があります。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、弱った胃を助け、消化不良・食欲不振など、胃の働きが不十分なために引き起こされる症状を改善します。
 2、不足しがちな栄養素を補給します。
 ビ-ル酵母には、ビタミンB1・B2・B6などのビタミンB群、たんぱく質、ミネラルといった栄養素の他に、グルカン、マンナンという食物繊維、さらに核酸などが豊富に含まれています。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、これらの成分の相互作用で不足しがちな栄養素を補います。
 3、私たちの体に欠かせない必須アミノ酸の補給に役立ちます。
 ビ-ル酵母には、たんぱく質を構成するアミノ酸のうち、体内ではつくれない必須アミノ酸9種類すべてが含まれています。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、たんぱく質を豊富(40~50%)に含み、胃腸の健康に役立ちます。  以上

 上掲の解説記事から推すに、本作中の「エビオス錠」は、必ずしも作中に用いるべき必然性が無い、ようにも思われるのであるが、その点についての作者のご見解は如何でありましょうか?
 それはそれとして、「泥土のごとき愛を耕す」という直喩が宜しい。
 「愛」と言うよりは、「愛欲」「情欲」「交接欲」こそは正しく「泥土のごとき」ものであり、「耕す」という動詞も亦、行為そのものを直叙しているような感じであり、素晴らしい直喩効果をあげているのである。
 〔返〕  部屋中に近藤さんを薔薇撒いて行方も知らに愛を耕す   鳥羽省三


(竜胆)
○  二十四ヶ月と五日耕した君の心の永久凍土

 「二十四ヶ月と五日」と言えば、日数にして七百三十五日である。
 それだけの時間を掛けて耕せば、如何なる「凍土」と言えども、いいかげんに解けそうなものであるが、それでもまだ解けなかったとしたら、それこそ正しく「永久凍土」と言えましょう。
 本作の作者・竜胆さんのお相手は、南極の氷よりも冷たい女性なのである。
 〔返〕  四十五日と呼ばれた力士かつて在り一突き半で勝った柏戸   鳥羽省三


(花夢)
○  荒地みたいなあのひとのさみしさを耕すわたしこそがさみしい

 本作の作者・花夢さんは、成人してもアトピーが一向に完治しないで“荒れ肌”になっている恋人を「荒地みたいなあのひと」と洒落ているのである。
 『荒地』と言えば、彼のノーベル文学賞詩人“T・S・エリオット”の代表作として知られている、二十世紀文学の珠玉である。
 三十歳になってもアトピーが治らないで、ガサガサの素肌で恋人の花夢さんを抱く男性を比喩するのに、二十世紀文学の珠玉『荒地』とは、あまりと言えばあまりにも極端な比喩ではありませんか?
 好き合った男女は、お互いに相手の弱点に目を瞑り、在るかどうかも判らない、相手の優れた点だけを強調するということでありますから、三十歳になってもアトピーが治らないお相手が『荒地』ならば、その『荒地』の恋人の花夢さんは、『荒馬』ないしは『じゃじゃ馬』でありましょうか?
 本稿を閉じるに当たって、今後の何かの参考にとも思って、彼の“T・S・エリオット”の代表作『荒地』(The Waste Land)より、第一部『埋葬』(The Burial of the Dead)を、西脇順三郎氏の名訳に拠って、下記の通り、ご披露致しましょう

 Ⅰ 埋葬

 四月は残酷極まる月だ
 リラの花を死んだ土から生み出し
 追憶に欲情をかきまぜたり
 春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
 冬は人を温かくかくまってくれた。
 地面を雪で忘却の中に被い
 ひからびた球根で短い生命を養い。
 シュタルンベルガ・ゼー湖の向うから
 夏が夕立をつれて急に襲って来た。
 僕たちは廻廊で雨宿りをして
 日が出てから公園に行ってコーヒーを
 飲んで一時間ほど話した。
 「あたしはロシア人ではありませんリトゥアニア出の立派なドイツ人です」
 子供の時、いとこになる大公の家に滞在っていた頃
 大公はあたしを橇にのせて遊びに出かけたが怖かった。
 マリーア、マリーア、しっかりつかまってと彼は言った。そして滑っておりた。
 あの山の中にいるとのんびりした気分になれます、
 夜は大がい本を読み冬になると南へ行きます

