八国山だより

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枝野経産相「原発は重要、20~30年は活用」 ← なんて恥知らずな…

2012-09-25 06:05:48 | 原発


枝野経産相「原発は重要、20~30年は活用」

読売新聞 9月24日(月)20時9分配信

 全国最多の14基の原子力発電所が立地する福井県の吉田伊三郎県議会議長らは24日、枝野経済産業相と経産省内で会談し、「2030年代に原子力発電所の稼働ゼロ」を目指す政府の新戦略について、「拙速な決定」などとして見直しを強く求めた。

 枝野経産相は、再生可能エネルギーによる将来の電力確保が不確定であることなどを理由に、「原発は重要性を持っている。少なくとも(今後)20~30年は活用する」などと理解を求めた。

 また、日本原子力発電敦賀発電所(福井県敦賀市)の3、4号機の増設計画に関連し、枝野氏は、原発の新増設を行わない原則を決めたことを説明した上で、「地域の期待度を踏まえ、地元と相談しながら対応したい」と述べた。

最終更新:9月24日(月)20時9分 読売新聞

 将来の電力確保が不確定? 火力と水力の発電設備をフル稼動すれば、一昨年のような酷暑の年でも十分乗り切れることが、政府発表の統計データで判明している。それを棚に上げて何を言っているのだろうか。石炭や石油は当分枯渇することはない。必要とあらばロシアから天然ガスを輸入することだってできる。

 これほどの被災者を出し、関東地方の住人が3年後には8割減少するという説もあるのにまだ原発を稼動させようというのか。おのれは昨年事故直後、家族をいち早くシンガポールに逃がしているから心配もないのだろうが。もう人ではない。政府や霞ヶ関に住んでいるのは人の皮を被った妖怪たちだ。



米国が内政干渉 | 東京新聞 9/22朝刊 閣議決定回避 米が要求

2012-09-22 11:32:07 | 原発
 原発はトイレのないマンション、放射性廃棄物の処理もできないのに将来の世代につけを残し、日本国民の、いや最悪北半球の人々の生命さえも奪ってしまうこと可能性が高い原発。今のままの生活っでは3年後には関東地方の住民は8割が死亡するとベラルーシの研究者が伝えている。原発は安全ではない。ひとたび事故が起こるとこのような悲劇的な結末を迎える。筆者も政府のパブコメには2030年までではなく即時ゼロとするよう意見を寄せた。

 米側は最初はエネルギー問題として、次に自国への産業への影響、次に軍事転用への懸念(安全保障)を理由に干渉してきた。属国が勝手は許さんということだろう。
だが、エネルギー問題に関していえば日本の企業体とイラン国営企業でアザデガン油田を共同開発することが決まっていたのに圧力をかけて権利を放棄させたのはどこのどいつだ。軍事転用への懸念?
原発を長い間運転していればプルトニウムは自然に溜まっていく。六ヶ所村の再処理工場は、長崎原爆の材料だったプルトニウムを取り出すという軍事的な要請で始められたもの。日本政府は原子力発電所の燃料にとごまかしているが。米側はそれを十分承知のはず。それを何を今さらしゃあしゃあと。イラク戦で使われた劣化ウラン 弾には日本の電力会社の劣化ウランが使用されていた。関西電力の劣化ウランが劣化ウラン弾としてアフガンで使用されている。

 四の五の屁理屈をこねているが、「日本は原発を放棄するな」と要求しているのだろう。竹島および尖閣問題の仕掛け人、国戦略国際問題研究所(CSIS)のリチャード・アーミテージ元国務副長官およびジョセフ・ナイ・ハーバード大学教授の本音だ。アーミテージ、ジョセフ・ナイらは日中戦争を仕掛けると宣言している男だ(暗黒夜考~崩壊しつつある日本を考える~氏の「第3次アーミテージレポート」発動で悪夢再び ~”戦争マフィア”アーミテージ&ナイが満を持して登場~」を参照されたい)。

