「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県糸満市大里 ・ 琉球競馬 「 大里馬場跡 」

2015-05-30 04:49:41 | 琉球競馬



大里馬場跡がある大里バス停付近








左の嘉手志川 ( カデシガー ) の上に馬場跡がある








嘉手志川 ( カデシガー ) の路標







大里馬場跡から見た南山グスク方面




与座馬場跡がある与座コミュニティーセンターから次に向かったのが、
近くに南山グスクや嘉手志川 ( カデシガー ) がある大里馬場跡である。

県道7号線 ( 奥武山米須線 ) を照屋東の交差点から
南下すると右側に高嶺小学校がある。
そのすぐ先を左に降りると左手に嘉手志川 ( カデシガー ) があり、
その前の道が大里馬場跡になる。
馬場は嘉手志川 ( カデシガー )の前から高嶺郵便局の先までの
約150mが馬場跡と言われているが、
まっすぐに延びた広い道路だけが馬場の面影を残しているだけで、
それ以外何も残っていなかった。



沖縄県糸満市 三山鼎立の切っ掛けとなった 「 嘉手志川 」

2015-05-30 04:48:41 | 沖縄の文化財

































































こんこんと湧き出る嘉手志川の水源













大里馬場跡の下にある 「 嘉手志川 ( カデシガー ) 」 。
これは馬場跡もだが、南山グスクや
尚 巴志の琉球王国の三山鼎立の足がかりとなった井泉 ( 水源地 ) である。


嘉手志川 ( カデシガー ) は、糸満市大里にある湧水源です。
三山時代、南山発展の基礎となった泉である。
南山最後の王、他魯海 ( たるみぃ ) は、
中山王・尚 巴志 ( しょうはし ) が持っていた金屏風を欲しがり、
屏風とこの泉を交換しました。

そのため、南山の人々は水を勝手に使えなくなり、
次々と中山の尚 巴志に味方するようになりました。
結果、他魯海 ( たるみぃ ) は南山の人々の支持を失うこととなり、
それに乗じて尚 巴志が大軍を率いて攻め込み
1429年に南山は滅びることとなりました。
こういった南山滅亡にまつわる言い伝えを残す水源地である。


沖縄県糸満市 ・ ふたたびの「 南山グスク 」

2015-05-30 04:47:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡


グスク内にある桜が揺れる南山神社








神社裏にある 「 南山城址碑銘 」








墳墓あるいは拝所をまとめたものと言われている








仁天屋懈大神と書かれたグスク内にある拝所








野面に積まれた内部の城壁







根が絡みついた石垣







大きな石で頑強に作られた城壁













カデシガーと大里馬場跡の関係から再びの掲載となった南山グスク。

南山城は歴代の山南王の居城として栄華を誇ったグスクであるが、
歴史上で山南王の実態が明らかになったのが、
1380年ごろから登場してくる承察度(しょうさつと)からである。
中国の明の記録「明実録」に記されていることによれば、
山南王・承察度は大里按司のことと考えられる。
その根拠は、承察度は方言で(ウフサト)と発音され、
大里按司も(ウフサト)と発音される事から、ほぼ同一人物だと考えられた。
では何故、大里を使わずに承察度を使ったかを考えれば、
盛んに中国との貿易をしていた関係上、
ウフサトと読める中国風の承察度の名前を使ったのであろう。

南山城は、糸満市の大里集落の南方にある標高60mの石灰岩台地に築かれたグスクで、
高嶺小学校一帯を含んでいる。
グスク北側は崖があり、崖下には尚巴志との因縁の戦いになった
嘉手志川(ガデシガー)が流れている。
石垣は切り石積みと野面積みの石垣が確認されている。


落城伝説
金屏風と嘉手志川を交換して嘉手志川を手に入れた尚巴志は、
嘉手志川の使用を規制する御触れを出して山南の人々を困らせた。
金屏風ほしさに川と引き換えた他魯海(タルミー)に対して恨みを持った住民は、
尚巴志にとって計算どうりであった。
さらに自分に味方する者には自由に水を使わせ、
山南の民衆を中山である自分の味方に付けてしまったのである。
こうして満を持して大軍を引き連れて山南に攻め入った尚巴志は、
他魯海王を打ち滅ぼし、三山統一を成し遂げる。

南山城跡へのアクセス
南山城跡へのアクセスは、糸満市の高嶺小学校を目指して行ってもらいたい。
駐車は、中学校側のグスク入り口付近の路上に駐車した。

沖縄県糸満市大里