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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

トンカツの色の明暗

2005-07-11 | 生活
三つ目の対話は、ドイツ人の教育と躾である。「ドイツ人は、恥の意識をまだ全て失っていないので、安心だ。」とこの元教育者は言った。

道の真ん中で立ち話をしていて場所を譲ったりする気持ちまでを恥の意識とすると、成る程いくらかは存在するのかも知れないのだが、これも殆んど信用出来ない。厚かましさと自己主張を基礎教育から叩き込まれて、痛ましい過去を克服してきた。元来が自意識や自尊心が他の文化先進国からすると弱いドイツ精神は、それ故理論武装してきた。特にビスマルクの軍事強化が虚栄心満ち溢れるナチの興亡を準備した。劣等感こそが勤勉さを推し進める。

どの民族にもあるようなその様なコンプレックスよりも宗教的な人生観の方が面白い。特に先日挙げた、フランシスコ会のカトリックからカルビニズムのプロテスタントまでの精神的距離は甚だ遠く、約三キロメートルの地理的距離を置いて共に暮らしているのが不思議な程である。

先日会った夫婦も、お互いにハイデルベルク大学で知り合った北バーデン出身らしいが、恐らくルター派とは言え、大学と高等専門学校で二人娘に其々、化学と工場経営を学ばせ、将来は自分のエンジニアー事務所を継がせようとしている。嘗てこのような数限りない「家族計画」を聞いてきた耳にも大変気持ち悪く響いた。職業の安定と家業の発展、家族繁栄、良い事ばかりのようではあるが、これは宗教的戒律としてしか聞こえないのである。果たして、これが宇宙の摂理なのだろうか?

聖フランシスコが法衣だけを纏いて知人の前でも托鉢をする勇気を求める、ヒッピーのシンプルライフを求める人も流石に少ないだろうが、「所有は武力行使の始まり」であることには変わりない。毎週の様に教会権力の前に跪かされるカトリック信者のは概ね貧しく、平均修学年数も低い。嘗てのホームブッチャーにシュニツェルを求めると良く言っていた。

「カツの揚げ方の浅いのがいいか深いのがいいか?プロテスタント、それともカトリック?」「答え。カトリックは暗くて、盲人ということだよ。」。

教育者の友人は、「教養・人間形成(BILDUNG)と言うものは家庭環境や個性・才能などであり、学校ではただ養成と職業訓練(AUSBILDUNG)しか出来ないから仕方ないんだ。」と語る。

そうなると倫理や人生観は前者に含まる。現代において低い前者が経済的向上心を伴って高い後者を求め、その場合高い後者が低い前者を高めるかというとなかなかそうは上手く行かない。実際、高い教育レヴェルは、 そ こ そ こ の教養・人間形成を施すという事になる。前者に倫理感や感受性などが含まれるとすると、「そこそこ」自体が甚だ怪しい物である事が分かる。

友人に言わせると、「あんたはね、何時も保守主義的なんだよ。何で俺にそんなに攻撃的なの?」「トーマス・マンの魔の山を映画で観ているぐらいではいけません。」

と、自らが読み切れない「ファウスト博士」などを読む私に反撃するのだった。(小市民の鈍い感受性 [文化一般] / 2005-07-10 より続く)



参照:破壊された偶像 [文学・思想] / 2005-07-05

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4 コメント

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EXHUMING MAX (秘密組合員)
2005-07-12 14:37:56
マックス・ヴェーバーが健在だった頃とあまり変わらない状況なのでは?



最近あまりマックス・ヴェーバーの名前を耳にしません、しかし100年前の彼の実績は今日、重要度を増していると思うのですが。
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フンボルト大学の学生 (pfaelzerwein)
2005-07-13 07:13:56
秘密組合員さん、こんにちは。近代と言う事では「変わらない状況」は正しいと思います。



実は先ごろ若いベルリン・フンボルト大学の日本学の学生と話す機会がありました。彼は宗教学を学んでいるので、丸山真男からマックス・ヴェーバーに話が流れました。彼の回答は、前者は卒論として薦められたが手に負えなくて、後者に対してはどちらかと言うと否定的なのです。追求はしませんでしたが、彼の教授や現在の東ベルリンの状況を考えるとある程度想像がつくのです。



この辺の事情も、先ずは新記事「政治的東西の壁の浸透圧」などから今後考えていけたらと思います。また、お気づきの事ありましたらご指摘下さい。



上では些か乱暴な表現になりましたが、教養について興味ある議論が「かわうそ亭」さんのところでされていますのでリンクを入れておきます。



http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2005/06/post_925e.html
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寛容と不寛容 (かわうそ亭)
2005-07-13 17:20:49
リンクをどうもありがとうございました。

ご紹介いただいた三つの対話とはややポイントがずれてしまうかもしれませんが、漠然と考えるのは、反知性という大きな流れと、渡辺一夫の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いです。まあ、わたしが考えても仕方がないけどさ、と苦笑いで終わるのではありますが。

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「不寛容に対して不寛容」 (pfaelzerwein)
2005-07-14 04:11:31
かわうそ亭さん、実はリンクの記事以外にも興味ある記事があるのですが、どれもなかなか難しい話題でコメントどころか考えるにも苦慮しております。



「寛容と不寛容」も、前独大統領ラウ氏がプロテスタントのキリスト者として良く用いた言葉です。当然ながら上述の元教育者も「寛容」を主張します。上の話も其れが前提となっている事も付け加えなければいけません。



一般的に「不寛容に対して不寛容」は、重要なキーワードになりそうです。また、勉強させて頂きました。

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