 閣議決定回避が日本の安全保障にどう寄与するというのか。人間の生存を脅かしている原発を今すぐにでも停止しなけれ一年後日本が地上に存在していない可能性もある(福一4号機を考えれば)。米国の言うことを聞かなければ安保条約を廃止するとでも言うのか。それは望むところだ。在日米軍は日本を守っていない。安保条約5条によって、米国の国益に合致すると米国議会が承認して初めて参戦する。世界のあちこちで言いがかりをつけて殴り込むヤクザ国家米国は、憲法9条を改訂させて集団的自衛権を認めさせ自衛隊を米軍の補助兵として使おうとしている。日本の安全保障を考えるなら、日米安保条約は軍事的な側面を取り除いた友好条約に変更し、自衛隊を現状のまま維持して中立を宣言するのがいいのではないか。

 武力に頼らなくとも日本には世界に冠たる技術力がある。次のような話を聞いたことがある。

日本の持つ電子プリント基板特許の輸出を止めると、ターゲットにされたすべての国の大部分の兵器(戦闘機、ミサイル、戦艦、戦車)が使用不能になるり、小松製作所にしか製造できない小型のパワーシャベル、ブルドーザーの輸出を止めると、北朝鮮の生命線=核ミサイル開発の資金源である地下資源の開発が全面的に止まり、ターゲットにされた国のすべての資源開発・建設工事・軍事施設の建設が不可能になり、ロシアは、ソチ・オリンピック開催が不可能になる。
また、日本にしか製造できないステルス戦闘機用のステルス機能を持つ塗料の輸出を止めると、米軍の戦略の要であるステルス戦闘爆撃機の製造が不可能になる。
このような技術が日本の安全保障につながる。

 日本はヤクザ(米国)の恐喝に屈すべきではない。

【記事1】
原発ゼロ「米にも影響」 米副長官

東京新聞 2012年9月13日 夕刊


 【ワシントン=竹内洋一】民主党の前原誠司政調会長は十二日午後(日本時間十三日午前)、ワシントン市内で記者会見し、十一日に米エネルギー省のポネマン副長官と会談した際、日本政府が二〇三〇年代に原発ゼロを目指すとした新たなエネルギー政策を検討していることに対し、懸念が示されたことを明らかにした。

 クリントン米国務長官も八日、ロシア・ウラジオストクでの野田佳彦首相との会談で、日本の原発政策への「関心」を表明。こうした米側の反応を理由に、原発維持派は巻き返しの動きを強めている。

 前原氏によると、ポネマン氏は「日本のエネルギー問題は日本が決めることだ」と述べた上で「日本政府がこのような措置を実際に取れば、意図せざる影響もあり得る」と強調。「米国にも重要かつ深い結果をもたらす」と述べ、日米両政府や企業間の原子力分野での協力に影響が出るとの考えを示した。

 また「世界第三位の経済大国(である日本)が燃料を買いあされば、エネルギー価格に重要な影響を与えるだろう」と述べ、国際的なエネルギー価格高騰の可能性に言及。「柔軟性を残してほしい。日本政府が原発ゼロを目指すと決めた場合、負の影響を最小化してほしい」と求めたという。




【記事2】


『閣議決定回避 米が要求』 原発ゼロ「変更予知残せ」 政務官ら訪米時 安保に影響懸念か 東京新聞 2012年9月22日 朝刊

野田内閣が「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが21日、政府内部への取材で分かった。米高官は日本側による事前説明の場で「法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた。

 政府は「革新的エネルギー・環境(エネ環)戦略」の決定が大詰めを迎えた九月初め以降、在米日本大使館や、訪米した大串博志内閣府政務官、長島昭久首相補佐官らが戦略の内容説明を米側に繰り返した。

 14日の会談で、米高官の国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官はエネ環戦略を閣議決定することを「懸念する」と表明。この時点では、大串氏は「エネ戦略は閣議決定したい」と説明したという。

