「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、、文化財および近代土木遺産をめぐる。

佐賀県唐津市 / 唐津くんち 「 七番曳山 ・ 飛龍 」

2014-11-30 10:40:41 | 日記 ・ イベント



































新町の飛龍は1846年(弘化3)に当時、中里家の日羅坊なる人が、
京都・南禅寺にいたので、醤油屋・前川仁兵衛、酒屋・石田伊右衛門の二人が、
南禅寺の障壁画に描かれている飛龍を見て帰り、
それを祖型にして当時、学にも秀でていた唐津焼の名門陶工の
中里守衛重広(九代太郎右衛門)、中里重造政之の兄弟に製作を依頼したという
珍しい工芸品で、十二代中里太郎右衛門は人間国宝となった。

塗師は小川次郎兵衛となっている。
飛龍は字の通り、空を飛翔する龍を意味している。
また、「飛龍天にあり」の言葉のごとく聖人が天子の位にあることをたとえて言う。
飛龍は中国では麒麟(キリン)、鳳凰、亀と共に四霊と呼ばれ、
神秘的な動物とされている。

龍は渕に棲むと言われており、水や雨に関係が深い動物である。
日本の神話では水神、海神として神聖化されている。
龍は、顔は、ラクダ、髭はナマズ、口(牙)はトラ、目は鬼、耳は牛、
角は鹿、胴はヘビ、鱗はコイ、足(爪)はタカで蜃氣が漂っていた。
以上のような説話から想像して、この新町の飛龍は造られたのだろう。
飛龍の胴体は粘土に紙張りで、羽と尾は木型に紙を張って漆で仕上げた一閑張りである。

曳山の幅は2.2㍍、高さ約6.8㍍。重さは1.75㌧ある。
この飛龍の本体は、上下左右に自由に大きく揺れるように工夫されている。
飛龍の曳山は、昭和25年に福岡市の市制施行祝賀に刀町・赤獅子、
米屋町・酒呑童子と源頼光の兜とともに街路パレードに参加、
大勢の市民から歓迎をうけた。    

また、昭和52年には、NHKの第一回郷土芸能の祭りに特別出演。
東京の劇場で、せり上げによって舞台に体を揺らせながら現れ、
曳山囃子に合わせ曳山踊りも披露した。

昭和3年の総塗替えの時、曳山を小さくして現在の大きさになった。
現在の法被の 「飛龍 」 の文字は、徳川幕府の老中、小笠原壱岐守長行公の親筆である。

[参考:唐津くんち「ガイドブック」(1991)]




北九州市八幡東区 「 八幡駅前イルミネーション 」

2014-11-30 10:34:41 | 日記 ・ イベント















































八幡駅












夕べ八幡駅近くの寿司屋で同窓会が行われた。
仕事が終わってバタバタしたが
何とか待ち合わせの時間までに八幡駅に到着した。
一昨日の中津に続き連日の外出となったが、
同級生と飲む酒はしがらみがなくて旨いものである。




沖縄県南大東島 「 旅立ちの島唄 ~ 十五の春 ~ 」

2014-11-29 05:16:41 | 沖縄





















沖縄本島の泊港に停泊する 「 だいとう 」










夕べ、中津文化会館で映画を観た。

町役場に印鑑証明を取りに行くと、
そのカウンターの隅に置かれていた一枚のパンフレット。
「 うん? 」 って思って手にとって見ると、
一度は見てみたいと思っていた映画のパンフレットだった。
一日4度の上映はありがたく、仕事が終わってから間に合う時間だったので、
チケットを販売している福祉施設に前売り券を買いに行ったものである。

そうして観た 「 旅立ちの島唄 ~ 十五の春 ~ 」 は、
「 あばよ~い 」 の歌詞の通り、
父一人を残して生まれ島を離れていくことの寂しさや、
父や母、そして島に対して感謝の気持が唄に込められていた。
でも、その別れ歌は泣かないで唄わなければならない。
それは、両親に心配をかけてはいけないからである。

南大東島のみならず、伊是名、伊平屋、粟国、渡名喜、
津堅や久高など、沖縄には島に高校がない離島が多い。
だから、島の中学を卒業すると、沖縄本島へ出て行く。
そのため島に残る者と島を出る者との二重生活になり、
家族がバラバラになる。
それでも生れ島を想う。

以前、 「 きん☆すた 」 という番組で、
錦野 旦さんが城之内早苗さんと南大東島に行った時のことを思い出した。
ボロジノ娘が唄う島唄。「 おじゃりやれ 」 や 「 あばよ~い 」 に魂が震えた。

