「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県久留米市  「 久留米競輪場送迎バス 」

2017-03-22 00:06:54 | 競輪・オートレース






















日曜日に久し振りに競輪場に足を運んだ。
本場開催は無かったものの、
高松競輪のウインターカップの場外発売が行われていた。

この久留米競輪場はプロとしてのデビューした場所だっただけに
想い出深い競輪場である。

選手時代は宿舎で缶詰状態だったから見ることがなかった送迎バス。
これに乗って競輪場に足を運んでくれたんだと思うと感謝の気持ちで一杯である。



広島競輪の想い出 「 熱かったあの夏の日 」

2017-01-19 12:11:21 | 競輪・オートレース



バックストレッチの敢闘門からホームスタンドを望む







バックストレッチから3コーナーから4コーナーにかけて







バックストレッチから2コーナーから1センターを望む





広島競輪場は、3連勝の完全優勝を含め、
何度も優出した競輪場であるが、
その中でも特に記憶に残っているのが初めて参加した新人戦である。

その新人戦のことを書いた 「 熱かったあの夏の日 」 は、
現役時代に日本競輪選手会の会報誌に寄稿したもので、
その当時の思いが綴られている。


私は今年で競輪選手生活25年になる。
今までの選手生活で色んな思い出が残っているが、
その中でも特に思い出に残っているのは、
新人でデビューした3戦目での広島競輪場で行なわれた新人戦だ。
この時優勝したのは同期の中でも一番仲の良かった地元広島の木村一利であった。

私は連日果敢に逃げて、初日特選から④②で優出し、
優勝レースも地元の木村を連れて逃げて2着となった。
この一戦がとても思いで深い。

広島の夏は暑く、広島の夕凪といって、
宇品港のすぐそばにある競輪場はまるで蒸し風呂のようであった。

現在、故人となってしまった木村は、現役時代はウルフと異名を持つ選手だったが、
本当はその異名とは裏腹にとても優しく思いやりのある選手だった。
彼が引退する前に電話があり、
「 今度、熊本に行くんじゃけど、逢えんかなー 」 ということだった。
生憎、私は観音寺競輪に参加だったので、その旨を彼に伝えて電話を切った。
木村は残念がっていたが、仕方ないと思った。
これが木村と交わした最後の言葉だった。

木村は、39期生の中でも競輪学校入校時から群を抜いていて、
東の尾崎雅彦、西の木村一利と謳われたつわものだった。
デビューして一気にスターダムを駆け上がった木村だったが、
引退するまで実にあっけない幕切れだったように思う。

木村は私よりも一歳年下であったが、
18歳にしては気の利いた大人びた態度の男だった。
昭和54年の小倉競輪祭、新人王の準優勝戦の前夜、木村が私の部屋に来て
「 明日はお願いします。一生懸命頑張りますから・・・ 」 ということだった。
その結果決勝レースに進出し、木村は第17代の新人王の栄誉に輝いた。
その木村がどこでどう屈折し、ズレたか私には分からないが、
それから10年足らずで選手を辞めてしまった。

思い出すのは、いつもあの広島の暑い夏の日、スーパーカーブームのなか、
広島競輪場の表彰台に上った日のことだ。
あの日が青春だったことに間違いはない。
それから2、3年して彼が広島の三原で結婚式をあげたときに、
わざわざ豊橋競輪からの帰りにその席に駆けつけたのも、
今となっては忘れえぬ思い出である。
私はエレクトーンの伴奏で吉田拓郎の 『 結婚しようよ 』 を唄ったことも、
酔ってヘベレケになって三原駅のベンチで寝ていたことも憶えている。
あれから23年、私は現役に執着して走り続ける。
だけど、木村はもうこの世にいない。

久留米から中野浩一が出て、世界戦のスプリントで世界一になり、
競輪をメジャーなものにした。
その同世代が同じ土俵の上で競い、相まみえたことを懐かしく思う。
今は競輪選手として中野浩一もいなければ、木村一利もいない。
だけど私は走る。あの広島の暑かった夏の日、
同期のみんなも熱く燃えていたし、私もギラギラと燃えていた。
もう一度あの頃に戻りたい気もする。



