「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

「 カシオペアの夢 」

2013-11-30 20:19:54 | 馬の詩 ・ それぞれ...


 『 カシオペアの夢 』 




窓の外は吹き荒れる嵐
そんな夜に星を見た
ベッドの上に仰向けになり
握っていた本を胸に抱き
軽く眼を閉じて
「 いち・にい・さん 」 と
小さな声で数えてみる

見える筈のない瞼の裏に
満天の星が広がり
北極星のそばに
Wに輝くカシオペアが見えた

それは
淡く儚い夢のように
一瞬だけ煌いた

もう見ることもない星の夢




福岡県鞍手町 「追われゆく坑夫たち」 上野英信

2013-11-29 04:44:31 | 文学・文化・映画作品



鞍手町歴史民俗博物館








鞍手町で開かれている 「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展





24日の日曜日、みやこ町の寺田川古墳を皮切りに、
田川市ー直方市ー中間市ー鞍手町ー小竹町ー飯塚市ー嘉麻市ー川崎町をめぐった。
その行程の中で立ち寄った鞍手町の 「 鞍手歴史民俗博物館 」 で、
「 炭坑 ( やま ) の仕事 」 展が開かれていた。

鞍手。そして炭鉱といえば・・・
昭和39年 ( 1964年 ) に 「 筑豊文庫 」 を鞍手町に創設し、
坑夫の記録と資料を集成した上野英信 ( うえのえいしん ) であろう。

上野英信は昭和22年 ( 1947年 ) 、京都大学を中退して炭鉱の坑夫となり、
その後一貫して炭鉱労働者の生活と労働を負い続けたルポルタージュ作家である。
中間市で谷川 雁、森崎和江らと 「 サークル村 」 運動の中核を担い、
その後、鞍手郡鞍手町に移った。

『 追われゆく坑夫たち 』 は、昭和35年 ( 1960年)に岩波新書から刊行されたもので、
上野の代表作のひとつである。
筑豊炭田は、ほぼ一世紀近く全国の半分の石炭を産出し、日本の近代化を支えて来た。
大資本経営の炭鉱の陰で中小炭坑では非人道的労働がまかり通り、
エネルギー革命によりそれはますます苛酷になっていった。

「 苛烈きわまりない地底の 『 奴隷労働 』 は、彼らの持てる限りの財産と健康と生活を
収奪し去ったばかりではなく、彼らの人間としての微かな欲望のすべてを残酷無慙に
叩き潰してしまった 」

上野は昭和23年 ( 1948年 ) から28年 ( 1953年 ) まで、
各地の炭鉱を転々としながら、最低辺で呻吟 ( しんぎん ) する坑夫たちの叫びを記録し続けた。
「 追われゆく坑夫 」 は、自らの体験をもとに書かれたもので、
あまりに厳しいリアルな現実が各方面に衝撃を与えた。

その後も上野は、晩年まで文学運動や記録活動を続け、
昭和59年(1984年)から61年(1986年)にかけて
『 写真万葉録・筑豊 』 ( 昭和62年、日本写真協会賞受賞 ) を刊行した。


主な著書、 「 せんぶりせんじが笑った! 」 「 地の底の笑い話 」
「 どきゅめんと・筑豊 」 「 天皇陛下萬歳ー爆弾三勇士序説 」 「 出ニッポン記 」 などがある。

昭和62年(1987年)64歳で没した。




佐賀県唐津市 「 唐津くんち・十二番曳山 『 珠取獅子 』 」

2013-11-29 04:43:41 | 日記 ・ イベント




十二番曳山 珠取獅子
京町 ・ 明治8年 ( 1875年 )





14町の曳山に共通する基本的な構造は、曳山の主要部分である獅子頭や兜などの巨大な工芸品を、
車輪のついた、樫造りの台車の上に載せるものである。
台車の前方には100mほどの長さになる2本の綱に数十人の曳子がついて曳山を前方に曳いていく。
また、台車の後方には2本の梶棒(かじぼう)が突き出ており、
この棒を操作することで曳山の進行方向を操作する。
※ ( 大石町の鳳凰丸には台車の前方にも2本の梶棒がある ) 。
各曳山には製作順に番号が付されており「○番曳山」あるいは「○番ヤマ」と呼ばれている。
14町の曳山は以下の通りである。

