八国山だより

ノーサイレントマジョリティ!ごまめの歯ぎしりといえど、おかしいと思うことはおかしいと自分の意思を発信しなければ

映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』

2018-04-19 15:49:33 | 映画
 この映画を観て、日本のジャーナリズムに関わる人が全員観てほしいと思った。特に寿司友と揶揄されている人々たち。

 ストーリーは以下のような内容である。

 リチャード・ニクソン大統領政権下の1971年、ベトナム戦争を分析、記録、政府が負け戦と理解していながら隠蔽していたペンタゴン(国防省)の最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」の存在をニューヨーク・タイムズがスクープし、政府の欺瞞が明らかにされる。

 ライバル紙でもあるワシントン・ポストは、育児と家事をこなすことしか女性に求められていなかった時代に、一介の主婦キャサリン・グラハムが夫に代わり社主に就任し、女性の社会進出という未知の世界に踏み込んでいた。彼女の下、編集主幹のベン・ブラッドリーらが文書の入手に奔走し文書を手に入れるが、ニクソン政権はニューヨーク・タイムズの差し止めを要求。新たに記事を掲載すればワシントン・ポストも同じ目にあうことが懸念された。記事の掲載を巡り会社の経営陣とブラッドリーら記者たちの意見は対立し、キャサリンは経営か報道の自由かの間で難しい判断を迫られる。

 物語は、このワシントンポストの2人の記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインを有名なさしめたウォーターゲート事件がおきるところで終わる。この頃はワシントンポストなどマスコミは輝いていた。その意味でこの映画は政府や特定の勢力のプロパガンダ部門と化した(偽ニュース攻撃で自滅する米マスコミ https://tanakanews.com/161201fakenews.htm)現在のマスコミに対するアンチテーゼと言えるだろう。

 
余談ながらウォーターゲート事件でニクソンは辞任を余儀なくされたが、当時ベトナム戦争を終結させて人気のあったニクソンがあのような愚かな行為を犯す必然性はまったくなかった。恐らくは中国との国交回復やソ連との雪解け外交などの成果を快く思わない陰の勢力によって引きずり下ろされたのだろう。




 この映画では1971年の裁定でのヒューゴ・ブラック判事の言葉を引用している。今の日本の報道に携わる者に是非とも聞かせたい内容なので引用する。

合衆国建国の父は、憲法修正第1条をもって民主主義に必要不可欠である報道の自由を守った。報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない。報道機関に対する政府の検閲は撤廃されており、それゆえ報道機関が政府を批判する権利は永久に存続するものである。報道の自由が守られているため、政府の機密事項を保有し国民に公開することは可能である。制限を受けない自由な報道のみが、政府の偽りを効果的に暴くことができる。そして、報道の自由の義務を負う者は、政府の国民に対する欺きによって多くの若者が遠い外国へと派遣され、病気や戦闘で命を落とすという悲劇を避けるために義務を全うすべきである。私の考えでは、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストそしてその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が明確に掲げた目的に報いる行為として称賛されるべきである。この国をベトナム戦争参戦へと政府の故意を明るみに出すことで、前述の新聞社は建国者たちがこの国に望んだことを立派に実行したのである。

 この映画では次の言葉が印象に残った。

権力を見張らなくてはならない。我々がその任を負わなければ誰がやる?

報道の自由を守るは報道しかない。


映画『マネーボール』

2011-11-19 06:48:09 | 映画
 オークランド・アスレチックスの実在のGMビリー・ビーンが統計学のデータを駆使して弱小チームの建て直しを図った実話に基づく映画。


 データ活用と言えば日本ではノムさんこと野村克也氏と一脈通ずるものがある。ただ、ノムさんは野村スコープや投手/打者の心理駆け引きなど戦いの現場であるのに対し、ビリー・ビーンには勝利を得るための兵站としての立場からのデータ活用という違いがあると思う。

 また、同じように他球団からのロートル選手を活用する再生工場ではあるが、ビリー・ビーンは出塁率などのデータから推論して採用、活躍させているのに対し、ノムさんは「功なき者を活かす」、人に対する観察眼から活用、活躍させている点も異なる。

 この二人でチームを運営するとそれこそ常勝軍団となるのだろうか。

アイリーン・アドラーは峰不二子だった - 映画『シャーロック・ホームズ』

2010-03-18 21:05:32 | 映画
 今回は映画の話を。
 柔術を操る新しいホームズ像にも驚いたがそれよりアイリーン・アドラーが…。
名探偵コナン『ベーカー街の亡霊』でモリアーティが広告でジャック・ザ・リッパーに殺害を命じた人物、 アイリーン・アドラー 。ホームズが唯一尊敬し、対等の立場と認め、愛した女性という設定だった。