岩手県紫波町でのインターハイ

2016-11-03 04:55:29 | 競輪・オートレース











鹿児島国体参加記念品のアルバム





岩手県花巻市で行われたバレーボールのブログを見て、
花巻市の隣に紫波町があった。
紫波町といえば・・・
高校1年の時にインターハイに出場した思い出の場所である。
あの時は、全国で50人くらいがエントリーしていて、17位だったのを憶えている。
この年は、国体にも行ったが、それ以外のことはあまり憶えていない。

写真は高校2年の時に出場した千葉国体の時のもので、
この写真が入ったアルバムがなかなか探し出せなくて大変だった。

ホウシュウリッチ、イーストリバー、アイテイエタン、ロッコーイチ。
メジロジゾウにマツカオリ、カンツォーネなど・・・
それはもう、いたるところ馬の写真だらけである。
自分の写真は全くと言っていいほど無いのに、
馬の写真は専用の棚ができるほど多いのである。
そんな中、数枚撮ってもらっていた国体の写真と国体参加記念アルバム。
このアルバムの中身も、やはりコウイチバブリやタイソングなどの馬であった。



ドラマ 「 ガチ★星 」 デビュー戦 ・ 弱い選手は努力をせねば・・・

2016-05-07 04:44:24 | 競輪・オートレース



久留米競輪場のホームスタンド







バックから3コーナーにかけて






大差の圧勝だったデビュー戦 ( 7番車 白赤 )




5日の深夜に放送された 「 ガチ★星 」 の第3話は、
濱島は競輪学校で挫折を味わい自主退学しようとする。
だが、そのとき黙々と夜中に誰もいないローラー場で
「 自分にはこれしかない 」 と、ひたすらペダルを漕ぐ久松の姿があった。
その言葉に刺激されて濱島もローラーを踏んだ。

挫折はあったものの、何とか競輪学校を卒業して、
プロとして久留米競輪場でデビューするが、勝てない。
そんな不甲斐なさを酒を飲んでまぎらわす。

ボクもプロとしてのデビュー戦は久留米競輪場だった。
” 強くなりたい ” ただ、その思いだけで、
寝る間も惜しんで練習に明け暮れた。
飯を食う時と寝ている時以外は自転車に乗っていた。
そんな青春時代だった。

かつてのダービーの覇者で、
大先輩だった宮路雄資さんの家の色紙には、

一に練習 二に練習
 千に 万に 億に

そろそろ急げ
志が大きければ
そう容易く叶うものではない

練習なくして勝利なし
勝利はかならず来ると信じて

うろ覚えだが、このようなことが書かれていたような気がする。

中川誠一郎くん。 「 日本選手権競輪優勝おめでとう! 」

2016-05-05 19:36:41 | 競輪・オートレース






















サブタイトルに 「 熊本地震被災地支援競輪 」 と銘打って行われた
第70回 日本選手権競輪 ( 静岡ダービー ) 。
その熊本から決勝に進んだ中川誠一郎。
世界的なスプリンターで、捲りのスペシャリストである。
彼の出身地熊本の地震発生から3週間が経った熊本に元気を贈る走りは、
深谷と新田のモガキ合いを最後尾から30mラインで満を持して、
ホーム線から捲り上げ、1センターでは浮いた深谷の外を回ったが、
バックで捲り切って後続を寄せ付けずにゴールへ・・・
それは、被災地熊本に勇気や元気を与える感動の勝利だった。

中川くんの伯父さんの瀬口孝一郎さんは、熊本時代に一緒に戦った憧れの先輩だった。
この勝利は、被災地熊本にとって何よりも勇気を与える贈り物だったと思うし、
熊本の選手会はもちろんだが、熊本のファンも誇りに思う勝利だったと思う。
被災者ではないが、ボクも勇気をもらったし、熊本の彼を誇りに思う。

中村獅童ばりの中川くん!日本選手権競輪の優勝本当におめでとう!
競輪ではないが、リオ・オリンピックでも勇気の走りを期待している。


ドラマ 「 ガチ★星 」 人生を背負って競輪選手を目指す。

2016-05-02 01:50:41 | 競輪・オートレース







高校を卒業して競輪学校の試験に合格し、
ストレートで入校して来る生徒もいれば、
何度もチャレンジしては不合格になり、受験浪人を繰り返す者もいる。

また、社会人を経て入校して来る生徒もいれば、
国体や世界大会などを優勝したエリートもいる。

「 競輪選手 」 というプロ選手を目指して
さまざまな者が競輪学校に集まる。

この 「 ガチ星 」 の監督は、 「 めんたいぴりり 」 で監督を務めた江口カンさん。
このドラマは、練習や努力や根性といったスポ根系ではなく、
それまでのプロセスというか、あまり取り上げない生活臭のある部分と
選手になって行く姿を交互に描いている。