 さらに米側は「2030年代」という期限を設けた目標も問題視した。米民主党政権に強い影響力があるシンクタンク、新米国安全保障センター(CNAS)のクローニン上級顧問は13日、「具体的な行程もなく、目標時期を示す政策は危うい」と指摘した。これに対して、長島氏は「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」との趣旨で、ゼロ目標を入れた内閣の立場を伝えていた。また交渉で米側は、核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明したという。

 エネ環戦略は14日に決めたが、野田内閣は米側の意向をくみ取り、「エネ環政策は、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い一文だけを閣議決定。「原発稼働ゼロ」を明記した戦略そのものの閣議決定は見送った。

 大串、長島両氏は帰国後、官邸で野田佳彦首相に訪米内容を報告している。

 政府関係者は「事前に米側に報告して『原発稼働ゼロ』決定への理解を求めようとしたが、米側は日本が原発や核燃サイクルから撤退し、安全保障上の協力関係が薄れることを恐れ、閣議決定の回避を要請したのではないか」と指摘している。

◆「判断変えてない」大串政務官

 原発ゼロをめぐる米国との協議について、大串博志内閣府政務官は二十一日、本紙の取材に対し「個別のやりとりの内容は申し上げられないが、米側からはさまざまな論点、課題の指摘があった。米側からの指摘で日本政府が判断を変えたということはない」と話した。

[解説] 
「原発ゼロ」を求める多数の国民の声を無視し、日本政府が米国側の「原発ゼロ政策の固定化につながる閣議決定は回避せよ」との要求を受け、結果的に圧力に屈していた実態が明らかになった。
 「原発ゼロ」を掲げた新戦力を事実上、骨抜きにした野田内閣の判断は、国民を欺く行為で到底、許されるものではない。
 
意見交換の中で米側は、日本の主権を尊重すると説明しながらも、米国の根拠の要求として「日本の核技術の衰退は、米国の減力産業にも影響を与える」「原発ゼロによってプルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう」などと指摘。米側の「国益」に反すると強調したという。
 
当初は、「原発稼動ゼロ」と求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。一方、米側は「政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように」と揺さぶり続けた。

 放射能汚染の影響により現在でも16万人の避難民が故郷に戻れず、風評被害は農業や漁業を衰退させた。多くの国民の切実な思いを置き去りに、日本の安全保障を優先させたことに対し、日本政府はきちんと説明責任を果たすべきだ。(望月衣塑子)



1985年 - 備忘録その4

2012-09-21 03:47:41 | ひとりごと
 大学卒業後勤務した在阪の音響機器メーカ、トネゲンはラジオのスピーカーメーカーとしては戦前は圧倒的シェアを誇っていたそうだが、戦時中軍需工場となり、戦後は再建の遅れもあり台頭してきた東通工(現ソニー)の後塵を拝することになったということだった。一時は松下電器(現Panasonic)の下請けもしたりしていたが、海外向けOEMメーカーとして活路を見いだしていた。商売の気風として東京系の企業がブランドを気にするというのか名もない企業を相手にしないのに対し、海外のメーカーはものがよければ無名の会社であろうと気にしなかったからだ。

 私が勤務していた頃海外の主要なオーディオメーカーとはほとんど取引があったのではないか。アメリカのJBL、今はなきインフィニティ、AR(Acoustic Research)、BOSE、Marantz、Fisher(旧三洋の子会社)、英国のTannoy、デンマークのB&O(Bang & Olfusen)などなど。

 1985年、私はアメリカ、ロサンゼルス州ガーデナー市にあった販売合弁会社に出向することになった。アメリカの会社は自分にとっては厳しくはあったが働きやすかった。地位、年齢を問わずまっとうな意見であればトップが耳を傾けてくれる。厳しいというのは売上高、目標達成率、それに要した接待費、交通費など費用対効果で年俸が決まること。

