パンダ イン・マイ・ライフ

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音楽と本、そしてちょっとグルメなナチュラルエッセイ

一茶

2018-10-21 | 藤沢周平
「一茶」は、藤澤周平が、昭和52年(1975)から53年(1976)にかけて、月刊文芸誌に掲載した。しかし、この構想は、藤澤が作家としてデビューする前、胸を病んで入院していた昭和30年前後、病院内にあった句会に参加し、一茶の句とは程遠い人間の名誉欲、出世欲、財産欲を垣間見たからであった。1981年昭和56年12月刊行。

藤澤周平は、1927年昭和2年に生まれ、地元山形で中学校の教員になる。しかし、教職について2年後、結核にかかり、休職。治療のため東京の病院に入院する。闘病すること5年。休職期間が過ぎ、教職に復帰することは許されなかった。そして、東京で職を求め、業界紙の記者となる。そして、40を前に、小説を書き始める。その動機を「こんな生活で一生を終えるのだろうか」だったという。

15歳の弥太郎(一茶)は、ほほ親と死に別れ、祖母も死んだことから、継母と折り合いが悪く、江戸へ奉公に行くことになる。父、弥五兵衛との北信濃の柏原での別れの場面から物語は始まる。奉公先を転々とし、二十歳時に御家人くずれの露光で出会い、俳句を知る。
25歳の時、俳諧師になる決意をする。田舎百姓の若造が、江戸の俳諧の世界に悩み、もがく。一門家でも名をあげ、15年ぶりに帰省した柏原は、腹違いの弟の仙吉と継母の住む故郷だった。
6年間の西国修行。36歳になっていた。江戸にいても故郷は一茶の中でも特別な思いをもたらす存在だった。
しかし、父親の弥五兵衛が病で倒れ、様態が悪くなる。一茶39歳の時だった。遺産を半分一茶にと弥五兵衛は亡くなる。遺産を巡り、義母と弟仙吉との壮絶な戦いが始まる。
俳諧師として身を立てることのむつかしさにもがき、知人も死んでいく。そんな中、仙吉から父の7回忌の知らせが入る。7年ぶりに江戸から柏原に帰省した柏原。そこでも修羅場を演じ、遺産の解決はつかない。
50歳の一茶はいよいよ故郷に住む決意をする。いよいよ遺産に区切りをつける。
そして嫁を迎えることになる。28歳の菊だった。
4人の子を設けるがつぎつぎと亡くなり、菊も亡くなる。]一茶61歳だった。62歳で38歳の後妻の雪と結婚したが離縁し、酒におぼれ、中気を患う。さらに32歳のやをを後妻に迎えるが、一茶は65歳の生涯を終える。

若くして親と離れ、都会で自分の才能を信じ、懸命に走り続ける。しかし、才能への不安と都会で暮らす生計への不安が、一茶に襲い掛かる。そこには常に懐かしく、「自分を包み込む故郷があった。しかし、故郷も訪れてみると自分の居場所はなく、また、さびしく江戸へ帰る、。その繰り返しだった。
そんな一茶の寂しさ、背伸びをして暮らす息苦しさに、藤澤は自分を重ね合わせていたのだろう。
故郷に帰り、安息の日々かと思いきや家族には恵まれなかった。これも人生。

藤澤の作品で実物の人物をとりあげたものはフィクションに比べ、数少ない。
一茶の作品が庶民的で、市民目線であるがゆえに、「その人間味がまた、『これらの句を興味深く際立たせる。

一茶が詠んだ2万句。その中で藤澤が好きな句。「木がらしや地びたに暮るゝ辻諷ひ」「霜がれや鍋の墨かく小傾城」。
コメント
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