1 刀町の赤獅子(製作 1819年・文政2年) 
2 中町の青獅子(1824年・文政7年)
3 材木町の亀と浦島太郎(1841年・天保12年)
※製作当初は浦島太郎ではなく宝珠が乗せられていた。
4 呉服町の九郎判官源義経の兜(1844年・天保15年)
5 魚屋町の鯛(1845年・弘化2年)
6 大石町の鳳凰丸(1846年・弘化3年)
7 新町の飛龍(1846年・弘化3年)
8 本町の金獅子(1847年・弘化4年)
9 木綿町(きわたまち)の武田信玄の兜(1864年・元治元年)
10 平野町の上杉謙信の兜(1869年・明治2年)
11 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜(1869年・明治2年)
12 京町の珠取獅子(1875年・明治8年)
13 水主町(かこまち)の鯱(1876年・明治9年)
14 江川町の七宝丸(1876年・明治9年)
消滅 紺屋町の黒獅子

なお、唐津市の子供たちがこの曳山の順番を覚えるのに
「10人のインディアン」の曲の替え歌を用いる。
その歌詞は以下のとおり。
「赤獅子青獅子浦島太郎、義経鯛山鳳凰丸(この歌ではほうまる、と発音する)
飛龍、金獅子武田上杉頼光、珠取鯱七宝丸」 となる。



福岡県みやこ町犀川 ・ 林酒造 『神楽山』

2013-11-29 04:42:21 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






















ラベルに 「 豊前国を愛した宇都宮の始まりの地 」 と書かれている。
それは戦国の世、秀吉が九州平定を行うために黒田官兵衛に馬ヶ岳城を与え、
豊前の国をおさめさせたが、もともとこの地を治めていた宇都宮氏との戦が始まる。

その宇都宮氏の始まりの地である築上町。
それにちなんだ米焼酎 「 神楽山 」 である。

「 神楽山 」 は、米焼酎であるが、
清酒 「 九州菊 」 で有名な林酒造の米焼酎は焼酎というよりも、清酒に近い味わいであった。


福岡県京都郡崎山、京築管内唯一の造り酒屋である 「 林酒造 」 。

福岡県に住んでいても崎山と言っても解かる人は非常に少ないのは残念である。
「 福岡県に住んでいてもこんなに知られていないのかぁ 」 と、思う。
崎山は、英彦山を源とする今川のほとりに位置し、川を挟んで建屋が見える。

この地は、西の赤村を経て秋月また大宰府へ、
東は行橋から瀬戸内各所へつながり豊前国における重要な交通路として、
江戸時代には 「 秋月街道 」 と呼ばれ賑わっていた。
北九州市から香春町、田川市、山田市、嘉穂町、甘木市を経由して久留米市へ通じ、
江戸時代初期までは豊前と筑前、筑後を結ぶ天下道であった。
同じく豊前小倉から筑前、肥前方面へ至る長崎街道が整備されていなかったころ、
秋月街道は古い 「 長崎街道 」 の役割も担っていた。


「 若草 」 誕生。そして 「 九州菊 ( くすぎく ) 」 へ ・・・
 
創業は1837年 ( 天保8年 ) 。
この頃、日本各地では天候異変が続き、小倉藩内でも飢饉の状態となった。
さらに、追い打ちをかけるように天保8年正月小倉城本丸、天守閣を火災で焼失させる事件が勃発。
当然、藩の情勢も苦しく、幕府から藩の窮状には構いなく大規模な河川工事の名が下るなど、
大変な時代であった。
奇しくも、この小笠原藩小倉城の焼失の年に、藩内の仲津郡に 「 林酒造 」 が誕生した。

林酒造の創始者は林熊太郎とされ、林平作の娘、カツの夫にあたり、
林平作は、庄屋兵右衛門の次男として生まれ性格は温厚で、親切な人であったらしい。
人と争うこともなく、若くして家の資財を分けてもらい、
この資財を生かして自ら諸雑貨を担い商いをしたところ、
たちまち人の信頼を集めて、数年も経たずに町の豪商となって行った。
また商売の規模も多岐にわたり、その当時は、酒造、しょうゆ、蝋の3業を営んでいた。



