八国山だより

ノーサイレントマジョリティ!ごまめの歯ぎしりといえど、おかしいと思うことはおかしいと自分の意思を発信しなければ

○條は酷いブラック企業だった

2017-11-09 15:51:49 | ひとりごと
友人の身の上での出来事。名寄にある○條はブラック企業だった。

その友人は非正規雇用だったことなどもあって預貯金がない。今夏○條にパートとして応募したところ、採用するので面接までしばらく待ってほしいと同社から言われ履歴書を送付してから面接まで1ヵ月近く待たされた。つまりこの期間は無収入だったわけだ。

やっと面接と相成ったが、ハローワークに掲載されていた募集条件と大違い。時給は100円低く、雇用期間は6ヵ月更新有りのはずが3ヵ月の試用期間とのこと。まるで悪徳不動産屋のおとり広告。だが生活がかかっているためやむなく了承した。

晴れてパートとなった後も酷かった。1日パソコンに向かう作業であるのに椅子は折りたたみ式のパイプ椅子。世にはパソコン作業者向けの身体的負担を考慮したOAチェアなるものも存在するのに。そのせいなのか腰痛に悩まされていたとか。また、仕事の性質上からお昼に休めない、つまり昼食も取れないことがしばしば。規定の休憩の時間帯からずれても休憩が取れればまだましだったのだが、それもなし。ただ働き。

挙げ句にはパワハラを受け、勤めだして以来毎日をビクビクして過ごし、ずっと心臓が痛い、時々頭痛、めまい。休日もじっとしていても手がふるえる、顔面、特に口の辺りがひりひりし、一日寝たきりという状態だったとのこと。このため試用期間の更新を断念せざるを得なかったとか。このパワハラのせいでほとんど鬱状態に追い込まれ、自分は無能だ、人と会うことが怖いとなるまでに追い詰められていた。

さらにこの後も酷かった。試用期間の終了ということなので退職届は不要なはずだが、体調不良ということで退職届の提出を要請されそれに応じたところ、約2週間後に届いた離職票には自己都合による退職と記載されていたのだ。パワハラで追い詰めておいて自己都合とは何という言い種。就職活動ができない状態に追い込まれているのに、自己都合と捏造されては失業保険の受給も3ヵ月待たされる。その間どうやって生活しろと言うのか。

最初から最後まで裏切りの連続。○條、こんな企業はこの地上から消えてなくなってほしい。


<後記>その後不審に思ったハローワークの取り計らいにより、失業保険の手続きは進められたものの本人は依然寝たきり状態との由。
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スカパープレミアムサービスに加入しようと

2016-12-23 20:03:53 | ひとりごと
 自分の部屋用のテレビにHisenseのテレビを購入しようと東京在住時には近所にも店舗があったノジマオンラインで注文した。
ほかにも安いところはあったが手数料なしで分割支払いが可能だったのが決め手。

 さすがテレビの生産設備を松下電器から導入しただけあって品質も日本製品と遜色がない。

 併せて東京に住んでいたときと同じくスカパープレミアムサービスに加入しようとしたのだが、アンテナの取り付け工事にみえた業者の方から、「部屋の位置がアンテナの方角によくないし、いい方角の場所に設置するにしても、壁に取り付ける方法では建物所有者の大東建託の許可がおりない」と言われ、あえなく断念せざるを得なかった。

 うらめしや大東建託、うらめしやベランダのない建物

http://online.nojima.co.jp/app/catalog/detail/init/1/4580341982006?selectedSkuCode=4580341982006
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1985年 - 備忘録その4

2012-09-21 03:47:41 | ひとりごと
 大学卒業後勤務した在阪の音響機器メーカ、トネゲンはラジオのスピーカーメーカーとしては戦前は圧倒的シェアを誇っていたそうだが、戦時中軍需工場となり、戦後は再建の遅れもあり台頭してきた東通工(現ソニー)の後塵を拝することになったということだった。一時は松下電器(現Panasonic)の下請けもしたりしていたが、海外向けOEMメーカーとして活路を見いだしていた。商売の気風として東京系の企業がブランドを気にするというのか名もない企業を相手にしないのに対し、海外のメーカーはものがよければ無名の会社であろうと気にしなかったからだ。