親や兄弟が競輪選手で、いわゆるサラブレッドがエリート街道を突っ走るドラマではなく、
主役の濱島もエリートの久松も荒れた過去の家庭環境から選手を目指す。
その人間臭さが競輪の魅力とつながっているような気がしてならない。
ただ、ドラマのなかで、濱島が休日の外出で隠していた私服に着替え、
外出先の寿司屋でタバコを吸い酒を飲むが、
このシーンはありえないことである。

過去に喫煙で退学9人を含む63人が半年から1年の停学処分を受けた。
あれから年月が経っているので今はどのようになっているかは定かではないが、
「 この道で生きてゆく 」 という覚悟と、
” 強くなりたい ” という強い意志があれば、
酒もタバコも学校の1年間くらい我慢できるものだと思っている。

次回の5月5日の深夜の第3回の放送が楽しみである。


ドラマ 「 ガチ★星 」 ・ 競輪選手になるためのモガキ 「 競輪学校 」

2016-04-23 04:14:14 | 競輪・オートレース



年齢はもちろん、技能や適正、A組B組や強い弱いに関係なく格納庫前で同期と写った写真





昨日、仕事から帰ってから夕食後に予約録画をしていた
一昨日の夜中に放映された 「 ガチ星 」 というドラマを観た。
それは、ホークスの投手が40歳を過ぎて競輪学校に入校し、
プロ選手を目指すというフィクションである。
とにかく、この世界を知っている人も知らない人もその気にさせる。
” こんな世界があったのか ” と思わせる、惹き込ませる面白いドラマである。

現在は、競輪学校の入校に対する年齢制限が撤廃され、何歳でも入校可能になったが、
自分たちが競輪学校を受験した時は年齢制限があり、
当時は16歳から23歳までの入校制限があった。
その年齢範囲の中で、生活班では年長組が班長や組長を務めていた。
訓練の中では年齢に関係なく、A教場B教場。
さらには白黒赤青といった順に、ヘルメットの帽色で強さや脚質を色分けしていた。
だが自転車を降りれば、強かろうが弱かろうが先輩後輩の区別はしっかりとしていた。

ドラマ内でもあったが、登坂走路やローラー場での ” モガキ ” は嫌なものであった。

次回放送の28日の深夜が楽しみである。


「 卒 業 」 の思い出 ・ 日本競輪学校

2016-03-05 11:29:32 | 競輪・オートレース



静岡県伊豆の修善寺にある日本競輪学校








卒業記念レース






卒業生一同整列




昨日、大分県下の公立中学校の卒業式が一斉に行われた。

3月。旅立ちの季節である。
今まで小学校から中学、高校と卒業してきたが、
卒業は次へのステップという感覚でしか無かったから、
悲しさよりも次の期待感の方が大きかった。

高校の卒業式は、学校教育からの開放というか・・・
ある意味 「 大人の眼からの逃れられる 」 という気持ちからか?
その嬉しさがあった。

機械、電気、電子、工業化学、設備工業と5科で、
機械、電気、工業化学が2クラスで、合計8クラスだった。
卒業証書授与式では新設された1期生の設備工業科が最後になり、
その中でも50音順に呼ばれ、卒業証書を最後に受け取ったのがボクだった。
いわゆる卒業生の殿(シンガリ)を務めたわけである。
シーンと静まり返った講堂で、卒業証書を手に先生や来賓。
そして在校生や保護者に向かって大きく手を振ってバイバイをした。
「 これで ” さよなら ” だ! 」 っていう気持ちの表れだった。
その時、講堂内は驚きの後、大きな拍手が堂内に響き渡った。
そんな卒業の思い出である。

だけど、競輪学校の卒業は違った。
1年間、暑い日も寒い日も、雨にも風にも厳しい訓練にも耐えた。
お互い励まし合いながら寝起きをともにした同期122名と最後の日を迎え。
校庭で整列し、対面した後輩 ( 在校生 ) のエールに
今までこらえていたものが堰を切ったように一気に溢れ出し、
顔中涙でクシャクシャになった。