それぞれの海 『 冬の門司港 ・ 関門海峡 』

2013-11-28 04:48:28 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々



「 冬の門司港 ・ 関門海峡 」













































月曜日、雨で仕事が休みになったので灯台の資料のことで第7管区海上保安本部に行った。
そこから門司港駅へと歩いて向かうのに、わざと海風を受けて西海岸を歩いた。
波は高く低く海面を躍らせながら打ち寄せ、
港に繫がれた船を ” ギュウギュウ ” と泣かせた。

変わり者だから心地良い季節よりも少しずつ厳しさに向かう晩秋が好きだ。
この日の気温も寒さもお気に入りだった。




小倉北区高浜 「 BUILDING DIGNITY 」 展

2013-11-28 04:48:03 | 絵画と個展








BUILDING DIGNITY


KITAKYUSHU INSTALLATION PROJECT 01


先週の金曜日、午前中は仕事に出て、午後から整形外科に行った。
その帰りにそのまま、
2013年11月16日~11月24日まで、旧東京製綱小倉工場赤煉瓦事務所棟で
「 北九州インスタレーションプロジェクト 」 が開催する作品を観て来た。


吉川精密株式会社の構内に残る旧東京製綱小倉工場の赤煉瓦建築群は、
明治時代の末期に建てられた築100年を超える歴史的建築資産である。
この工場では、筑豊炭田の炭鉱で使用される巻き上げ機用のワイヤーロープが製造され、
九州北部地域における主要な産業活動の一端を担っていた。

今回、明治時代以降の国の近代化を支えた歴史的建築物に再び光を当て、
「 建築の尊厳を再構築する 」 活動の一環として
「 BUILDING DIGNITY 」 展を開催したものである。

会場となった旧東京製綱小倉工場の赤煉瓦建築が初めて一般に公開されたものでもある。
それだけに会場の作品はもとより、建物そのものに興味があった。

※ KIPは、北九州インスタレーションプロジェクトの略である。


福岡県直方市 ・ 林 芙美子 『 放浪記 』 文学碑

2013-11-27 04:55:20 | 文学・文化・映画作品



「 私は古里を持たない 旅が古里であった 」 林 芙美子 文学碑 








芙美子が大正時代に住んでいた須崎界隈












『 放浪記 』 といえば、森 光子を思い浮かべる方も多いだろうが、
「 放浪記 」 の原作は林 芙美子である。

林芙美子は、少女時代極貧の放浪生活をバネとし、
題材にもして文学修業を重ね、人気作家となった。
小説の主人公はすべて女性で、
それもひたむきな人生の中にいる庶民の女の哀歓を平易な記述で描き続けた作家である。

「 放浪記 」 は昭和3年 ( 1928年 ) 、
当時の文芸雑誌 「 女人藝術 」 に連載されたデビュー作で、
昭和5年 ( 1930年 ) に単行本にされ、60万部という大ヒットとなった。
筑豊・直方を中心に行商人の父母と放浪生活を送った少女時代の思い出に始まり、
広島県尾道の高等女学校を卒業して上京、カフェの女給や事務員、
夜店の物売りなどで苦しい生活をしながら詩や童話を書いていた20歳から22、3までの
日記をまとめたものである。

芙美子は大正4年 ( 1915年 ) から5年 ( 12歳の頃 ) にかけて直方に居て、
「 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。
砂で濾した鐵分の多い水で舌がよれるやうな町であった 」 と書いている。

当時、直方は炭鉱が繁栄期を迎え始め、各地からさまざまな人が流入して来ていた。
芙美子と両親は直方市周辺の炭鉱街を行商して回った。

「 放浪記 」 からは、直方とこれらの人々に対する並々ならぬ愛着が感じられ、
これがその後の彼女の小説の骨格を作って行ったと考えられる。
その後、炭鉱が次々に閉山し、直方の町も大きく変ぼうしたが、
芙美子が住んでいた直方市須崎町界隈は、入り組んだ狭い路地に銭湯や駄菓子屋が残り、
当時の面影をしのばせている。



長崎県平戸市 「 薄香湾港西防波堤灯台 」

2013-11-27 04:53:43 | 長崎の灯台





















































灯台表番号 / 6216
ふりがな / うすかわんこうにしぼうはていとうだい
標識名称 / 薄香湾港西防波堤灯台
所在地 / 長崎県平戸市 ( 薄香湾港西防波堤外端)
北緯  / 33-22-37 ( 36.5 ) 
東経  / 129-32-17 ( 16.8 )
塗色 / 赤色
灯質 / 連成不動単閃赤光 毎5秒に1閃光
光度 / 閃光実効光度470 不動光35
光達距離 / 閃光7.5 不動光3.5海里
地上~頂部の高さ / 8.46m 
平均水面上~灯火の高さ / 10.96m
地上~灯火の高さ / 8.00m
業務開始年月日 / 昭和51年12月21日
光源 / LC管制器Ⅱ型
電源 / 購入電力