 私が勤務していた頃海外の主要なオーディオメーカーとはほとんど取引があったのではないか。アメリカのJBL、今はなきインフィニティ、AR(Acoustic Research)、BOSE、Marantz、Fisher(旧三洋の子会社)、英国のTannoy、デンマークのB&O(Bang & Olfusen)などなど。

 1985年、私はアメリカ、ロサンゼルス州ガーデナー市にあった販売合弁会社に出向することになった。アメリカの会社は自分にとっては厳しくはあったが働きやすかった。地位、年齢を問わずまっとうな意見であればトップが耳を傾けてくれる。厳しいというのは売上高、目標達成率、それに要した接待費、交通費など費用対効果で年俸が決まること。

 このアメリカ滞在中の出来事で忘れられなかったのは御巣鷹山での日航機墜落事故。その日いつものように車でオフィスに向かっていると、突然音楽を中断してこの一報が入ってきた。当時NHKの午後7時台のニュース番組を見ることができたが2日遅れ!のものだった。ジリジリしながらその2日を待っていたものだった。

 日本の本社と比べたこのアメリカでの労働環境の快適さが翻訳業への転職の一因ともなった。その意味でこの年は自分にとって転機となる年だった。毎年、墜落事故何周年という報を聞くにつけ思い出す。

 私が在籍したこの会社も1986年、当時の社長が「生き残りをかけて」昭島市にある某大手ユニットメーカーと合併したが、実質取り込まれたようなもの。某社長は生き残ったかも知れないが会社は潰れた。目先のことしか考えない愚かな判断だっと思う。惜しむ声(集まれ スピーカー好き! 「接着剤」)もあったというのに。

 
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純喫茶 夜の窓 河原町六角東入る - 備忘録その3

2012-09-19 15:54:53 | ひとりごと
 新聞社奨学生は結局2年で辞めることになった。配属が大阪(高槻市)で大学が京都上京区と、ほぼ職場と学校の往復という生活だったので自由になる時間が欲しかったためだ。
京都市内に引っ越し(最初は山科区日ノ岡、次に左京区一乗寺)、河原町三条六角にある味ビルというところでアルバイトを始めた。現在とは異なる経営母体で、当時(1973年)は地下に居酒屋、1階が流れる滝、2階が椅子席の和食(鍋料理を含む)、4階が宴会場、5階が個室、6階がしゃぶしゃぶなど肉料理という陣容だった。

 そのバイト先には大学から京都御所を抜けて歩いて赴いたが、時間が定刻よりまだ早いときは首記の喫茶店で時間つぶしをしたものだった。ネットで検索するとマッチ箱は他に2つの色柄が見られる。
 
昭和30年前後(1955頃

坂ノ下さんのお出かけ日記

この緑のはいつ頃のものなのだろうか。

 夜の窓は通常の椅子席のほかにパティオがあった。確か運がよいときには舞妓さんがそこにみえていることがあり、一度だけ遭遇したように記憶している。


 

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緑のコタン - 備忘録

2012-09-16 05:13:21 | ひとりごと
 小学生の頃、NHKラジオで毎夕「緑のコタン」というドラマを放送していた。
確かポンションというアイヌの若者が主人公だった。内容はすっかり忘れてしまっている。
ただ、その登場人物のなかに奇妙な(と、その時は思った)名前のがいたのが今も記憶に残っている。新島しめた(七五三太)。しめた?

 後日よもや自分がその奇妙な名前の若者が成人して創設した大学に入ることになろうとは、予想もしなかった。新島七五三太(後の新島襄)が函館から出国した様子も放送されていたように記憶している。1985年に仕事で数ヶ月ロサンゼルスに駐在したことがあったが、その時出向した米国の合弁会社の米国人同僚が、新島襄もアマースト大学に留学していたこともよく知っていて驚いたものだった。

 故郷の能登の地名の由来がアイヌ語であり、地元の市にある神社(須須神社-源義経が奉納したと云われる蝉折の笛がある)の神体はアイヌの文化を受け継いだものと云われている。アイヌの血を受け継いでいるものもいるようで、友人は日本人らしからぬ彫りの深い顔立ちである。弘法大師の頃まではアイヌは能登に住んでいたとも聞く。
アイヌも新島襄も何かの縁を感じる。



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