『ららのいた夏』で涙の後、ちょっと?

2008-03-24 00:00:04 | 書評
川上健一は、きわめて作品の少ない作家だ。「本の雑誌」誌で2001年作の「翼はいつまでも」が絶賛され、私も大感動した口だ。生涯で最も感動した小説に挙げる読者は多いだろう。私も「翼」は、ベスト5に入れたい。しかし、それほどすばらしい小説が、「本の雑誌」でピックアップされてからブームになる、というのは異例。というのも、川上健一の作家としてのデビューは、ず~と前に遡り、1977年の『跳べ、ジョー!B・Bの魂が見てるぞ』である。その後、80年代の終わりに何冊かをさっと書き、何らかの原因で再び沈黙。日本のどこかで潜んでいた。そして華麗にカムバックしたそうだ。



いずれにしても、感動作に飢えた読者に必要なのは、作品であって、作者の方ではないのは言うまでもなく、この後、川上健一は普通の作家になった。

実は、私が『ららのいた夏』の文庫本を手にしたのは、2002年の感動をもう一度、と思ったから。『翼はいつまでも』といっても、そろそろ感動を忘れてしまった。そして、「らら」は「翼」より後に書かれたものと思って読んで、これまた感動したのだが、後で考えるとそうではなかった。単行本は1989年の上梓であり、「翼」がヒットしたためか、2002年に文庫化している。1989年の時に、誰かが評価していれば、・・

話の内容だが、拙筆でいくら書いても何の感動も生まないだろうから嫌になるが、高校二年生男女の青春ラブロマンスと書くといきなり地に堕ちてしまうが、設営が驚かせる。野球部のエース純也が高校のマラソン大会で、トップを激走中に同級生の女子に軽く並ばれる。そのまま雑談しながら走り、同時ゴール。「らら」は思いがけないところから小説に登場する。聞けば、毎朝、湘南海岸を裸足で走るのが彼女の生きがい。走ることが大好きな彼女は、その後、ハーフマラソンに出場したり、市民マラソンで一気に頭角を現し、マスコミ(特にテレビ朝日のニュースステーション)にフォーカスされる。

一方、純也は甲子園には行けなかったものの、その後、ファイターズにドラフトされる。「らら」はあくまでも陽気な市民ランナーでいたかったのだろうが、記録がそれを許さず、ついに東京国際女子マラソンに出場。

そして、走りに走り、当時の世界最高記録である2時間21分06秒を上回るペースでトップで競技場に戻ってくる。

が、ゴール寸前で、なぜか貧血を起こし、最後は倒れこむようにゴール。世界記録を1秒上回る2時間21分05秒。

しかし、絶頂の次には悲劇が待っているというのが、ギリシア悲劇の定番。ゴールした彼女が運び込まれた病院で、ある病名が明らかになっていく。ここから先の展開も川上健一は手を抜くことなく、しっかりと書き続ける。題名の「ららのいた・・」という過去形の意味が、深層心理の世界では、読むに連れて不安を拡大させていくのだが、最後にその正体が明示される。

この本、大部分は通勤途中に読んでいたのだが、最後の1/4のあたりは、目元がうるうるし、しょうがないので途中駅のプラットフォームのプラスティックシートに座り、花粉に吹かれながら読むことになった。涙の二乗だ。

で、書評は「ここで終わり」となればいいのだが、ちょっと気になることがあった。


最も不思議なのは、この文庫版の第4章(フルマラソン)の10の中で、ニュースステーションのシーンがある。キャスターの久留米宏氏が「円高で、ついに1ドル100円を切った」ことをしゃべるのだが、実際には1980年代後半は120円程度の円高だったはずだ。実際に100円を切ったのは1994年のはず。翌年1995年には瞬間的に80円を切っている。

あるいは、単行本は1989年。そして文庫化されたのが2002年ということは、2001年の「翼はいつまでも」の成功で、彼の過去の作品を掘り返した際、かなり大幅に書き直したのではないだろうか。作者だけが物語を綴るのではなく、ニュースステーションのおしゃべりキャスターにも手伝わさせたとか、雌伏期間中にギリシア古典悲劇を勉強したとか・・

自分で単行本と比較する元気はないので、誰か二流大学文学部の国文学部で卒論テーマに迷っている学生がいれば、村上春樹とか中上健次といった卒論用作家はやめて、川上健一論を書かれたらどうだろう。「変遷する川上健一の方法論(副題:『ららのいた夏』リライトを解剖する)」とか。


さらに、いくつか調べて見ると、確かに2時間21分06秒の記録は1985年にクリスチャンセンが出している。本の上梓の4年前。その後、この記録が破られるのは1998年になってから。ロルーペ(ケニア)2時間20分47秒。さらに2001年に高橋尚子が2時間20分を破る2時間19分45秒をベルリンで記録。現在の世界最高記録はラドクリフの2時間15分25秒。川上健一氏には、次なる「らら物語」を期待したい。



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