いきなりだが、全国でこの灯台をご覧になった方は多いと思う。
なぜなら高倉 健さん主演の映画 「 あなたへ 」 の舞台となった
長崎県平戸市薄香湾港にある灯台だからである。
映画の中で高倉 健さんのバックに写っていた ” あの赤灯台 ” である。



丘に登って・・・ 「 四つ山からの眺望 」

2013-11-27 04:48:54 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



四つ山から観た 「 大牟田市街地 」



四山神社(よつやまじんじゃ)は、熊本県荒尾市大島の四ツ山の山頂にある神社で、
昔、虚空蔵菩薩が降臨された跡と伝えられ、地元では 「 こくんぞさん 」 と呼ばれ、
商売繁盛にご利益がある神社として親しまれている。
毎年2月13日と9月13日に行なわれる大祭には、商売繁盛のご利益にあやかろうと境内はごった返す。
境内で 「 福寿銭 」 と呼ばれる5円玉を受け取り、
その5円玉をお財布の中に入れておくと商売繁盛の願いが叶うといわれている。
「 ご縁(五円)あって儲けだしたら、次の大祭でお礼参りを 」 ということで、
次のお参りの時には倍の10円にしてお賽銭(さいせん)にするのが習わしである。
いっさいの悪を 「 はじき去る 」 竹細工の 「 はじき猿 」 も名物である。

そんな四つ山神社がある四つ山公園のように、丘に登ると必ずと言っていいほど、
吉田拓郎の 「 おろかなるひとり言 」 の歌が頭の中を流れる。



おろかなるひとり言 /吉田拓郎オン?ステージ!!/1





『 おろかなるひとり言 』   作詞 吉田拓郎



丘をのぼって下界をみると 小さな世界がそこにある
ひとはあくせくどこへ行く ひとは疲れた足どりで しかもひとはいそいでいた
丘をのぼって下界をみると 小さな世界がそこにある
ひとは命の絶えるまで ひとは短い人生を しかもひとはいそいでいた
丘をのぼって下界をみると 小さな世界がそこにある
ひとは彼らの思うまま ひとは彼らの道を行く しかもひとは目をつぶり


丘をのぼって下界をみると 小さな自分がそこにある
俺は生まれてこの日まで 俺の道しかみていない しかも道はまだとおい
丘をのぼって下界をみると 小さな世界がそこにある
ひととひととはそれぞれの 道が出会うとすれちがう しかもひとは泣かないで
丘をのぼって下界をみると 小さな世界がそこにある
俺はいそいでおりて行く 俺は自分の来た道へ しかも俺はこの足で



9月の終わりに大牟田に行ったが、あれから2か月が過ぎようとしている。
石橋や灯台、近代化遺産など巡れなかった場所を思うと、また行きたくなって来る。
大川から柳川、大牟田を経由して長州まで行き、
「 そのまま島原に渡りたかっちゃね~ 」 というのも、愚かな独り言だろうな。




山崎ハコ 「 サヨナラの鐘 」

2013-11-26 04:54:22 | 音楽 ・ 映画



沖縄県南城市 「 あざまサンサンビーチ 」





競輪学校時代、最初は彼女が大分県日田市出身のシンガーだということだけで聴いていたが、
その暗いイメージと、か細い声でトツトツと語りかける独特な雰囲気に次第に惹かれて行った。
そのころ、よく聴いていたラジオの東京FMで彼女の特集があり、
彼女のサインが書かれたポスタープレゼントの応募があった。
記憶は定かではないが、たしか 「 1名様にプレゼント 」 だったような気がする。
そのポスター欲しさに、放送局宛に分厚い手紙を書いた。
高校時代、日田まで自転車で練習に通っていたことや、
日田駅前のパン屋で小銭を出してパンを買い、
お金がないので日田駅の洗面所の水道で水を飲んだことなどを書いた。
すると、ほどなくして彼女のサイン入りのポスターが競輪学校に送られて来て、
その中にスタッフからの手紙が添えられていた。