このCDを購入するために色んな所に問い合わせてくれた那覇の大東そばの娘さん。
そんな南大東島に、来年にでも行ってみたいと思っている。



うきは市の気になる店 「 ちょっと よらんの 」

2014-11-29 05:15:41 | 日記 ・ イベント














国道210号線を久留米から日田に向かって走っていると、
山春小学校を過ぎると左側に 「 ちょっと よらんの 」 という、
筑後弁まる出しの看板が目に入る。

いつも気になってはいたものの、車が列をなしていて、
寄るのに ” 気後れ ” というか、スパッ!と立ち寄れなかった。
だが、今回はそんな気になる店に寄ってみた。

果物を扱っている店であったが、
果物はすでにバサロで買っていたので、
ちょっぴり申し訳ない気がしたが、
自販機でコーヒーだけ買って出た。

今度ブドウの時季に訪れてブドウを買って行こうと思っている。



11月28日の朝

2014-11-29 05:14:41 | 朝の風景とその他の風景







11月28日は、亡くなった母の誕生日である。
ボクは両親とも亡くなっていないが、
誕生日や何かの記念の日は、
仏壇やお墓にお供えをすることが多い。
母の好きだったケーキを仏壇にお供えして仕事に出た。

現場に向かう道から真正面に見えるお日さまは、マバユイくらいだった。
そんな天気もコロコロ変わり、時折雨を降らせた。
こんな日に限って予定の型枠が出来上がらず、残業となった。
明日も生コン打ちの準備で早朝出勤である。

雨が降らないことを願っている。




沖縄県渡嘉敷島 「 根元家の石垣 」

2014-11-28 04:44:41 | 沖縄の文化財




































渡嘉敷村の貴重な文化遺産 〈 村指定有形文化財 〉

渡嘉敷村字渡嘉敷45番地の屋号「根元」家の石垣は、
渡嘉敷村に残る貴重な文化遺産である。
当家は、琉球王朝時代にこの島の男たちが水主(唐や薩摩へ行く船の乗組員)として
唐船(進貢船・接船)や(薩摩へ行く御用船)で活躍した頃に繁栄したと伝えられている。

屋敷を囲む石垣や、内にあるヒンプンは、
どれも精巧に切り取られた石灰岩を正確に積み上げられており、
現在のような道具もなかったであろう時代の
職人技の素晴らしさをかいま垣間見ることができる立派な石垣である。

この石垣は、渡唐船の船頭役を勤めた当家の主が
『 唐儲け 』 により建設したといわれており、往時の財力がうかがわれる。
第二時世界大戦において東側の一部が破壊されたが、平成九年三月に修復したものである。

( 渡嘉敷村教育委員会 )



4800枚の 「 馬のポストカード 」

2014-11-28 04:43:41 | 絵画と個展


一枚一枚手作業でポストカード用のシートに心を込めて入れて行く








札束ではないが、帯付きのポストカード







収納場所がないので 「 タンス 」 に仕舞っている







一包み2400枚は結構重い





10年以上前に描きためていた50枚近くの絵の中から
16枚を選んでポストカードにした。
以前も個展の開催や
中津競馬の廃止にともなってポストカードを作ったことがあったが、
今回は、そんな特別な思いはなく、
アトリエで埋もれている作品が 「 少しでも陽の目を見れば 」 という思いで
ポストカードにしたわけである。

多少お金はかかったが、一生懸命に働けばいいことだし、
馬たちが陽の目を見て喜んでくれれば、それでいいのである。

ポストカードはご縁のある方に差し上げているが、
今月末に高校の同級生との飲み会があるので、
その時に参加者全員に持って行こうと思っている。


福岡県朝倉市杷木赤谷 「 山の風景 」

2014-11-28 04:42:41 | 朝の風景とその他の風景








国道211号線を小石原から塔ノ元まで下り、
そこから県道52号線で朝倉市の杷木まで向かう途中に、
杷木赤谷から杷木松末方面に向かって山々を包むように綿菓子のような雲が降りていた。

その光景に思わず息を飲んだ。
素早く車を停めて、撮った写真がこれである。
写したいと思う ”その瞬間 ” を撮らないと、後で後悔する。
何度もそんな思いがあって、 ”その瞬間 ”を大事にしているが、
時間に気を取られることもしばしばである。

撮影で擁する 「 1、2分の遅れ 」 を取るか、
時間を優先して 「 ”その瞬間 ”を見過ごすか 」 の、どちらかであろう。



佐賀県唐津市 / 唐津くんち 「 六番曳山 ・ 鳳凰丸 」

2014-11-27 04:50:41 | 日記 ・ イベント



29年ぶりにお色直しをした 「 鳳凰丸 」



















塗り替えを終えた唐津くんち ( 国重要無形民俗文化財 ) の
六番曳山「 鳳凰丸 ( ほうおうまる ) 」 ( 大石町 )が
12日、唐津市中心部をお披露目巡行した。
完成を待ちわびた曳(ひ)き子が町を練り、
「 エンヤ、エンヤ 」 の掛け声と曳山囃子 ( ばやし ) を響かせた。