 このアメリカ滞在中の出来事で忘れられなかったのは御巣鷹山での日航機墜落事故。その日いつものように車でオフィスに向かっていると、突然音楽を中断してこの一報が入ってきた。当時NHKの午後7時台のニュース番組を見ることができたが2日遅れ!のものだった。ジリジリしながらその2日を待っていたものだった。

 日本の本社と比べたこのアメリカでの労働環境の快適さが翻訳業への転職の一因ともなった。その意味でこの年は自分にとって転機となる年だった。毎年、墜落事故何周年という報を聞くにつけ思い出す。

 私が在籍したこの会社も1986年、当時の社長が「生き残りをかけて」昭島市にある某大手ユニットメーカーと合併したが、実質取り込まれたようなもの。某社長は生き残ったかも知れないが会社は潰れた。目先のことしか考えない愚かな判断だっと思う。惜しむ声(集まれ スピーカー好き! 「接着剤」)もあったというのに。

 

純喫茶 夜の窓 河原町六角東入る - 備忘録その3

2012-09-19 15:54:53 | ひとりごと
 新聞社奨学生は結局2年で辞めることになった。配属が大阪(高槻市)で大学が京都上京区と、ほぼ職場と学校の往復という生活だったので自由になる時間が欲しかったためだ。
京都市内に引っ越し(最初は山科区日ノ岡、次に左京区一乗寺)、河原町三条六角にある味ビルというところでアルバイトを始めた。現在とは異なる経営母体で、当時(1973年)は地下に居酒屋、1階が流れる滝、2階が椅子席の和食(鍋料理を含む)、4階が宴会場、5階が個室、6階がしゃぶしゃぶなど肉料理という陣容だった。

 そのバイト先には大学から京都御所を抜けて歩いて赴いたが、時間が定刻よりまだ早いときは首記の喫茶店で時間つぶしをしたものだった。ネットで検索するとマッチ箱は他に2つの色柄が見られる。
 
昭和30年前後(1955頃

坂ノ下さんのお出かけ日記

この緑のはいつ頃のものなのだろうか。

 夜の窓は通常の椅子席のほかにパティオがあった。確か運がよいときには舞妓さんがそこにみえていることがあり、一度だけ遭遇したように記憶している。


 


泪橋 茶木みやこ - 備忘録その2

2012-09-18 15:43:30 | Weblog
 タイトルは茶木みやこさんが1974年にリリースした曲のタイトルである。関西ローカルの曲で、当時関西にいた方でもどれぐらいご存じの方がいるだろうか。
泪橋/茶木みやこ - YouTube

 この人の名前というかピンクピクルス(柴漬けの意)の存在は意外なところから存じ上げていた。
私は新聞社奨学生の制度(朝夕刊を配達すれば学費を負担し、住居、食事、若干の給料を提供するというもの)を利用して大学に進んだのだが、同じ新聞販売店に配属された同僚にギターを趣味とする者がいて、京都に出かけては彼女らとギターの練習をしていた。

 京都市には「泪橋」という橋は実在しない。聞いたところによれば作詞者の山本勣氏が当時京都にいらして、学生運動で次々と友人の方が亡くなられ、東京に戻ってから作詞されたとのこと。
私が大学に入学した頃は学生運動はピークを過ぎていたがその余波はまだ残っていた。

 私の母校英文科は面白いところで卒業論文は必須ではなく他の科目に振り返ることができた。学生の書く論文でしかも英語とあればさほど期待できないと判断していたせいだろうか。私の専攻は文学ではなくアメリカ地域研究であり、大下尚一氏や明石紀雄氏などが全国レベルでも有名な教授ではなかったろうか。

 閑話休題
そこで私が選択したのは国文科の「平家物語」の講座だった。その講座で知り合った友人に大阪の清水谷高校出身の女子学生がいたのだが、彼女は学生運動に参加していたようで講座の末期は命が狙われているからとほとんど出席しないようになっていた。その後の消息もわからない。彼女はまだ生きて日本に住んでいるのだろうか。この曲と共に消息不明のこの友人のことが思い出される。