「 彼女に日田への想いを伝えています。 」 と書かれてあって、凄くうれしかったのを憶えている。
その手紙と前後して歌われた曲が 「 望郷 」 である。
これは彼女が故郷の日田を想って歌詞を書き唄ったものである。

あれから随分と時が流れたが、
彼女の 「 サヨナラの鐘 」 や 「 望郷 」 はもちろん、
「 ヨコハマ 」 「 帰ってこい 」 などの唄が特に好きで、今でもよく聴いている。









山崎ハコ

サヨナラの鐘
作詞:山崎ハコ
作曲:山崎ハコ


小さな雨がふっている 一人髪をぬらしている
長い坂の上から 鐘がかすかに聞こえる
私の心の中の 貴方が消える
恐かった淋しさが からだを包む
グッバイ貴方 私 先を越されたわ
グッバイ貴方 その顔が目に浮かぶわ

いつだったか笑って 二人別れていった
きれいな思い出にするわ 元気でと別れていった
いつの日か心の中に 貴方が住み込んで
幼い子供のように ひそかにあこがれた
グッバイ貴方 バカねバカね私
グッバイ貴方 小さな声でおめでとう

グッバイ貴方 ステキな鐘の音
グッバイ貴方 サヨナラとなりひびくわ

グッバイ貴方 ステキな鐘の音
グッバイ貴方



競馬・点描 「 返し馬 」

2013-11-26 04:53:07 | 競馬・ボート







「 返し馬 」 とは、パドックから本場場に出て来た馬が、
発走時刻までに軽く脚馴らしをすることで、
人間でいう ” ウォーミングアップ ” といったところである。

競輪でいう ” 顔見せ ” で、ペダルやサドルから伝わって来る感覚で、
「 やれそう! 」 とか 「 ダメ! 」 とか感じるのと同じように、
おそらく騎手も 「 返し馬 」 の時に手綱を通して伝わって来る感触や
騎手の触れている部分の感触で、大まかな ” 良し悪し ” が把握出来たのではないだろうか?
その感覚で、競輪のように強気になったり、弱気になったりするかも知れない。

写真の騎手は、現在落馬負傷で加療中の佐藤哲三騎手であるが、
競馬を愛し、馬に恋焦がれている人には馬が一番似合っている。
だから、ふたたび馬上に戻れる日と、一日も早い競馬への復帰を願っている。




北九州市小倉北区 ・ JR小倉駅ホームの 「 かしわうどん 」

2013-11-26 04:51:06 | ラーメン・うどん・そば



JR小倉駅ホームの 「 かしわうどん 」








カシワ肉がこんもりと乗って350円







年配のおばちゃん二人が手際よく作ってくれる







うえやまとちのマンガ 「 クッキングパパ 」 にも出て来る







門司港行の電車に乗って門司港へ・・・











昨日、雨で仕事が休みになったので整骨院に行った帰りに、
第7管区海上保安本部に灯台のことで門司港まで出た。
その時、小倉駅で門司港行きに乗り換えまで時間があったので、
迷わずホームにある 「 かしわうどん 」 の暖簾をくぐった。

折尾駅の 「 かしわめし弁当 」 や小倉駅の 「 かしわうどん 」 は有名である。
待ち時間があれば、待ち合いホームが違っても、
わざわざ食べに来る人もいるくらい美味しいのである。

このうどんを食べれる店があるのは、小倉駅の7番8番ホームの門司側である。
短い待ち時間に急いで食べる人に配慮してスープはやや温めにしているので、
すぐにでもズルズルとすすり込めるのが利点だ。

そして何より、満足の行く美味しさで350円は超お得である。
選手時代遠征の時、新幹線の待ち時間がある時は、
朝から食べたことが何度かあったが、それくらい旨くて、早くて、安い店である。



佐賀県唐津市 「 唐津くんち・九番曳山 『 武田信玄の兜 』 」

2013-11-25 05:41:15 | 日記 ・ イベント




九番曳山 「 武田信玄の兜 」
木綿町 元治元年 ( 1864年 )