塗り替えは29年ぶりで、 「 鳳凰丸 」 が完成した1846 ( 弘化3 ) 年以降7回目となる。
今回は明治期の 「 唐津神祭行列図 」 を参考に、製作当時の姿に近づけた。
胸元や羽は藍色に塗り、漆を塗り重ねて厚くなっていたまぶたを薄く削って鋭い表情になった。
修復費用は約5千万円。国、県、市と地元の大石町が負担した。
また、その完成を祝い、お旅所で餅まきが行われたという。

大石町の 「 鳳凰丸 」 と、江川町の 「 七宝丸 」 は、
古代貴族が船遊びに使った鳳凰と龍の頭を持つ優雅な御座船を模してつくられている。
江川町の曳山の製作にあたった大工の棟梁と
唐津藩絵師がたまたま大石町在住だったため、
「 われわれの町の曳山と対になる立派な曳山をつくろう 」 ということで、
「 鳳凰丸 」 の登場から30年後の明治9年に 「 七宝丸 」 が完成。
晴れて”兄弟船“の誕生となった。


大石町の鳳凰丸は、1846年(弘化3)に1,750両をかけて製作された。

前年に製作された魚屋町の海の幸に対して、山の幸として鳳凰をと考えたのは当然であろう。
鳳凰を造るにあたっては、道路を曳き回る時の障害などを考えると
多大な杞憂があつたであろうが、あえて京都祇園祭の船鉾を模して造られたようだ。
船の首部に鳳凰を型どったものを造り、それを胴体と結合して御座船を造ったのであろう。
この曳山は他の曳山と違ってほとんどが木組みを中心として、
それに紙を張り一閑張りで仕上げたものである。

当初は船体もまだ長く、重くもあって浦浜の砂地には行けず、
入口あたりに据えたままであった。
近郊からの参詣人はヤマを明神様と思い込んで、賽銭をあげて拝んでいたと言う。
その後、架線の支柱が立てられるようになり、
運行時の困難を軽減するため現在のながさになった。
高さが全体のバランスから見ると低いように感じられるが、
当初、大手門を通過する時の関係上、低くしたのであろうと思われる。  

この鳳凰丸も材木町の亀と浦島太郎と同様に、二本の心棒で支えられている。
曳山の幅は2.5㍍、高さ約4.4㍍。重さは推定で4㌧ほどあるという。
この曳山は長さも、重さも一番あるので鳳凰丸だけに、前カジが備えつけられている。
昭和53年10月に、商工会議所百周年記念全国郷土祭、日本橋京橋祭に出動し、
また平成2年5月、博多どんたくでも好評を博した。
最近の総塗替えは、昭和60年、昭和36年、昭和7年に行われている。

[参考・転載:唐津くんち「ガイドブック」(1991)] 



マウスだけのつもりが・・・

2014-11-27 04:49:41 | 日記 ・ イベント














雨で午後から仕事が休みになったので、
銀行や郵便局に行き、そのついでにマウスを買いに行った。
マウスだけを買うつもりにしていたが、
Windows7があったので、画像の編集をするのに、
よもしれぬソフトをダウンロードするよりも、
今の8.1のパソを使うよりもウンと使い勝手がいいだろうと、
その場で衝動買いをしてしまった。

いろいろと設定をやってもらって、2時間後に取りに行ったが、
夕方には、インターネットもメールもつながり、ひと安心である。
いきなりの思いつき購入であったが、
今使っているWindows8の半分くらいの価格なので、
どげんかなっでっしょ!



11月26日 「 朝の風景 」

2014-11-27 04:48:41 | 朝の風景とその他の風景







天気予報は午前50%午後50%の降水確率。
「 まぁ、降りだすのは昼休みで、1時から上がっていつもどおりの仕事だろうな 」 と、
そんな気持ちでいたら、10時半位からパラパラ降りだした雨は、
11時には本格的になり、1時間ほどズブ濡れになって午前中で仕事を終えた。

それで、午後から行きたいと思っていた銀行や郵便局に行き、
家電量販店にマウスを買いに行った。




熊本県小国町 / 遅すぎた 「 下城の大イチョウ 」

2014-11-26 05:04:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



ほとんど散ってしまったイチョウの葉








下城の大イチョウの説明版







木の根元には母・妙栄の墓がある







黄色く色づいた銀杏の葉を敷き詰めた絨毯を歩く







国道212号線からの眺め







大イチョウの下に飾られている自然の木々や葉で造られた 「 くまモンやトトロ 」







大イチョウの下を流れる風情を感じさせる樅木川









熊本県小国町下城にある大イチョウは、
樹高の割に枝張りの大きいのが特徴で、熊本県内でも最大の老樹である。
樹齢は1000年を越え、国指定天然記念物である。
根元から多数のひこばえを生じている。
鏡ヶ池と同伝説に登場する乳母の記念樹として、
今でも乳の少ない女性はこの銀杏樹に祈ると必ず乳が出ると伝えられている。