 そのモデルとなった芸能人たち、アイルランド出身の踊り子で女優のローラ・モンテス、19世紀最大の悲劇女優フランスの女優エリザ・フェリークス・ラシェル、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のプリマドンナでソプラノ歌手のジェラルディーン・ファーラーなど、からは美しく華やかではありながら、したたかな女性像が連想される。

 さてこの映画で描かれるアイリーン・アドラーは、さらに踏み込んで悪にも手を染め、超一流のテクニックで人をだまし、銃をぶっ放し、男ともアクションで渡りあう。その姿はまるで峰不二子。

 モリアーティ教授は片腕に銃を仕込み、最後まで顔を見せなかった。ライヘンバッハの滝の死闘まで物語が続くことを予感させる。

 

映画『眉山』

2007-05-17 11:10:56 | 映画
原作がさだまさしの小説である映画『眉山』を見てきた。

ストーリー:
東京で旅行代理店に勤める咲子(松嶋菜々子)は、ある日故郷の徳島で一人暮らす母・龍子(宮本信子)が入院したという知らせを聞き、久しぶりに帰郷する。咲子が病院を訪ねると相変わらず気丈な母の姿があった。だが、なんでも一人で決断してきた寂しさとわだかまりを抱えてきた咲子。だが、母が末期ガンだと知らされ、母という人間を受け入れられず、悩みながらも看病する中で、医師・寺澤(大沢たかお)と出会い、自分を温かく包んでくれる彼に自然と惹かれていく……。残された時間の中で咲子は、寺澤に背中を押されるように、今まで知らなかった母の人生を知っていく……。



眉山は実際に徳島にある山で、どこから見ても眉のように見えることに由来するとのこと。

不倫で生まれた子供を一人で育てたお母さんとその一人娘の葛藤をめぐる話。
母親(宮本信子)の入院生活には色々考えさせられる。一昨年他界した父もあのような様子だったのだろうか。また、故郷に一人暮らす母が入院するようになったら…。
自分が死ぬときは周囲にあまり世話をかけずに(介護など)亡くなりたいものだ…など
いろいろな思いがよぎった。

全編を通じて流れる大島ミチルの音楽もいい。何やら映画『蝉しぐれ』(だったかほかの藤沢周平作品)」の映画もこんな感じの音楽だったような。

徳島と言えば、毎年8月に行われる阿波踊り。本作では地元から14,200人ものエキストラが集合して阿波踊りシーンを再現したとのこと。圧巻だった。本物をみたことがないだけに(だけど、やはり踊りはやっぱり見るもんじゃなく自分が参加してこそなんぼだろう)。

阿波人形浄瑠璃のシーンも見られて個人的にはよかった。

まっちゃん役の山田辰夫、映画『ホワイトアウト』やテレビドラマ『正義は勝つ』ではさえない役だったが、こんどは味のある役だった。

大沢たかおは、同じくさだまさしの小説が原作である『解夏』にも出演していた。何かの縁だろうか。

公式サイトはこちら眉山02



武士の一分

2006-12-02 16:27:06 | 映画
藤沢周平ものの山田洋次監督による時代劇三部作の完結編。
ネットでのブログの評判は総じていいようだが、前2作ほどではなかったように感じた。
100点満点で70点ぐらいといったところか。

キムタクの演技は盲目になるまでは現代劇の台詞まわしであるかのように感じた。

また、武士の一分と三度も口にしていることになにやら違和感を感じた。口にするたびに重みが失われていくような。描ききれなかったものその言葉で補おうとするかのような。「武士の」というのであれば、武士道なり侍としてのありようを描いたものが作品中にあるべしだったが、人の弱みにつけ込んで妻を手籠めにされた夫(男)のプライドをかけて戦おうとするものであり、夫の(男)一分であると思う。その意味でこのタイトルは不適切だと思う。

また季節感というのか東北の豊かな季節の移り変わりに乏しかったように思う。前2作や同じ藤沢作品の昨年封切りの『蝉しぐれ』に比べても。殺陣もちょっと不満。キムタクは剣道をやっていたそうなので太刀さばきはよかったが、立ち回りのシーンは『鬼平犯科帳』や『剣客商売』に比べると…。『たそがれ青兵衛』のほうがまだよかったように思う。

それでもちょっとした笑いあり涙あり、夫婦のほのぼのした会話などそれなりによかった。