同期とはお互い地方に帰ればプロとして戦うことになる。
そんなライバルたちと抱き合い、健闘を誓い合って泣いた日が鮮明に蘇る。

それがボクの卒業の思い出である。


北九州市小倉北区 ・ 「 食中毒で小倉競輪開催中止 」

2016-02-05 11:37:41 | 競輪・オートレース



小倉競輪が開催されている北九州メディアドーム








奥にある茶色のビルが参加選手宿舎 「 三萩野会館 」







2階が食堂や風呂になっている











小倉競輪場の宿舎の鍋焼きうどんは絶品である。
そんな美味しいメニューが目白押しの食堂だったが・・・

4日に開催が予定されていた小倉競輪2日目(FI)は、
体調不良による欠場者が続出したため開催が中止された。
5日に行われる予定だった最終日の中止も決定し、開催打ち切りとなった。
中止となったレースの車券はすべて返還となる。

北九州市によると選手が腹痛や吐き気などを訴え、
10人が病院で診察を受け、一部が簡易検査で感染性胃腸炎と診断された。
4人が入院している。
市は選手宿舎で集団食中毒が発生した疑いがあるとみて調べている。

出場選手99人は2日から競輪場に隣接する宿舎に入り、
期間中は宿舎での食事が義務付けられていた。
3日夜から腹痛や吐き気を訴え始めたといい、
ほかにも体調不良を訴えている選手がいる。

食中毒による開催中止は、2000年4月16、17日の青森競輪以来。
昨年2月11日の和歌山競輪ではノロウイルスの感染により、体調不良者が続出し、
6人が欠場している。



福岡県飯塚市 ・ 飯塚オートレース 「 激走する東小野 正道 」

2015-11-30 02:23:41 | 競輪・オートレース






















8号車の東小野が外から襲いかかる






6号車石橋のインをうかがう






前輪が入ればスピードで入り込む








芦屋競艇場で行われたチャレンジカップの女子は
1枠の寺田千恵がスタートを決めて逃げ切った。
そして男子の優勝戦も笠原が1枠を利して逃げ切り、
約10年ぶりのSGの優勝を手にするとともに、
年末のグランプリの出場を決めた。

この日の芦屋競艇場の1着は1レースから12レースまで、
全てのレースで1号艇で決まっている。
相撲でも東や西の力士が勝ち続けることもあるが、
それでもせいぜい5・6番も続けば途切れる。
なのに競艇で全レース1号艇がオール1着というのは記憶に無い。
アゲンストならばともかく、
昨日は2マークから1マークに向けて追い風が吹いていたから、
インコースが断然有利だということが裏付けられた結果だと思う。

そしてジャパンカップは、内ラチ沿いから一たん先頭に立ったラストインパクトを
馬群を縫って追い込んで来たショウナンパンドラが
ゴール前クビの差だけ交わし、秋華賞以来 GⅠの栄誉に輝いた。

飯塚オートでは田中 茂が優勝した。
初日 ( 27日 ) に応援に行った東小野正道は惜しくも2着だった。
愛車クレーイジーD ( ダイヤモンド ) を自由自在に操って、
強引とも思えるチャージをかける。
粗さはあるが、常に1着を目指して走るそのレースに掛ける姿勢が好きだ。

レースは粗いが、心優しい人柄も彼の愛される魅力のひとつであろう。 
以前、CS放送の応援FAXを送っていた宮田町の東小野選手のファンの方が
亡くなられて、そのことを伝え聞いた東小野選手が、
レースが終わってお線香をあげにうかがったと言う話を聞いたことがある。
そんな東小野選手を応援している。