本来の「くんち」は、唐津神社の縁起にあわせて
旧暦9月29日の本祭(現在の本殿祭と神幸祭(御旅所神幸)とからなる)を中心として営まれていたが、
暦制の変更に対応して、大正2年(1913年)には本祭が新暦10月29日に、町廻りが翌30日に変更された。
10月28日に行われていた「前夜祭」(のちに「宵曳山」に名称変更)が正式行事に加わったのは
昭和37年(1962年)からである。
さらに、週休制の浸透や外来の観光客の招致といった理由によって、
昭和43年(1968年)には、本祭のうち本殿祭のみを10月29日に残して、
神幸祭(御旅所神幸)は祝日である11月3日に変更された。
この変更にともない宵曳山も11月2日に、町廻りも同4日に変更されており、
一般には、曳山の巡行をともなうこの11月2日からの3日間が
「唐津くんち」と呼ばれるようになっている。




沖縄県南城市 「 金武中城港安座間地区外防波堤灯台 」

2013-11-25 04:53:15 | 沖縄の灯台











低く見えるが高さが4.9mの灯台







揮毫者の知念小学校の仲里みさきさんが書いた灯台プレート







夕暮れの灯台頂部







久高島行きのフェリー 「 くだか 」 と安座間グスク






灯台の真正面に知名グスクがある 「 知名埼 」 が見える





灯台表番号 / 7049.8
ふりがな / きんなかぐすくこうあざまちくそとぼうはていとうだい
標識名称 / 金武中城港安座真地区外防波堤灯台
所在地 / 沖縄県金武中城港(安座真地区外防波堤外端)
北緯  / 26-10-52 
東経  / 127-49-33 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃緑光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 19カンデラ
光達距離 / 3.0海里
地上~頂部の高さ / 4.9m
平均水面上~灯火の高さ / 9.1m 
地上~灯火の高さ / 4.71m
業務開始年月日 / 平成13年11月19日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



金武中城港安座真地区外防波堤灯台は、沖縄南部の安座真港の防波堤に立つ灯台で、
旧・知念村の安座真港と久高島を結ぶ定期船が行き交う港の外防波堤に設置されている。
そんな灯台自体の歴史は浅く、初点が平成13年11月19日となっている。
灯台は小さく見えるが、防波堤の地上面から灯台頂部までの高さが4.9mあり、
その頂部に装備された灯器は単閃緑光で毎3秒に1閃光の割合で点灯している。


金武中城港安座真地区外防波堤灯台へのアクセス
金武中城港安座真地区外防波堤灯台へは、
旧・知念村にある 「 あざまサンサンビーチ 」 に隣接する港になるため、
国道331号線から知念海洋レジャーセンターの方に入って約1分のところにある。
灯台へは、港の横のフェンスの裏を歩いて5分ほどで行ける。



沖縄県南城市大里 「 稲福遺跡 ( 山グスク ) 」

2013-11-25 04:52:44 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



白い色が印象的な 「 稲福殿 」








グスクの森の中にある拝所







グスク入り口にある拝所





稲福遺跡群は、現稲服集落の北東丘陵部、小字稲福原に位置する。
この丘陵は知念半島の背骨のあたり、標高170~180mほどの高所である。
遺跡跡は、東、北、西側の三方を崖で囲まれ、南側は傾斜面が続き、
かつて稲福集落が立地していた上稲福が広がる。
遺跡の北、西側は露頭岩が目立ち、現在は山林となっており、
東側の崖は採石で削られて壊されている。
遺跡の範囲は広く、上御願から南東の中森御嶽や東の中村御嶽および
南の稲福の殿、その他旧集落を含めて稲福遺跡群と総称される。
遺跡群の中でもひと際高いところに立地する上御嶽遺跡には遺構こそ確認されないが、
天険の要地であり、グスクが立地してもおかしくない地形的景観を呈している。
伝承によれば、丘陵の頂部を 「 山グスク 」 と称している。

この稲福遺跡がある場所は、大城軍と大里軍の大合戦が行われた場所である。
戦は、大城軍が優勢であったが、自軍の旗を誤って倒したことにより、
自軍が敗北したと思い込んだ按司夫人と若按司は城に火を放してしまう。
それを知らずに勝利を確信していた大城按司が自分の城に目をやると
火に包まれているのを見て愕然としてしまう。
そこを大里軍に攻められた按司は、稲福の崖の下で自刃してしまう。


稲福遺跡(山グスク)へのアクセス
稲福遺跡へは、「ウェルサンピア沖縄厚生年金休暇センター」の上の道を
約300mほど行った突き当たりになる。駐車は、グスク近くの空き地に駐車できる。