この大イチョウは、昭和9年12月28日指定『 国指定天然記念物 』 となっている。
ここは、周辺の道路より高くなっており、
戦国時代末期下城の城主であった下城上総介経賢の墓所で、
イチョウの根元にある五輪塔は、経賢の母妙栄の墓と言われている。  


9日に久留米の柳坂曽根の櫨並木を観に行くと、 「 一週間早かったね 」 と言われ、
15日に熊本県小国町にある下城の大イチョウを観に行くと、
「 一週間遅かったね 」 って言われた。

昔からタイミングの悪さは天下一品である。
「 来年こそは 」 と思いながらそれに合わせて行くと、その逆になったりする。
まあ、なるようにしかならんでっしょ!


※  蘖 ( ひこばえ ) とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
   太い幹に対して、孫 ( ひこ ) に見立てて 「 ひこばえ ( 孫生え ) 」 という。



福岡県久留米市 / 早すぎた 「 柳坂曽根の櫨並木 」

2014-11-26 05:03:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣











































南北約1.1kmにわたり、約200本の並木が続く人気の紅葉スポット。
福岡県の天然記念物に指定されている。
新・日本街路樹100景にも選ばれた美しい景観が、
11月には燃えるような深い秋色に染まる。

11月9日に久留米に行った時が、
「 もう赤くなっているだろう 」 と高をくくって訪れた櫨並木。
その色づきに 「 ありゃ~ 」 って思わず叫んでしまった。
「 一週間早かったね~ 」 って言われて、首が折れた。
そういえば・・・
去年もこんな状態だった。
こうなったら 「 来年こそは 」 の思いである。



熊本県小国町北里 「 幸野川橋梁 ( こうのがわきょうりょう ) 」

2014-11-25 06:09:41 | 近代化産業遺産・土木遺産



県道318号線が橋梁の下を走る








農村地帯にこつ然と現れるコンクリートアーチ







曲がりくねった樅木川に架かる







高さ25mのアーチ橋







Y字の橋脚に小さな透かしアーチがよく似合う








下から見上げると迫力が伝わって来る










所在地  / 熊本県小国町北里 西村
竣工   /  1939年 ( 昭和14年 )
設計者 /  鉄道省熊本建設事務所
■  登録有形文化財 ・  Aランク近代土木遺産



農村風景と美林が連続ずる小国らしい風景の中に、こつ然と現れる灰色のアーチ。
それは、延長112m、高さ25mの6連のアーチ橋である。
中央の4つが直径20mの半円を描き、樅木川の清流や道路、水田を跨いでいる。
アーチ直径の大きさでは線区でも最大で、
そこから覗く周辺の緑とマッチして独特の景観を作り上げている。
また、アーチ間の壁に小アーチを連続させ、
あたかも「透かし」のようなデザインで、見る者を飽きさせない。
それは、強度、構造上の機能とは無関係と思われ、
農村を貫く構造物に美観を持たせた設計者の意図に感服する。
橋上を列車が行き交うこともない今となっては論じても仕方ないが、
黒川温泉をはじめ周辺の温泉地が脚光を浴びる今日、
幸野川以外にも多数の美しいアーチ橋を擁した宮原線が現存しないことは惜しまれる。


幸野川橋梁へのアクセス
幸野川橋梁へは、小国町役場より杖立方面に向かい1キロほど行った所から
右にある北里小学校の看板から(玖珠方面)へ曲がり、
道なりに2キロほど行った所に架かっている。


福岡県上毛町 ・ 百留城主百留河内守の出城 「 原井城 」

2014-11-25 06:08:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



台地になった城跡







かつての校庭と主郭広場






道路脇にある原井城




原井城は、以前紹介した 「 傾城石 」 の入り口から約300mほど下った場所にある。

旧・大平村の唐原の原井集落から友枝へ通ずる道路脇の一段高くなった所に
現在は廃校になってしまったが原井小学校があった。
その学校の敷地全体が原井城跡と言われている。

城は山の出鼻に築かれたもので、遺構は全く見られない。
校地は三角形の平地で、北と南は急斜面となり、西は峰続きである。
東南の低いところに城の前・内の丸・門田、北に小城戸・弓場などの地名が残り、
わずかに名残りをとどめている。

この城の詳細は不明であるが、百留城主・百留河内守の出城であったと言われている。
百留氏は長岩城主の野仲鎮兼の家臣で、下毛郡土田の城主であったが、
天正七年 ( 1579年 ) に山国川を押し渡り唐原に攻め入り、
代金 ( しろかね ) 城主・代金信濃守を討ち、ここに城を築いたものである。