大分県別府市 ・ 想い出がいっぱいの 「 別府競輪場 」

2015-08-20 00:41:51 | 競輪・オートレース



気合を入れてクリップバンドを締める








この看板がワクワクさせる







まるで遊園地のようなゲートは 「 大人の遊園地 」 だ







車券の締め切りを静かに待つバンク内







車券を購入中はスタンドも閑散としている








多くのファンがそれぞれの思いを乗せて車券を検討し選手に夢を託す







発走機に自転車をセットするこの時は100%の臨戦態勢だ







それぞれの思いを胸にスタートを切る







序盤は淡々とレースが流れる







バックの選手観覧席から同県の選手や関係者がレースを見守る







残り1周半を知らせる打鐘 ( ジャン ) でレースが目まぐるしく動く







競い合って一つでも上の着を目指して全力でゴールを目指す





ピリピリとした空気が流れるスタート地点。
その緊張した空気にファンに一礼をする乾いたホイッスルが響き渡る。
一礼した選手が次々に自転車に跨がり両足をクリップバンドで強く締める。
各自発走準備が整うと、係員の 「 構えて 」 の号令で、
上体を倒してハンドルに手をやる。
この時は、走ることだけに集中して、暑さも寒さも感じない。

号砲と同時にスタートが切られ、
自分の思い描いた作戦を頭の中で整理しながら
序盤は脚に負担がかからないように淡々と周回を重ねる。

レースは、残り1周半を告げる打鐘 ( ジャン ) で静から動に流れが変わる。
脚と心と頭で勝負をかける。
脚力はもちろんだが、
確実に勝つ作戦が取れているか?
冷静な判断が出来ているか?
ここぞという時に100%の勇気をもって望めるか?

実力が拮抗していればいるほど、これらが勝負を大きく左右する。


前置きが長くなったが、
別府競輪場は佐世保についで好きなバンクである。
初参加で、しかも3連勝で優勝した後も、好成績を続けた。

熊本同士で敵味方に分かれて戦い。
優勝して物議をかもし出したのも、この別府競輪場であった。

何れにしても多くの名勝負を演じた思い出に残る別府競輪場である。
そんな別府競輪場内にある、
知る人ぞ知る 「 競輪温泉 」 を明日紹介しますのでお楽しみに・・・



現役最後の競輪場 「 佐世保競輪場 」

2015-07-28 04:41:41 | 競輪・オートレース



1センター付近から見た佐世保競輪場








選手管理棟から見たホームスタンド







ホームスタンドから見たバックスタンドと選手管理棟・選手宿舎






選手の敢闘門から見た景色













初参加の佐世保競輪で優勝した時のもの 「 1号車 ( 白 ) 」





佐世保競輪場は九州地区の競輪場の中でも最も好きな競輪場であった。
そして、初参加で優勝した競輪場でもある。
佐世保の前の松山で優勝して連覇となったわけであるが、
次の小倉の光輪賞では江嶋に差されて2着だったが、
その次の別府も初参加で、3連勝と気を吐いた。

とにかく飯を食っている時と寝ているとき以外は自転車に乗っていたから、
練習の質も量も他の選手よりもズバ抜けていたので、
勝って当たり前といえば当たり前の成績だったと思う。

初参加で優勝したレースもだが、
同郷熊本の松村義輝とワンツーを決めたレースがすごく思い出に残っている。
とにかくその当時は気持ちも戦法も横着構えてツッパッていたから、
スタートで前を取って前受から体当たりの突っ張り先行で通していた。
後ろにつけた義輝も九州のプレスリーと呼ばれるくらい粋でツッパッていたし、
そのツッパリ二人が暴れまくってワンツーフィニッシュである。
ゴールしてコーナー審判の旗を見ると失格審議対象の赤旗である。

もちろんと言えばもちろんだが、やり切った感があったから、
「 義輝、失格かもしれんばってん、目いっぱい戦こうたけん良かろう 」 と言うと、
「 うん。よかよか 」 で検車場に引き上げてくると、
お互いセーフで1、2着が確定した。
あの時の優勝は嬉しかったけど、やり切ったという充実感がスゴク残るレースだった。

3年ほど前に熊本競輪場の近くの彼の店に行って飲んだ時に、
やはりこのレースの話しで盛り上がった。
そんな佐世保であるが、その佐世保でヘルメットを脱ぎ、
静かにレーサーシューズを置いて競輪人生の幕を閉じた。

いつお迎えが来てもいいと覚悟している人生だが、
もう一度生まれ変わっても 「 競輪選手になりたい 」 と思う。



園田 匠選手 「 寛仁親王牌 」 優勝おめでとう!