 〔返〕  「花夢、花夢、私はアトピーではありません。だから、この胸にしっかりつかまって」   鳥羽省三
      さみしさに耐へたる人のまたもあれな素肌さらさむ荒地の上に    々


(穂ノ木芽央)
○  春風と毒の匂ひを連れてくる金田一耕助の下駄の音軽し

 あの退化した皮膚の汚れと汗が沁み付いたマントこそは、まさしく「毒」が染み付いているのでありましょうが、「春風」は何処から吹いて来る、と言うのでありましょうか?
 「下駄の音軽し」もよく解りますが、あの黒くてよれよれのマントに、「春風」はどうしても不似合いでありましょう。
 〔返〕  諦めと加齢の臭ひを連れて来る七十一歳の夏まさに来むとす   鳥羽省三


(史之春風)
○  よのなかは休耕田の凧揚げの奴(やっこ)の足の新聞の端

 敢えて申し上げますと、「奴」に振り仮名を施すことは無用でありましょう。
 短歌は振り仮名を振ってしまうと限り無く下品になりますから、作中に、正しく読んで貰えそうもない漢字を使う時は、この漢字を敢えて使う場合のプラスと、それに振り仮名を振る場合のマイナスとの差引勘定をして、その漢字を使う場合のプラスが大きい場合にのみ振り仮名を施すべきである、と言われております。
 また、読めるかどうかの瀬戸際の漢字を使わなければならない場合は、「この漢字をこのように読めない者には、この作品を読んでもらう必要がない」との気持ちを込めて使うべきである、とも言われております。
 共に、今は亡き、我が歌道の師・森田禎治先生の言葉であります。
 それは別として、なかなかの作品である。
 「よのなかは」と詠い起し、「休耕田の」→「凧揚げの」→「奴の足の」→「新聞の端」と、“極大”から“大”へ、“大”から“小”へ、“小”から“極小”へと、次々と右肩下がりに畳み掛けて行く“勢い”がなんとも言えないほどに素晴らしいのである。
 それにしても「新聞の端」とは、いかにも小さくて醜いものですね。
 「よのなか」とは、そんなに卑小なものでありましょうか?
 〔返〕  世の中はメルトダウンの原発の床に染み付く蚯蚓の死臭   鳥羽省三


(尾崎弘子)
○  うつくしくとてもかなしい絵の中の耕す人も種まく人も

 彼のバルビゾン派の画家・ジャン=フランソワ・ミレーの作『耕す人』及び『種まく人』から取材したものであり、「うつくしくとてもかなしい絵」という表現について言えば、上記の作品に加えて『晩鐘』や『落穂拾い』の影響も無視出来ません。
 〔返〕  夕焼けてソフィアの鐘が鳴り渡るいざ帰りなむ妻の手を取り   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  耕して地中深くを弄れば銀の指輪は失くしてしまう

 「弄れば」に疑義あり。
 「弄れば」を「まさぐれば」と読める人は、そんなに多くはありません。
 伊倉ほたるさんの短歌は、限られた読者向けの作品ではありません。
 決して高踏的な作品ではありません。
 したがって、大多数の方が読めるような表記をしなければなりません。
 本作に関して言えば、「耕して地中深くを弄れば」の「弄れば」を「まさぐれば」と表記すれば、何方にも読めるようになるし、そうしたからといっても、決してマイナスにはなりません。
 それを承知していて、敢えて「弄れば」としたのは、パソコンの変換ボタンのせいでありましょう。
 「まさぐれば」と入力して〔変換〕ボタンを押したら「弄れば」となったから、「弄れば」としてしまった。
 それではパソコンの命令に従っている奴隷に過ぎないことになりましょう。
 それともう一点。
 「耕して地中深くを弄れば銀の指輪は失くしてしまう」の「銀の指輪」の必然性が全然感じられません。
 作者ご自身としては、ご主人様から頂いた“婚約指輪”であったとか、お子様と一緒に出掛けた鎮守の杜の夜店で買った玩具の「銀の指輪」であったとか、それなりの思い入れが在るのでありましょうが、それが読者には少しも伝わって来ないのである。
 その「銀の指輪」は、作者にとってはどんなに大切な品物であろうか?
 失くしてしまった今、作者はどんなに悲しく思っているだろうか、などとの気持ちを、読者に抱かせるようなレベルの表現となるまでには至っていないのである。
 “伊倉ほたる”という名前である以上は、女性に違いない。
 女性である以上は、指輪の一つや二つは持っているに違いない。
 持っている物を失くしてしまうことは、ごく普通にあることだ、といった程度の感想を抱くのがせいぜいである。
 思うに、本作は、お題「耕」と、その時その場で思い付いた「銀の指輪」という手垢に塗れた言葉とを強引に結び付けただけの、間に合わせの、その場凌ぎの作品にちがいありません。

 〔返〕  耕して遠き校舎に目を遣れば『銀の指環』の楽の音は果つ   鳥羽省三
 仮にでも、短歌と称するものを詠む以上は、この程度の工夫はするものですよ。
   
  『銀の指環』  詞 財津和夫

 夕べも僕は
 眠れなかったよ
 終わった愛を
 さがしていたんだ
 二度と 帰らない
 夢のような恋よ
 君は いつのまにか
 消えてしまったよ
 覚えてるだろう 銀の指環を
 二人が誓った
 愛のしるしさ

 君は 言ったね
 指に 口づけして
 二度と はずれない
 不思議な 指環だと
 二人で つくった
 小さな秘密も
 二人で残した
 海辺の足あとも
 みんな消えたけど
 ひとつ淋しそうに
 今も輝いてる 銀の指環よ

 指環よ 指環よ

 「チューリップ」はいいね。「嵐」よりは一億万倍もいいよ。


(萱野芙蓉)
○  ラヂオから山田耕筰ながれきてこんな日暮れは好きぢやないんだ

 「日暮れ」に流す「山田耕筰」の作品と言えば、何でありましょう?
 私もいろいろと考えてみました。
 『野薔薇』『からたちの花』『かやの木山の』『赤とんぼ』『お山の大将』『あわて床屋』『待ちぼうけ』『ペチカ』と、いろいろと挙げてみるのですが、どうもすっきりしません。
 そうだ、そうだ、ありました。ありました。
 北原白秋の作詩の『砂山』がそれでした。

  海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめ鳴け鳴け もう日は暮れた
  みんな呼べ呼べ お星様出たぞ

  暮れりゃ砂山 潮鳴りばかり
  すずめ散り散り また風荒れる
  みんな散り散り もう誰も見えぬ

  帰ろ帰ろよ ぐみ原分けて
  すずめさよなら さよならあした
  海よさよなら さよならあした

 試みに、その歌詞を記しながら、自分で歌ってみたのですが、何故かすっきりとしません。
 要するに、山田耕筰の曲は、あまりにも「歌曲」という言葉に囚われていて、重過ぎる、暗過ぎるのである。
 これでは、本作の作者が「こんな日暮れは好きぢやないんだ」と言うのも、尤もかと思われました。
 同じ北原白秋の詩でも、中山晋平作曲の方は明るくて抒情味が感じられて、本作の作者・萱野芙蓉が「こんな日暮れは大好きだ」とおっしゃるように思われます。
 〔返〕  砂山の砂を蹴立てて帰る児の尻にも夕陽 砂にも夕陽   鳥羽省三


(おおみはじめ)
○  収穫の夢声高に語れども耕す方法教えぬ学校

 「収穫の夢声高に語れども耕す方法教えぬ学校」は、評者にとっては理想的な「学校」かと思われます。
 「耕す方法」は、日々の生活の場面で、いろいろと失敗を繰り返しながら学ぶべきかと思われます。
 〔返〕  収穫の喜び知らぬ先生が教えているのが今の学校   鳥羽省三  


(鳥羽省三)
○  公田とふ姓にありしか耕一は家売り田売り村を出でにき

 朝日歌壇の例の「公田耕一」騒動に因んでの作品である。
 私の郷里の知人に「耕一」という名前の青年がいて、彼は数年前に両親が亡くなったことを機会として、「家売り」「田売り」「村」を出てしまったのであるが、その後、杳としてその行方は知れません。
 彼は、尻の軽い女性やパチンコやカラオケには大いに興味を持っていたが、短歌とはまるで無縁の者であり、その姓も「公田」では無く「山田」でありましたから、彼と「公田耕一」とは少しも関係が無い、ということは分かっていたのでしたが、この場面で、敢えて彼を登場させた次第でありました。
 〔返〕  山田とふ姓にありけり耕一よ家売り田売り何処に居るのか?   鳥羽省三