2015-07-20 19:41:41 | 競輪・オートレース



4コーナー出口で、1号車 ( 白 ) の武田に迫る、8号車 ( 桃 ) の園田






























































今日、第24回 「 寛仁親王牌 」 が弥彦競輪場で行われた。

そのレースを見て、コウエイロマンの活躍ではないが、
久し振りに感動した。

本当なら見ていなかったレースである。
ふと、メンバーを見ると、園田が決勝戦に乗っているではないか!
それで、どうしても観ようと思って録画までしたレースは、
6番手から混戦の間中を突っ込んで勝利をものにした。

園田とは同地区、同町内の選手で、我が家に来て、
彼は飲まないけれど、一緒に宴会をした選手である。
北九州地区からは師匠の吉岡稔真以来の快挙である。

名前の残る優勝、ホントにおめでとう!
ゴール前は大きな声が出たけど、に感動したぞ!
これからも、藤井や松本兄弟ともども応援してるぞ!



「 さらば 片平 巧 と キブロワイト 」

2015-05-22 03:56:41 | 競輪・オートレース







オートレース界のカリスマ的存在として
90年代後半を中心にトップクラスで活躍、高橋貢(20V)に次ぐ歴代2位、
SG15Vを挙げた船橋オート所属の片平 巧が20日、死去した。
まだ彼は、49歳の若さであった。


中村政信、島田信廣、宮地 良に続き、
またひとりオートレース界の歴史を刻んだ選手が亡くなった。


片平 巧は、その類稀な走法から 「 天才 」 「 カリスマ 」 と呼称される、
オートレース界屈指の名選手である。
1985年に飯塚の中村政信と同じ第19期生としてデビュー。
未だ単気筒エンジンにしか乗れなかった頃に
トライアンフやメグロ1級車二気筒に乗る先輩選手を内から捌いた。

4年後の第21回日本選手権オートレースでは大半の選手が
ニューフジを駆るなか、トライアンフで準優勝を飾ると、
翌年の第22回大会ではフジに乗り換え、史上4人目となる完全優勝。

デビューから僅か5年で早くもオートレース界の最高峰である特別競走(現在のSG)、
その中でも特に最高位とされる日本選手権を制覇するという快挙を成し遂げた。

片平の走法は他の選手とは明確に異なっている。
その類稀な走法は、常にインコースを回りながらも後輪を
ドリフトさせながらコーナーを高速度で走り抜けるという
「 イン高速走法 」 と呼ばれる走法である。
この走法を真似た選手はコーナーを回れずに、ことごとく落車した。

最重ハンデ大外の位置からスタートし、
レース最後方より一人イン側をすり抜けるように走り、
他車が抵抗する間も与えずに1着を奪い取るレースが多かった。

他の全国区強豪選手であっても、
同じスピードでインを走り抜けると外に飛ばされてしまい
同じコースを維持できる選手はほとんど存在しなかった。
車群の最後方から天性の才能と言うべき捌きでレースを制した。


ちなみに彼らと一緒に戦った愛車の名前は以下のとおりである。

片平 巧 ・ キブロワイト、中村政信 ・ トーマス、
宮地 良 ・ デビルガッツ、島田信廣、ウォリアーズ 



自転車理論 「 ハンドルポスト 」

2015-04-14 06:40:41 | 競輪・オートレース



現役時代ともに走り、ともに戦った 「 愛車プレスト 」













軽合 ( ジュラルミン ) のハンドルにステム ( 鉄 ) ポストの組み合わせ





ハンドルポストはハンドルと一体化してハンドルと思われがちだが、
その存在は地味だが大きい。
フレームとハンドルをつなぎかつ、その方向を決める舵取りの役目を担っている。

このハンドルポストの長さ、重さで自転車の重さや軽さ。
そして伸び ( 惰性 ) や出足 ( 瞬発力 ) の微妙な感覚を左右する。

例えば、ハンドルポストを1mm上げると軽く感じるが、伸びが足りなく思う。
反面、1mm下げると重く感じるが、車がグーンと流れる感覚がある。
ボートのチルト角度に似た性格が在ると思う。

ハンドルポストの長さは5mm単位で製品化されており、
自分の調子や感覚でその長さを調整している。


ポストの素材は、鉄 ( ステム ) と軽合 ( ジュラルミン ) の2種類があり、
ハンドルとの兼ね合いで、使い分けている選手が多い。